獣になっても
僕は、千歳や紡麦の前でキレたことはあるし、彼らに向かってキレたこともある。
紡麦はやり返してきて、一週間会ってくれなかったが、突然、何事もなかったようにレンタルビデオと部屋に来た。
僕は自己嫌悪や情けなさのへどろにまみれ、自分の過失で大切な人を死なせたような、取り返しのつかない後悔にへこんでいた。千歳はまだいなかったので、僕がドアを開けた。
紡麦の顔を見た途端、本気でどんな顔をすればいいのか分からなくなった。父も母も愛しているのに、離婚のせいでどちらか選ばなくてはならない子供のような混乱に襲われた。
しかし、紡麦はそんな僕に構わず、「暗っらーい」とけらけら笑って、僕の横っ面をはたくとさっさと部屋に踏みこんだ。
そのとき僕は、紡麦に詳しい過去を語った。過去をいちいち語るのは格好悪くて嫌だったが、そういう理由があると、彼には知っておいてほしかった。
紡麦は映画を観ながら、ポテトチップスもかじっていたが、思ったよりまじめに聞いて、理解もしてくれた。
「訳ありくんかな、とは思ってたけど」
そうシャンパンをあおった紡麦に、僕は膝を抱える。
「つまんない過去でごめん」
紡麦は僕を見つめたが、何も言わなかった。
そのあとも、彼の前で何度かキレた。紡麦は正常時の僕に言われた通り、相手にせずとっとと逃げた。打ち明けた胸を受け入れてくれた紡麦を失いたくない意志からか、彼にはかなりスイッチが入りにくくはなった。
どうでもいい相手なら、なめらかに電流が流れるところが、錆びた門でも開けるみたいにきしめいて引っかかるのだ。その引っかかりは、爆発を抑えようとする、あの無茶な抑制に似ている。実際それなのかもしれない。
だから、正直それはそれで気分が悪いものだけど、あとで思い返すと我慢してよかったと思える。現在では、紡麦はずいぶん僕の基準をつかみ、さしさわりある言動はよこさなくなった。
千歳にキレたときは、もうちょっと複雑だった。紡麦同様、今は千歳も僕の心を感じ取って、不用意な刺激は与えない。それでも、勘をつかむまでに、何度か僕の猛威にさらされなくてはならなかった。
僕の均衡を、頭で理解するのは無理なのだ。自転車を乗って転んで練習するように、軆で覚えるしかない。
切っかけは何にせよ、僕は千歳に向かってキレた。千歳はもちろん、やり返したりできずに泣き出し、僕に怯えるようになった。
そのときはつながりも深くなかったし、僕もどう説明して謝ればいいのか分からなかった。ただでさえ、一日じゅう毛布をかぶって動かない千歳には、話しかける隙もなかった。
水中みたいに息苦しい沈黙が、二週間続いた。
僕は千歳のかばんに、着替えがたたみこまれているのを見つけた。
まだ本当に、同居しているだけの段階だった。千歳は僕を“希月くん”と呼んでいたし、僕は彼がどんな環境にいたかも知らなかった。
僕の家庭よりひどかったのは確かだ。ここを出たら、彼はそのひどい場所に帰らざるを得なくなるかもしれない。
僕の父親の兄がいる家庭。
暗い心象に躊躇を断った僕は、千歳に自分の背景を話した。あの家庭の影が落とす、どんな洗剤を使っても落ちない染みのように内在する、僕を司る心の痣も。
床で膝を抱えてうつむいていた千歳は、いつしかベッドサイドに腰かける僕を見上げていた。「ごめん」と僕は千歳の溶暗する瞳に言った。
「怖いよね。変なもんだけど、僕はその恐怖は分かるんだ。父親が僕とかあさんに与えてた恐怖だから」
千歳は僕を見つめている。「嫌ならいいけど」と僕は言う。
「いたいならここにいなよ。僕があんなになるのは気にしないで。むずかしいだろうけど。ほっとけばいいよ」
「…………、気にされなくて、いいの」
「え」
「ほっといたらいけないんじゃない」
僕は驚きに目を開いたのち、弱く咲い、「相手にされたって」とかすれた声を発する。言葉に穿たれすぎて、喉がずきずきしていたのを憶えている。
「あのときの僕は、何だろうが気に障るんだ。意味がなくなる。くだらないことなのに、ただほんとに、ひたすらムカつく」
寒い夜で、暖房がぼんやりきいていた。
千歳は出ていかなかった。僕が再びキレても耐え、でたらめな暴発の理屈をつかもうと僕を見つめた。そして、キレまくるあいだはそのまま吐かせ、その後の鬱状態をやわらげたほうがいいと判断した。
千歳に分析され、僕も自分がキレたあとは陰気臭くなっていることに気づいた。千歳は、かきむしられた挙句にぐったり昏睡した僕の心を見舞い、僕も衝動に咬みちぎられたあとは、千歳の元に逃げこむようになった。それは千歳にも自信を与え、やがて僕たちは絆を持つに至った。
──今、僕は部屋のベッドに仰向けになり、深く胸から虚脱している。そして、そんなことを思い出し、星華とはその洗礼を乗りこえられるだろうかと考えている。洗礼というより、煉獄かもしれないが。
後悔が濛々と立ちこめ、暗いめまいがダウナーのようにきいている。彼女が僕を受け入れたとする。それでも僕は、あのざまがありのままの自分なら、いっそ消えてなくなりたいと思う。
千歳がかたわらに付き添い、頭の向こうでは、紡麦がゾンビ映画を観ている。今の僕は飛びつく気になれない。
ホコリっぽい温風が足元に降りそそぎ、天井のボンテージ女を映す視界の端で、白熱燈が食いこむように光暈している。千歳のなめらかな指が、僕のくすんだ黒髪を撫で、僕はぽっかり虚空に支配された瞳を溶暗する瞳に映した。
「……ごめん」
「ううん」
「怖かった?」
「まあ、少し」
「………、どうしてこうなんだろ。気分悪いや。普通、キレたあとは気持ちいいっていうのに」
「そういうこと言う人は、壊れるみたいにキレたことがないんだよ」
「……何にもおもしろくない。ただいらつく。すごく──いらつく」
僕は目をつむって涙をこらえ、いらつきより焦りと言ったほうがいい胸騒ぎを飲みこんだ。その靄も、ぱっくり開いた口に満ちる麻痺に取りこまれようとはしている。湿気った嫌悪が燻り、それが吐き気を催す。
頭のほうでは、黒魔術的なBGMに何か吹っ飛ぶ音が連射している。ゾンビの頭をぶち抜き、壁いっぱいに飛び散った血と肉のように、べったりと僕の胸にはみじめさが垂れこめている。
三十分くらい前、この部屋には星華がいた。散らかった床ではいくつかの雑誌やCDケースが躙られ、投げられて空を切った服が、投身自殺体のように変なかたちで投げうたれている。
顎骨まで響いていた、頬のじんと硬く腫れる感じは、だいぶ蒸発していた。
僕は目を開いて、天井の女を見つめる。
いつか、やってしまうとは思っていたけど──
今日は週末で、僕たちはパーティで逢った。金はあったのだけど、星華に声をかけてきた男で遊ぶことにした。
ふたりは地上に出ると、汚れた路地裏にしけこんだ。星華を黒ずんだ壁に押しつけ、口づけをむさぼっていた男の頭を、気配なく近づいた僕が襲った。男は本能的に振り返り、だが残念ながら、僕はサングラスで顔を隠していた。とっさに見た顔の印象が錯誤されれば、記憶はぼやける。
星華がまずそうに唾を吐く隣で、僕は紡麦も加えて男を暴行した。
「あはは、ここでかくなってんじゃん」
「でかいか? まあいいや、つぶしちゃえ」
紡麦がスニーカーで股間を蹴り上げると、男はうめいて地面に崩れ落ちた。その肩をスニーカーで踏みしだいたとき、階段を踏み外すような変な感じはした。そいつが気絶すると、ついでなので財布を取ろうとした紡麦が、軆を動かしたときの右肩の妙な引きずりで気がついた。
「肩外れてるし」
壁にもたれて観察していた星華が、「うそ」と鼻血を垂らす男を覗きこむ。
「ああ、たぶん僕」
「っそ」
紡麦は気にせず財布探りに戻ったものの、星華は僕を見つめた。「いいの?」と星華は気にして、「大丈夫だろ」と僕はサングラスを外す。
「病院に行かれたら」
「はしごから落ちましたとでも言うさ」
「何で分かるの」
僕は男のポケットを探る紡麦を見おろした。ナイロンのブルゾンに財布を見つけた紡麦は、それを開き、「いえい」と刻んだ葉っぱが入ったふくろをぶらさげる。
僕は星華に向き直り、それでも彼女は安心できないらしい。
「ビビってんの」
「……そういうわけじゃないけど」
「ばれるわけないだろ。ばれたって死刑じゃないし、死刑になったらなっただし」
「あたしは顔見られてるんだよ」
「ビデオで顔晒してんじゃん」
「あれは別に、そんな……実感ないし」
「ひとりだけ引っぱられるのが悔しいなら、僕たちのこともチクって、道連れにすればいいだろ」
星華は少し不愉快そうにし、僕は肩をすくめて無視した。「金なんかある?」と期待せずに紡麦に声を移し、腰をかがめる。暗闇で余計に息が白い。
「ジャンキーって貧乏よね」
紡麦が財布のはらわたを開き、かさばらない紙幣だけ奪うと、僕たちは立ち去った。
そういうわけで、もう分かるだろう。星華が部屋に帰ってもぶつくさしているので、僕はあの黒い湿気を培養されて、感電した。
星華に向かって不意に暗転した僕の声に、千歳は身を硬くして、紡麦は取り成そうした。
遅かった。僕はどきつく汚い罵倒を、屠殺場の血みたいに撒き散らし、胸倉を引っ掴んで星華を無感覚に殴った。見開いたガラスの瞳には、僕の暗い嵐のような瞳があった。
正気の喉に、ナイフがあてがわれている。やらないと発狂させられる。僕は竜巻に乗っ取られ、そいつが飽きるまで壊れた。
紡麦がどうにか僕の背中を取り押さえ、何とかあとずさった星華は、なお牙を唸らせる僕を見つめた。だが、急にそばにあった物を僕に投げつけると、立ち上がってやってきて、僕の頬を引っぱたいた。
「そんなんであたしがビビると思うなよ、このくそったれ野郎っ。あたしが気に入らないならあんたが死ね、そんなもんであたしが言いなりになると思うなら、その頭たたき割ってやるからなっ」
星華は赤と黒のジップアップニットをつかむと部屋を出ていき、僕は紡麦を引きちぎって彼女を追いかけようとした。だが、千歳も取り押さえに加わって動けなかった。
「もうやめてよ」と千歳が僕の正面にまわって瞳を見つめる。その瞳は、本当に哀しく苦しんでいた。僕を支配した猛獣は、その瞳で毒にあたったようにずるりと脱力した。
途端、僕はその場にくずおれた。
千歳と紡麦が僕をベッドに引き上げた。「相変わらず過激ね」と紡麦は二の腕を揉んであきれ、千歳は僕の手を握って心配する。僕は腕をまぶたにあて、「ごめん」と抑揚が沈んで横柄にも聞こえる平坦な口調で言った。千歳は僕の手を包んで首を振り、紡麦はからからと笑って映画を観はじめる。
かくして、こんな具合で、僕は麻酔が効いたように自分の底に沈殿していた。
時刻は五時になろうとしていた。星華がどこに行ったかは分からない。残り一時間のパーティか、男との部屋か。どこにいようと、きっと最悪の気分で、二度と僕の顔を見たくないと抱きかけていた好意を唾のように吐き捨てているだろう。
星華は、僕の感電をどう解釈しただろう。紡麦のように受け流してくれるか、千歳のように受け入れてくれるか。どちらでもない気がする。男の気紛れと思ったかもしれない。それならそれで、脳の浅い女だったとか思って、僕もあきらめるべきなのだろうが──
僕の感覚だって異常だが、星華も変だった。ヤク中の脱臼ではないか。警察が動くわけがない。だいたい、僕たちは社会に見向きもされない、弾かれた人種なのだ。星華はそのくらい分かっていると思っていた。
彼女が分からない。だから、星華が僕の暴力を理解したとも思えない。
こちらを見守る千歳は、優しく僕の髪を撫でている。鍾乳洞のごとく暗くじめついた空っぽが、枝分かれしながら僕の胸を侵蝕する。
軆が重くて、心が鈍い。鬱状態で停止した精神は、白目を向いて仮死していた。
「ごめん」と僕は首を絞められているような濁った声で千歳に言う。千歳はもろく微笑むと、「大丈夫だよ」と手を握り直して、柔らかな温度で僕をこの世につなぎとめた。
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