空の雫-6

キレる少年

 僕と紡麦は水曜日に商品をおろしにいく。
 グループから流れてきたものを買い、あとは売るなり使うなりだ。だから、使いそうになる紡麦よりも僕が預かり、きちんと仲間に売りさばく。数人とまとめて会うときもあれば、サシのときもある。
 この日もいつも通り転売しおえ、道端で一服していた。紡麦は薬を売った女の子と消えてしまった。このあとに予定はないから、文句はない。
 時刻は“4:12” ──骨まで冷えこむ寒気に、ネオンにざわめく通りでは、みんな暖かそうな格好をしている。僕も千歳に出してもらったカーキのオーバーを着ている。
 早いけど帰ろうかな、と風にさらされた頬に身をすくめていると、ふと隣にロックミュージシャン崩れな男が並んだ。
「ある?」
 僕は隣を一瞥した。彼は通りを眺めるままで、素人なら空耳かと聞き流したかもしれない。僕がぼさっと意味もなく突っ立っているから、売人だと思ったのだろう。実際、売人ではあるけれど。
 二十歳ぐらいだろうか。髭があんまり似合っていない。知らない人間で、おまけにストリート売買なんて僕のやり方ではない。彼が中毒者なのは飢餓死体のごとく削げた頬で間違いないのだけど、僕の商品は残念ながらサイケデリックスだ。
 歩き出そうとすると、肩をつかまれた。その手は素早くはらいおとす。
「何だよ」
「持ってんだろ」
 ひどいしゃがれ声だ。
「は?」
「俺には分かるんだ」
「何のことだよ」
 あまり目立つわけにはいかない。僕はブツは所持している。
「よこせよ」
「何言ってんのか分かんないんだけど」
「金はある」
「頭おかしいんじゃないか」
 さっさと去ろうとすると、彼の骨張った手が次は腕に食いこんだ。今度は強い。
「離せよ、」
 いらだった手つきで振りはらおうとしても、Sを食った奴はバカ力ばかり発揮する。そばの寒くてじめついた路地裏に引きずりこまれ、暗がりの中、「頼むよ」とアルコールが混じった息と共につめよられた。
「欲しいんだ」
「ほか当たれよ」
「やっぱり持ってんだな」
「あんたが欲しいもんは持ってない」
「今欲しいんだ。切れる前に打たないと」
「だから、」
「早くくれよ。金はやるから」
 話にならない。紡麦なら持っていたかもしれないが。
「売ってる奴なんか、どこにでもいるだろ」
「お前が持ってんなら、お前がよこせばいいだろ」
「持ってねえんだよ」
「くそっ、荷物よこせ!」
 彼は僕の腕を離し、その手でヒップバッグを引きちぎろうとしてきた。僕はその手を鋭くはらうと、一歩距離を取る。
「てめえ、ふざけんなよっ……」
 やばい。
 頭が朦朧としてくる。あの感じだ。胸腔がひずみ、結界に穴が空き、不快な霧が噴き出してくる。
「持ってないなら、荷物見せろよ」
「あきらめろ、」
「ほんとは持ってんだろ、俺には分かるんだよ」
 いらいらする。背筋が悪寒に浸り、衝動が腫れ上がる。みぞおちに流出する黒い湿気に焦りながら、通りにきびすを返そうとした。
 途端、引き抜くように腕を引っ張られ、つい背後にバランスを崩す。何とか右足を踏んばって、舌打ちしながら僕は彼を見返り──途端、頬でがつっと骨が衝突した。
「何、」
「よこせっつってんだろっ」
「しつこいな、持ってないってのが聞こえな──」
「うるせえっ」
 空を切った衝撃が頬骨にぶつかる。急ブレーキをきかせたタイヤが道路できしめくように、歯が舌を切り裂く。
「よこすまで殴るぜ」
 彼は僕の腕を、筋をちぎるように捻りあげ、僕は脳内に絞り出される電流のまま、彼を睨みつける。
「俺は何でも分かるんだ」
「狂ってんな。いい加減に、」
 硬く腫れた頬を、再び関節にえぐられた瞬間だ。
 湿気の充満が、僕の眼を感電させた。
 振り上がった拳を彼の顎に食らわし、すかさず腕をねじる手首もたたき落とす。ついで彼の胸倉をつかむと、禿げた髭の頬を殴りつけた。
「いい加減にしろっつっただろ、くそったれっ。ビビると思ってんのか、ヤク中が気取るんじゃねえっ。そんなに欲しいならひざまずいてお願いしろ。お前ぐらい腐ってたらできるだろ。やってみろよ、できないならこれでも食らってろ!」
 喉が引き裂けた声で喚き、二の腕から力をこめた拳で彼の顔面をつぶした。唐突に裏返った僕に、彼の瞳は恐怖に痙攣し、そこに映る僕の瞳は猛烈な空洞にたぎっている。乱杭歯なのか、彼の頬は殴るたび指に歯を突き刺した。それにさらにいらついて、彼を殴る。
 彼は反撃しようとしたものの、僕の猛威に敵わなかった。僕も敵わなかった。強迫に冒されて、眼界が縛り上げられていた。脊髄が真っ暗な雨雲に掠奪されている。目先の衝動しか許されず、指令をこなさなくては、自分に戻れなかった。
 膝を崩した彼にのしかかる。荒い息ばかり響く暗がりには、赤い飛沫が飛び散る。熱された傷口に急激に軆がほてり、鋭い拳が冷気を引き裂く。彼の頭蓋骨がぐらりと横向きに虚脱すると、立ち上がって脇腹を思いきり蹴りつけた。
 ついで、降りおとした足で胃を踏み躙る。うめきと胃液に混じって、黄ばんだ白石が血の中に転がり出た。乱れた息を残しながら、一歩下がり、壊れた目に血の混じった唾を吐き捨てると、急いで僕は路地を出ていった。
 行き先は部屋だった。暖かく明るいそこには、もちろん千歳がいる。彼の驚きは、僕の早めの帰宅のせいから、僕の傷ついた頬と脱線した瞳のせいになった。
 僕が玄関にぐったりへたりこむと、彼は慌てて追いかけてしゃがむ。
「希月」
 僕は冷たい指で膝を抱えて、喉を締めた。破れた口の中が血だらけでまずい。胸に広がった湿気は、黒い黴となって、食道から喉までこびりつこうとしている。
「……吐きそう」
 千歳は「来たの?」と声を殺した。僕はうなずき、ジーンズに顔をうずめる。ふくれあがって膿があぶくを立てていた闇は、ぶれを鎮めて冷めはじめていた。
 吐き出したからだ。命じられるまま、あんなかたちで──
 自己嫌悪の脱力が訪れ、侵蝕された僕は千歳にもたれた。
 千歳は優しい手でずきずきとほてる僕の頬に触れ、「手当てしないと」と言う。僕はうなずきながらも、長いことそこを動けず、千歳も黙って僕の頭をさすってくれた。

第七章へ

error: