空の雫-16

棲みつくもうひとり

「嫌なとこ見られちゃったな」
 星華がいる空気を思い出すと、安心した紡麦は先日録画していた映画に離脱した。僕と星華は、千歳が淹れた紅茶を飲み、甘みと熱で疲れた緊張をほぐす。千歳は僕の隣に座って、紡麦が読んでいた本を手に取り、ぱらぱらとしただけで元に戻した。
 千歳が紅茶に添えたビスケットをかじった星華は、口の中が痛んだのか、裁縫をしていて針が指に刺さったように眉を顰めて、それからそうつぶやいた。
「え」
「あたしを悪趣味だと思ってるでしょ」
「……あれが好きなのか」
「ぜんぜん」
 会話が見えずにきょとんとする千歳に、僕は店先でのことを話した。映画を観ている紡麦も聞いていたみたいで、ひと通り語ると、「会話発生しなかったんだ」と言う。「だね」と僕は塩がほどよくきいたビスケットを口に放る。
「そういう人といて、怖くないの?」
 自分なら耐えられないと思ったのか、千歳は星華に首をかしげる。頬杖をつく星華は千歳を見、続いて僕を見ると、「同じこと千歳に訊きたいな」と腕をおろした。
「こいつのこと、怖くないの?」
 千歳は臆して僕と顔を合わせ、紡麦は振り返らないまま含み咲う。千歳は星華を向くと、「怖くないよ」としっかりした口調で言った。星華は僕を胡散臭い商品を見るようにじろじろとすると、「二重人格みたいね」と息を抜いて軽く空目をした。
「似たようなもんだよ」
「僕もいきなり怒鳴られたときは怖かった」
「怒鳴られたことあるの」
「紡麦もね」
「俺はやり返して、さらに勝ちましたが」
 星華は噴き出し、「マジで?」と僕を見る。本当なので、僕はやや顰め面になる。
「希月の話聞いて、僕は怖がってちゃいけないって思った。この部屋にいたかったし、怖いからって逃げるのはひどい気がした」
 儚げを抑えて気丈に言う千歳に、「希月って前に何か言ってたよね」と星華は口元を気にして紅茶をすする。
「守りたかった人を守れなかったとか」
「言ったっけ」
「言ってたよ」
「そっか。ま、そうだね。僕は何もなかったんだ。母親がさ、何か、いろいろされるわけ。父親に」
「父親」
 僕はうなずき、千歳と紡麦にはおなじみのあの独裁家庭を語った。「その反動なんだ」と長い回想のあと、渇いた喉を紅茶で潤す。
「我慢ばっかしてたからキレまくる。じゃなかったら、抑えてきたから吐き出し方が分からなくて、めちゃくちゃになる。家では、我慢しなきゃ、被害は僕じゃなくて母親にいってたしね」
「母親は好きなの」
「まあ、うん。見捨てたくせに、もう息子面はできないけど」
「……そう」
 さいわい、星華は納得はしたようだ。僕が紅茶を飲み干すと、千歳はおかわりを淹れにいった。紡麦は立て膝をして、映画に入りこんでいる。
「免疫が使い果たされたというか」と僕は座卓に映る白熱燈を見つめる。
「忍耐力を使うばっかで補充できなくて。耐性がなくなった。あとで思えば『何だそのくらい』ってことに、物凄く引っかかってキレるんだ」
 黙って聞いている星華の真顔に、僕は機械的な笑みを向ける。
「些細すぎて怒れないことにキレまくる。許せなくて、どんどん許せなくなって。僕自身が一番そういうのムカついてるんだ。こんなの気にしなきゃいいだろって、そんなの誰より思ってる。けど、ダメなんだ。不愉快な気分に執着する何かがいるみたいだよ」
 香ばしい紅茶を持ってきた千歳が隣に座る。星華は僕を見つめ、「鬱陶しい話なのは分かってるよ」と僕は肩をすくめた。星華は息をつくと、一度天井を仰ぎ、僕は体温に染みこむ紅茶を飲みこんだ。
「ごめん。混乱させた?」
「かなり。むずかしいね」
「そう?」
「屈折してるよ」
「そうかなあ。かあさんはつらくて当然だったけどさ」
 星華は千歳を見て、「卑屈だよね」と言った。千歳はくすりと咲った。
「でも、そういう感覚になるのは分かるよ」
「……そうだね。誰だって、まずはおかあさんに同情するよね」
「紡麦にも言われたよ。かあさんを引き立てるために、自分を見てないって」
「言われても認めないの」
「そういうとこもあるのかなとは思う。でも、かあさんのほうがつらかったんだって、やっぱり自分は後まわしにする。ときどき、病気を演じてるような気がするよ」
「病院行けば」
「やだよ。医者がいなくても、千歳も紡麦もいるし。星華もね」
 彼女はどきりとたじろいで僕を見つめ、「巻きこんでごめん」と僕は星華の瞳をきちんと見つめた。あのとき砕けたガラスが、与えられた熱で、球体によみがえっていく。
 ばつが悪く睫毛を伏せた星華は返事に照れても、「うん」と傷みを許した瞳で僕に微笑んだ。
「大丈夫」
「まあ、またキレると思うんだけど。逆撫でしないコツはあるみたいなんだ。千歳と紡麦がそうだから」
「そなの」
 星華は千歳にしばたき、千歳はうなずく。
「完璧に避けるなんて無理だけど。ある程度、気をつけることはできるよ」
「そう。でも、けっこうへこんだよ。何であたしに関わる男はみんな暴力的なんだろって」
「あの男」
「とか、父親とか」
 私的な言葉に千歳はまばたきをしても、「家出したって言ってたよな」と僕は紅茶をすする。星華はおもしろそうに僕たちに笑うと、「どっかで聞いたような話だよ」と前置きした。
「あたしの両親は仲悪くて、あたしが子供の頃に離婚したの。母親に引き取られて、何年かはよかったんだ。でも実は母親は、ひとりであたしを育てるのに疲れきってて。あたしにはそんな本音見せなかったけど。いつのまにかいた恋人に振られたのを機に、母親は仕事先のビルから投身自殺」
 一応聞いているらしい紡麦が、「母親って自殺しがち」とつぶやく。
「で、何で両親が仲違いしたかって、あたしのせいなのね。父親が子供嫌いだったの。でも母親がどうしても生みたがったから、生ませてみたけど、やっぱり気に入らなくて。あいつがそばにいてほしいのはかあさんだけだった。自分からかあさんを取ったあたしをあいつは怨んでるってのに、母親が死んだあと、そいつに引き取られてさ。分かるでしょ」
「レイプされた」
「それはなかったけど。殴る蹴る、怒鳴る閉じこめる。あたしがいなきゃ、かあさんのことは好きだったんだもんね」
 あきらめて開けたような口調だが、そういう調子を保っておかなければ、崩れてしまいそうなのを必死に自律しているのは分かる。
「十三ぐらいで軆が売り物になると、売りやって家帰らなくて。そのとき、いろいろあって……逃げなきゃいけないようなことになって。そんなとこをあの男に拾われてさ。あんな奴、一秒だって惹かれたことないけど、かくまってもらってるわけだから。で、こんな感じ」
 星華は両手を軽く広げ、切断マジックで切断された美女が、つながって再登場したときのように、自分のすがたを開いた。僕はしばらく床に視線を彷徨わせたあと、「……つらかった?」と訊いた。
「そりゃね」
「そっか……。あのさ、逃げるようなことって」
「んー。まあ、警察沙汰ね。あのさ、あたし分かってるの」
「え」
「あのとき、警察のことぐずぐず言ったのがムカついたんでしょ。希月たちのことは分かってる。でもあたし、警察沙汰がやっぱ厄介なのは、そのとき痛感してるんだよね」
「………、そっか」
「親にも通報されたくないしさ。でも、ごめんね」
 僕は首を振り、「僕もごめん」と星華のまじめな目に顔を上げる。
「僕はしょせん、警察とかリアルに感じたことないから。こういう感覚でいられるのかも」
「希月たちは、うまくやってるんだよ」
「はは。でも、ほんと、僕たちは捕まるようなことはしても、捕まるようなやり方はしないから」
 星華は微笑んで「うん」とうなずいた。いつしか、僕のカップも星華のカップも空になっていた。
 時刻は三時半をまわり、「ごはん作ってないや」と千歳は急いでキッチンに立つ。それを見送った僕と星華は顔を合わせ、「どうすんの」と僕は残っているビスケットをかじった。
「どうって」
「部屋。着替えてるってことは、一度は帰ったんだ」
「まあね。で、あいつは金持ってどっか行ったんで」
「毎日あんなふうに来てんのか」
「毎日じゃないけど。けっこう続いて生活費やばくなると、客と店抜きで最後までしたりする」
 ひどいな、と僕は頬杖をついて、紡麦の映画を眺めた。クラシックなBGMがかかっている。
「じゃあ、ここにいれば」
「えっ」
「野郎ばっかで嫌?」
「嫌じゃなくても。千歳との部屋なんでしょ」
 僕はキッチンを振り向き、冷蔵庫を覗いていた千歳は顔を上げ、口元をやわらげる。それでも逡巡する星華に、「今日は泊まっていけば」と僕は言う。僕を正視した星華は、床を向いて躊躇おうとしたけれど、やはり帰りたくないのかうなずいた。「四人分ね」と注文すると、千歳は承知してカレールウを取り出した。
 そんなわけで、その夜は四人で夕食を食べ、狭い部屋で四人で寝た。紡麦はタオルをかぶり、千歳はふとんを敷き、僕と星華がベッドで眠る。
 明かりも暖房も落ちた部屋に、カーテンを透ける朝陽が蒼く映りかけている。目覚めた鳥がさえずり、床では寝息が聞こえた。
 腕の中でも星華はすでに眠りに落ち、僕もやっときつく縛られていた不眠症からほどかれて、彼女の匂いに微睡んでいる。
 ほの暗い意識で脈絡なく考えていた。星華の過去やあの男──まだしっくり来ない箇所もあるけれど、きっとこれから納得していけるだろう。
 そう思って瞳を遠のかせたのを最後に、僕の脳は懐かしい暗闇へと引きずりこまれていった。

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