空の雫-25

血を絶った日

 迷彩柄のカーテンが濾した蒼ざめた黎明に、ほの暗い室内が浮かび上がっている。
 僕はひとりベッドに座ってポスターにもたれ、入浴や食事の前のさっきの話を考えていた。三人は、床でそれぞれの布に包まってまろやかな寝息を立て、外では鳥の声も目覚めかけている。
 暖房は消されても、暖かさはじゅうぶん澱んでいた。立て膝に額をあてると、くすんだ黒髪がシャンプーの匂いをこぼす。
 シーツに虚脱する手の中には、重たい銃がある。鈍い黒光りを虚ろに左目だけで眺めていると、「希月」と抑えた声に呼ばれて、僕は頭をもたげた。
 紡麦だった。「寝たんじゃないの」と同じ抑えた声で咲うと、「そっちこそ」と紡麦は腰に毛布をまとわせるまま、音を殺してベッドにのぼってくる。そして僕の手の中を見、いつもと違った感じに微笑むと、左隣にもたれた。
「どうすんの」
「どうしよ」
「考えある?」
「やらなきゃって気持ちだけ」
「俺、金で頼めるとこは知ってるけど」
「……うん」
 紡麦は僕の弱い笑みを見つめ、そんなものには頼りたくない心を察したのか含み咲う。揺れた髪が鈴の音のようにこぼす匂いは、僕と同じだけど何か違う。
「むずかしく考えるなよ。いつもそのへんで狩ってる奴を、最後までやって、片づけまでやるだけじゃん」
「え、こいつ使わなくていいのか」
「そっち楽しんでる場合じゃないだろ」
 紡麦は幼さの残る手で僕の手の銃を奪い、重い光をその手のひらに転がす。
「かあさんがどっかで銃を手に入れて、それで自殺しようとしてたことがある」
「えっ……」
「あの人は意気地なしなんで、引き金弾けば全部終わるなんて、都合よかったんだ。銃声がした。俺はかあさんの寝室に行った。そしたら、かあさんは床で泣き崩れてた。銃声が出るだけのおもちゃだったんだ」
 紡麦は両膝を曲げて胸元から笑いを噛み殺し、僕は右頬に蒼白な光をあてながら言葉も声も漂白される。
「長いこと、俺はそれをバカにして嗤った。何度も何度も、すりきれるまでバカにした。かあさんは騙されて死に損ねたみじめさを思い出して、俺をめちゃくちゃにぶった」
 僕には目をとめずに、紡麦は褪せた朝陽に銃をかざし、「本物なのかな」とおとなびて細目になる。
「さあ」とやっと言えると、「偽物だったらお笑いだよ」と彼はこちらを見て、普段通りの悪戯な笑みを見せる。その笑みに、つっかえていた喉が抜けた僕は、「使わないかも」と紡麦の体温を受けた銃を取り返す。
「何となく」
「ま、場合によっちゃ、弾痕残しちゃ足になるかもしんないしね」
 紡麦はシーツに裸足を伸ばす。鳥たちの会話が響いている。
「希月はほんとは、殺人とか暴力とは逆の方向に向かいたいんだろ」
「………」
「でもな、あのグレイ面をやるのは残酷じゃない。むしろ優しすぎる。父親を殺すのと同じだよ。誰かを助けるために殺しまでやるなんて」
「紡麦なら殺さない?」
「私怨で殺すなら命は取らない。そいつの自尊心と感情を死ぬまで踏み躙る」
 僕は特に寝巻に着替えたりせず、ジーンズのままの膝に目を落とす。ゆっくり、毒がまわっていくように関節から体温が薄れていく。
「希月の自由だよ」と紡麦はごそっと肩に毛布をかぶった。
「星華は希月の女だし」
「僕たちの女だよ」
「俺は構いやしないけど、希月とか千歳の家庭を嗅ぎつけられるとやばいよな」
「………、脅される前に脅さないと」
 紡麦は僕を見つめ、今度は僕はしたたかに笑った。紡麦は満足げににやりとしかえすと、「では私は眠いので」とやもりみたいに這ってベッドを降りていく。
「まあ捕まらない程度に遊ぼう」と床に丸くなる前に彼は僕を振り向き、僕は笑んでうなずくと、銃をまくらの下にやってふとんにもぐりこんだ。
 千歳も紡麦も僕が優しいと言うけれど、どこかで僕はそれを、恥ずかしいからとかではなく、受け入れられない。
 単純なことだ。僕は命懸けで自分をかばってくれた人が、やつあたりでめちゃくちゃに砕かれる皿のように壊されるのにうんざりし、血みどろの中に捨ててきた。
 終わっては始まる悪夢に、疲れ果てていた。いったいどうすれば、この重苦しい恐怖を押しのけられるのだろう。
 今日もまた父親がかあさんを怒鳴る。そのたび僕は反応し、怯え、自分はどうすべきか悩む。家族として、放っておけない。助けなきゃいけない。
 本気でそう思うのに、空まわりするばかりで、何もできず膝を抱えて硬直している。見せしめをされるように自分の無力を思い知らされ、感受性がおかしくなろうとしていた。
 相変わらず、僕は手出しされなかった。精神的な自傷は強要されていた。お前は何もできない、役に立てない、口を出しても悪化させる、黙ってじっとして──
 父親のかあさんへの虐待は、僕の自信の摩滅へと、光が鏡から鏡に当たって、変なところに溜まるように作用していた。
 これまでは、まじめに自分で自分を切り刻んできた。でも、もう嫌だった。なぜ僕が、こんな気分を味わわなくてはならない? 自分が何かされているわけではないのに。
 耐えてきた。怯えてきた。かあさんの心を心に映して、共に傷ついてきた。
 だが、そんな投影が何になる? 何かのたしに実ったことがあっただろうか。向き合ってもキリがない。あの父親には何も効きやしないのだ。あいつは一生変わらない。
 こんなのは、水中でマッチを擦っているようなものだ。いくらやっても、明かりは灯らない。
 残酷な物心が、緊迫を虚脱させていく。もういい。もういい。あきらめる。こんな徒労につきあい、自分をちょうどよくばらばらにして、整頓しておくのはたくさんだ。
 家族なんかくそくらえだ。目をそらそう。無視しよう。知らないふりをし、他人になろう。この人たちの家族でいるのは疲れた。
 中学生になっていた。僕はまじめな生徒でなくなっていった。露骨にはグレなかったけど、授業中にぼんやりしたり、非常階段で頬杖をついたり、完璧だった成績を緩やかに下げていった。
 ふまじめになろうとやったわけでなく、何事にも無関心に淡白になっていった。真剣に取り合わない。心を使わない。何も感じない。僕自身が蒼ざめて真っ白になっていく。冷めたひと置きで傍観し、家庭においても、そのぶあつい鎧戸を活用していった。
 食事時に父親がかあさんを殴りはじめても、最後までその場で萎縮したりしない。無言で立ち上がり、茶番は降りて部屋に行く。そのうち食事も一緒に取らなくなり、父親がいるときは部屋を出ないようになった。
 怒鳴り声がしたら、大音量のロックをヘッドホンで聴きながら漫画を読む。空腹やトイレで、うるさいときに部屋を出るハメになっても、ヘッドホンをかぶるまま、何も見えていないように事に一瞥もくれずに用を済ます。
 やがて、何か起こったら家を出て駅前をぶらつき、そのヒマを煙草や盗みでつぶすようになった。
 黙殺を決めこんだ。あちらとこちらを切り離し、膜を張り、自分に被害がなければいいという傲慢な態度を無理やりにでも取った。自分の庇護を醜悪なまでに優先し、保身に徹した。罪悪感はすりむきながらこすりおとした。永年そうして自信をすりへらしていたように。
 目をつぶって当然だと思える無感覚に努力した。優しい心を伐採し、燃やして灰に変えては黒煙で瞳を傷めた。
 父親とは無論口を聞かず、かあさんともほとんど関わりを持たなくなった。かあさんは哀しそうな瞳をしたけど、何も言わなかった。そうさせたほうがいいと思ったのか、そんな日が来るのは分かっていたのか──
 父親は親の面をし、学校でイジメでも受けているのかととんでもない質問で厚顔を晒す。生クリームみたいにべたべたしたムカつく血に、僕はさらに家庭を遠ざかって、夜遊びを知って恐喝を知った。
 中学を卒業した春、僕は試験をすっぽかして高校にすべて落ち、ふらふらと社会を落ちこぼれていた。空の届かない日陰のドブに身を沈め、その冷たさにどんどん脊髄に麻痺が染みこんでいく。
 何が起こっても、もう無視できる。でもそれには、意識がつきまとった。自分で自分に命令し、意志なのにどこか強制されている陰がわだかまる。
 僕は麻痺していたけど、麻痺することに麻痺しきれていなかった。あの最後の日も、けして飛びついたのではなく、無視することができないからだった。
 駅前でのいかがわしい徘徊に飽きて家に帰ると、深夜の三時だというのに誰もいなかった。奥のリビングから橙色の明かりはもれていても、薄暗い玄関は靴がからっぽだ。
 僕は引ったくりで手にいれたポータブルMDプレイヤーで音楽を聴いていた。イヤホンはゴミ箱にやって、万引きしたヘッドホンをつけている。スティックリモコンで音楽を止めると物音もなく、それでもそろそろとリビングを覗くと、やはりがらんとしていた。
 父親は出張があるとしても、かあさんは夜は一年じゅうここにいると言っていい。キッチンやバスルーム、嫌悪感をこらえて両親の寝室も覗いたが、誰もいなかった。部屋間違ってないよな、とドアを開けてきた鍵を見下ろし、食器棚の配置や祖母の仏壇も確認する。
 かあさんは一年じゅうここにいる。例外は、実家や友人の元へ逃げ出したときだ。僕は置いてひとりで逃げたのか。心の中が白くのっぺりとし、何か苦しく抑えつけられたが、僕は自分の感情に口をつぐんだ。
 食事の用意はされておらず、缶づめで腹ごしらえした僕は、自分の部屋のドアを開きかけて、ぎくりと閉めた。明かりがついていた。消し忘れだろうか。違う気がする。
 みぞおちに不安がどよめく。何だ。僕の部屋にいるのか。何が。中に耳を澄ましても、心臓がうるさい。深呼吸して心臓からなだめると、喉を殺し、耳だけで室内を窺った。
 何も聞こえない。そっとドアを開けると、つくえやベッドの室内には、突っ立つみたいに白い明かりが照っているほか、何もなかった。
 何だよ、とほっとして後ろ手にドアを閉めた僕は、ずいぶん使っていないつくえの上に、紙クズがあるのに気づいた。くしゃくしゃに丸められ、ホコリをかぶる辞書の前に転がっている。あんなものを放った記憶はない。
 怪訝に歩み寄って拾い上げ、手をアイロンにしてつくえに伸ばすと、それはかあさんの字による僕宛ての手紙だった。

『希月へ
 あなたをこんな環境で成長させたことを、本当に心苦しく思っています。私がもっと強くて、相手に対して物分かりが良ければ、こんなことにはならなかったでしょう。何も関係ない、生まれてきただけのあなたを巻きこんで、本当にごめんなさい。高校にもゆっくり行かせてあげられないなんて、私は母親失格です。
 だから、希月に私と違う強さがあるなら、早くこの家を逃げなさい。私とお父さんでは、とてもあなたを立派に育てられません。こんな親で申し訳なく思っています。でもあなたまで私のような人間になる必要はないのだから、外に向かえるようになったのなら、もうここは捨てなさい。
 かえって引き止めるように感じさせたらごめんなさい。できることなら、希月とおじいちゃんのところで静かに暮らしたいです。でも、もうそれは叶わないことでしょう。だからせめて、希月だけでも穏やかな生活を手に入れてください。
 お母さんはいつまでも希月を思っています。あなたがいたから、生きてこれました。ずっと私の味方でいてくれて、ありがとう。』

 最後に、見慣れないかあさんの名前があった。僕は皺に波打つ文面を、たたずんで見つめていた。
 喉が軋んで痛み、ぼやけた視界から、かあさんの名前に雫が飛び散る。
 何で。何でかあさんは、そこまで僕を想えるのだろう。昔の僕ならまだしも、もう無視して取り合わなくなった僕まで。
 どうしてかあさんは、そんなに強いんだろう。弱いのは僕のほうだ。だからつきあいきれなくなって、外に逃げ出した。
 きっと手紙をゴミみたいにくしゃくしゃにしたのは、父親だ。かあさんはどこかへと逃げ出したのだ。また追いかけてきた父親に、引きずり戻されるのは分かりながら。
 父親はこの手紙を見つけ、いきりたって丸め、あちこちの明かりはつけっぱなしにしたまま、案の定追いつめにいったのだろう。それがいつ頃かは分からないが、帰ってきたら父親はまた──いや、これまでになくかあさんをたたきのめすに違いない。
 子供の頃のように、かあさんを守らなくてはならない、守りたい想いがよみがえってきた。しかしそれは、初めてかあさんが親の権利を行使してくれた言いつけに反する。
 早く逃げなさい。
 もう捨てなさい。
 そのための資金があったりはしない。あるいは置いてあったのだが、父親がもぎとっていったか。
 僕はその夜、荷物をまとめて家を出た。かあさんにひと言書き残そうかとも思ったが、しなかった。僕は何の痕跡も残さずに血を絶ち、しばらく電車でふらついたのち、この地下に飲まれた街にもぐりこんだ。

第二十六章へ

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