暗い壁に映る光景
何でだろう、といつも思っていた。
同じ空間で肩を狭くして、大音量のヘッドホンをかぶってつくえに伏せって、ベッドでふとんにもぐって押しつぶすように耳をふさいで──
いつだって思っていた。切実に、何度教えても手順を間違う人間にいらついてくるように。
何で?
どうして?
何でとうさんは、あんなにかあさんをぼろぼろにするんだろう。
あの家庭でのさまざまな、しかし同じ光景は、曇り空が落ちた景色のように残っている。蒼然と、薄暗く、湿り気を帯びて、僕の部屋のポルノみたいに、心のあちこちにべたべたと貼りついている。
ポルノのほかにも、壁にはいろんなものが貼られているように、僕の心にもほかの記憶はあるのだけど、人が僕の部屋に踏みこむとまずはえぐいポルノにぎょっとするのと同じく、僕の心ではあの家庭が真っ先に過去として切りかかってくる。
家でのことしか憶えていない。学校生活もあったはずなのに、漂白剤に浸してしまったように白い。
たぶん、適当にやっていた。ただし、勉強はよくできた。好きでもないクラスメイトに混じっていたのも、問題を起こさないためだ。問題は増やしたくなかった。だから僕は学校は、とにかく何も残らないようにしてきた。
足音が響く暗い壁には、繰り返された光景が続いている。数少ないかあさんが虐待されているのではない光景の中には、僕に矛先が向かったときのものがある。
決まって、かあさんをかばったせいだった。庇護を後悔したことはない。
ただ、僕が言ったって父親には効かないのが、かあさんのために悔しく、加速する父親のために忌ま忌ましかった。
ベッドスタンドに面した窓が、カーテン越しに蒼ざめた朝陽を通している。毎日やってくる憂鬱の朝の光景が思い返る。
僕は九歳だった。十一月だったが、気候は真冬だった。昨日から、父親はまたくだらないことでいらいらしていた。
夕べは一晩じゅうかあさんをなじり、ときには怒鳴り声を上げていた。おかげで僕は眠れず、鳴り響く頭痛にまぶたが重たく腫れていた。
ぶあついふとんを被っても、野太い声は地の底からみたいに響いてくる。いつか声変わりの果てに、自分もあんな声になるのかと思うと、喉をえぐって声帯をむしりたくなる。あれと似た声を発するなんてぞっとする。
とはいえ、声がうるさいだけで眠れなかったのではない。それに対する“また始まった”といううんざりしたもやつきと、怖さと、かあさんが逃げようとしたらついていかなくてはならない危機感が相俟って、僕もひと晩じゅう起きていた。
小学校に上がり、寝室の隣の物置だった部屋を自室としてあてられた。結局、昨夜は空だった寝室は静かで、その先のリビングで物音がしている。
普段両親は僕より三十分早く起き、父親は僕より三十分早く出る。今は朝食を取っている頃だ。
わざわざ耳を澄まさなくても、父親の声がつけっぱなしのテレビみたいにだらだら続いているのは聞こえる。
今日は学校がある。遅刻するわけにはいかなくも、顔を出したくなかった。父親が母親を破壊している。なぜそんなものをいちいち見て、聞いて、陰気な気分で好きでもない学校に行かなくてはならないのか。
家に較べれば学校は天国だなんて、そんな単純なことはなかった。どっちもいらなかった。学校に好きな人間なんていない。あそこでの僕は、全部偽物だ。僕は毎日、学校で偽善を習っている。家庭で抑圧をたたきこまれているように。
ふとんを被って、鼓膜まですりつぶしそうに耳を密封し、目をつぶって無音の闇に閉じこもる。でも、迫りくる殺人鬼の足音みたいに、頭痛はどこまでも聞こえてくる。
父親の顔を見るくらいなら、学校を休んででも朝食を食べにいきたくない。爪先の冷えこみが、プールの亡霊の髪の毛みたいに軆に巻きついてくるのを感じながら、音を立てないよう身じろいで身を丸める。
七時を過ぎても僕が起きてこないと、かあさんがカーテンを開けるついでに起こしにくる。だが、今日は来なかった。
着替えなら部屋で済ましておける。僕はエアコンのない冷えきった部屋の中に起き上がり、耳をふさぐまま、ぼさぼさの頭でベッドの脇にあるスイッチを入れた。ぱっと部屋を白く映し出した明かりに、思わず腰を折って、いつもの匂いがするふとんに顔面を押しつける。
着替えるには手を離さなくてはならない。耳を密閉する力をこめつづけていて、腕が痛い。そっと右耳に隙間を作ってみると、ちょうど怒鳴り声がして、すぐさま耳をふさいだ。
じめじめした後悔に、いつもの自問が頭を揺り返す。
どうして。何で。何で僕の家はこうなんだろう。
どうして、ああもキレなくてはならないのだ。父親はかあさんを妻や母親としてクズだという。でも僕は、かあさんほど手抜きしない人を見たことがない。
外界を知るほど、自分の家庭は異常だと気がついていく。これが当たり前なのだろうと思ってきた認識の瓦礫に、よけい打ちのめされていく。
なのに、あいつだけは絶対に気づかない。父親の言うことはいつだって自分のためにでたらめで、何だろうとかあさんを気にいらない。
怒鳴っている。たたいている。そうも憎悪を費やすことだろうか。何でそんなに、いつまでも怒っていられるのか──
かあさんが気に入らないのなら、せめて離婚で解放すればいいのに、自分ひとりでは何もできないから召し使いとして手放さない。そう、父親はかあさんを召し使いにしている。奴隷としか思えないのなら、あいつは女を妻として娶るでなく、家政婦として雇えばいいのだ。
どうしてあんな奴が僕の細胞を作っていて、そのせいで一緒に暮らさなくてはならないのだろう。
父親が出勤すると、かあさんが僕の部屋を覗きに来た。結局僕は、冷めたベッドにもぐりこみなおしていた。ふとんに触られ、僕はそろそろと耳を開いて、ごそっと顔を出す。つけっぱなしの明かりの元、かあさんは力なく微笑み、「おとうさんは行ったから」とすりへった声で言った。
僕はまくらに視線を下げ、うなずくと、軆を起こした。「ごめんね」とかあさんは僕の頭を撫でた。僕はかぶりを振り、「学校行かなきゃ」とべったりした胃に朝食を押しこむため、冷たいフローリングに降りた。
その日は泥水を被った気分で過ごし、翌日は土曜日で休みだった。義務のごとく必ずめぐってくる週末は嫌いだ。学校に逃げこめないというより、父親が家にいるのが嫌だ。ゴルフに行ったりすると、普通に休日をくつろげる。その日は父親はなおも不機嫌にふんぞり返っていて、僕は窮屈に部屋で耳をふさいでいた。
夕べはまた眠れなかった。深夜まで父親はかあさんを非難し、耳をふさいでも、肌に響いて分かる投げつけたり砕け散ったりの音で、僕は嫌悪感に硬化していた。
父親はしつこい。まるで女だ。父親はかあさんを怒鳴るし、殴るけど、ぜんぜん男らしくない。耐えがたく女々しい。あれだって女のヒステリーに近い。二時過ぎに父親は寝室に行き、かあさんは休む間もなくリビングを片づけはじめた。
父親がいびきをかいて寝始めると、僕は足音を殺して、リビングを覗きにいった。皿や食べ物、いろんなものが床ではらわたをえぐられ、その役目を無駄に終えていた。手伝おうとすると、痣にまみれたかあさんは僕を制し、「今のうちにゆっくり寝なさい」と言った。「でも」と躊躇っていると、かあさんは一度手を洗って、僕の肩を抱いて部屋に連れていった。
そして、僕が眠るまでそばにいた。正しくは、僕が寝たふりをするまで──僕が寝つかない限りかあさんは見守っていそうで、しかし、そんなことをして父親が起きたときに部屋が片づいていなければ、まためちゃくちゃにされる。僕は空寝するしかできなかった。
明かりを消して、そっとドアを閉めたかあさんは、明け方まで強盗に踏み荒されたようなリビングを片づけていた。
日曜日、僕と父親が何事もなかったようなリビングで昼食を取っているあいだ、かあさんは夕食の買い出しに出かけた。父親となんか同席したくなかったけど、したくないから昨夜の夕食から何も食べていなくて、胃がきりきりしている。暖房が流れる中、僕は父親は向き合って、かつおぶしが香ばしいうどんをすすっている。
座卓の隅には、銅製の花瓶が置かれている。仏壇が昨日は花を飾っていた花瓶だ。母方の祖母の仏壇だった。
去年の秋口のことだ。物凄く忌まわしく憶えている。危篤だと連絡が入った祖母の元に、今日は友人を招くと父親はかあさんを行かせなかった。そして、その招いた数人の友人とかあさんのことを──
葬式になって、やっとかあさんは里帰りを許された。僕もついていった。父親もだ。祖父の父親を見る目には、ぼんやりと燃える炎のような、静かだが確かな憎悪があった。
かあさんは泣いていた。自分にはそれしか残されていないように。僕はいろんなことがショック過ぎて、真っ白に麻痺していた。祖父は僕を膝に乗せて抱きしめ、「いつかお前がかあさんをここに連れてきなさい」と言った。
僕は、僕には頑固だが優しさを含む祖父の瞳を見上げ、うなずいた。本当に、何ならいますぐにでもそうしたかった。
「何で、とうさんはかあさんをあんなふうにすんの」
記憶自体が忌まわしい追想をするうち、思わずそんな言葉を父親に投げかけていた。父親は手を止め、「どういう意味だ?」と驚くべきことに僕には穏やかに笑いかけてきたりする。
しかし、その問い返しと穏和な笑みの組み合わせは不気味だ。僕は箸でねぎが泳ぐだけになったうどんをかきまわし、「昨日みたいな」と口ごもりがちに言う。たとえ自分に向かっていなくても、僕は父親が死神のように容赦ない敵として怖かった。
「昨日」
「怒るとか。たたくとか」
「あんなできそこないを母親にして、お前には悪かったと思ってるさ」
「かあさんはできそこないじゃないよ」
「そんなふうに嘘をついて、かばってもしょうがないだろう。とうさんはかあさんが嫌いなんじゃないんだ。きちんと分かってほしいだけなんだよ」
僕は父親の顔を見たが、にこにこと恥ずかしげのない顔を見ていられなくて、つゆに映る自分の顔と見合い直した。本気だろうか。
いつしか僕の瞳には、虚ろな影が切れこむようになっていた。その奥には満たされることのない虚空の世界が広がっている。
「かあさんが、お前に何か言ったのか」
「ん、いや。別に」
「愚痴られて鬱陶しかったんなら、とうさんが言っておいてやろう」
「愚痴なんてしてないよ。ほんとに。僕が思っただけ。かあさんは何にも言ってない」
「そう言えって言われたんだな」
「言われてないよ。ほんとに言ってない。だって、普通思うよ。かあさんはとうさんのためにいろいろやってると思う、し」
父親は僕を見つめる。その視線が吹雪であるかように、僕の手先や視線はどんどん凍ってうごかなくなっていく。
「すごく、頑張ってるよ。友達のおばさんとか、もっと適当だよ。なのに、何でとうさんはかあさんを怒るの。そんな、たたくほどのこと、かあさんはしてないよ。してたって、何で、咲って済ましてあげないの。好きだったら、許せばいいのに。かあさんが嫌いなんでしょ。何でも言うこと聞く人がいいなら、家政婦とか雇えばいいじゃん。で、かあさんとは離婚とかしたら──」
「黙って聞いてやってたら、いい気になるなよ」
僕は肩をこわばらせた。
やばい。そう思った。
父親の声は死んでいくように温度を下がっていた。けれど顔を上げて見た表情は笑みを残していた。仮面を取り忘れたように、声と顔が分裂していた。
「何を言い出すかと思ったら」
だが、やがて顔は声に同化していく。仮面が本性に取りこまれていく。父親は箸を置き、喉に押しつけたナイフで壁に押しつけるように僕を見据える。
「離婚だと? お前が口を出すことか。咲って済ますなんて、いかにも子供が考えそうなことだな。お前みたいなガキに何が分かる。家政婦? つけあがりやがって、気に入らないのはお前だろう。だったらお前が出ていけ。ここは俺の家だ。俺が食わせてる家だ。お前の意見なんか通る場所じゃないんだよ、自分で食えもしないガキが生意気な口をきくなっ。そんなえらそうな意見は、いまここで出ていって、自分で食えるようになってから言うんだな。さあ出ていくんだ、俺のやることが気に入らないならお前が消え失せろっ」
僕は蒼白にねじれた脳内に硬直しきっていた。父親は乱暴にうどんのうつわをこちらに引っくりかえし、仏壇の重い花瓶を投げつけてきた。がつっ、と角が左肘に食いこみ、僕は眉を顰めてそこを見たことで、やっと動けた。
「何してる、とっとと出ていっちまえっ」
僕は食いちぎりそうに唇を噛みしめ、父親をきつく睨みつけると、立ち上がってリビングを走り出た。廊下を駆け抜け、まっすぐ突きあたりが玄関だ。上着も着ずにドアを開け、マンションなので通路を走って、階段を駆けおりた。
涙がこぼれていた。何の涙かは分からなかった。怖いのか。情けないのか。悔しいのか。つらいのか。
真っ白な息を切らして一階に着き、涙をぬぐって心臓をつらぬく灰色の寒空の下に出る。闇雲なマンションの群集をすりぬけ、なじみのない公園のベンチにぐったりくずおれた。反響してのたうつ心臓に合わせて弾む息に、脳を突き刺すような頭痛が重なる。
激しい衝動がゆだっていた。あいつを殺したい。ばらばらに引き裂いてやりたい。同じ世界から消し去りたい。腐った頭を金属バットでかちわりたい。うるさい喉を斧でたたき切ってやりたい。汚い眼球をスパイクシューズで踏みにじって、全身をのこぎりで粉々にして──
幼さが悔しかった。猛烈に悔しかった。自立できない、無能力が厭わしかった。
もし僕に大人の力があれば、すべて手に入る。あの男が現れない家、かあさんが傷つかない場所、僕は僕でいていい世界。
僕が何も持っていないせいだ。どうしてこんなに無力なんだろう。何にもできないんだろう。あいつの言うなりでいるしかないのだろう。
今回のことは、結局かあさんをさらに痛めつけただけで終わった。僕の上着を持って探しにきたかあさんは、そんな奴は放り出してしまえと言った父親に土下座した。凍える僕は突っ立って、父親がかあさんの頭を踏みつけ、「お前がくだらないことを吹きこんだんだろう」とこめかみを蹴りあげるのを見ていた。「そうです」とかあさんは嘘をついて、余計な攻撃を受けて僕をかばった。
喉がえぐれそうにずきずきしていた。みじめで死にたかった。でしゃばらなければよかった。その夜もでたらめな怒号は絶え間なく、けれどその夜に僕が眠れなかったのは、涙が致命傷からの血のように、どんな手当ても効かずに止まらないせいだった。
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