血の匂い
香ばしい湯気を上げるグラタンが焼き上がると、紡麦はさっさと食べはじめても、僕は千歳のもできあがるのを待った。
「食べていいのに」と勧めてくれる千歳に、「夜中はひとりで食べさせてるし」と僕は首を振る。千歳ははにかむように咲うと、こくんと甘えてくれた。
「ホモ」と口元にホワイトソースをつけた紡麦がつぶやき、床におりた僕は、ポルノ雑誌を丸めて彼の頭をはたく。
紡麦は『死人の晩餐』を観終わると、上映禁止作品ではなく、文学作品を観始めた。「何で」と入れ替えようとする僕に、「ごはん食べてるときに観るもんじゃありません」と紡麦は保護者みたいなことを言う。
「自分はゾンビ観ながら食ったくせに」
僕はそうぶつぶつしても、千歳にはそのほうがいいかと思い直す。
座卓を広げておくと、千歳はそこにできあがったかぼちゃグラタンをサラダを添えて並べた。
僕を追いはらった紡麦は、英語でもない映画の前で膝を抱える。
かぼちゃグラタンには、スライスチーズがかかり、それがとろりと柔らかい匂いを溶かしている。かぼちゃのほかに、チキンやマッシュルームもホワイトソースに絡められ、「味おかしくない?」と千歳は自信なさそうに自分のぶんを少し食べる。
僕もひと口食べ、とっさに味より熱だったものの、味わってからうなずいた。
「おいしいよ。いつもはじゃがいもだよね」
「足りなかったから。おいしいならよかった」
千歳はほっとした様子で微笑む。
僕はフレンチドレッシングの雫が滑るレタスを、やぎが紙を食べるみたいにむしゃむしゃしつつ、紡麦が食い入る映画を眺めてみた。
紡麦も吹き替えが嫌いだが、字幕で映像が汚れると困る映画は、外国語を勉強するより、吹き替えで我慢したりしている。その映画は聞こえるのが異国語である通り、字幕だ。
紡麦が好きな映画は、“印象的で、綺麗な場面や言葉がある映画”だ。小説や漫画もそうだ。 “綺麗な場面”は美しいだけの光景のことではない。ときにはそれが惨殺死体だったりする。
どんでん返しのからくり物語のほうが好きな僕には、紡麦の趣味はむずかしい。「紡麦って意外とこだわるんだね」と実写の人間が映っていなければいい千歳も感心している。
でも、そういえば芸術家ってジャンキーでクレイジーだ。
「また退屈そう」
僕は千歳に向き直り、千歳は微笑んでミルクティーを飲んだ。僕は湯気を吹きながらグラタンで内臓を温め、食べ終わるとシャワーを浴びる。
食器を洗った千歳もそうして、「寝るんで消しなさい」とリモコンを取り上げると、紡麦は兄にショートケーキのいちごをかすめられた弟みたいに、僕に咬みついた。「ヘッドホンで観る」と言うのでそれなら自由にさせると、敷きぶとんは紡麦に貸すため、僕と千歳は一緒にベッドでふとんに包まった。
「僕、バスタオルで床に寝てもいいよ」
狭いベッドだけど、僕も千歳も細身だから、壁に詰めればどうにかなる。まくらに頬を埋める僕は、そう言った間近の千歳の睫毛を見つめた。
「千歳が僕と寝るの嫌なら」
「僕は構わないよ」
「僕もいいよ。あったかいしね。あ、紡麦に電気と暖房消すの言わないと」
声を大きめにして柵越しに言うと、ヘッドホンをした紡麦は、旗みたいに手をひらひらとさせる。「よし」と僕はふとんにもぐり直し、こちらを見つめる千歳に決まり悪く咲う。
「何?」
「……ううん」
千歳は肩を身じろがせてうつぶせになり、重ねた腕に顎を預ける。
シャワーを浴びた僕と千歳は、同じ匂いがする。ふたりぶんの体温に、ふとんの中はすぐにぬくぬくと心地よくなった。
「希月は変わってるね」
「え」
「揶揄ってるわけじゃないでしょ」
僕は千歳の長い睫毛を見つめる。溶暗する瞳がその睫毛を軒下にして隠れている。「どきどきしてる」と千歳は頬に桜を溶かし、「うん」と僕もうつぶせになった。肩や脚が、意図しなくてもくっつきあっている。
「嫌じゃない?」
「僕も千歳のこと好きだよ」
「知ってる」
「ごめん、ストレートで」
「……ふふ、変な台詞だよね」
咲った千歳に僕も咲い、ほのかな水気に柔らかい彼の髪をそっと撫でる。千歳は睫毛を上げて、僕に瞳を潤す。
少しでも男を受け入れる男だったら、僕は千歳を抱いていた。千歳がすごく大切だ。似たように思える女の子ができても、千歳のそばにはずっといる。
『ごめん』と千歳が打ち明けてきたのは、今年の春だった。ベッドサイドで首をかたむけた僕に、隣でうつむく彼は、自分がバイであるのを告白した。
驚いた僕に、千歳はやましく上目をし、『だから希月が』と続けた。僕はきょとんと千歳の瞳を見た。千歳は心苦しそうに肩を狭め、睫毛が震える顔を背ける。
『嫌なら出ていくよ』
そう言われてやっと理解した僕は、『何で』と彼を覗きこむ。
『いていいよ。でも、ほんとに?』
『……うん。ごめん』
『謝らなくても。何だ。そっか。すごいね』
『え』
『誰かを好きになるなんて、僕、できないや』
『………、』
『大切にしなよ。していいよ。応えはしてあげられないけど』
千歳は僕をじっと見つめ、『うん』と安堵と温柔を織り混ぜ、泣き出すように微笑した。
千歳だからそう言えたのだと思う。僕は同性愛を嫌悪するほど古臭くはないけれど、自分に想いを向けられたら、少しぎくりとする。千歳には保身より早く、灯った光を大切にしてほしいと思った。
彼の押しつぶされた心を、僕は血で知っている。そのとき、僕が彼を尊重したので、千歳も僕が女の子と寝るのを尊重してくれるのだろう。
僕と千歳は、自分たちの父親がどんな環境で育ったか知らない。こんなざまになった自分たちで想像するに、ろくな育てかたをされなかったのだろう。父方の祖父母には会ったことがあるし、だから正月などで千歳とも面識があったのだけど、そのときはみんな仮面をかぶっていた。あろうことか、僕の父親がかあさんに笑顔を向けていたのだ。だから僕は、親戚が誰ひとり信用ならなかった。
一緒に暮らして親しくなるまで、千歳には好感がなかったのが本音だ。名前さえ把握していなくて、ただ、いつも伯父と伯母が自慢する息子だとしか認識していなかった。
千歳は中学に上がると、正月や盆の顔合わせに来なくなり、それでも伯父と伯母は千歳を褒めちぎっていた。その賞賛が嘘だったと知ったのは、ここに暮らして彼が心を開いてくれたあとだ。
きっと僕たちの父親は、親に愛されなかった。それで、僕の父親は人を愛せない人間になった。僕のことは憎んでいなかったけど、憎まれていたほうがマシだった。
あんな人間に愛されるなんて、かえって拷問だ。応えたいと思えないからだ。でも、応えなければ、父親は僕を親不孝な薄情者あつかいする。自分が悪いとは思わない、認めない。僕の父親は、人を愛せない以上に、人に愛されない人間だった。
そして千歳の父親は、加減や表現を履き違えた、愛しすぎる人間だった。
僕は抑圧の中で育ったけど、千歳は重圧の中で育った。期待や過保護、買い被り、ぎとぎとしたものに窒息させられ、僕と違ったかたちで自分自身でいられなかった。母親も頭が悪く、夫の過剰を愛情豊かとしか取らなかった。
しかし、千歳は本質を見抜いていた。
『とうさんたちは、僕を愛してなかったと思う』
千歳はそう言う。
受容しない。期待する。
信用しない。束縛する。
千歳の両親は、息子を愛することに努力した。
『でも愛情って、努力して持つものじゃないよね』
千歳は僕の肩にもたれて、虚ろにつぶやいた。
『結局、僕の父親も人を愛せない人間だったんだ。分かってないんだよ。すごく重たかった。ぜんぜん安心できなかった。怖かった』
不安定が、千歳を落ちこぼれにしていった。両親は百点を期待する。満点で当然だと思っている。眼前に銃が迫るように追いつめられ、千歳は分かるはずの問題にも混乱した。
絶対間違ってはならない切迫が、弾き出した答えへの自信を削いで、何度も何度も確認させる。それで答えがばらついてどれが本物か分からなくなったり、ひとつにかかりきって残りが白紙になったり──そして点数が落ち、千歳は人並みもできなくなっていった。
両親は期待外れに出遭おうと、『やればできる』と千歳を縛りつけた。 “愛しやすく”加工しようとし、そのままの千歳は見ようともしなかった。焦れば焦るほど、千歳は錯乱にショートして落伍にたたき落とされていった。
中学生になって、千歳が正月や盆に来なくなったのは、“家族とのつきあいなんて格好悪い”とか気取りはじめたせいではない。両親からの期待と、学校での現実との落差に引き裂かれ、部屋に閉じこもるようになっていたのだ。
学校に行かず、親とも顔を合わせず、雨戸も閉めきった真っ暗な部屋で、ベッドも起き上がれない鬱状態にいた。理想を押しつけられるのも、現実を突きつけられるのも、たくさんだった。千歳は自分の心に地下室を掘り、親のぶつ手を避けてクローゼットに逃げこむ子供のように、そこで息をひそめた。
早く両親の元を逃れたかった。でも、どうすればいいのか分からない。両親は千歳に完璧ばかり求め、かえって彼を徹底的に“社会不適合者”に仕立てあげていた。たとえ社会で生きていける能力があっても、千歳は自分のそれを信じて頼れなかった。
自活したいけど、自分がそんなことをできるとは思えない。だからできない。もう何もしたくなくて、死にたかった。
最低限しか登校しなかった通信制高校の卒業後、千歳は自分の限界に賭けてみた。大学受験には失敗していた。失意が心にどろどろと垂れこめていた。それでもバイトをしたり車の免許を取ったり、“普通”を努めた。
けれど、とても無理だった。普通でいようとするほど、骨が曲がって “自己”が痛む。極限にふれて瞳が砕けたとき、千歳はすべて投げ出して、僕のところに来た。
千歳には行くあてがなかった。もう引きこもりたくはない。両親の金で生きても、死にたくなるだけだ。久しぶりに盆の集まりに顔を出し、僕の家出を知った。
千歳はそのとき初めて、クズのように育ったのは自分の父親だけではないのではないかと気づいた。彼がどうやって僕の居場所を突き止めたかは定かではないが、直観は当たっていたわけだ。
千歳は今でも外界を拒絶し、この部屋で他人と隔離されてしか生きられない。ブラウン管の中の人間すら恐ろしく、アニメしか観ることができない。金を稼いで生活を助けたい願望はあっても、実現させるには、手足に絡みつく藻が沼を這いあがる自信を禁ずる。
ときおり、底に引きずられて鬱状態を再発させるときもある。そんなとき、僕はなるべく彼のそばにいて、通じる瞳で光を繋ぎとめて、彼が自分に埋もれないようにする。
そういう環境で、千歳は精神の軸に障害を負った。僕も同じだ。僕もあの家庭で感受性を病んだ。千歳のように重い空洞に埋没するわけではなくも、おぞましい牙にえぐられ、僕は僕でなくなるときがある。
千歳の血の匂いが分かる。同情ではない。僕は千歳といると初めて僕になれるから、千歳も僕といるとそうなのだろうと思うから──
お互いのために、こうして同じふとんに包まって眠るように、僕は千歳のそばにいる。
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