空の雫-21

来訪者

 不愉快な場所を投げ出してこれまで、僕たちの世界に侵入者はいなかった。
 自分たちを卑しめる外部にぶつくさしつつも、それに触発され、かきみだされることはなかった。
 うまくかわしてきた以上に、しょせん実際、大人は僕たちに目もくれない。僕たちはいつも社会とかけはなれ、殴ったり、こもったり、吸ったり、自堕落に耽っている。
 この地下でなら、もう僕たちは、あの、体力に見合わない運動をしたときのような、乱雑で耳障りな呼吸はしなくていい。すべてはなめらかだ。
 しかし、外界が別次元であれ存在するのは確かで、だから僕たちは奴らへの敵意を怠けることは決してない。
 僕や紡麦、星華はあちらが血迷って関わってきても、毒蛇みたいに後悔を注入して追い返せる。千歳は、それができない。月曜日の雨模様で冷えこんだ早朝、紡麦と星華と部屋に帰ると、明かりがついていなかった。
 蒼暗い空気が冷たい廊下で、僕たちは顔を交わした。千歳が鬱状態のとき暗闇にこもるのは、星華にも伝わっている。
 紡麦が僕を肘で突き、僕は鍵を開けた。ただでさえ寒いのに、小雨に降られ、濡れた頭が刺すように痛んでいる。暖房がついていなかったらきつかったが、さいわい、部屋には温風が行き届いていた。
「千歳?」
 いたわった声で、かたつむりみたいにゆっくりと室内に首を伸ばす。迷彩柄のカーテンとぶあつい雨雲越しでおぼつかないながら、部屋には朝陽がさしこみ、真っ暗ではなかった。
 雨音が静かな蒼い部屋で、千歳は一年前と同じように、頭に毛布をかぶって床に縮んでいた。ベッドにいないことに少し面食らっていると、彼は僕の声に顔も上げる。
 いつもより軽い鬱なのか──いや、それでも、両親が惨殺されるのを、逃げこんだクローゼットの隙間からすべて見てしまった幼い子供のような目で、僕に助けを求めてくる。
 僕はスニーカーを脱ぐと、あれこれ足蹴にし、行きついた彼のかたわらにしゃがみこんだ。
「来たの?」
「ん、……うん」
「寝てなくて大丈夫?」
「………、ごめん」
「え、」
 何が、と言う前に、千歳は僕の首に抱きついてきた。飛びこんできた重みに一瞬動揺しても、彼の腕や吐息の弱い震えに気づき、僕は息をひそめる。
「どうしたの」
 背後に紡麦と星華の物音を聞きつつ、僕は腰をおろして、千歳の細身を毛布ごと受け入れる。千歳は僕にしがみついて、ぎゅっと震えをこらえる。
 僕はしばらく、黙って左肩に乗った頭を撫でていた。ふと、「ごめん」と千歳がくりかえすと、首を振る。
「何かあったの」
「ん、……あの、だ、誰か来たんだ」
「え」
「知らない、人が。最初は、紡麦か星華がふざけてるのかとも思ったけど。違う、でしょ」
「何時頃?」
「零時、くらい」
 思わしくない動揺に眉を寄せつつ、僕はすぐ後ろに来ていたふたりを見上げる。
 零時といえば、僕と星華はモーテルでいいことをしていて、紡麦はすべて吹っ飛ばして踊っていた。モーテルを出てクラブに戻り、僕たちは合流して帰ってきたのだ。
 一応、別行動だった紡麦に訊くと、「やたら楽しげに笑ったりしてたらエックスな俺かも」と彼はトマトカラーのリュックを床におろす。
「笑ってた?」
 千歳は僕の肩に顔を埋めたまま首を振り、「大人の声だったんだ」と思い出したくない過去を語らされているみたいに絞り出す。僕は止めていた慰撫を背中に移して続ける。
「男で、ドアとかたたいてきて。『誰かいるんだろ』って。でも誰か分かんなかったし、名乗らなかったし──」
「大人って、どのぐらいの」
「分からない……、若くはなさそうだった」
「知ってる声じゃ、なかったんだ」
 千歳はうなずいて、もう少し僕に抱きつく。千歳が不安がるものに、僕の胸にもタールのような暗雲が垂れこめる。
 千歳が声を知らないということは、千歳の親ではないのだ。でも、千歳は僕の父親の声は知らない。
 まさか、となくはないおぞましさに、視線や肩が暗くこわばる。何せ千歳が実際どうにかやってここを探りあてた前例があるから、父親がここを突き止められないとは限らない。
「ドア開けた?」
「ううん」
「……そっか。ごめん、ひとりにさせて」
「……僕もごめん。頼りなくて」
「いいよ。頑張ったんだね」
 千歳は僕に顔を上げ、僕は微笑んで彼の柔らかな髪を撫でる。千歳は僕の肩に頬をあて、長い吐息と引き換えに落ち着いていく。
「何だかねえ」と紡麦はつぶやき、星華は笑い、ふたりはテレビの前に行った。千歳は僕に気がかりそうな目を向けても、僕はそれを柔和に制し、彼の震えがやすらぐまで背中を撫でおろしていた。
 思いもよらない話だった。大人がこの部屋を訪ねてくるなんて、初めてだ。そんなことはないと思っていたぶん、黒雲をかきたてられて気味が悪い。無論、ありえない話ではない。大人がこの部屋に近づかないというのは、あくまで精神的な理屈だ。
 僕の親というのも一理だが、ほかにも可能性はある。というか、僕たち四人には、いつ大人がたかってきても不思議はないのだ。踏みこまれる心当たりは、おとぎ話の宝物みたいにどっさりある。
 僕たちにとって大人が敵があるように、大人にとっても僕たちは敵なのだ。更生させたり、引き裂いたり、連れ戻したり、奴らは隙あらば建設的に僕たちを破壊しようとする。
 この銃だってあるしなあ、と上着にひそむ重みを感じる。
 ちなみに、たった今抜けてきた廊下に、それらしい大人の影はなかった。千歳が追いはらった、とは思えないし──
「一時間くらいして、やっとあきらめて」
 僕の質問に、千歳はそう言ってわずかに軆を離し、僕も慰撫の手を下ろす。
「ずっと、ドアをたたいてて。『開けるまでいる』とか言ってたけど。『また来る』って……。怖くて、電気消して。そしたら、また来ても今度は留守と思うかなって」
「……そっか。僕たちの誰かの名前言ったりしてた?」
「ううん。話がしたいって言ってた。訊きたいことがあるって」
「訊きたいこと、か。ひとりっぽかった?」
「たぶん。聞こえる声は、最後までその人だけだった」
「………、隣と間違えたんじゃないだろうな」
 僕の仏頂面に千歳はちょっと咲い、咲わせる気のなかった僕はつい照れる。ちゃんと軆を離すと、「希月たちがいるなら大丈夫」と千歳は肩にずりおちていた毛布も下ろした。
「あ、ごめん、ごはん作ってないや。今から作ろうか」
「無理しないで。『また来る』、か。しばらくは、なるべく部屋にいるようにするよ。僕たち、大人から見たら褒められたもんじゃないんだろうしね。もしひとりのとき来たら、ドアたたき壊さない限り、居留守でいいよ。僕たちも関わりたくないし」
「分かった」
「ほんとにごめん。千歳にだけ関わらせて」
 千歳は緩くかぶりを振り、「外に出られないのは僕だから」と溶暗の瞳をもろく睫毛に隠した。僕はその自嘲には口をつぐんでも、「誰か分かって、白ばくれなくてすむ相手なら追いやるよ」と約束する。
 千歳は瞳に僕の瞳を通すと、こくんとした。
「だから」
 と、僕はもったいぶったBGMのパニックホラーを観始めている紡麦と星華をかえりみる。
「紡麦と星華も、協力よろしく。言っとくけど、お前ら関連かもしれないんだぞ」
 ふたりはブラウン管を向くまま、手を振ったり、なおざりにうなずいたりする。僕はその話半分な悠長さにため息をつくと、「何かインスタント用意するよ」とすっかりほぐれた間接を伸ばしながら立ち上がった。
 上着を脱ぎながら、雨に触れた髪の湿り気も取れているのに気がつく。「手伝おうか」と毛布をのけて立ち上がろうとした千歳はその場に止め、「たまには休んでもらわなきゃ」と僕は明かりをつけると、気晴らしも兼ねてキッチンに立った。

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