ゲームオーバー
夢というものは、本当にあっけない。眠って見る奴も、起きて見る奴も、儚くてつかみどころがなく、いつだって余韻もなく消える。
どんなに尊い繊細さも、土足の現実には勝てない。夢の名残を守りたければ、現実の鎖を引きちぎらなくてはならない。そうしたら、手に負えないほど優しい夢も、たまには残ってくれるかもしれない。
もし、一生のあいだにそうやって叶う夢の数が決まっていたら、今のあたしの状態はどうなのだろう。まさか、本当に見つかるなんて。こんなの、あたしに何のご褒美があるのか。この夢の実現は大損だ。ため息が真っ白い。現実逃避の果てに、とんだ夢の無駄遣いをしてしまった。
目の前には、喫茶店がある。周囲に似たようなビルがちらほらする中の、雑居ビル一階に位置する、品のいい喫茶店だ。人の行き来に面したショウウィンドウで、暖かそうな明るい店内が覗けて、なかなかいい物件だ。客足も良さそうで──カウンターの中には、確かに、彼女がいる。
あたしは、ずっと彼女を捜していた。何年も、ヒマつぶしに。あたしにとって、彼女の捜索はお遊びだった。飽きるより見つかるのが先に来るなんて、思ってもみなかった。
たたずんでいると、黒いコーデュロイのミニワンピースに脚が固まってくる。晴れているのだけど、凍えた空に空気は冷えこんでいる。
一月で、お正月の浮かれ騒ぎも落ち着いたところだ。去年のクリスマスに雪が降った通り、男が何人いたっていい冬だった。ひとりぼっちじゃ指が麻痺して頭が痛くなる。
デニムコートの白いボアに首をすくめる。吐いた息は風にたなびく。強い風で髪がめちゃくちゃになるのは、女にとって大問題だ。寒くても、肩に届く長さの髪で無理なポニーテールにしてきたのはよかった。
ママに似て、きつく挑発的だと言われる目を細め、まあせっかく見つけたんだしな、とベロアの編み上げブーツのかかとを響かせて踏み出した。
路地に入ると、すぐ左手に〈POOL〉とある自動ドアがあった。プール。どういう意味でつけたのかしらね、と思っていると、ドアが開く。
肌をなだめる優しい暖房は、男の腕も天秤にかけてしまう。鮮やかな緑の観葉植物、深みのある白い壁、木目調の床、店内は広くて、二人がけと四人がけの席がパーテーションを使って整然と並んでいる。
レジを右手にすりぬけ、カウンターに直行した。
五脚あるスツールのうち、一番右の席には、あたしと変わらないぐらいの男の子が座って本を読んでいた。そして、その正面には“ゴール”がいる。
艶やかな黒髪、長い睫毛や凛とした目元、あくのない鼻や顎の線──赤い口紅ひとつで男を惹きつける貫禄がある。服装もぞんざいだ。
あたしは男の子の隣に腰かけると、彼女と目を合わせた。
「コーヒーくらいあるでしょ」
彼女はあたしを訝るように見つめ、接客業なのに何も言わずに、奥のキッチンに伝えにいった。
あたしは頬杖をつき、男の子が読む本を盗み見る。読んだことはないけれど、その題名と作家の名前は知っている。
視線を感じたのか、男の子はかたちはきついのに瞳の色はおとなしい、不思議な印象な目をちらりと向けてくる。笑みを作ると、男の子はうぶに肩をこわばらせて本に目を戻した。この街にも、こういう男はいるのか。
体温が癒えて、メタリックブルーの指先を意識していると、香りのいいコーヒーがさしだされた。受け取ったあたしは、相変わらず怪訝そうな彼女に、スティックシュガーをコーヒーにそそぎながら言う。
「あたし、砂糖の数ってママ譲りだから、そうしてくれればよかったのに」
彼女は目を開いた。隣の男の子も本から顔を上げ、あたしと彼女を見較べる。コーヒーをスプーンでかきまぜ、あたしは彼女ににっこりとした。
「久しぶりね。実樹ねえさん」
実樹ねえさんはあたしを凝視する。男の子はきょとんとしている。「杏里なの?」と確かめられ、あたしはうなずいた。
「十三年ぶりね」
「……ええ」
「元気にしてた?」
「杏里は」
「まあまあよ。今年受験生で、学校が憂鬱かな」
「学校なんて行ってるのね」
「男がいるもの。ねえ、あたし、実樹ねえさんがあたしたちの前からいなくなった歳だわ」
男の子は、本を読むのをやめてとまどっている。実樹ねえさんは男の子を向き、「テーブルに行っててくれるかしら」と言った。男の子はこくんとして、本とミルクティー、クッキーの入ったかごを持ってカウンターに一番近い四人がけの席に移る。男らしさには欠けていても、かわいい感じがいい。
「かわいい子ね」
「あの子には、どんな女も手を出せないわ」
「最強の女つきか。もしかして、実樹ねえさん?」
「男が好きなの」
あたしは眉を寄せ、男の子の細い肩幅の背中を振り返る。
「恋人もいるわ。最強の男」
「ふうん。最近ゲイが多いっていうけど」
「押し隠す人が減っただけよ」
「そうね。友達にもゲイぐらいいるわ」
「この街に暮らしてるの?」
「まさか。前のとこでもないけど。ママと暮らしてる」
実樹ねえさんは息をつき、睫毛の奥で瞳に愁いを織り混ぜた。綺麗だけど、絶対に見劣りしていない。どうしてあの男は、ママより彼女を選んだのだろう。
「ねえさんに言われて来たの?」
「あたしの勝手なヒマつぶしよ。十三のときからずっと捜してた。実樹ねえさんの昔の客に逢って、たどりつけたわ」
「なぜ来たの」
「理由なんかない」
「いまさらこうして私に会って、どうする気?」
「何もする気はない。会いたくなかった?」
実樹ねえさんは視線を下げ、「そうね」と吐き出すように言う。
「消えてほしい?」
「できればね」
「じゃあ、ひとつだけ教えて。あたしの父親、どうしてる?」
あたしと実樹ねえさんは見合った。ママを通じ、あたしと実樹ねえさんの目には、似た面影がある。実樹ねえさんは不快そうに睫毛を狭め、「あんな男に夢なんか見ないほうがいいわ」とつぶやく。
「そんなもの見てないわ。ただ、あの男はママを傷つけた。あの男は、今どうしてる?」
「知らない。五年近く会ってない。言っておくけど、彼はひどい男よ」
実樹ねえさんを見つめた。実樹ねえさんは、眉を顰めて顔を背けている。尋問を受けている顔だ。大した好奇心もなかったあたしは、「明日学校なの」とスツールを降りた。デニムコートのポケットから財布を取り出すと、「杏里」と実樹ねえさんは抑えた声で言う。
「ん」
「今度来なさい。私にだって、心の整理はいるわ」
「話したくなきゃいいのよ」
「ねえさんたちのところに帰るのは怖いわ。でも、伝えなきゃいけない真実もあるの」
「あなたは、姉であるママから、あたしの父親を奪って駆け落ちした。これに何か間違いでも?」
「あるわ」
あたしは微笑み、「よかった」と千円をテーブルに置く。
「実樹ねえさんはそんな女じゃないって、あたし思ってたのよ」
「………、ねえさんは私を怨んでるでしょうね」
「ママはそんなにバカな女じゃないわ」
あたしはカウンターを離れ、さっきの男の子がいるテーブルを通りかかる。男の子は身を小さくしてこちらを見上げた。「ゲイってなびかないから嫌いよ」と鼻で笑うと、あたしは〈POOL〉を出ていった。
外はいつのまにか陰り、空を仰ぐとさっきはなかった雲が現れていた。雪降るかなあ、と吹き荒れる寒風に身を震わし、人を縫って歩き出す。
腕時計を覗くと、時刻は十五時を過ぎていた。出かけたのが、あいつの家で昼食を食べた十三時前だった。こことあたしの家では、電車の往復で四時間近くかかるわけだ。
日中のせいかまばらな人通りが、少しずつ増えつつある。今日は日曜日だし、ここの人は週末のハメ外しに全力を費やすのだろう。
あたしはこのまま帰ろう。実樹ねえさんにも言った通り、そろそろ学校に顔を出さないと、家庭訪問なんかされたらたまらない。呼吸を白く流しながら毅然と歩き、危険な街を抜けて駅前に出ると、電車を乗り継いでいつもの街に戻る。
にぎやかな駅前を抜けて高台に出ると、静かな住宅街がある。あたしがママとこの住宅街に暮らしはじめたのは、八歳のときだ。あたしはママに養われていて、父親はいない。顔も憶えていないその男は、ママとあたしを置いて、ママの妹と消えた。
ママの仕事はファッションデザイナーで、何軒もブティックをオープンさせたり、二階建ての庭つき一軒家を持ったり、順調に自分の人生を生きている。
恋もしている。結婚を信じないママは、あたしの父親とだって、結婚する気はなかった。妹に男を盗られて傷ついても、引きずったりはしていない。こういうかたちの失恋もあると割り切り、やっぱり恋愛を大切にしている。
仕事や恋愛でママが帰宅しないのはしょっちゅうで、そんなときあたしは、お向かいの幼なじみの家にお邪魔する。そういう生活が七年近くになる。
父親は蒸発して母親は奔放で、ある種の大人が言うには、あたしの捻くれた性格は家庭のせいなのだそうだ。あたしはこの家庭を悪くないと思っている。父親なんていてもいなくても同じだし、ママは好きだし尊敬している。仲の冷めた両親が揃った清潔な家庭より、ずっと血が通っている。基本的に放置でも、失恋のやつあたりをされても、あたしはママに愛されている。だからあたしは、この家庭を定義する奴が吐きそうに嫌いだ。
【第二章へ】
