君をつなぐ-2

「昨日も来てくれたのに、真冬こそ大丈夫?」
「ここに来るほうが、気分転換になるよ」
「学校、楽しくない?」
「つまんない」
「僕は行ってみたいなあ」
「勉強はしてるんでしょ」
「うん。やることないしね」
「だったら、同じだよ」
「そうかな。友達もっと作りたいな。病院だと、みんな退院していっちゃうし……」
 うつむく一乃を見つめる。一乃は生まれつき心臓が弱い。運動も食事も制限され、この病室から解放されることも少ない。院内に友達ができても、退院していくか、あるいは亡くなってしまう。
「あたしは、ちゃんと一乃のそばにいるよ」
 そう言って一乃のさらさらの髪を撫でると、一乃はこちらを見てこくんとする。
「真冬まで、いなくなったりしないでね」
「ずっと一乃といるよ。いつか退院もできる。そしたら、いろんなとこに一緒に行こう」
「ほんと?」
「うん。そしたら、一乃には友達もたくさんできるよ」
「ん。でも、一番は真冬だよ」
「そうかなあ」
「そうだよっ。真冬が一番大事」
 あたしは微笑んでうなずいた。一乃もはにかんで咲い、あたしをまっすぐ瞳に映す。
 一乃があたしを見るときの視線は、昔から優しい。その柔らかさを、あたしは愛おしいと感じる。一乃はあたしをどう想ってるのか分からないけど、あたしは施設で出逢ったときから、一乃に恋をしていると思う。
 その日は面会時間ぎりぎりまで一乃と過ごして、「そろそろ面会終了だよ」と病室に入ってきたのは白衣を着た先生だった。一乃は先生に懐いているから、来てくれると嬉しいみたいで笑顔になる。あたしは現実に引き戻されて、ふてくされた仏頂面になる。
 かばんを手にして廊下に出ると、窓の向こうは暗くなっていた。先生はすぐ病室を出てきて、「一緒に帰ろう」とあたしの肩を軽く押す。
 車のキーを借りて、病院の地下駐車場にある先生の車の助手席に乗りこんだ。シートに沈んで車の匂いにぼんやりしていると、まもなく白衣を脱いだ先生がやってくる。あたしが無言でキーを返すと、先生はエンジンを入れた。
「どこかで食べていく?」
「あんまり食べなくていいなら」
「真冬の拒食症は診てもらったほうがいいと思うな」
「そんなんじゃないよ」
「今朝も野菜ジュースしか飲んでなかっただろ」
「だから栄養は取ってる」
「たまには肉も食べないと。ステーキ食べにいこうか」
「……やだ」
「決まり」
 先生は車を発進させ、あたしはうんざりとため息をつく。車は地上に出て、わりとすぐにぎやかな明るい駅前に出る。イルミネーションが、伏せがちの睫毛で霞む。
「先生」
「うん?」
「一乃は、ほんとに一時退院もできないの?」
「どうして」
「あの子、施設から病院に来て、一度も外に出たことないじゃない」
「かずくんは、いつ発作が起きるか分からないからね。こないだも出たんだろ?」
「………、」
「サポートしてくれるご家族もいない。かずくんは病院から出るには危ういんだよ」
 そんなの、建前だ。一歩も病院を出れないなんて、やっぱりおかしい。
 あたしが先生のペットで。先生はあたしを逃がしたくなくて。そのために、一乃は抑えておかなくてはならないのだ。一乃の命を握られている限り、あたしが自由になろうと逃げ出さないことを、この男は熟知している。
 ステーキハウスでは、サラダバーしか頼まなかった。それでも、「食べなさい」と先生がフォークに刺して、突き出してくる肉は食べる。
 別にまずいと思うわけではない。痩せたいとか思っているわけでもない。ただ、食事はひどく億劫だ。あたしが肉を飲みこむのを見届けて、先生は満足そうに微笑む。
 ずっと変わらない。自分の言う通りにするあたしを見下ろして、先生はいつも笑う。
 先生に出逢ったのは、五歳の冬だった。あたしは二歳のとき、親にぼろぼろのアパートに置き去りにされた。親の行方は知らないし、いまだに知ろうとも思わない。
 施設に送られ、先生に出逢うまでそこで過ごした。施設に来たとき先生は二十四歳で、医大の卒業をひかえていた。卒業祝いは何がいいかと親に訊かれた先生は、「女の子がいいな」と答えたらしい。
 いくつか孤児院を見てまわり、先生の目に留まったのがあたしだった。一乃が発作を起こした日だった。その頃から一乃以外に友達がいなかったあたしは、運動場の隅で膝を抱えていた。ふと目の前が陰って顔を上げると、眼鏡をかけていない先生があたしを見下ろし、笑みを浮かべていた。
 その夜、施設の先生に里親の話を切り出された。あたしは首を横に振った。「来年からちょうど小学校だから、いいお話じゃないかな」と施設の先生は言った。
 あたしが眉を寄せてうつむいていると、かたん、と入口から物音がした。振り返ると、パジャマすがたの一乃が不安そうに部屋を覗きこんでいた。
「かずくん」
 あたしは椅子を飛び下りて、一乃に駆け寄った。一乃はおろおろした様子で、あたしを見つめた。
「真冬ちゃん、いなくなっちゃうの?」
「いなくならないよっ。あたしはかずくんといる」
「……でも」
 一乃が視線を向けた先では、施設の先生が息をついている。
「あたしはやだ。かずくんと離れたくない」
 この施設に来て、あたしはなかなか誰とも親しくなろうとしなかった。四歳のとき、片親だった母親が病死した一乃が施設にやってきた。その頃は発作も頻繁で、「仲良くしたら病気がうつる」とか言われて一乃も孤立気味だった。
 ひとりぼっち同士でしゃべるようになり、仲良くなった。それを知る施設の先生は、あたしの主張に仕方なさそうにうなずいた。
 先生は、あたしの言葉をそのまま聞いたらしい。そして、また施設にやってきた。そのときは一乃が隣にいて、あたしたちは手を強く握り合った。
「この子が『かずくん』?」
 あたしは唇を噛みながら、うなずいた。「そっか」と先生はあたしたちの目の高さにしゃがんだ。
「かずくんは、病気なんだってね」
 問われた一乃はとまどったものの、小さくこくんとした。
「その病気、治したいとは思わない?」
「えっ……」
「俺がかずくんの病気、治してあげてもいいよ?」
 一乃はまばたきをして、あたしも先生を見た。一乃の頭を撫でた先生は、あたしを見た。
「もし、真冬ちゃんが俺のところに来てくれたらだけど」
「……え」
「真冬ちゃんが俺と暮らしてくれるなら、かずくんを最高の病院に診せて、楽になるようにしてあげる」
 あたしは息をこわばらせた。
 ただでさえ赤字の施設で、一乃への治療が満足に施されていないのは知っていた。
 最高の病院。かずくんの病気を治す。あたしにできることで、一乃の軆が少しでも良くなる。あたしが、この男についていけば──
「ほんとに、治してくれるの?」
「時間はかかるかもしれないけどね。できる治療や手術はやっていこう」
「……かずくん、」
 あたしは一乃を見た。一乃はどうしたらいいのか分からない様子でうつむいていた。あたしは一乃の手を握って、先生を見つめ直した。
「絶対、かずくんを治して」
「努力はする」
「じゃあ、あたし──おにいさんと暮らすから」
 先生は微笑んだ。一乃がまだちょっと躊躇う視線を向けてきていても、「大丈夫」とあたしは一乃に咲いかけた。
 立ち上がった先生は、あたしと一乃の手を引いて、施設の先生のところに行った。話を聞いた施設の先生は、何度も頭を下げていた。そして、「いい子にしてね」と言われて、あたしと一乃は春先に施設をあとにした。
 それから、一乃は信じられないくらい大きな病院に移った。四月から先生もその病院に勤めることになっていた。それが、今も一乃が入院している病院だ。環境も良くなったし、手術も何度か行い、確かに発作も減った。だから、たまには外泊したっていいはずなのに、その許可を現在主治医である先生は出さない。
「真冬は、俺の言うことを聞かないとダメだよ」
 一緒に暮らしはじめた日から、先生は言った。
「言うことを聞かなかったら、かずくんへの援助はやめる」
 あたしは先生を見上げる。先生はあたしを見下ろす。
「分かったなら、まず服を脱いでみせて」
 嫌、だった。まだよく知らない男の前で、全裸になるのも。脚を広げて見せるのも。指を挿しこまれる痛みも。
 初めてのキス。愛撫。行為。
 気持ちよくないのに、いつのまにか知った感じるふり。やがて、感度が突然開花した。うなじから乳房を這う舌に息が熱くなる。核をなぶられながら奥まで慣らされて濡れる。硬くなった先生につらぬかれて、何度も突かれて喘ぎ声が乱れる。
 あんなに嫌だったのに、今では本気でよがっている自分がいる。
「先生は、結婚しないの?」
 終わったあと、あたしは先生に腕まくらをされながらそう訊いた。
「高校を卒業したら、真冬がしてくれるだろ?」
 先生は当たり前のように答えて、あたしの髪を指ですくう。あたしは先生の筋肉質な腕に顔を埋めた。なじんだ汗の匂いがした。
 騙された、と分かっている。一乃を治すなんて、嘘だ。治らない病気じゃない。移植さえすれば。でも、そんなに簡単に適合する臓器なんて見つかるわけがない。そんな不確定な一乃をおさめておくことで、先生はあたしを縛った。
 死ねばいいのに。こんな男。
 そして、中出しされて感じている自分も、死ねばいい。
 できるなら、本当に死んでしまいたい。けれど、あたしが死んだら、先生は一乃をどうする? だから、死ぬこともできない。一乃を今の環境から引っ張り出して、ふたりで逃げることも考える。だけど、きっとそしたら一乃の病状はすぐさま悪化する。
 結局、あたしが一乃にできることなんてなかったのだ。せめて先生の言いなりでいて、あの病院にいさせてあげないと──それぐらいしかできない。
 そうして、そうなのだとしたら、あたしはたぶん一生先生から解放されないのだろう。一乃の病気が治る、そんな奇跡が起こらない限り。
 翌朝はステーキが胃にもたれて、胃薬を飲むためにミネラルウォーターを飲むのが精一杯だった。先生は午後からの勤務で、朝食を用意されることがなかったのがさいわいだ。

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