イニシアル

 家を出てくるとき、まだ午前九時だったから、「どこか行くの?」とおねえちゃんに不思議そうに声をかけられた。
 どきっとしてスニーカーの靴紐を結びなおす手を止め、ぎこちなくうなずく。「何かおかしいよ?」と顔を覗かれると、「何でもないよっ」と僕は頬を染めつつ、その場を立ち上がった。それに目をしばたいたおねえちゃんは、すぐに察したらしく、噴き出しながら「デートいってらっしゃい」と僕の頭を撫でた。
 デート。まだ、それは、はっきり、分からないのだけど。
 その説明も恥ずかしくて、「いってきますっ」と僕は振り切るように外に出る。まっさらな青空から、太陽がまばゆく射しこむ、初夏の陽気だった。デート、という言葉を内心繰り返しながら、深実くんは僕と出かけるのどう思ってるのかな、なんてそわそわしてしまう。
 連休後半の五月、僕は高校の最寄り駅で、後輩の深実信哉くんと待ち合わせをしていた。学校の外で会うのは初めての、僕の好きな人。深実くんの気持ちは、きっぱりとは聞いていないけど、たぶん僕にかたむいている。だから、外出以上デート未満なのだ。
 そう、まだデートではない。たぶん。休日で混んでいた電車を降りて、改札に深実くんのすがたを見つけると、「おはよう」と声をかけた。深実くんは僕の声にぱっと振り返り、「おはようございます」と優しく微笑んでくれる。
 深実くんも僕も、今日はもちろん私服だ。深実くんはモノトーンのラグランTシャツにジーンズだった。僕はベージュのシャツと黒のスラックスだ。制服みたいかもしれない、と思ったけど、ファッションなんてよく分からなかった。
「ごめん、遅かったかな。待った?」
「いえ。俺が早く来てただけですし」
「そ、そっか。あ、今日は誘ってくれてありがとう」
「迷惑じゃなかったですか?」
「ぜんぜん。嬉しい」
「よかった。急に言い出したの、悪かったかなあって。でも、連休ぜんぜん会えないの、寂しかったから」
 深実くんのはにかんだ顔を見上げて、「僕も」と照れながら言う。スマホで連絡は取っていても、深実くんに早く会いたくて、連休がもどかしかった。このあいだの春休みも、本当は会いたかったけど勇気が出なくて。
 だから、こうして校外で会えるのは、春休みより深実くんに一歩近づけたみたいで嬉しい。
「えと……どこか、行くの? 適当に歩く?」
「あ、少し電車に乗るんですけど、水族館とか」
「水族館」
「いや、……その、涼しいところがいいかなと思って」
「そっか。うん、行きたい」
 僕がにっこりすると、深実くんもほっとしたみたいに咲った。
 そんなわけで、僕たちは電子案内板で行き先への電車の時間とホームを確かめると、ICカードで改札を抜けた。どこに行くかどうか、深実くんはちゃんと考えてきてくれたのに、僕は会うことでいっぱいだったな、なんて反省する。
 やってきた電車は、混んでいたけど冷房がきいていて、暑苦しくはなかった。ドア付近で僕がつかまるところがなくゆらゆらしていると、「つかまってないと危ないですよ」と深実くんは僕の手を取って、自分の腕に置いた。
 深実くんの筋肉と体温が手のひらに伝わって、どきどきして頬が熱っぽくなってしまう。それでも僕がきゅっと深実くんの半袖の裾をつかむと、深実くんも視線を揺らして頬をちょっと染めていた。
 到着した駅から十五分くらい歩くと、風に潮の香りが混ざっている気がした。「海あるの?」と訊くと、「海のそばにあるんです」と深実くんはスマホにマップを表示させている。
 マップの矢印通りに歩いていくと、波の音も聴こえてきて港に到着した。バス停に並んでいる列があって、そこから出るシャトルバスで水族館に送迎してもらえるらしい。並んでいるのは、家族連れやカップルが多くて、男ふたりというのは僕たちだけだった。
 太陽は南中に近づこうとしていて、額の汗をぬぐって「お腹空いたかも」と僕が言うと、「着いたらシーフードレストランありますよ」と深実くんはスマホの画面を覗かせてくれた。水族館のホームページで、透き通る青を背景に施設の案内がある。「食べ物、アレルギーとか大丈夫ですか」と心配してくれる深実くんにこくんとして、「深実くんも大丈夫?」と訊いてみる。
「アレルギーというか、シーフードだとエビがちょっと」
「え、じゃあエビフライとかもダメなの」
「エビフライは何とか食べれます。寿司のエビは無理ですね。ピラフとかグラタンに入ってるのは、はじきます」
「僕、エビ好きだけどなあ」
「じゃ、入ってたら代わりに食べてくださいね」
 僕は苦笑しつつもうなずいて、嫌いな食べ物ってかわいいかもしれないと思った。僕がそう思っているのに感づいたのかどうか、深実くんはやや決まり悪そうだった。
 シャトルバスがやってきて、午前中に帰る人もいないのか降りてくる人はおらず、順番に乗車になった。補助席も出して、けっこうぎゅうぎゅうにみんな乗ってくる。僕と深実くんは、並んで座ることができて、隣り合って近い肩に心臓がざわざわした。冷房がかなり効いていて肌寒い。
『到着は十二時になります』というアナウンスのあとにバスが動き出して、窓際の僕は外の景色を見た。海沿いの道を走ったあと、港から伸びていた橋を渡って、人工の島のように海の中に浮かんでいる水族館に到着する。
 バスを降りると、すぐそばに綺麗な白い砂浜があって、波打ち際の水がきらきらと透けていた。さくさくと足音を立ててそちらに駆け寄ると、岩場の隙間には魚が泳いで、小さなカニやヤドカリが生息している。海風の匂いが塩からい。「すごいなあ」と前髪を吹かれながら僕がまばたいていると、「あんまり海とか来ないんですか?」と深実くんが隣に来た。
「うーん、子供の頃は海水浴とか連れていってもらったけど、小学校までだなあ」
「俺は親の実家が海の近くなんで、夏は今でも泳ぎますよ」
「そうなんだ。いいなあ」
「そこはこんな砂浜じゃなくて、もっと岩がごつごつしてる感じですけど、水は透き通ってて綺麗です」
 行ってみたい、と言いそうになったけど、重いかな、と思い直して「写真とかあったらいつか見せてね」と言った。深実くんはこくりとして、「今年帰省したら、いっぱい撮ってきます」と約束してくれた。
 そのあと、学生チケットを二枚買って、案内パンフレットをもらうと水族館に入った。入口は優しいピアノのBGMが流れていて、洞窟みたいにいくつかに進む道が分かれている。案内によると、アクアリウムだけでなく、海洋生物の解説ミニシアターやペンギンの氷山、イルカのプールもあるらしい。
「とりあえず食べますよね」と深実くんに言われて、「そうだね」と僕は照れ咲いながらうなずく。そんなわけで、テラスに面したレストランに向かった。
 レストランは昼食時で混雑していたけど、席はあった。ウェイトレスが置いていったメニューは、思ったよりぶあつくて、いろんな海鮮料理の写真が鮮やかに掲載されている。パスタ、グラタン、カレー、オムレツ──僕はカレー風味のパエリアに決めて、深実くんはチーズリゾットにした。もちろん、シーフードのパエリアやリゾットだ。「エビ大丈夫?」と問うと、「入ってたらよけます」と深実くんはまじめな顔で言った。
 まずはアクアリウムを見たいとか、イルカのショウがあるらしいとか話していると、やがて料理がやってきた。案の定、リゾットにはボイルした小エビが入っていて、深実くんはスプーンの先で隅によけている。「食べようか?」と気にすると、「何か俺、かっこ悪い……」と深実くんがしゅんとして、「僕もねぎが食べられないから気持ちは分かるよ」と僕は咲い、エビは食べさせてもらった。
 食事のあと、僕たちはアクアリウムを見てまわることにした。天井も床もガラス張りで、青い空間を魚がたくさん泳ぐトンネルはすごかった。小さな水槽が窓のようにいくつも続く中には、タツノオトシゴが飄々と浮かんでいたり、幻想的なクラゲが水中を上下したりしている。照明もほの暗くなる奥のほうになると、アザラシの水槽とか、サメの水槽とか、壁いっぱいのいろんな大きな水槽で生き物たちが泳いでいた。
 スマホで時刻を確認した深実くんが、「イルカのショウ、十五時からですよ」と言って、子供っぽいかなあと思ったけど、正直に「見たい」と僕は答えた。そのままアクアリウムコーナーを進むと、引き返さなくても、最初のピアノが流れる入口に戻ってきた。
 イルカのプールに続く道に進むと、屋外に出た。階段状の観覧席が囲むプールは、透けていてイルカの水中のすがたを見ることができる。下に降りたほうがイルカをそばで見れるけど、水飛沫に注意と書いてあったので、上のほうからプールを見下ろした。
 さっきサメを見たけど、やっぱりあの鋭い眼つきに較べたら、イルカはかわいいなあと思ってしまう。ショウが始まるまで、深実くんとそんなことを話していたときだった。
「あ、やっぱり深実だ」
 どきんとして声のしたほうを見ると、同じ高校生くらいの男の子ふたり、女の子ふたりの四人連れがこちらに手を振っていた。「あ、」と深実くんは彼らを知っているような声をもらし、クラスメイトだったらまずいかな、と僕は少し畏縮する。
「何? お前もデート?」
「えっ、いや……」
「あれっ、隣、森村もりむらくんじゃないよ」
「え、マジ」
「誰?」
「何だよ、深実といえば森村だろ」
 森村、くん。って──初めて聞く名前だけど、すぐ分かった。
 きっと、深実くんの親友だ。深実くんの、……好きな人。
「何だよー、森村とはもうつきあってねえの?」
「つきあうとか、……そんなんじゃないって、いつも言ってただろ」
「似たようなもんだったじゃん」
「深実くんと森村くん、高校も一緒だったよねえ?」
「喧嘩でもしたかー?」
「何でもないよ。お前らは何?」
「ダブルデートじゃん。あたしとつじ由海ゆみ関口せきぐちで」
「え、つきあってたっけ」
「高校になってからなー」
「同中で溜まってたらいつのまにか」
「……そうなんだ。おめでとう」
「あんがと。で、その人は? 今の高校の友達?」
「あ、……えと。そう、だな。友達だよ」
 深実くんをちらりとして、そうだよな、と心がつきんと痛んだけど、我慢した。
 友達。親友じゃないし。まさか恋人じゃないし。そう、僕はまだ深実くんの友達なのだ。承知していたはずなのに、急にもやもやと哀しくなって胸がきしむ。
 どうやらその人たちは、深実くんの中学時代の知り合いのようだった。早くどこかに行ってくれないかな。そう思っていたのに、彼らはぞろぞろと一段だけ降りて、僕たちの前の列の席に座った。そして、あれこれ深実くんに「森村くん」のことを訊く。深実くんは僕が気になる様子は見せても、彼らを追いはらうこともできないようで、曖昧に答えていた。
 イルカショウが始まると、彼らは腕を掲げてスマホで撮影ばかりしていて、背の高くない僕はやや視界を邪魔された。そして結局はうつむいてしまい、最後のほうは周りの歓声を聞くだけだった。
「このあと、深実くんたちは何観にいくの?」
 イルカショウのあと、そう訊いてきた女の子に「あとは帰るだけ」と深実くんは言った。え、と僕は深実くんを見上げたけど、深実くんは僕を見ない。「えー、シロクマ一緒に見ようと思ったのにー」とか何とか言っている彼らに、「また連絡するよ」と深実くんは笑みを作って、それから僕の肩を軽く押した。
 僕は黙って、深実くんの隣を歩いた。観覧席から出口へと流れる人混みに紛れて、屋内に戻ると、深実くんは案内板を見まわしながら進んでいく。
 こんな感じでおしまいなのか、と落ちこんでしまっていると、不意に「ペンギンさーん」という子供の声がした。え、と顔を上げると、人だかりの向こうにペンギンがぺたぺた歩いている氷山があった。
「か、帰る……んじゃないの?」
 僕がおそるおそる訊くと、深実くんはびっくりした顔で「もっと見ていきますよ」と言った。僕がほうけた顔になってしまうと、深実くんはさっきの自分の台詞を思い出したのか、「帰るって言わないと、あいつらついてきたかもしれないし」と説いてくれる。
「あいつらは、何かすみません。嫌な奴らではないんです」
「……中学時代の友達?」
「まあ、はい。すごく仲良かったわけじゃないんですけど」
 仲が良かったのは「森村くん」だよね、と言いそうになったものの、皮肉っぽいのでこらえた。深実くんは僕をかばいながらうまく最前列に来てくれて、ペンギンを眺めさせてくれた。ちょうど手元にペンギンの種類の解説文があって、それを読んでいると、そばの家族連れの会話が聞こえた。
「知ってるかー? ペンギンって結婚するんだぞ」
「結婚式するのー?」
「この子が好きだって決めたら、一生その子ひと筋なんだ」
「えー、すごーいっ」
「浮気もしないのよね。ふふ、パパはしないかしらねえ?」
「しないに決まってるだろっ」
「パパとママもペンギンさんみたいにずっと一緒?」
「そうねえ。あなたがいればそうだと思うわ」
 解説文にも、同じことが書いてあった。ペンギンのつがいは、夫婦になったら、そのほとんどが生涯を連れ添う。僕は隣の深実くんを盗み見て、深実くんとそうなれるのかな、と思った。もし、深実くんの心から「森村くん」が消えなくて、ずっと僕の片想いだったら──
「ペンギンは、先輩と見ておきたかったんです」
 ふと深実くんがそう言って、僕に微笑んだ。その笑みにどきっとしながら、「何で?」と僕は首をかしげる。「あとで話します」と深実くんはなぜか照れたように咲って、ペンギンに目を戻した。僕も水辺を歩くペンギンたちを見て、深実くんと一生いられたら幸せだなあ、なんて考えた。
 そのあと、遅くなって混みあう前に、おみやげのショップに向かった。僕と深実くんはいったん別れて、それぞれおみやげを選んだ。
 おみやげ、誰に買っていけばいいだろう。家族と、親友の鈴里、それから壱野くんかな。あれこれ悩んだけど、両親にはいろんな魚のかたちをしたクッキー、おねえちゃんには水面とクラゲがプリントされた缶ミラー、鈴里にはイルカのシルエットが描かれたハンドタオル、壱野くんには同じくイルカのシルエットがデザインされたペンにした。
 会計を済まして深実くんを探すと、深実くんはストラップ売り場で真剣に悩んでいる。「森村くん」に買っていくんだろうなあ、とか思ってひとりで傷ついてしまったけど、首を振って心を抑えると、「深実くん」と声をかけた。
 深実くんは僕を見て、「先輩の名前って、夕絽さんですよね」と言う。僕はうなずいてから、深実くんが見ていたストラップがイニシアルの入ったものだと気づき、慌てて「僕には気を遣わなくていいよ」とつけくわえた。「記念が欲しいんです」と深実くんは“Y”のストラップを選ぶと、「買ってきます」とレジに行ってしまった。
 深実くんが選んでいたストラップは、藍色のガラスとシルバーでできたペンギンのチャームがついていた。ペンギン、とその意味に首をかしげていると、深実くんが戻ってきて、僕たちはショップをあとにした。
 時刻は十六時をまわっていて、時刻表によると、ちょうどシャトルバスは出てしまったあとだった。三十分くらい時間がある。「シアターでも観ましょうか」と深実くんがミニシアターが二十分くらいなのを調べて言ってくれる。僕はこくりとして、深実くんとシアタースペースに向かった。
 座席が並んで人と共有して観るシアターでなく、ボックスの中でふたり掛けの席で見る、本当にミニシアターだった。内容は『海洋生物の始まり』とかちょっと堅苦しいものだったけど、特にお金は必要なく再生ボタンを押す。
 深実くんと並んで座って、僕はプランクトンの解説から始める画面を眺めていたけど、ふと手に熱が触れてどきんとする。深実くんが手を重ねて、そっと僕の手を握る。僕の心臓はバカみたいにどきどきして、解説が聞こえなくなってしまう。
 深実くんの表情を確かめたいけど、恥ずかしくて顔を上げられない。どうしよう。手を握り返したいけど、力が入らない。深実くんの手の柔らかな体温に、僕の心はいっぱいにふくれあがっていく。
 好き、なのに。僕はもう、こんなに深実くんが好きなのに。深実くんの気持ちは、まだ──
 その続きに呼吸が苦しくなって、泣きそうになった。息遣いが震えてしまい、深実くんが僕を見る。
「……先輩」
「あ、……ごめん、」
「いえ。嫌でしたか、すみません」
 深実くんがそう言って手を離そうとしたので、僕は慌てて深実くんの手を握った。ついで深実くんの腕にぎゅっとしがみついて、その肩に顔を隠す。泣きそうな顔を見られたくなかった。深実くんはとまどったようだけど、優しく僕の頭を撫でてくれる。
「深実くん……」
 好き。君が好き。ほんとは、待てないくらい好きなんだ。君が僕を見てくれるまで待つって言ったけど、待っているのはつらいくらい、僕は君が──
「先輩」
「……ん」
「これ、もらってくれますか」
「え……」
 小さく顔を上げると、深実くんは小さな紙ぶくろをさしだしている。さっきの“Y”のペンギンかな、と僕は受け取って封を開いた。すると、中身はやっぱりあのペンギンだったけど──
「……これ、“S”だよ?」
「はい」
「えと、さっき“Y”を……」
「あれは俺のです」
「え」
「先輩には、俺の名前を持っててほしくて」
 S。……深実信哉くん。シンヤの“S”──
「先輩は、俺のだから」
「えっ」
「名前書いておきたいぐらい、誰にも取られたくないんです」
 ぽかんと深実くんを見つめた。深実くんはちょっと困ったように首をかしげ、「重いですか」と訊いてくる。慌ててかぶりを振って、ペンギンを手のひらに包む。そして、「嬉しい」とぽろりとつぶやいてしまう。
「さっき、……友達、って言われたから。まだ、僕はそうじゃないんだなあって……」
 深実くんが僕を見つめる。僕ははっとして、「ごめん、」と急いでつけくわえる。
「深実くんの気持ちを急かすわけじゃなくて」
「友達のほうが、いいかもしれないです」
「え……っ」
「だって、俺、先輩のことばっかり考えてて、気持ち悪いかもしれないから」
「深実くん……」
「先輩は、俺のこと待つって言ってくれましたよね。でも、俺なら……待てないです」
「あ……」
「すみません、自分のことしか考えられなくて。先輩のこと大事にしたいのに、ときどき、めちゃくちゃにしたいとか考える」
 深実くんの手を、強く握る。
 嬉しかった。すごく。深実くんの心に触れられて嬉しい。僕のことをそんなふうに想ってくれて嬉しい。
「もう少し……ごめんなさい。こんなのじゃなくて、落ち着くまで、待ってくれますか?」
 深実くんの瞳を見つめる。無意識のうちに首をふるふると横に振っていた。
「……やだ」
「先輩──」
「待てないよ。だって、」
「………」
「だって、僕、深実くんになら……」
 続きを言いたいけど、恥ずかしくて声にならない。頬も、指先も、心臓も熱い。僕が視線を下げてしまうと、「先輩」と深実くんが僕を呼んだ。
「言って、ください。言ってほしいです」
 僕は唇を噛んでいたけど、そろそろと深実くんを見上げると、そうっと、ゆっくり、小さな声で言う。
「深実くんにされるなら、何にも怖くないよ」
 深実くんの瞳が揺らめいて、そのまま、ぎゅっと抱きしめられていた。深実くんの体温。匂い。感触。全部が僕を包みこんで、ほんの少し、ぽろぽろと涙をこぼしてしまう。
 ああ、鼓動がめちゃくちゃだ。僕のも。深実くんのも。それがすごく幸せだった。
 シアターはいつのまにか終わっていて、僕たちははにかんだ笑みを絡めると、そこを出た。一日過ごした水族館を出ると、透明色のオレンジが広がる夕暮れが始まっていて、涼しい潮風が頬を撫でていった。
 シャトルバスはすぐやってきて、僕たちは来たときと同じく並んで座れた。僕は握っていたペンギンのストラップをスマホにつけて、“S”のイニシアルを確かめて笑みを噛んでしまう。
「先輩、ペンギンが同性愛の象徴って知ってます?」
「えっ」
「オス同士のペア、ペンギンにもいるらしいですよ」
 僕は深実くんを見て、「そうなんだ」と何だか嬉しくて咲った。深実くんも咲って、「俺は買ってすぐつけちゃいました」と自分のスマホに下がった“Y”のペンギンを見せてくれる。僕たちはくすりと微笑みあって、ずっとこうしていられるといいなあ、と改めて思った。
 僕は深実くんのもの。そう言ってもらえて嬉しい。僕には君の名前。君には僕の名前。「どうしてそのペンギンのイニシアルは“S”なの?」って訊かれたら、もう、「恋人の名前なんです」って言っていいんだよね。だって、深実くんは僕のものだから──
 窓の向こうには、海の上でうっすらと月が浮かびはじめている。僕は深実くんの耳元に口を近づけて、「大好き」とそっとささやいた。深実くんはくすぐったそうに笑むと、「俺も大好きです」と応えてくれる。
 重なった瞳が幸せで、離れないように指を結わえる。そしてこの瞬間から、僕たちはやっと恋人同士になる。

 FIN

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