空を弾かれて
「千歳って幸せだよな」
十二月に入った金曜日、今日は朝まで遊ぶという紡麦と別れ、僕と星華はパーティーを抜け出して、部屋への道を歩いていた。
今日の彼女はスカートではないけれど、真冬の風に凍えている。僕は熱を残す手で、とっとと冷えている彼女の手を握った。星華は僕を見ると笑い、中学生のデートみたいで僕のほうが照れる。
しばらく喧騒を泳いで、視界も正面や足元にばらつかせていたが、不意に星華はそう言って、僕の左腕に身を寄せた。
「え」
「希月にあんなに想われちゃってさ」
「あんな」
「さっき、紡麦に聞いたんだ。こないだ千歳を外に引き出そうとしたら、怒られたって」
「ああ──今んとこな。あんまり『出よう』って勧めると、千歳はかえって『やらなきゃ』って混乱するし」
「……うん」
「紡麦の気持ちも分かるよ。だから僕も、信じて待ってはおく」
星華は僕を見つめ、僕は白い吐息と咲うと、汚れたアスファルトに視線をそらす。
「分かるんだ、血でね。僕たちは同じ環境で育った人の下で育った」
「千歳は、暴力はなかったんでしょ」
「肉体的にはな。だから、いとこじゃなかったら、『殴られるよりマシじゃん』って相手にしなかった。千歳だって、僕のこと矛先は自分に向かってたんじゃないって、軽く見てたかも。相手の父親が自分の父親の兄弟だって、そこから重大さが分かるんだよ」
星華も視線を足元にやり、「深いんだね」と咲う。
今日は靴がスニーカーなので、彼女になじまない背の高さはない。
僕は星華の睫毛の先に映る、雫のようなイルミネーションの影を見つめ、「嫉妬してる?」と笑いを噛んだ。星華は僕の脇腹を肘鉄すると、「分かってる」と僕の熱を受けて温まった手で僕の手を握る。
「あたしと千歳の希月の中での差は、重みってより長さだよね」
「まあ、そんな感じ」
「あたしも、千歳ほど希月を想ってるかは分かんない。男だしね」
「男」
「嫌いなんだ、男って。女も嫌いだけど」
「じゃ、僕たちって何?」
「動物」
仏頂面になると、星華はげらげらと笑って、「希月なんだよ」と瞳をまっすぐこちらに向ける。
「男ってより、希月なんだ。千歳と紡麦もね。性別どうこうより人間なの。男は支配的だし。気に食わなければすぐ攻撃。ピストルみたい、あっという間」
「褒めてる?」
「貶してる。セックスでも、押し入って突き上げてぶちまけて。だからセックスって好きじゃない。希月たちとは、わりとセックスが介入してないんだよね。やるけど、それって目的だからじゃない。分かる?」
「何となく」
「ほかの男ほど敵視せずに済んでる」
僕は星華の横顔を見つめた。
頭痛を刺す風が背後からすりぬけ、星華の髪が腕や肩に、溶かした飴のように絡みつく。「仕事なきゃ切ってんのに」と星華は舌打ちして髪を後ろにはねやり、僕もなめらかな香水が薫るその髪を、赤と黒の背中に流すのを手伝う。
「あのさ」
「ん?」
「父親としたことある?」
もつれた髪を不自由な指先ですいていた星華は、噴き出しながら首を横に振った。
「殴るだけだよ」
「それで、セックスに影響が来るんだ」
「セックスと暴力は一緒だよ」
「そう?」
「人殺しまくった後は、満足しちゃってその気になれないんだぜ」
「……何か、紡麦も言ってたな。父親に犯されてたと思う?」
「暴露はされてた。ぼこぼこにされてみろよ。スカートめくれてたって、直してる場合じゃないよ」
あまり殴られた経験がない僕は、ここはどうも生返事になる。
「親に殴られる子供ってさ、自虐的になってるじゃん。自分が悪い子だから殴られるとか。あたしはそういうのなくて、かわいくなかった。そりゃ怖かったけど。あいつの前では絶対泣かなかった。プライド高かったのよ」
「虚栄心じゃない?」
「どっちでもいいけど。可哀想じゃなかったんだ。鬱病にでもなれば、かわいげもあったのにね」
「鬱なんてくだらないよ」と僕はそれは保証つきで言える。
「キレるのだって。コントロールの中でキレるのは楽しいけど、頭吹っ飛んでキレた後はすごく疲れる。サイコになりたいとかいう奴は、幸せなんだ」
星華は僕に顔を仰がせ、僕は景色を漫視している。
もうすぐ部屋だ。時刻は五時が近く、すっかり寝坊癖がついた空もかすかに蒼さを浸透させてきている。
「嫌いな奴のこと考えると、みぞおちに錆びた大釘を打ちこんでやりたいとか考えるけど」
イルミネーションが落ちて、束の間降りる闇に星華は視線を放り、僕は彼女の頬を入れ違いに見つめる。
「きっと目の前に来たら、一瞬でやるよね」
「怖いから?」
「そいつといたくないから。切り刻むために触りたくないしさ。いざとなれば、ぱっとやっちゃう。嫌いな奴を殺すのって、そんなもん。愛しすぎて殺したりするほうが、猟奇的なの。ほんとに憎いだけなら、消したいだけで、まわりくどいことしないよ。ほんとの憎悪は黙殺。だから、あたしも千歳と紡麦の苦しさってありうると思う。他人だけど、一応分かる」
千歳はありのままの自分を拒否され、紡麦は存在を否定されてきた。紡麦はそのものだし、千歳も“良い子”ではない部分を憎まれていたと言い換えられる。
いつだか紡麦は、「無視されるのが怖かった」と言っていた。わざと暴力を振るわせる。マジかよ、と思ったものだが、異常な行動ではないのかもしれない。
かすれはじめた人通りに、朝帰り連中が混じり、雑音は気だるく弛緩していく。話し声が薄れて足音がよく響き、ひと晩かけて冷やされた空気が吐息を白く染める。
朝陽は好きじゃない。じめついた地下のように、闇に包まれた夜でないと僕は外では呼吸できない。
「あたしたちって、空を弾かれてるんだよね」
そのへんを言って早めた歩調に手を引っ張ると、星華は足取りを見下ろしてつぶやいた。
「空の下にいるなんて、何にもせずにできるじゃん。でも、あたしたちは、たったそれぐらいもできない感じ。あたしも希月も、紡麦も──千歳なんてまさに」
「………、」
「どこだって、空の下なのにね」
「そう?」
「そうだよ。どこにだって、法律とか束縛ってある。だから、従えないあたしたちは、余計落ちこぼれるんだ」
湿気で冷えこむ路地を抜け、モーテル崩れのアパートに着いた。
僕は星華と手を離し、熱で柔らかくなった指でポケットを探る。「すげえ寒い」と星華は頬に手の甲をあて、眉を顰めている。
屋内に入ると、風が断たれてずいぶんマシになった。
「ねえ」
きしめく階段をのぼっていると、背後に星華の声がして、「んー」と僕は振り返らずに答える。
「もう、十日も帰ってない」
「え、今帰ってきてんじゃん」
「あの男の部屋だよ」
「もう帰るとこじゃないだろ」
「何にもなきゃいいけど……」
僕は星華を横目で振り向き、彼女は雲のようにつかみどころなく嗤う。僕は何とも答えずに正面に向き直り、三階に到着すると廊下に折れた。
手の中でガムを噛むみたいに鍵をかちゃかちゃいわせつつ、「何なら、あいつを銃の実験台にしようか」とか笑うと、暖かな明かりをもらすいつものドアの前で立ち止まった。
【第二十一章へ】
