空の雫-2

ドブネズミでさえ

「そろそろ、洋服集めて洗濯に持っていかないとね」
 じゃがいもをフォークで割る千歳が部屋を見渡し、「だね」と僕はトマトが染みこんだ手羽先の軟骨を噛み砕く。
「千歳、ふくろに集めといて」
「持っていく?」
「え、行けるの」
「………、分かんない」
「僕が持っていくよ。食料で必要なのも書いといて」
「……ごめんね」
 千歳は立ちのぼる湯気に睫毛を伏せる。僕は咲って、骨だけになった手羽先を赤いシチューに沈める。
「僕も千歳をこんな汚い部屋に我慢させてるしさ」
「我慢なんてしてないよ。この部屋は好き」
「僕も千歳がいて助かってるよ。僕、家事はぜんぜんダメなんで。この部屋に虫が涌かないのは、千歳のおかげ」
 千歳は僕を見つめ、僕が微笑むと少し咲った。咲えるようになったな、と僕は一年前より上達もした彼の料理を味わう。
 この部屋に逃げこんできた頃、千歳は笑みどころか表情を失くし、凍えているみたいに毛布を被っていること以外、何もできなかった。
 ブラウン管では、死体を食い尽くしたゾンビが、月の光に赤く濡れて、よたよたと丘をくだっている。そんなロケーションの通り、これは洋画だ。遅れて斧や銃と駆けつけた仲間が、ぼろぼろの遺体を見つけて、 “こりゃヒドイ”と字幕が出る。
 僕は吹き替えは嫌いだ。外国人がなめらかに日本語をしゃべっているのは、何だか合わない。
 冥福を祈って仲間が去ったあと、食いつくされた男がむくっと身を起こしたところで、生き残りたちのゾンビ撲滅会議の場面に切り変わる。
「ゾンビに食べられたら、ほんとに死んじゃう映画と、仲間入りになる映画があるよね」
 フォークを咬みながら、千歳がつぶやく。
「死んだほうがマシだね」
 僕はマヨネーズであえられたマカロニサラダをかっこむ。
「喉と腹裂かれてるから、どうせ人間食えないじゃん」
「まあ、そうだね。でも凄みあるよ」
「かっこ悪いよ。服もないし」
「そういえば、何でゾンビって服着てるんだろう」
「外国は焼かないじゃん。てことは、日本でゾンビが発生したら、みんな骸骨?」
「弱そう」
 僕たちは笑って、食事を胃に片づけた。千歳は食器洗いに立って、僕はシャワーを浴びることにする。
 クローゼットにたたまれる服が洗濯された服だが、どうせ明日出かける前に、またシャワーを浴びる。下着とタオルは新しいのを出そうとすると、千歳が言った通り、服が底を尽こうとしていた。明日か明後日にコインランドリー行けるかな、とあってないような予定を反芻しつつ、ユニットバスに入る。
 明かりをつけて浮かび上がった肌寒いそこは、箪笥をどけて現れた青畳のように、いきなり小綺麗だ。広くはない。洗面台、トイレ、ビニールカーテンつきのバスタブがあるだけだ。
 着替えは洗面台にうまく置いて、とりあえず用を足す。それからシャワーを出し、湯気が育つあいだに、服を脱ぎながら洗面台の鏡を見る。
 僕の瞳は、千歳に通じるものがある。暗い。その闇が千歳は深みへと溶け出していて、僕はもっと鋭く、虚空が切れこんでいる。
 切り揃えない黒髪はくすみ、肉はそげおち、並みの鼻梁や顎骨が描かれている。僕は、味方の前では気軽に咲う。しかし敵の前では、気紛れか計算ずくでしか咲わない。
 熱いシャワーでいい匂いに包まれると、汗や酒がにじむ服に思案したものの、結局はそれを着直し、タオルをかぶって部屋に戻った。
 映画も音楽も消されたそこでは、朝を告げる鳥の声が遊んでいた。ガラス戸に歩み寄ってカーテンをめくると、開かれはじめた空が蒼く薄らいでいる。
「シャワー浴びてきていい?」
 ポルノではない雑誌を読んでいた千歳が、ベッドサイドを立ち上がる。「うん」と僕は床を蹴ちらしてドライヤーを見つけ、テレビのプラグを抜いてドライヤーに電流を通す。床に座りこむと、しばらくはその風音が耳に響いていた。
 あれこれやって寝るだけになると、ベッドに仰向けになってXENONを聴く。前髪に暖房の埃っぽい吐息がかかる。この重症なロックバンドはこの街が地元で、インディーズのまま全国の地味なライヴハウスをはしごしている。アンダーグラウンドで受けているバンドだ。音もすごいけど、詩が特に好きだ。
 天井ではやはり目をつぶされた女が、黒いボンテージファッションで逆さ吊りになってなぶられている。
 この部屋に暮らし始めて、ほぼ二年になる。十五のときだった。怪しげな不動産屋に紹介してもらった。
 僕はすでに落ちこぼれで、できそこないで、まともな表社会では生きていけそうになかった。生きていくという動物的本能はあるけれど、その表し方が野蛮で無秩序だった。だから僕は、陽のあたる場所は捨て、地下でドブネズミみたいに生きていくことにした。
 カーテンを透ける朝陽に瞳が霞み、音楽も鼓膜ににぶくなってきた頃、ボディソープがふわりと香った。首を捻じると、床に座った千歳が、ドライヤーのスイッチを入れている。
 千歳は後ろすがたが一番もろい。赤く切り裂かれるためのように白いうなじも、薄く崩れそうな肩も、おぼつかない背中も腰つきも──熱風に吹かれてなびいた髪に、シャンプーの匂いが僕にも届く。
 弛緩した手足にべたりと寝返ると、まくらに重ねた腕に右頬をうずめた。
 千歳がこの部屋に初めて来たのは、去年、息がすごく白い十二月の朝だった。誰かが訪ねてくる憶えのなかった僕は、眉間に皺を寄せ、煙草を吸うままドアを開けた。
 千歳に見憶えはなかった。それまで僕たちは、普段は会いもしない遠くの親戚に過ぎなかった。でも彼の紫になった唇と、真っ白に震える頬と、血だけでなく僕に通じる瞳に、僕は彼を部屋に許した。
『……ねえ、希月くん』
 僕が淹れた紅茶に唇を寄せながら、毛布に包まった千歳は言った。
『君のおとうさんって、まとも?』
 ──視線を感じたのか、ドライヤーを持ち替えながら千歳が振り返ってくる。僕が微笑むと彼も微笑み、髪を乾かす。僕は愛情をこめた瞳で千歳を見守る。
 僕はそのとき、千歳の質問に何も答えなかった。千歳も訊かなかった。『ここにいれば』とだけ僕は言った。千歳はうなずき、以来、彼は滅多にこの部屋を出ることなく生きている。
 千歳は髪に柔らかい軽さを取り戻すと、僕と同じくあれこれやった。僕もヘッドホンを外して仰向けになる。千歳はベッドの下から敷きぶとんを引き出すと、ごたごたした床にそれを広げた。
 明かりと暖房を消し、「おやすみ」と朝陽に飛びまわる鳥の声の中言い交わすと、同じ匂いの僕たちは、自分の体温を頼りに眠りに落ちた。
 ──僕はまともな大人になれるはずはないのだ。まともな大人に育てられなかったのだから。
 僕は、あの家庭が虫酸が走りそうに嫌いだ。思い出すだけで鉤爪でぐちゃぐちゃに引き裂きたくなる。記憶を喪失できるなら、僕はこの魂を蛆虫の餌にしてもいい。
 千歳のあの質問で、僕は彼の家庭がまともではないことを悟れた。なぜなら、彼の父親の弟である僕の父親は、まともではなかったからだ。僕の父親は頭の悪い、子供じみた、クズ野郎だった。そして、母親がその餌食だった。
 怒鳴られて、ぶたれて、犯されて。僕は父親が母親を虐待する家庭で育った。
 僕は強姦でできた子供だと思う。あのふたりが愛し合って僕を育んだとは思えない。
 だいたい、父親の子供なのかも怪しい。母親が浮気していたわけではない。父親は友人を連れてきて、母親を輪姦するときがあった。
 実家、友人宅、母親がどこに逃げても追いかけて、家に引きずり戻す。そして殴る、蹴る、犯す、餌を横取りされた猿でもあんなに怒らない。
 僕にはほとんど何もなかった。はっきり言えば、僕は愛されていた。だから、母親をかばうと、父親は裏切られたようにキレた。でも、ベランダにたたきだされるとか、押し入れに閉じこめられるとか、その程度だ。一度、花瓶を投げつけられたことがあるが、そのときは僕も僕だった。
 僕もあの頃は血が通っていたので、自分に害がないといって、父親を愛することはできなかった。母親はいつも傷だらけで、痣まみれだった。寝室で、眠れずに身を縮める僕を抱きしめて泣いていた。自分に手を出されなかろうが、僕には父親は敵だった。だって、僕のかあさんを泣かせる奴だった。
 かあさんは毎日、蹴たくられて立てないような足腰なのに、自分が殴られないためでなく、僕が夜中に怒鳴り声で目を覚まさないように、父親にきちんと夕食を作っておくような人だった。
『俺の稼ぎで生きてるくせに』
 これが父親の口癖だ。だから、養われるしかない子供であることが常に悔しかった。お金を稼げたら、かあさんを助けてあげられるのに。いつもそう思っていた。
 子供の頃から自分を抑えつけてきた。すべてしまいこんで、差し障りのない、「いい子」でいた。
 泣けなかった。僕の我慢なんて、手出しされるかあさんの苦痛に較べたらどんなに軽いだろう。殴られるわけでもない。蹴られるわけでもない。何も傷ついていない。
 なのに、痛むなんて傲慢だから、僕は無感覚になることで自我を手放していった。
 家を出たのは十五の中学卒業後で、家庭は相変わらずだった。ひとつ変わっていたのは、そんな抑圧でしっかり冷淡で無関心な人間に育った僕が、かあさんをかばいたい温かな心を失くしていたことだ。
 僕はかあさんを見捨てたことで、人間としての切り札を捨てた。半年ぐらい、友人や行きずり相手の部屋、ときには野宿する生活を続け、この部屋に落ち着いた。
 無力な子供であることを見せつけられるのはたくさんだった。あそこにいると、ドブネズミでさえ持っている、“生き延びたい”という本能を忘れそうになる。

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