少女は負けない
翌日、紗琴が教室に現れると、一瞬、朝のざわめきが止まった。
射しこむ朝陽の中からの視線に紗琴はすくんで、後退りそうになったけど、あたしの手をつかんで何とか留まる。あたしも紗琴の手を握って、素早く「大丈夫」と言った。紗琴は小さくうなずき、あたしと教室に踏みこんだ。
すぐ戻った朝の雑音の中に、ひそひそと声が紛れこんでいる。好奇の視線、毒気の視線、軽蔑の視線──紗琴はうつむいて、そんないろんな目にさらされることに耐える。
紗琴の席への通りすがりに、あたしの席があってよかった。かばんを置くと、そのまま一緒に紗琴の席まで行ける。紗琴はあたしと手を離して椅子を引き、一瞬頬をこわばらせた。
すぐあたしを見てきて、覗きこむと、椅子にはヘンタイとかオカマとかいう文字が赤や黒のマジックで殴り書きされていた。「予備の椅子と変える?」と訊くと紗琴は首を横に振って、ため息を殺して席に着いた。
──紗琴へのイジメは、思っていたより派手なものではなかったけれど、みんなが「当然だ」と傍観している、ぞっとする冷ややかさがあった。始業式以降にも、拡散の写真がSNSにまわされたり、コピーが靴箱のそばの全校生徒の掲示板に張り出されたりしていた。体育の着替えとかでどうしようもなくあたしが離れると、そこで強く突き飛ばされたり、あるいは男子みんなの前で自慰をさせられそうになったりする。
そういう悪意のイジメの中で、倒錯的な嫌がらせもあった。体操服が消えたと思ったら、ゴミ箱からべっとり精液がついた状態で見つかる。「放課後、二階のトイレに来い」というメールが誰なのか分からないサブアドで届く。廊下を歩いていて、どこからかスマホのシャッター音がする。紗琴の表情は、日に日に暗く落ちこんでいった。
佐内くんは紗琴に直接はまったく話しかけてこなかったけれど、遠巻きに「何かあいつ精子臭いな」とか「いくらでおっさんと女装プレイしてんだろうな」とかみんなに聞こえるくらいの声で笑っていた。せめて、あいつが悪意の首謀者だと知ってもらえればいいのだけど。「お前、けっこう日向と仲良くなかったか」なんて言われたら、「色目使われてヒイたわ」と平然と顔に唾を吐きつけるように言っていた。
それでも、紗琴は学校の行くのをやめなかった。あたしのほうが、やっぱり無理させないほうがと思うときもあるくらいだった。紗琴は陰った顔で顔を伏せていても、泣かないように歯を食い縛っていた。
十月になって猛暑は長引いていても、周囲はささめきはじめ、うっすら「別に変態っていうのではないんじゃね」とか「トランス何とかってテレビが言ってた」という声が聞こえてくるようになった。あたしがそばにいるから、女の子の中には恐る恐る話しかけてくる子も現れた。「これ、いいかもしれないから」と図書館から性同一性障害をあつかった本を持ってきてくれる子もいた。そういうとき、紗琴はそろそろと顔を上げて、「ありがとう」とわずかながら咲えるようになった。
「日向くんって、家では女の子の服なの?」
窓からの風が少し軽やかになって涼しくなった頃、あたしと紗琴は一緒にお弁当を食べていた。すると、そばで同じように昼食を取っていた女の子ふたり組が、好奇だったのだろうけど話しかけてきた。
あたしはあんまりでしゃばらず、紗琴がたどたどしく答えるのを見守った。ちょっとずつほぐれてきた会話に、その子たちはそんなことを訊いてきた。紗琴は首を横に振って、「おとうさんとおかあさんがまだ受け入れてないから」と言った。
「え、じゃあ親には『男らしく』とか言われてるの?」
「うん、まあ──打ち明けてからは言われてないけど、女の子でいいよとは言われてない」
「そうなんだ。でも、日向くん確かにかわいいよね」
「えっ」
「私も思ってたー。ぶっちゃけ私たちのが負けてるし」
「そ、そんなこと、は」
「でも実際、紗琴は女の子の服着たら美少女だよ」
「ま、茉莉」
「聖園さんは見たことあるの?」
「うん。たまに一緒にそれで遊びに行ってて、ナンパとかすごいよね」
「茉莉が一緒だから」
「いや、基本、紗琴目当てだからね」
「ナンパされるとかすごい。うちらそもそもないよね」
「うん。てか、ナンパって実在したのか」
「でも、何か怖い人もいるから。……ね、茉莉は知ってるでしょ」
「アイドルになりませんかとかね」
「えっ、それスカウトじゃんっ。すごいっ」
「何かさー、逆に芸能人になっちゃえばいいじゃん」
やや困った感じでも紗琴は咲っていて、それを見てあたしもほっとした。そしてそんなふうに、紗琴を受け入れようとする子たちがちょっとずつ増えていった。「何かあたし何にもしてないな」と謝ってしまうと、「茉莉がそばにいてくれてるからだよ」と紗琴はゆっくり微笑んだ。
「ひとりだったら、まだぜんぜん偏見されてた。茉莉が普通にそばにいてくれてるから、大丈夫かもってみんな思ってくれるんだと思う」
「そうかな」
「うん。茉莉のおかげだよ」
そう言って紗琴は優しい笑顔を見せた。
けれど、そういう融解が佐内くんの癪に障ったみたいだった。男女別れる体育の授業のあと、紗琴がなかなか更衣室から出てこなかった。おかしいなと思っても、男子更衣室を覗くわけにもいかない。誰か男子捕まえて訊くか、と次出てくる男子を待っていたら、けらけら笑っている三人組が出てきた。
真ん中の男子がスマホを持って、左右のふたりが覗きこんでいる。声をかけようとしたとき、彼らの会話の中に「拡散完了」とかいう言葉が聞こえてはっとした。あたしはポケットからスマホを取り出し、SNSの流れを確認した。
『【拡散歓迎】淫乱男子中学生、日向紗琴くんはやっぱり男のミルクが大好き【18禁画像】』
画像は開かなくても、白い液体がどろりとしたたる口元だけのプレビューで分かった。あたしはもう構わずに、男子更衣室のドアを開けた。
汗臭くてほこりっぽいそこでは、紗琴が半裸にされて床に座りこみ、たぶん隣のクラスで見憶えがない男子に性器を口にあてがわれ、それを佐内くんと数人の男子にスマホで写真を撮られていた。みんなあたしを振り返って、紗琴もあたしを見て、また紗琴は鮮血のように涙を流していた。
「茉莉……」と壊れそうな声に呼ばれて、あたしの頭の中で、何かがはちきれた。
まだ半笑いを残す佐内くんに近づくと、あたしは手を伸ばしてその胸倉をつかみ、思いっきりその頬を引っぱたいていた。ばちっとすごい音がした。佐内くんはとっさに目を開き、そこに映ったあたしは炎そのもののように怒りに燃えていて、そのまま続けて、佐内くんの股間をかかとでがつっと蹴りつけた。
「オカマはあんたのほうじゃない!」
膝をつく佐内くんに怒鳴っていた。佐内くんの仲間があたしの背中を抑え、「この女、」とか言っていたけど、構わずあたしはわめいた。
「あんたのほうがずっとずっと、女より女々しいよ! 紗琴を何だと思ってんの!? 女だと思ってナメてんの!? 男だと思って甘えてんの!? ふざけんなよ、紗琴はあんたの女でも何でもないんだ、ここにいる誰の女でもない、紗琴はあんたたちのことなんか大嫌いなんだから!」
「っ、てめ、え……っ」
「嫌われてる自覚もないの? 好きでもない男共とこんなことして、喜ぶ女がいると思ってんの? こんなこと、全部あんたたちしか楽しんでないの。女の子をおもちゃにして楽しんで、てめえら最低なんだよっ」
「っせえな、女……女って」
佐内くんは舌打ちしてまだ立てないようでも、きっとあたしを睨みつけてくる。
「こいつは男だろっ。なのに自分は女だとか、だから女あつかいしてやってんだろうがっ。こいつが女の代わりにしてくれっつってるんだよ、オカマってそういうことだろ!」
「紗琴は“女の代わり”じゃない、正真正銘の女の子なの! あんた、紗琴が軆も女の子だったらどうせこんなことできないんでしょ!? 女の子だと思ったらろくにお話もできないくせに、何にもできないくせに……一生童貞野郎が!!」
ばたばたと駆け足が近づいてきて、「どうした!」と男の先生の声がした。紗琴は泣き出していた。性器を露出させていた隣のクラスの男子は、慌ててスラックスを穿く。佐内くんはあたしを憎々しく睨み、あたしもきつく睨み返していた。
「佐内が日向のこと脅してて」と先生に説明を始めた男子たちは、さいわい佐内くんの味方をしなかった。女の先生も駆けつけて、紗琴に駆け寄ると肩を抱いてあげていた。ほかの男の先生が、男子の羽交い絞めからあたしのことも解放してくれる。口元に塩味が流れこんで、初めてあたしも泣いていたのに気づいた。
「保健室に行きましょう」と紗琴は立ち上がらせられ、半ば強引にここから連れ出された。佐内くんとその仲間、そして隣のクラスの奴も男の先生が連れていった。やっと息をついたあたしに、「大丈夫か」とクラスメイトの男子が声をかけてくる。あたしがうなずくと、「日向、すげーお前のこと振り返ってたぞ」とほかの男子が言ってきて、「じゃあ、あたしも保健室行く」とあたしは饐えたような臭いの男子更衣室を出ていった。
紗琴は服を着せられ、保健の先生に顔を拭われていた。あたしが現れると、「茉莉」とすぐ名前を呼んで、立ち上がったけどぐらっとふらついた。あたしは慌てて駆け寄って支えてから、ぎゅっと紗琴を抱きしめる。紗琴はあたしに抱きついて、また涙を湧き起こらせた。
「紗琴──」
「……ありが、とう」
「えっ」
「言えなかったこと、全部、言ってくれた」
「……あ、」
「やっぱり、茉莉が一番分かってくれてる」
「………、親友だもん」
「うん。ありがとう……」
あたしは紗琴のさらさらの髪を撫でた。「休ませてあげましょう」と見計らって保健の先生に言われて、紗琴をベッドに連れていった。紗琴はあたしを見つめて、「女の子は強いね」とつぶやいた。あたしは少し咲って、「だから紗琴も強いよ」と紗琴と手をつないだ。
「強く、ないよ」
「強いよ。学校ちゃんと来てるし」
「茉莉が言ってくれたから」
「それでも、来なくなってもおかしくなかった。紗琴が闘ってるの見てたよ」
「……うん」
「クラスの子も、紗琴をちゃんと見てるよ。だから、分かって話してくれる子も出てきてたでしょ」
「うん」
「紗琴は女の子で間違ってないんだよ」
紗琴は小さくだけど微笑んだ。あたしは微笑んで、「少し休んで」と言った。紗琴はうなずいてそっと睫毛を伏せた。
それから、紗琴のおばさんが仕事中のはずなのに学校に駆けつけた。ちょうど紗琴は眠りこんだところだった。でもあたしのすがたを見つけて、おばさんは泣きそうに咲った。
「──茉莉ちゃんは、紗琴のこと知ってたの?」
ベッドを離れて、保健の先生が引っ張ってきた回転椅子で向かい合って、おばさんはあたしにそう言った。あたしはうなずいて、「紗琴はすごくかわいいから」とカーテンのかかったベッドをちらりとした。
「変な人に誘拐されないように、男の子に変身してるんだって思ってました」
「はは。確かに、子供の頃のあの子はほんとに女の子だったなあ」
「今も女の子ですよ」
「……そっか。うん、そうだね」
「やっぱり、まだ認められないですか」
「私と旦那は男の子が欲しくて、ずいぶん喜んだからなあ……」
あたしは、おばさんの遠い目を見つめた。
「せめて、女の子として生んであげられてたらね。あきらめって言うと、言葉悪いけど」
「もしそうだったら、弟っていうのは」
「ああ、私、けっこう若いときに子宮に腫瘍見つかってね。手術したけど、良くてひとりしか生めないって言われてたんだ。それ以上は母体も子供も出産前に死んじゃうって」
「……そうなんですか」
「だから、ほんとやっと身ごもって、生まれて、欲しかった男の子で。すごく嬉しかったから、まあ、男の子として生きてほしいなってまだ思っちゃう」
視線を下げた。よく分からないけれど、子供を持ったらそういうものなのだろうか。
「でも、私たちがそんなんじゃ、紗琴は傷つくんだよね」
おばさんを見つめ直す。
「それは、もっと嫌だな。私が紗琴を傷つけてるとか、そっちのほうがやっぱり嫌だわ。こんなことになるぐらいもう苦しんでる紗琴を、私たちがさらに苦しめるなんて」
「じゃあ──」
「うん。今夜旦那と話してから、紗琴とも話すよ。『それでいいよ』って言う。男とか女じゃなくて、それが紗琴なら」
「……ありがとうございます。紗琴、おばさんたちが分かってくれたら、すごく嬉しいと思う」
あたしが笑んでそう言ったときだ。
廊下のほうで騒がしい声が聞こえた。「何だろ」とおばさんも振り返って、「何を考えてらっしゃるんですか!」というそういえばいなくなっている保健の先生の声がした。あたしとおばさんは顔を見交わす。「見てきます」とあたしが椅子を立ち上がって、保健室のドアを開いて廊下を覗いてみた。
「とにかく、日向紗琴くんにも過失はあるんですから!」
は?
「彼には全校生徒の前で謝罪してもらいますっ。今回のことは、彼におかしな趣味さえなければ起きなかったことなんですからね!」
ぎょっと開いたあたしの目に映ったのは、遠目にしか見たことがない、いつも説教じみている堅物親父そのものと言われる校長だった。校長はあたしのほうもぎろりと見てから、奥のおばさんにも聞こえるように荒々しく言い放った。
「まったく、家庭でちゃんと教育されてない生徒なんか、預かりきれませんよ」
「校長先生! 親御さんがいらしてくださってるのに、そんな、」
「先生も心のケアと甘やかしは違うということを分かっていただきたいですねっ。保健室登校だの何だの、あんまり生徒を甘やかすなら、解雇も考えさせていただきますから」
何、だ──こいつ。こんなことになって、それでもこんなこと言う奴がいるの? ひどいことをされたのは紗琴だって、こいつはまだ分からないの?
校長は鼻息を荒くしてからくるりと身を返して立ち去っていった。茫然とするあたしには、保健の先生が「ごめんね」と恐縮して謝ってくる。あたしは息遣いを震わせながら、つかんでいたドアノブを強く握った。
紗琴が全校生徒の前で謝罪って。佐内くんのほうが丸坊主にでもなるべきなのに。そんなのって──。
何で。どうして。紗琴が女の子ってことが、なぜこんなにも心ないことになっていくの?
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