もう俺のことは放っておいてくれ。そう言って僕のことさえ締め出して、部屋にこもるようになっていた賢輔が僕の家を訪ねてきたのは、高校の入学式をひかえた今年の四月のことだった。
賢輔はうつむいて、だいぶ気まずそうだったけど、最後に見たときより軆つきもちゃんと成長して、顔色も悪くなかった。玄関で賢輔を出迎えたものの、何を言えばいいのか僕もとまどっていると、「ごめん」と賢輔が消え入りそうに言った。
「もう、紫優は……俺のこと、どうでもいいというか、……嫌いかもしれないけど」
まばたきをして、賢輔の眼鏡の奥の伏し目を見た。「そんなことは」とは言うと、賢輔は瞳にあの頃のように気弱な色をちらつかせる。
「けど、俺、……心配してくれてた紫優に、ひどいこと言ったし。ほっといてくれとか」
「あのときは、仕方なかったよ」
「………、」
「気にしてない。心配は、ずっとしてたし。元気そうでよかった」
賢輔がようやく僕と視線を合わせたので、僕は小さく微笑む。すると賢輔は瞳を滲ませ、「ほんとにごめん」と繰り返した。
「死のうとか、そんなことばっかり思ってたけど。やっぱり、死ねないし。一生引きこもってても、いつか絶対困るから」
「うん」
「ちゃんと、しなきゃって……高校も、行くことにして。通信制だけど」
「そうなんだ。頑張ったんだね」
賢輔はこくりとして、「紫優と同じ高校は、中学行ってなかった俺には行けないだろうしな」とぎこちなく咲う。
「というか、どこの高校か知らないや」
「僕は彼女と同じ高校にしたから、先生たちにはけっこう怒られたよ」
「え、彼女いるのか」
「うん。中学三年生のときにできた」
「すごいな。おめでとう」
「ありがとう」と照れ咲いした僕に、賢輔もほぐれてきた笑顔を見せる。「とりあえず、家あがって話す?」と訊くと、「邪魔じゃなければ」と賢輔はひかえめに答える。「そんなわけないよ」と僕は玄関のドアを開く。
「賢輔は親友なんだから」
──僕の通う高校の最寄り駅から、ふたつ乗り継いだところが賢輔の通う通信制高校の最寄り駅だ。僕の高校は駅に比較的近くても、賢輔の高校は駅前に面した商店街を抜けて、車道に面した大通りまで歩かなくてはならない。その道すがらの喫茶店で、僕と賢輔はときどき会って、とりとめなく話をする。
地元は、まだ少し怖くてあんまり出歩きたくないそうだ。あいつがもうあの町にはいなくて、どこかで荒れているという話は伝えても、賢輔は曖昧に首を横に振っていた。僕もあいつが賢輔に行なった仕打ちは全部知っているから、どうしても地元で話そうと強要はしない。
七月になり、期末考査が終わったところだ。少し外を歩いただけで軆がほてって、熱中症に近づく。蝉が壊れた警報みたいに鳴いていて、絞られた水分は汗としてこめかみや首元を伝った。
いつもの喫茶店に入ると、広くない店内にすでに賢輔のすがたがあったので、すうっと熱を癒やす冷房を感じながらその席に近づく。細長い店内で、手前にレジ、四人がけの席が通路の右手によっつ、奥にキッチンがある。一番奥の席で入口に背を向けていた賢輔に声をかけると、こちらに顔をあげた賢輔は、ずいぶん穏やかさを取り戻した笑みを見せた。
「暑いね、今日も」
そんなことを言いながら、僕は賢輔の向かいの席に座り、スクールバッグは足元に置く。ウェイトレスがお冷やを持ってきて、僕はアイスコーヒーを注文した。「かしこまりました」と頭を下げたその人は、「アイスコーヒー入りまーす」と僕たちの席のすぐそばのキッチンに伝える。賢輔は、バニラアイスの浮かんだクリームソーダが飲みかけのようだった。
「紫優のとこは、テスト終わった?」
「終わったよ。あとは夏休み待ってる感じ」
「そっか。夏休みは、さすがに地元で会わないとな」
「え、大丈夫?」
「たぶん。あ、だけど紫優は彼女さんとも会わなきゃいけないのか」
「賢輔にも会えるよ。彼女も友達と過ごしたいだろうし」
「そんなもんなのか」
「彼女の親友もすごくいい人だし。僕が邪魔するのも悪いよ」
「ふうん。女の子って、もっと束縛するのかと思った」
「うーん、そういうタイプの子じゃないかな」
「いつか紹介してくれたら嬉しい」
「会ってくれるの?」
「うん。紫優が選んだ子なら、怖くないだろうし」
指先を冷やすお冷やで喉を潤し、「優しい子だよ」と言った。
僕の彼女もあいつにひどいことをされたのは、賢輔には話していない。何となく、心配させてしまいそうだから。賢輔にも、彼女にも、あいつにひどいことをされた僕は、人との間合いの取り方が分からなくなっている。
今日も同じ中学出身の真宮というクラスメイトに、そろそろ高校で友達を作れと言われたけど、僕はうやむやに話を濁した。
いい香りのアイスコーヒーが来て、僕と賢輔は三十分くらいのんびり雑談した。そのあと、賢輔はもうちょっとゆっくりしていくと言い、僕は先に席を立って会計をすると喫茶店を出た。
ドア一枚を隔てて、店内とは異次元のような濃い熱気がまとわりついてくる。時刻は十八時半が近く、商店街のアーケードには明かりがついている。いろんな店が入っているから、行き交う人も多くて、ぶつからないように気をつけながら駅まで歩いた。
にぎわいの向こうに改札が見えてきたとき、「暮村くん」と不意に声がした気がして、僕はあたりを見まわす。すると、改札の隣のコンビニの前に、僕と同じ高校の制服の女の子を見つけた。
「日向」
彼女の名前が口からこぼれ、自然と笑みになってしまう。僕は人をよけて彼女の元に駆け寄った。日向も僕に微笑むと、「来ちゃった」と愛らしい顔立ちではにかむ。
「ここかなって思って」
「そっか」
コンビニで買ったのか、日向は林檎フレーバーのミネラルウォーターが飲みかけで、「けっこう待ってた?」と僕は首をかしげる。
「そんなことないよ。十分くらい」
「そう──」
ナンパとかされなかった? 思わずそんな心配までしてしまうけれど、恥ずかしくて言えない。長い睫毛や大きな瞳、さらさらの髪に桃色の唇、色白の肌、すらりとした手足、日向は僕の彼女にはもったいないぐらいかわいい子だ。男ならつい振り返ってしまう。
「待ってるあいだ、大丈夫だった?」
ただそう問うと、日向はきょとんとして「うん」と不思議そうに咲う。
「暮村くんは、友達とゆっくり話せた?」
「うん。元気そうだった」
「よかった。高校にも通えてるんだね」
「話せる人も何人かいるって言ってた」
「きっと、一番の友達は暮村くんだよ」
「はは、そうなのかな。あ、聖園さんは真宮と帰ったの?」
「真宮くんに頑張れって言ってきた」
「あのふたりも、うまくいくといいのにね」
「茉莉が素直にならないんだもん」
「真宮はわりと伝えてるよね」
「マフィン欲しがってたね」
「あ、僕は帰ってから食べようと思って。まだ感想言えなくてごめん」
「ううんっ。食べれたときでいいよ」
「妹に見つからないうちに食べなきゃ」
僕が苦笑すると、「暮村くんの妹さんなら、美少女だろうなあ」と日向はくすりとする。僕は妹の紫陽を思い浮かべ、どうなのかなあと考えてから、「日向もすごくかわいいよ」と中学の卒業式から伸ばしている髪に触れる。日向はどきんとした様子で僕を見上げて、柔らかな頬を染める。
「く、暮村くん……も」
「うん?」
「暮村くんも、かっこいいよ」
僕はまばたきをしてから照れ咲いをして、「ありがとう」と日向の頭をそっと撫でると、その手で日向の手を取った。日向は僕の手を小さな力で握り返し、僕の瞳に微笑みかける。
「ねえ、日向」
「うん」
「良かったらなんだけど」
「うん」
「今度、僕の家に来てみない?」
「えっ」
びっくりして目を開いた日向に、「えと」と僕は決まり悪くなる。
「その──つきあって、一年だよね」
「……あ、」
「それに、もう……女の子だから」
日向は視線を狼狽えさせ、困ったようにうつむいたものの、僕の手はきゅっと握りしめる。
「そ、そんな……こと、ないよ」
「え」
「まだ、その……」
僕は日向を見つめた。日向の頬が赤くなって、瞳がわずかに潤む。嫌なことを言ってしまっただろうか。そう思って謝ろうとしたとき、日向は僕を瞳にくっきり映して、睫毛を震わせる。
「……やだ」
「あ、」
「ち、違うのにね」
「え?」
「暮村くん、そういう意味で言ったんじゃないのに」
「そう……いう、」
「ごめんね。お、女の子……だよね」
「女の子だよ」
「ご両親も、妹さんも、私のこと……」
「女の子にしか見ないよ」
日向は細く息をついて睫毛を伏せる。僕は日向の指に指を絡めた。その指さえ、まさか日向が男として生まれてしまったことは感じさせない。
日向は女の子だ。心から女の子だったのに、軆といううつわは男として生まれた。ずっと苦しんできた。心と軆がちぐはぐで怖い想いをしてきた。中学を卒業した頃に、やっと性同一性障害の診断が下りて、戸籍上の性別は女になった。人前でもスカートを履けるようになった。
「もちろん、日向が気が進まなければ──」
「そ、そんなことはないよっ。なく……て、ただ」
そこまで言って、日向は口をつぐんでしまう。
軆だけ見て、男だと決めつけられること。日向の中で、最もデリケートな問題なのは分かっている。わざわざ男だった子なんだと話す気はないし、もしその話が耳に入っても、僕の家族なら分かってくれると思う。しかし、確かに日向にとっては僕の家族は『何も知らない他人』だろうし、さすがに性急に言い出しすぎただろうか。
「……ごめん」
僕がぽつりと言うと、日向ははっと顔をあげる。
「まだ、日向は一生懸命悩んでることなのにね」
「え、あ……」
「気にしないで。僕が日向を家族に自慢したかっただけだから」
「じ、自慢……には、ならないよ」
「自慢だよ。僕が一番好きになって、僕を一番好きになってくれた人」
日向は僕を見つめてくる。「聖園さんの次かな」と悪戯っぽく微笑むと、日向はふるふると首を振り、「暮村くんが一番好き」と言ってくれる。
「私、も……暮村くんの彼女になれて嬉しい。いっぱい、自慢したい」
僕は微笑して「じゃあ、いつか家族にお互いを自慢しようね」と日向の頭をぽんぽんとした。日向は恥ずかしそうにこくんとする。
それから、僕たちは十九時台の帰宅ラッシュの電車に乗った。すごい満員電車で、僕は日向が転ばないように、痴漢に遭ったりしないように腕の中にかばう。くせのある香水、イヤホンの音漏れ、汗ばんでくる熱気。
がたんと電車が揺れると、細い軆がかたむかないように抱きしめた。日向の髪からは甘やかな匂いがして、思わずどきどきしてしまう。駅に停車すると、降りる人はほとんどいないままさらに人が乗りこむ。「つかまってて」とささやくと日向はうなずき、僕にしがみついて制服をつかんだ。胸のふくらみがわずかに胸板に伝わってきて、どぎまぎと目線が彷徨いそうになるのをこらえる。
日向は女性ホルモンの注射は始めている。針が太くてそうとう痛いらしい。でも、おかげで肩の丸みや顎の曲線が現れ、長い肢体も肉づきが柔らかくなった。声にも露骨な変化はなかったし、胸もふくらんできた。しかし、まだ下肢の手術はしていない。夏休みや冬休みに段階的に始めていくと聞いている。
日向の髪に頬を当て、どんなにどきどきしてもそれまでは我慢しないとなと苦笑いした。僕も。日向も。日向は今の軆を僕だけには見られたくないと泣いたこともある。「いいんだよ」とそのときも僕は日向の頭をさすった。
「僕はずっと日向といるから、焦らないで」
賢輔を苦しめたあいつに、日向も本当にひどいことをされて。男を信じられなくなってもおかしくなかった。でも僕の想いを受け入れてくれた。応えてくれた。信じてくれた。
だから僕は、そんな日向の勇気を踏みにじりたくない。ずっと隣にいて、日向が日向の軆に自信が持てるまで待つ。いつかちゃんと日向が僕にすべて見せてくれることを、僕も信じている。
地元の駅に到着した頃には、空では夕映えが溶けて濃紺が滲みかけていた。月と星が穏やかに輝いている。コンクリートのにおいが焼け残るホームに出て、深呼吸すると、頬をぬるい夏風がすべっていった。
日向の手をまたつかんで、「すごい人だったね」と言うと、「私すぐ転ぶから、暮村くんと一緒でよかった」と日向はあやふやに咲う。ホームを出て改札を抜けると、「団地の前まで送るね」と僕は言い、日向は「ありがとう」と僕の手を握り返す。
「暮村くん」
沈む太陽に暗くなっていく道を並んで歩いていると、日向が僕を見上げてきた。
「うん?」
「その……電車で考えてたんだけどね」
「うん」
「暮村くんのおうち、……行ってみたい」
「えっ」と僕がしばたくと、日向は恥ずかしそうに僕の瞳に瞳を重ねる。
「ふたり……というか、ふたりきりになって、ゆっくりできたこと、ないから」
「……ふたりきり」
「あっ、その、暮村くんは私をご家族に紹介したいだけかもしれないけど、私は、……その、暮村くんのお部屋とか見てみたくて」
日向をじっと見つめてしまってから、僕は次第に照れてきて「いいの?」と確認する。日向はこっくりとする。「そっか」と僕もうなずくと、卒業した中学校沿いの道を歩きながら、つないだ手にゆっくり力をこめる。
「ふたりきりでも、日向が嫌なことはしないから」
「うん。知ってる」
日向はなごやかに微笑んで、僕の肩に寄り添う。
「暮村くんは、いつも私に優しい」
僕は日向の長い睫毛を見つめ、「日向」と呼んで顔を仰がせると、そっとその頬を手のひらで包んで触れ合うだけのキスをした。唇を離すと、日向は微熱に染めた顔を僕の肩にうずめる。
「日向──」
「すごく、幸せで……バカになっちゃいそう」
「はは。そうだね」
僕は笑ってしまいつつ、いよいよ暗くなってきたので、日向の住む団地の棟へと急いだ。日向のご両親には中学の卒業式で挨拶したけど、「彼氏」としての紹介ではなかったから、家の前でなく棟の前で日向と別れる。
日向は手を振って棟の中に入ろうとしたものの、階段に足をかける前に振り向いてきた。
「あのね、暮村くん」
「うん」
「真宮くんに、通信制の友達のこと、話せるなら話してあげてね」
「真宮に?」
「心配してるみたいだから。いつもひとりだって。高校でも、暮村くんは友達作らないみたいだし」
「ん、まあ……」
「無理に話してとは言わないんだけど、よかったら」
「いや、そう──だね。分かった。話しておくよ」
「うん」と日向はにっこりとして、階段をのぼっていった。やがて部屋のある三階から顔を出し、再び手を振る。僕は手を振り返し、日向が家に無事帰宅したのを確認してから団地を離れた。
家に帰ったら、夕食はひかえめにして、日向が作ってくれたオレンジマフィンを食べよう。それを楽しみにしながら、僕は自分の住む戸建ての住宅街に向かう。
「おにい、おかえりー」
家にたどりついて玄関のドアを開けると、リビングからちょこんと紫陽が顔を出す。小学六年生の僕の妹だ。むずかしい年頃だと思うのだけど、僕には懐いてくれているほうだと思う。「ただいま」と言いながら靴を脱いでドアマットに上がると、「遅かったねえ」と紫陽はこちらに駆け寄ってくる。
「うん、ちょっとね」
「ちょっと」
「夕飯はもう食べた?」
「食べたよ。おかあさんがメッセしてたよ」
「そうなんだ。見てないや」
「誰かといたの?」
「えっ」
「誰かといたら、おにいはスマホ見ないタイプじゃん」
「そ、そうかな。じゃあ、僕のぶんの夕食って残ってる?」
「あると思うよ。魚のホイル焼きだったし」
「分かった。食べるってかあさんに言っておいて。僕は着替えてくるよ」
「はあい」
そう言ってくるりと身を返した紫陽を眺める。色素の薄いロングヘア、ほっそりした軆、顔立ちは僕とよく似ていると言う人が多い。日向の言葉を思い返し、美少女なのかなあ、と首をかたむけ、よく分からずに僕は二階に上がった。
夕食のあとにシャワーも浴びて、僕は部屋で宿題を取り出す前に日向が昼食のときにくれたオレンジマフィンを取り出した。ドットがプリントされた透明のふくろの中に、カップに入ったマフィンがふたつ、水色のリボンで口が締められている。すべすべしたリボンをほどくと、オレンジの香りとマフィンの匂いが鼻腔で絡みあった。
丁重にひとつ取り出して、カップを少しはずしてかじりついてみると、蕩けるような生地が甘い。オレンジのさわやかな味もしっかりあって、おいしかった。日向の作ってくれたお菓子は初めてではないものの、いつもそのおいしさに感動してしまう。
今日も日向かわいかったな、と彼女のいろんな表情や仕草を思い返してしみじみ思う。いつも、昔から、日向はかわいい。中学の入学式、そのすがたを見かけたときから変わらない。
あのとき、日向は学ランを着せられていたのに、僕はひと目惚れしていた。当初は自分は同性に惹かれるのかと驚いたものの、何となく、そういうわけではない気がした。じゃあ、どちらにも惹かれる? あるいは日向だけは性別にこだわらず惹かれたのか?
いや、全部違う。僕は単純にかわいい女の子に惹かれたのだ。僕のイメージの中で、日向はあのときからすでに女の子だった。何も事情は知らなかったけど、僕は日向を最初から女の子として見て惹かれていた。どんな女の子より、日向が一番かわいかったのだ。
マフィンを食べ終わり、宿題も片づけると、日向に『マフィンおいしかったよ。』とメッセを送った。まもなく既読がついて、『ほんと? よかった!』とメッセとうさぎが飛び跳ねているスタンプが来る。
それからしばしメッセをやりとりしていると、二十二時頃に『茉莉から通話したいって来ちゃった。』と来て、僕は『じゃあ、また明日学校で話そう。』と返す。日向はおやすみのスタンプをくれて、僕はスタンプがよく分からなくて持っていないので、『おやすみ』と言葉を送る。
それから、歯磨きやトイレも済ますと、今読んでいる本をスクールバッグから取り出して読書を始めた。零時になる前にあくびがこぼれてきたので、就寝することにする。
翌日、僕はいつもどおり七時前に家を出て学校に向かう。早く登校するのは、朝の人が少ない教室で一日の予習をするからだ。家でやってもいいのかもしれないけど、かあさんや紫陽が「大丈夫?」「そろそろ遅れない?」と代わる代わる心配するので、学校に行ってからのほうがふたりも安心かなという判断に至った。
その日も快晴であちこちで蝉が鳴き、でもアスファルトがまだ焼けていなくて風はほんの少し涼やかだ。電車はすでに混みあいはじめて席に座る余裕はなくても、隙間さえないすし詰めでもない。
高校最寄りで電車を降りて、七時半過ぎに教室に到着する。それでも、僕より早く来ているクラスメイトはいて、スマホをいじったり窓際でぼんやりしていたりする。僕も自分の席に着くと教科書や予習ノートを取り出して勉強する。予鈴の十分前くらいまで、数式や英文を黙々とほどいて、本日の授業の備えに納得するとノートを閉じた。
ここから十分くらいは、息抜きに好きな小説を読むのだけど、昨日の日向の言葉を思い出して、僕は前方にある真宮の席を見る。
真宮はいつのまにか教室にいて、スマホに指をすべらせている。誰かと話していたら邪魔はしなかったけど、今なら話しかけてもいいだろうか。
僕は席を立ち、真宮の背後に近づいて声をかけてみた。「うおっ?」と驚いた反応を見せた真宮に、ついくすりとしてしまうと、「何だ、暮村かよ」と真宮はほっと息をつく。僕は第一ボタンまで締めてネクタイを結っているけれど、真宮はボタンもネクタイも緩めている。
「何、暮村から話しかけてくるなんてめずらしいじゃん」
「そうかな」
「いや、めずらしいじゃなくて初めてか」
「迷惑だったかな」
「んーん。どうかしたか」
僕は一考して、「日向が」と言葉を選ぶ。
「日向?」
「真宮に、僕の友達のこと話してやってほしいって言ってて」
「………、」
「真宮、いつも心配してくれるから」
「通信制のがいるとは聞いたぞ」
「そうなんだ。うん、小学校のときからの親友がいるんだ」
「小学校。……そりゃ知らんかったわ」
僕は視線を下げ、「佐内のことは憶えてる?」と慎重な口ぶりで問うた。真宮の表情がわずかに硬くなる。
「……忘れらんねえだろ」
「そっか……。僕は佐内とも同じ小学校だったんだけど、あいつ、僕の親友のことをかなりしつこくイジメてて」
「イジメ」
「親友は不登校になって、中学にはぜんぜん来なかった。僕にも会ってくれない時期が続いた。でも、根はまじめな奴だから、このままじゃダメだってやっと通信制の高校に通い始めたんだ。それをきっかけに、僕にもまた会うようになってくれた」
「……そうか」
「でも、親友が学校に来なくなって、家を訪ねても会ってくれなくて、僕は人との距離が分からないところがあるんだ。仲良くなっても、何の切っかけで離れていって、またひとりになるか分からないって考える。だったら、友達は作らずにひとりでいたほうがいいやって」
真宮は僕を見つめてくる。「弱いよね」と僕が自虐的に笑むと、真宮はくせ毛の黒髪の頭をかいたあと、「まあ分からんでもない」と言った。
「けどさ、日向とは一緒にいるじゃん」
「日向は、何か、分かってくれてるから」
「聖園は?」
「聖園さんも事情は知ってる」
「俺も……別に、暮村をほったらかしてひとりにはしないけどな」
僕は真宮の目を見て、「ありがとう」と照れ咲いした。そんな僕に真宮も決まり悪そうに咲い、僕の腕をはたく。
「認めるのは、暮村の不安な気持ちが落ち着いたらでいいけどさ。俺たち、けっこう友達だと思うぞ」
「友達……かな」
「おう。友達でもない奴と毎日弁当は食わねえわ」
「はは、そっか。うん、真宮がよかったら友達で」
真宮はやんちゃににっとしたあと、「あ、そういえば」と身を乗り出してくる。
「俺、聖園とつきあう感じになったぞ」
「え、ほんとに」
「今度デート行ってくる」
「そうなんだ。おめでとう」
「暮村と日向みたいになりたいなーと思うけど、俺らではノリが違う気がする」
「真宮と聖園さんらしければいいと思うよ」
「だなー。まあ、やっと聖園の気持ち確認できたから、それでほっとした」
「真宮は中学のときからアピールしてたよね」
「わりとな。あのさ、今だから話すけど、俺の初恋は日向なんだぞ」
「えっ」
「日向は暮村とお似合いすぎたから、嫉妬も何もなかったけどな。まあ、つまり……日向、幸せにしてやれよ」
にっとした真宮に僕はまばたきをして、それからうなずいて「約束する」と言った。そのとき予鈴が鳴って、「あとで」と僕は自分の席に戻る。
日向が初恋だった──か。そういう男は、真宮以外にもいるのかもしれない。そんな中で、日向が僕を選んでくれたのは、とても貴重なことだったのだと思う。
四時間目まで勉強したあと、昼食の弁当はたいてい日向と聖園さん、真宮と僕の四人で食べる。いつも屋上庭園に出るけれど、「さすがに暑くてやめたほうがよさそう」と場所取りに行っていた聖園さんが報告して、日向と聖園さんの教室で食べることになった。
ここならクーラーも効いていて、熱中症の心配もない。四人で弁当を食べながら、真宮と聖園さんの経緯を聞いたり、脈絡なく話して過ごす。その輪の中にいながら、確かに僕は、中学時代とは異なってひとりではなくなったんだなと実感した。
そうして、すぐに夏休みが始まった。夏休みが始まって一番最初の日曜日、日向が僕の家を訪ねることになった。日向の住む団地と僕の暮らす一軒家、中間あたりにバス停があるのでそこで待ち合わせた。
今週なかばに台風が来るとかで、まだ天気は良くても強い風が吹いていた。午前十時、日向は白いカットソーに水色のフレアスカートでやってきた。綺麗に化粧もしていて、やっぱりかわいい。「緊張する」と曖昧に咲った日向の手を取り、「大丈夫だよ」と僕は微笑んだ。
「もうすぐ台風来るね」
「進路がそれるといいけどね」
そんなことを話しながら、手をつないで僕の家に向かう。家の前に到着すると、日向は深呼吸していた。「ご家族みんないるの?」と問われ、僕はうなずく。
「両親にも妹にも、連れてきたい人がいるとは言っておいたから」
「え、それ連れてくるのは彼女だって言ってるよ」
「ほんとに彼女だから」
「反対とかされないかな」
「日向はいい子だから心配しなくていいよ」
僕は日向の頭をぽんぽんとして、手を引いて門扉を抜けて玄関に向かう。鍵をまわしてドアを開けると、「ただいま」と家の中に声をかけた。すると、「おにい、おかえりっ」と紫陽が待ちわびていたように玄関に現れる。日向が僕を見上げて、僕は「大丈夫」と繰り返して日向を先に家の中に通した。
日向と紫陽が向かい合う。日向はわずかにとまどっても、「初めまして」と紫陽に頭を下げる。紫陽はそれを見つめたのち、「やっぱ来たの彼女だったあっ」と叫んだ。僕は息をついて、「紫陽も挨拶して」と言う。すると紫陽はむくれたのち、「妹の紫陽です」と日向にぺこりとした。ついで、紫陽の叫びを聞きつけた両親も玄関に顔を出しにくる。
「紫優が彼女連れてきたって?」
「あらっ、かわいい子!」
両親はわりと好感触で、嬉しそうに日向のすがたを認め、「初めまして、日向紗琴です」と日向は慌ててもう一度お辞儀をする。「あがってあがって」ととうさんは紫陽を退かせて道を作り、「てっきり賢輔くんが来るのかと思った」とかあさんもにこにこと日向を招き入れる。「おにいに彼女かあ……」となぜか紫陽はがっくりしていて、日向はそれが気になるようでも、両親の歓迎に流されるまま家に上がった。
「僕に彼女できてたら複雑?」
僕は玄関に残り、紫陽の頭をぽんとする。紫陽は僕に上目遣いをして、「そういうわけじゃないけど」とため息をつく。
「おにいは、そういうのまだ興味ないかなって」
「もう日向とはつきあって一年だよ」
「そうなの!? 続いてるんだね。一年」
「そうだね。これからも続けたい」
「……そっか。彼女さんのこと、好きなんだね」
「うん。大切に想ってる」
「じゃあ、私も彼女さんと仲良くしなきゃね」
「そうしてくれると嬉しいかな」
「分かった。おとうさんとおかあさんから、彼女さん助けてくる」
「はは。よろしく」
僕が咲うと紫陽はひとりこくりとうなずき、「私も彼女さんと話す!」と日向が連れていかれたリビングに入っていった。僕も続いて、興味津々な両親に困ったように咲っていた日向に駆け寄る。
年齢から僕との馴れ初めまで、一気に訊かれている日向に「質問ひとつずつにしてあげて」と僕が苦笑すると、「紫優からは何にも聞いてなかったからなー」ととうさんがにやりとして、「すぐ紹介してくれてよかったのに」とかあさんも続ける。
「もう、暑かったんだから麦茶くらい出してあげようよ」と紫陽がキッチンに行き、僕と日向に麦茶のグラスを渡してくれた。受け取った日向は紫陽を見つめ、「暮村くんの妹さんだから、やっぱり美人ですね」と言い、紫陽はまじろいでから「そ、そうかなー」と急に照れていた。
昼食のツナとトマトが載った冷やしうどんを食べるまで、僕と日向は一階で過ごした。両親のぐいぐい来る質問に、日向は驚きながらもはにかんで素直に答えていた。「紫優のどこがよかったの?」なんて質問には、恥ずかしそうに「すごく優しいので」と小さく答えて、「おにいは確かに優しい」と紫陽もうんうんとうなずく。
「おにいって呼び方かわいい」と日向に言われると、「おにい、兄貴とかそういう呼び方のタイプじゃないから」と紫陽は笑い、「分かる気がする」と日向は首肯していた。初対面のときは一瞬緊迫したけど、紫陽も日向と打ち解けてくれている。
昼食のあと、「僕の部屋、見てみる?」と秘かに緊張しながら日向を誘うと、日向は僕に顔を向けてこくんとした。
「紫優、お前、逸ったことするなよ」
そんなことを言うとうさんに「しないよっ」と赤面しつつ、僕は日向と二階に上がった。「私、ずっと団地だから」と日向は段差でフレアスカートの裾を踏まないように気をつけながらついてくる。
「おうちの中に階段があるの、不思議な感じ」
「そう? 自分の部屋はあるの?」
「うん。服隠さなくてよくなったから、ちょっと散らかってるけど」
「今日の服もかわいいね。夏っぽい」
「そ、そう? よかった。もっとフォーマルがいいかなって、すごく悩んだ」
「僕も日向のご両親に挨拶するときは服装悩むなあ」
「いつも通りでいいよ。私の両親にも、会ってくれるんだね」
「卒業式に挨拶はしたけど、『彼氏』としてではなかったから」
「おかあさん、もともとは男の子が欲しかった人だから、私の彼氏は喜んでくれると思う。おとうさんは寂しがるかな」
「認めてもらえるかな」
「それは大丈夫だと思う。暮村くんが彼氏で、反対する人なんかいないよ」
そうかなあと僕は小さく咲って、自分の部屋のドアを開ける。エアコンは出かける前に着けておいたから涼しい。やましいものがある心当たりはないけれど、それでも一応室内を見まわしておいてしまう。
夏休みの課題が積まれたつくえ、ブルーのストライプのベッド、文庫本のつまった本棚にブラインドの入ったクローゼット──「お邪魔します」と日向が続いて、「すごく片づいてるね」と睫毛をぱちぱちとさせた。「あんまり物がないだけだよ」と僕はドアを閉めて、日向と並んでベッドサイドに腰かける。
僕たちは顔を合わせ、何となく照れた笑みを絡めた。ふたりきりだ。ふたりでデートには行くし、帰り道で周りに誰もいないときもあるけれど、こうして一室でふたりきりになったのは初めてだ。
何だか心臓がどきどきして、落ち着かないようなそわつきも覚えてしまう。日向も睫毛をかすかに伏せて、膝の上で両手を握っている。逸ったことするなよ、というとうさんの忠告はよぎったものの、僕はそうっと日向の髪に触れる。日向の潤んだ瞳にゆらゆら僕が映る。
「髪、伸びたね」
「……うん」
「卒業式のロングヘア、すごく綺麗だった」
「あれくらい、伸ばしてみたい」
「うん。僕も見たい」
睫毛が揺らぐ日向のボブの毛先をすくって、色づく頬に指を移すと、僕は身をかがめて桃色の唇に口づけた。柔らかい唇は、ほのかにリップの林檎の味がした。
そのまま僕は日向を引き寄せて、腕の中に閉じこめるように抱きしめる。日向のまろやかな軆の熱が伝わってきて、フローラル系の優しい香りがする。お互いの鼓動が速足でもつれて、日向の息遣いがすぐそばで鼓膜をくすぐった。
日向を見ているだけだった中学時代を思い出した。とても憧れていたけど、視界に入ると見つめていたけど、話しかける勇気はなかった。その頃は日向の悩みを知らなかったから、男子である日向が女の子として好きだなんて、何だかよく分からない感情だと思っていた。
中学三年生のとき、同じクラスになって日向と話せるようになって、僕はそれだけで蕩けるように満たされていたのに、いつのまにかどんどん欲張りになってしまった。日向に近づきたい。日向に触れたい。日向を手に入れたい。我ながら貪欲で嫌になってくるときもあった。でも、日向は僕の彼女になってくれた。こんな僕を選んでくれた。
「……日向」
僕は日向の耳元に口を寄せ、優しくささやく。
「大好きだよ」
日向の肩がぴくんと動く。何も言わなかったけど、小さくうなずいて僕の服を握ってくれる。
「日向を誰にも取られたくないって、そんなことばっかり考えてるんだ」
「暮村、くん……」
「日向はかわいいから、きっと、これからいろんな男に告白とかされるんだろうなって」
「そんな……こと、」
「どんな男に想われても、僕のそばにいてほしいなんて、わがままだよね」
「う、ううんっ。私、暮村くんのそばにいるよ。……ほかの人なんて、ぜんぜん、いらないから」
僕は密着していた軆に隙間を作り、日向と視線を重ねた。日向は真剣にじっと僕を見つめる。僕はその目に微笑をこぼすと、もう一度キスをした──さっきより、少しだけ、深く。息が苦しくなって唇をちぎると、日向のなめらかな頬は真っ赤になっていた。
「今は、日向の気持ちが、そういうのは無理だって分かってる」
日向は紅潮した頬のまま僕を見る。
「でも、いつか僕のものになって。日向を、全部、僕のものにしたいんだ」
日向は頬に紅色を刺したまま、恥ずかしそうに目を伏せていたけど、きちんとうなずいてくれた。林檎みたいな日向の顔がかわいくて、僕はもう一回、軽く触れるだけのキスをする。日向は僕の背中に腕をまわしてしがみつくと、「私も暮村くんが大好き」と噛みしめるようにささやいてくれた。
この子が、その愛らしい心に寄り添った軆で、どんな女の子にも負けないお姫様になったなら。僕のものにする。誰にも奪われないように、きつくきつく抱きしめて、深くまでつながる。真っ赤になった、お姫様の林檎の頬にキスをして、甘酸っぱい愛を味わうのだ。
「暮村くん」
「うん?」
「私、女の子でよかった」
僕は日向の澄んだ瞳を覗きこむと、柔らかく微笑んでみせて、「うん」とその華奢な軆をぎゅっと抱いた。女の子でよかった。たくさんつらい涙を流して、いっぱい苦しい想いをして、それでも日向がそう思ってくれて僕も嬉しい。
レースカーテン越しの夏の日射しが、まばゆく白く射しこみ、僕たちの影をフローリングに作っている。その影のようにひとつになる日は、すぐには来ないけど。必ず来ることは僕たちは分かっている。
だから、僕と日向はこのままずっと幸せだ。ずっとずっと、日向は僕にとって一番かわいい女の子なのだ。
FIN
