空の雫-29

牙を剥く

 グレイをあいだに置いて、三メートルもないところに星華がいる。本当に、野生に還ったみたいだ。
「連れてきたよ」
「見りゃ分かる。邪魔だからどけ」
 アルコール中毒者みたいに、声がしゃがれている。グレイは僕にあきれた一瞥をくれると、右手へと身を引いた。
 僕と星華は、ひと月ぶりに向き合った。ばさつく髪をよくはらえず、彼女の眼はさながら草影から獲物を監視する猛獣だ。
「久しぶりだな」
「僕にはそうでもないよ」
「あんたのおかげであたしはこのざまだよ。いい気味だろ」
「仕事もせずに食っていけるご身分なんて、うらやましいよ」
「ざけんなよっ。あたしがどんな気持ちで、あんたたちに裏切られたこと理解していったと思う?」
「謝ったじゃん、悪いことすると思うって」
「あんなんじゃ足りねえんだよっ。今ここで土下座されたって許さない」
 僕は無造作にこまねき、「そんなの別にしないから」と鼻で嗤う。
「何、そんな聞かなくても予想してた程度の愚痴を聞かせに、わざわざこんなとこまで呼んだのか。バカじゃないか」
 星華はさらに言い返そうとしたが、唇を噛んでショートブーツに目を落とすと、「あんたに言っておきたいことがある」となびく髪に吐息をもつれさせる。
「『くそったれのゲス野郎』?」
「あたし、あんたの子供を妊娠してる」
 僕は息を飲んで目を開き、しかし、それよりも早くグレイが目を剥いて反応した。
「何だって!?」
「てめえには言ってない、」
「冗談だろう。妊娠? いつ調べたんだ。この一ヶ月、お前は──」
「あんたに売られる前に分かってたんだよっ。でも、希月に嫌われたくなくて言えなくて、」
「なぜ早く言わなかった。そんな子供はさっさと堕ろせ」
「嫌だ。あたし、子供を生む。生んで利用してやる。あんたの子供にさんざん復讐してやるから、」
 星華はグレイの肩越しに、突っ立つ僕に唾を吐きかける。
「てめえの父親はクズだって、何度も言い聞かせて育ててやる。それでいつか、あんたの目の前に連れていってやる、」
「そんなことをしてもしょうがないだろう。今すぐそんな子供は捨ててしまえ。こんな男の子供なんて、ろくなものにならない」
「そうだよ、だからいいんだ。てめえの血は腐ってるってことを、このガキで証明してやる。あたしを裏切った罰だ、あんたの子供に生きることを強要してやる、」
「星華!」
 グレイは哀願じみた声で、星華の肩を鷲掴む。
「落ち着け。頼むから。何でもする。何でもしてやるから、そんな子供は生まないでくれ」
「あんたに迷惑がかかるかよ。あたしの勝手じゃねえか」
「君は子供を育てることを分かってない。だいたい、養育費はどうするんだ」
「お前が出せよ。あたしの全部が欲しいんだろ。ガキの面倒もあんたが見ろ」
「冗談じゃないっ。僕が欲しいのは君だけだ。子供なんか邪魔だ。ましてほかの男の子供なんて──」
 暴れて金属バットみたいに脚を振り乱す星華に、グレイは慌てて一歩引く。
「お願いだから堕ろしてくれ。何でも頼みを聞こう。だから」
「あたしを自由にしろ」
「そっ、それはダメだ。ほかの──」
「永遠に自由にしろなんて言ってねえよ。今ここであたしをほどいて、そいつを思いっきり引っぱたかせろ」
「僕が代わりにやろう」
「あたしがたたく! 一発殴らせたら、それで……堕ろしてやる」
 グレイはわずかに肩を硬くし、たたずむ僕を振り向いた。その目には初めて、陰気な憎悪が表出していた。
「とんでもないことをしてくれたな」と彼は渋い声で毒づき、乱痴気を傍観して冷静を取り返した僕は、口元を笑みに引き攣らせた。
「構いませんよ」
「どういう意味だ」
「僕だって、そんなガキには生まれてほしくないですしね。殴られてそれがチャラになるなら、おとなしく殴られます」
「てめえっ、」
「落ち着け。──本当に、きちんと殴らせるんだな」
「ええ」
「よし。星華、分かったから、その子供は必ず堕ろすんだぞ」
「早く外せっ」
「いいな! 約束しろ」
 息を弾ませていた星華は、グレイを睨みつけ、「分かった」となめした声ではっきり言った。
 グレイはポケットをさぐって、星華の手錠に鍵を伸ばす。僕は腕組みを解き、肘で挟んで少し熱が通った指を、冷たい空中に下ろした。
 かちゃかちゃとひかえめな音が響き、グレイは星華の腕を下ろして手錠を抜く。「ほら」とグレイは再び右手に身を引き、星華は待ち受ける僕に疾風のように突進してきた。
 彼女が振り上げてきた手を、僕は左手でつかみ、すぐさま背後に振りやった。そして一瞬も置かずに、ポケットから取りだした銃を右手に構え、それをくっきりグレイの頭に向ける。ついで、星華の手首から離した右手も添えて、安定をはかった。
 刹那、背中にナイフが刺さってもおかしくないことは覚悟した。
 でも、背中にあたったのは、星華の胸のふくらみだった。「希月……」と星華は僕の肩で声を震わし、「あとでな」と僕はグレイから目をそらさずに少し咲う。
「な、何だ。何のつもりだ」
 狼狽に吐息の白さまで痙攣させながら、グレイは僕と星華を凝視する。僕は笑みを引き締め、グレイに耐性でなく敵意を張って目を向けた。
「僕たちの勝ちみたいだな」
「な、何──」
「ゲームだったんだ。あんま性に合ってなかったけどな」
「何の話だ」
「あんたが星華をおもちゃにしてるみたいに、僕たちもあんたで遊んでみたんだ。分かるだろ。全部、あんたをハメる芝居だったんだ」
「芝居──」
「こんなにうまくいくとは僕も思ってなかったよ。思ってた以上に、あんたたちって間抜けみたいだ。こんなに、予想のまま型通りにしか動けないなんてな」
 僕は星華はその場に落ち着け、銃を構えながらグレイににじりよった。グレイはまっすぐ迫ってくる僕に、左右を喪失したようにビルの壁にあとずさって、壁に行き止まる。
「あんたのクリアが星華の人格破壊なら、僕たちのクリアはあんたの破滅だ」
「ま、待て」
「星華は僕たちの仲間だ。僕の女だ。汚い手え出しやがって」
「僕は、」
「殺してやる」
 安全装置を抜いた。そして、一メートルもないところでグレイの額に狙いを定めたときだ。
「希月!」
 唐突な星華の悲鳴に、僕は思わず振り返った。すかさず、グレイが拳をかざしてきた。かろうじて身を引いてかわした。
 グレイの予想外に機敏な攻撃に、一瞬、その悲鳴はつらすぎて奴と密通した星華の芝居かとも思った。違った。彼女は見憶えのある茶髪の若い痩せた男に、背後から首を取られて喉にナイフをあてがわれていた。
「よくやった」
 満足そうにゆとりを取り返した声でグレイは言い、僕ははっと銃を持ち直して発砲した。だけど、秒速の衝撃と音が腕に響き、ビルの壁の表面にヒビが入っただけだった。グレイはかすりもしなかったそれをかえりみて僕を嘲笑い、僕は唇を噛んで震えを抑えつけて、なおも銃を構える。
「やめておいたほうがいい」
「星華を離せ」
「安心しろ。殺しはしない」
「気づいてたのか」
「いや、残念ながら君の言う通りだ。何も読めていなかったよ。だが、やはり都合がよすぎるとは感じていてね」
 僕は、星華を取り抑える男を短く見た。間違いない。星華と暮らしていたヒモ野郎だ。
 あいつはグレイとつながり、監視役をしていると星華も話していた。僕は歯噛みして、計算外の状態に心臓から混乱する。
「銃を降ろせ」
 僕はグレイの冷酷な勝利の目を睨めつける。
「彼女は私のものだ」
「僕のだ。渡さない」
「君たちのすべてを公開していいんだね」
 僕は汗ばむ手の中に銃を握りしめ、グレイの薄笑いを強く見返す。
「証拠はあるのか」
「証拠なんか簡単だ。君が殴った相手、君が騙した相手、探せば少なくないんだろう」
「何年か豚箱に入るだけさ」
「そうかな? きっと親に連絡が行くだろう」
 愉しげに切札をぶらさげたグレイに、僕は瞬発的な憎悪に心を焼かれる。
「君の相棒も、一緒に暮らすいとこも同じ運命になる」
 こめかみが痛むほど、歯を食い縛った。しかし、ぜんぜん頭が働かない。切り抜ける方法は絶対あるのに、思いつかない。
 ここで素早くグレイを撃つか。萎縮していないこいつに正確に当たるだろうか。当たったとして、星華に情などないヒモ野郎が彼女の喉を裂いたら。あるいは、逃げようと駆け出した頭を撃つとき、弾が切れていたら。
「星華を渡せば、このまま詮索はしないでおこう」
 餌で犬を手懐けるようなグレイの笑みに、僕はいったんコンクリートに目を落とし、ついで星華を見た。息苦しい沈黙に白い息がたなびき、ガラスの瞳は僕をじっと映す。
 まぶたに力をこめ、思いきって撃とうとしたとき、「希月」としゃがれたのは本物であるらしい星華の声が割って入った。
「もういいよ。ここまでやってくれて、嬉しかった」
 僕はグレイからも目を離さないまま、星華を見る。
「あたし、こいつと行くから」
「ふざけんな。ダメだ。行かせない」
「行かせてよ」
「嫌だ」
「行くっつってんだから、行かせろよっ」
 僕は眉間に皺を刻み、無表情なヒモ野郎の腕の中で息を荒げる星華を向く。
「もう、一度でたくさんなんだよ」
「え……」
「ほんとにこいつは型通りだよ。またあたしの仲間を、警察とか親でめちゃくちゃにしようとして」
「………、」
「もういい。もうあんな、みんなを裏切ったような気持ちは、一度でいい」
 星華は僕をまっすぐ見つめ、その瞳には、どこかでは踏み切ってほしい期待の揺るぎもなかった。僕はどうすればいいのか、つい視線を何にもない空に下ろしてしまう。すぐグレイに気を張った目は戻したものの、断崖に立つ僕には、選択はふたつしか残されていなかった。
 いっそこめかみを撃って逃げるか、それか──がしゃん、と銃がグレイの足元に投げ捨てられる。グレイは満ち足りた笑みで腰をかがめ、僕の悔しさと情けなさに硬直した視線の前で、銃を手に取ろうとした。
 そのときだった。
「お取りこみ中すみませんが」
 突然の声に、僕たちは一斉に目を向けた。
 右手にある通りの赤い影から、人影が近づいてきている──無頓着な笑顔で現れたのは、紡麦だった。僕は彼が右手に構えているものに目を開く。
 銃だ。
「動くな、って感じ?」
 紡麦はにこやかに笑いながら、何のためらいもなく天に一発発砲した。その突拍子もなく、大きく反響した音は、撃った本人のあっけらかんとした笑顔のせいで、運動会のピストルみたいにいやに明るく聞こえた。
「動いたら、今度は頭に撃つよ。ゾンビだって頭撃たれたら死ぬんだから、やっぱり死ぬと思うよ」
「き、君は──」
「あんたはあと。ヒモのおっさん。星華を離しな」
 紡麦はまっすぐヒモ野郎に銃口をむけ、彼は顰眉してグレイに目を向けた。グレイは今度こそ狼狽え、ぶれた画像みたいに白黒する目に舌を空回りさせている。
 その隙に、僕はグレイが取り上げ損ねた銃を奪い返した。グレイがはっと僕を見たときには、僕は狂いなくその眼前に突き返していた。
「星華を離させろ」
「こ、こんなことをして、ただで済むと思ってるのか」
「ただですまさない奥の手が残ってるのか。なら、とっとと使うべきだろうな」
「………っ、」
「星華を離させろ」
 グレイは頬を歯軋りにひくつかせながらも、僕の肩越しにヒモ野郎に目配せした。視界の端にヒモ野郎が星華を解放し、すぐさま逃げ出そうとするのが映る。
 だが、紡麦がその腕をつかんで、前のめりに転ばせた。そして奴が落としたナイフをすかさずつかむと、「乗って抑えててね」と腰が抜ける星華にナイフを握らせて、僕の隣にやってくる。
 僕は銃を構えるまま、紡麦と目を交わした。
「遅いんだよ」
「俺は真打ちだから」
「バカ。車は見つかったのか」
「地味な白いやつ」
 僕はまっすぐグレイの額を狙い、紡麦も脇から銃を向ける。グレイはその場に密閉されて、脂汗に凝り固まる。
 僕はその泣きかけている目に笑みを映した。
「死ぬ前にいいこと教えてやる。あんた、僕たちがホテルで星華を返したとき、その部屋でさっそく星華をやっただろ。言い訳はいらないよ」
 背後に聞こえる罠にかかった動物みたいにもがく音に、「動かないで」と強気を取り戻した星華の声が重なる。
「あの部屋には、カメラが仕掛けてあったんだ」
 グレイの血走った目が、こぼれおちそうにひんむかれる。
「分かるよな」
「お、お前ら──」
 僕は肘をしっかり伸ばし、べたついた額に銃口を押しつける。
「あんたが何にもないって判断した星華が持ってたリュック。確かに着替えしか入ってなかった。でも、あの服に星華はあんたの目を盗んで事が映ったカメラを包んで、チェックアウトのとき行きたがったトイレに置いていったんだ。しっかり映ってたよ。明日、僕たちはプリントにしたそれをばらまくつもりだ。あんたの家族、会社、近所、娘の学校にもな」
 グレイの目が絶望に穴を空けて、ついに涙をあふれさせる。何か言おうとしているのだろうが、もう声帯が衝撃でイカれて声が出ない。僕は引き金にかける指に力をこめた。
「ショックで蒸発したい気分だろ? 今、そうさせてやる」

第三十章へ

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