その日も、昨日と変わりなかった。一日じゅう、ふたりきりでぼんやりした。
昨日と違うのは、彼が僕を膝に乗せていたことだ。僕は彼の胸にもたれて意識を漂流した。彼がときおり髪を梳いたり軆を撫でたりしてくれて、現実に留まって、思索に溺れずにはいられた。
僕は何度か彼を見上げた。ぼうっとした彼の瞳は、ますます暗かった。彼の瞳が凪ぐと、穏やかでなく死んだみたいだ。
その瞳は、鏡や水面で見た僕の瞳と似ていた。彼の瞳を通し、僕は自分の瞳も死んでいるのを知る。僕は死んでいる。彼も死んでいる。共感めいたものが過ぎり、朝の質問が思い返った。
この人になら、話してもいいだろうか。殺されたのか自殺したのか、死産だったのかは分からなくても、彼は瞳に表出する心の死を抱いている。彼は僕を直観してくれるのではないか。
僕が告発を押し殺しているのは、この痛みに見合う言葉を見つけられないせいだった。義父の口止めがきいている部分もあれど、そもそも、どう言えばいいのかが分からなかった。
自分がされていることの意味も知らなかったのだ。“いや”だとは感じても、そう感じるのが正しいのか変なのか分からなかった。僕の気持ちが異常で、普通は嫌がったりしないのかもしれない。そんな気持ちもあった。無知ゆえに、本能にさえおろおろしていた。
彼の死んだ沼に、僕は視覚を沈ませる。彼なら分かってくれるかもしれない。その瞳で。言葉にしなくても。彼の沼は、きっと僕の苦痛を何の支障もなく水底に飲みこむ。
夜になっていた。夕食をもらったほかは、日中と同じだった。今日は風呂もなく、僕たちは一緒にベッドに入った。
彼は僕を抱きしめた。一日くっついていたので、僕の軆には彼の体温がよく巡っていた。僕は彼の匂いに鼻を澄ました。彼は眠たくないような起きていたくないような感じでシーツに沈み、僕の軆を愛撫するのに熱中していた。冷えこんだ夜だったのに、その摩擦で僕の軆はほてるぐらいに温まっていた。
「おにいさん」と僕は彼を呼んだ。彼は無視しそうなそぶりをしたが、結局僕を覗きこんだ。「あのね」と僕は彼の服を小さく握った。
「僕、捨てられたの」
そそがれる視線は、測りかねるというより訝る色が濃かった。
「だから、一緒に住んでる人、本当のおとうさんとおかあさんじゃないの」
彼の手は、無造作に僕の背中を撫でている。
「おばさんは僕が嫌いでね、おじさんは僕に変なことするんだ」
いくらか無言を保った彼は、「変なこと」と言葉を拾った。僕はこくんとして、僕と彼は、出逢って初めて会話を成り立たせた。
「服脱がせて、触ってくるの。それで、昨日おにいさんが自分でしてたこと、僕にさせるんだ」
彼は無反応だった。驚きも何も現れなかった。反応を定められなかったのだと思う。
「おじさんが僕を女の子にするんだ。男の子みたいにしたらいけないんだって」
彼は黙っていて、僕も口をつぐんだ。うまく伝わったか分からなかった。彼は愛撫も止めていた。理解をしめす言葉もない。
分かってもらえなかったかなあ、と後悔でなく残念な気持ちになったとき、急に彼は僕と軆を離して起きあがり、ベッドを降りた。僕は彼の行動が読めず、例の恐怖を覚えた。
どうしたのだろう。気に障ってしまっただろうか。こわごわ起きあがって暗闇に彼を捜す。彼はすぐ戻ってきて、ベッドスタンドにあったリモコンで明かりをつけた。
彼は鰐の口みたいなはさみを手にしていた。ぽかんとする僕の髪をつかんだ彼は、いきなりそこに刃を入れてきた。
僕はびっくりして目を開いた。彼は僕の髪を短く切っていった。僕の長い髪を。まやかしの切り札を。義父の支配にされているしがらみを──彼は、容赦なく切断していった。
さらさらの髪が、シーツや僕の服に散乱していく。じゃきじゃき、という音が耳元に響く。ついに彼は、僕を短髪にしてしまった。つかんでいたひと房も切って彼が手を引くと、僕は顔を仰がせる。
沼には僕がいた。映るというより、沈んでいる。僕はあたりに散らかった髪を視界の端に見、彼の気持ちがつかめた。
やっぱり、彼は分かってくれたのだ。僕の気持ちを飲みこんでくれた。怪しい言葉より、危うい行動にしてくれただけだ。
彼は間違っていない。軽くなった頭に、冷静になってきた僕はほどかれる安堵を覚えた。
彼ははさみを置くと、散らかった髪を片づけた。僕は久しぶりに軽くなった髪に触っていた。毛先はばらばらで、綺麗な散髪とはいえなくても、あの長い髪に較べればずっと良かった。頭を揺すっても、かする髪がなくて頬が快適だ。
はさみを置きにいったついでに、彼は櫛とゴミ箱を持ってきた。髪をといた僕を脇にやると、シーツに落ちた髪もゴミ箱に片づける。それから、僕たちはベッドにもぐりこんで、明かりを消した。
彼は僕を抱きしめていた。指が髪を梳く。僕も彼にしがみついた。誰かの軆に、みずから密着したのは初めてだった。人の体温を感じて怖くない。
僕は彼の感触に集中できた。意識が分裂しない。僕は今、彼にしがみついていて、その事実に心を向かわせている。分裂して心を守る必要がないということだ。
彼の手が頭を包んでさする。彼の腕の中でその夜、僕は守られている信頼に心置きなく安眠できた。
翌日も、僕と彼は取り留めなく過ごした。彼は僕を膝に乗せ、僕は彼にもたれる。頬に髪がかからないのが良かった。ここでは昼食がない。僕への嫌がらせでなく、少食の彼の習慣らしかった。
昼下がりの頃、彼は僕に話をした。社会になじめないとか、言いなりにできる子供じゃないと怖いとか、そんな話だった。子供の頃は、周りと同じにできなくてイジメられたと彼は語った。イジメという言葉に、彼の瞳が僕の瞳に通じる心を解する。
誰かにいてほしいけど誰もが怖い、みんな自分といてもつまらないと彼は言う。僕は彼に上目をした。彼も僕を見下ろした。
「君は、いてくれる?」
僕は彼と見つめ合い、こくんとした。彼に懾服している気はなかった。義父すら頭になかった。僕の意思だった。
うなずいたあと、ここは家より救われる、と気がついた。僕はここにいるほうが良かった。ここにいると苦しくない。痛くないし、哀しくない。僕の心はここにいるのが向いている。
抱きしめてくれる彼の腕は、凍結していた心を溶かすように温かかった。
夜も僕は彼に抱きしめられて眠った。何の根拠もなく、ずっとここにいられると思っていた。自分の立場も、彼が僕をここに連れてきた行為も浮かばなかった。
僕は彼といると心が楽になり、彼も僕を許せた。僕たちは精神に寄り添い、一緒にいるべきだと認識していた。この狭い部屋を世界にして、内界に暮らす気でいた。
引き離されるなんて、外界なんて、考えてもみなかった。
僕も彼も内界でぬくぬくしていたかったのに、外界はそれを認めも知りもしない方向に突き進んでいた。繭が引き裂かれたのは、突然だった。けたたましいドアフォンと、粗暴なドアへのこぶしがそうだった。
夜明けが近かった。先に目を覚ましたのは僕だった。僕は彼を起こすより、その激しい音にとまどい、そのあいだに彼も目覚めた。僕は彼にしがみついた。彼も僕を抱きしめた。
その力のこもり方は、僕をやすんじるというより、事態を悟って離すまいと思った感じだった。それで僕も、静かな部屋をかきみだす人が何なのか悟った。
僕と彼は暗闇で視線を合わせた。僕は愛惜の毛布を奪われるように、怖くて泣きそうになった。彼は僕のその表情に、驚くような哀しいような色を沼に流した。昇りかけた太陽で室内は蒼く、その色調がいっそう彼の瞳を傷ましくさせた。
彼は僕を抱きしめた。僕は目をつむって、彼の熱を必死に記憶した。
温かい。僕の心を溶かしてくれる。
失望感に冷えこみそうになりながらも、それは振りはらって、今、彼の熱を体感しているのに集中した。意識の分裂を制した。制することができるのかと驚いた。
その中で、彼と僕は軆を離した。彼は僕を隠したりせず、蹴り開けそうな音の玄関に行った。僕は彼に包まれる安泰を思い返し、息が苦しくなった。
嫌だと思った。義父へのそれとは違う、もっとはちきれそうな切迫だった。彼に抱きしめてもらえなくなる。やってきた人たちは、きっと僕をおじさんに押し返す。彼がどんなに、僕を分かってくれたかも理解せずに。僕の凍りついた心には、彼の体温が必要なのに。回復しつつあった芽ぐみをもぎとられるむごい痛みに、僕は呼吸を絞られて泣き出していた。
そのとき、微睡むような静謐に、土足の外界が雪崩れこんできた。
そのあとは、よく憶えていない。人がいっぱいやってきて、誰かが僕を抱き上げた。「怖かっただろう」なんて的外れなことを言われて、僕はますます泣いた。相手はそれを安堵の涙としか取らず、義父のように僕を抱きしめた。
僕は彼を捜した。手錠をかけられていた。その彼を押しのけて部屋に入ってきた人がいた。僕の軆はさっと硬くなった。
義父だった。僕を抱いていた人は、無神経にも僕を義父に渡す。義父は僕の頬に頬をよせ、短くなった髪にはさも同情する目をし、「もう大丈夫だ」と僕を抱きすくめた。
軆を動かせないその圧迫に、僕は喉を引き裂かれる恐怖を覚えた。またこの人の鎖につながれてしまった。この人にのしかかられて動けなくなってしまった。義父の吐きそうな臭いが彼の匂いを殺す。僕はすがるように義父の肩越しに彼を凝視した。
彼は周りを囲まれて、連れていかれていた。
行かないで。そう思った。通じたのかもしれない。彼は僕を振り返った。前髪の奥の目と目が合った。絶望でぐちゃぐちゃの僕に、黒い沼は傷ついたように刹那澄んだ。
でも、すぐ誰かが彼を強く、軽蔑した手つきで引っ張っていく。
僕は泣いた。きしめきそうに喉がずきずきした。そうしても義父のぶあつい手が、僕を抑えつけて虐待するあの手が、軆を這いまわるだけで、彼の胸には還れない。
僕の心は死ぬように凍っていった。彼の緩やかな熱を義父の手がそぎおとしていく。心がどんどん重くなる。
そしてついに底にたたきつけられたとき、涙が凍てつきに壊れたように、彼が消えたドアはばたんと熱を切断した。
【第六話へ】