あたしのママ
翌日、呼吸が凍るようなきんとした朝に帰宅すると、リビングにすでに暖房がきいていた。
ダイニングを覗くと、ワインレッドのローブを羽織ったママがコーヒーを飲んでいた。流れる黒髪は湿っていて、ただよってくる甘すぎる匂いは、香水でなくシャンプーだろう。
髪に手櫛を通して顔を洗ったほかは寝起きのままのあたしに、「男に見せられたなりじゃないわね」とママはかたちのいい眉をひそめる。あたしは咲って、「芽留には見られたわ」とママの座る椅子の背後を通って冷えこむキッチンに抜ける。
「あの子はあんたにとって男じゃないでしょう」
「まあね。いつ帰ってきたの?」
「昨日の夜中よ」
冷蔵庫と食器棚に挟まれた低い棚の上に、電子レンジやポットが置かれている。あたしはキッチンの乾燥機に放りっぱなしのマグカップを取り、ポットのお湯でコーヒーをこしらえる。
「マリカさんは、男じゃないかって言ってたよ」
「仕事よ。春までいそがしいわ」
「春になったら、夏までいそがしいって言うんでしょ。今日はどうしてるの」
「昼から出張なの。用意に帰ってきたのよ」
「そう。あたしは学校に行くわ。そろそろ行っとかないと」
「留守電に担任のメッセージが入ってたわよ」
「何て」
「『進路希望を出してないのはお宅の娘さんだけです』」
あたしは笑い、砂糖をひとつ落とした。ひと口飲んでみると、苦いより熱い。胃から軆がじわりとほぐれ、寒さの震えが落ち着いた。指先も、熱を受けた陶器に溶けていく。
「中学卒業したら、どうするの?」
「分かんない。芽留には高校行ってみればって言われた」
「あの子が」
「高校っていうのは、勉強するところじゃなくて、将来をじっくり考えてみるところなんだってさ」
「芽留くんらしいわ」とママは微笑んで、カップに艶めく唇をつける。芽留がゲイだと知り、けっこうがっかりしたのはママだったりする。あたしは芽留に男としての興味はなかったので、打ち明けられたときも淡々としていた。
カーテンに閉ざされた窓に背を向け、あたしはママの正面の椅子を引く。
「ぎりぎりになって何も思いつかなかったら、高校行くかも。でも、受かるかな」
「入試がないような高校なんていくらでもあるわ」
「ランク低いとこ」
「そんなの入学しても、あんたには退学を前提にしたようなものでしょう。合格が勉強だけじゃないところもあるわ」
「先に願書とか出しておかなきゃいけないんでしょ」
「入学が四月とは決まってないと思うわ。行きたければ、都合のいいところ探してあげるわよ」
「母親みたいね」
「母親だもの」
あたしは笑みを作り、カップを手のひらに抱いてコーヒーを飲む。
カップを支えるママのすらりとした指先は、シャワーを浴びたせいかマニキュアが落ちている。化粧もしていなくて、それでも、ママは美人だ。ビューラーのいらない長い睫毛、あたしがくっきり受け継いだ挑発的な瞳、鼻筋も顎も危うく柔らかい。肌もしっとりしているし、若いうちにあたしを生んでしまって軆の曲線も乱れなく色がある。三十五になるけれど、断然、女だ。
あたしもママみたいに、いつまでも女を捨てない女でいたい。仮に家庭を持ったとしても、たとえばマリカさんはきちんと女だ。かっこいい女に囲まれていると、おばさんになるわけにはいかないなと決心させられる。
コーヒーの水面で自分の目を見て、実樹ねえさんもこういう種類の目だったなと思う。でも何かが違った。たぶん、実樹ねえさんの瞳は、あたしやママより愁いを含み、視線の先が頼りなかった。
「ねえ、ママ」
「何」
「今、気分いい?」
「まあまあね」
「あたし、昨日、実樹ねえさんに会ったの」
ママはあたしを見た。あたしもママを見る。途端、ママは吹き出し、笑い出した。「笑うの?」とあたしは拍子抜けて顰蹙する。
「嘘じゃないのよ」
「嘘なんて言ってないわ。ほんとに見つけるとは思ってなくて」
「あたしもそう思ってた」
「ほんとにあの子?」
「あたしの名前言い当てた。ママのことも気にしてた」
「そう。生きてたのね」
「マリカさんが、生きてるのだけは教えたほうがいいって」
「そう。そうね。ありがとう。ひとつほっとしたわ」
意外な反応に、あたしは息をついてしまう。深刻そうに、どうだったか問いつめられると思った。まあ、ママは気だるく気取った女ではない。それほどつまらない女もない。ママは思いも寄らないところで豪快だ。
「とうさんやかあさんには教えないほうがいいわ。もし、あの子がここに戻ってきたくないって言うならね」
「黙ってる。ママに会うのは怖いとも言ってた」
「あたしも怖いわ」
「でも、伝えなきゃいけない真実があるって」
「来いって?」
「あたしがね」
「そう。じゃあ、聞いてきなさい」
「駆け落ちじゃなかったんだね」
「そんなのとっくに分かってたわ」
「そうなの」
「どうせ、悪いのはあの男なんでしょう。それで、バカだったのはあたしだわ」
ママを見つめた。ママは微笑し、カップに口をつける。カーテンの隙間に蒼い朝陽を感じながら、あたしも舌に心地いい温度になったコーヒーを喉に流す。
「今日学校に行くなら、教師がうるさいわよ」
「家に来られるよりマシ。先公が来たら空気腐っちゃう」
「適当にあしらっておきなさい。あんたが進みたい進路なら、あたしが面倒見てやるわ。親身面されたくなければ、無視することね」
「分かった」
「学校って奴は、未来をさっさと縛りすぎていただけないわ。芽留くんの言う通り、考えたいなら高校時代を利用しなさい。教師に急かされるからって、杏里自身を見失うことはないわ」
うなずいたあたしは、いつも通り、この人が母親であることに感謝する。
ママはあたしを甘やかすことはしなくても、すごく信じてくれている。母親というものに浸かりすぎず、自分を失ってもいない。それはママを、母親以上のひとりの女として見せる。ママは強いのだろう。あたしも、それを血に継いでいればいいのだけど。
「シャワー浴びてくるね」とコーヒーを飲み干すと、椅子を立ちあがる。
バスルームに行く前に、部屋に着替えを取りにいく。薄暗い室内は外気のまま寒く、せめてカーテンを開けると、金の粒子が冬の静けさを通り抜けた。時刻は六時半だ。ベッドサイドに腰かけてマニキュアを落とすと、つくえの脇にかけるセーラー服を取り、中に着こむシャツや下着も選ぶとバスルームに行った。
寝汗を流して髪を整え、近づく登校時刻に億劫な気持ちでバスルームを出る。バターの匂いがするキッチンを覗くと、ママが朝食を作っていた。
「食べる?」と問われて、一応うなずく。あたしは朝は食欲がなく、でも、食べないとめまいやいらつきに取りつかれる。食べすぎると今度は吐き気がするので、ママもそれは承知して、トーストやサラダという軽いものにしてくれた。
出張からは三日後に帰ってくるのを聞き、「マリカによろしくって言っとくわ」とママはスクランブルエッグをすくう。ちなみに、芽留の家だと朝食が和食だったりするので衝撃だ。無難に胃をなだめたあたしは、「ごちそうさま」と時間を気にして部屋に駆け戻る。
鏡の前のクッションに座りこみ、眉を描いたりリップを塗ったりする。唇には下にクリームを塗って、そのあと色を乗せる。目立つ色だと先公につかまるので、おとなしい色だ。大人っぽすぎず、でも青春しすぎもしない現在愛用している香水で清潔なシャンプーの匂いを消すと、あたしは鏡を睨む。
ママそっくりの、きつくて挑戦的な目だ。黒髪や赤い唇といった彩りはママに似ている。でも、頬や顎の線や鼻梁という基礎は、父親のものなのかママより削れて鋭い。軆もママほどふくよかではなく、すらりとしたほうだ。肢体はしなやかに長くても、危ういメリハリはない。「つまんない女」と鏡に顰め面でつぶやくと、爪に淡い水色のマニキュアをさっと塗り、香水をふわりとさせて立ち上がった。
教科書で重いスクールバッグを肩にかけ、学校指定の白いナイロンのウィンドブレーカーを着たあたしは、深い紫で指先を仕立てたママに見送られて家を出た。
空気はしっかり冷えこんでいても、空は青く晴れていた。あたしの通う中学校は、この住宅街と団地街の境に位置する商店街付近にある。つまり駅前ではないため、坂は下らず登りつめ、うんざりしそうに長いコンクリートの階段を降りて高台を越えなくてはならない。帰りなんか、今度はその階段が登りになる。そんなんだから余計行きたくないんだよなあ、と白いため息をついて十字路を渡ろうとしたとき、名前を呼ばれて顔を上げる。
芽留だった。庭に出てきて、「やっほー」と植木の椿のあいだから手を振っている。強い風が吹いてスカートより髪を抑えながら、「今起きたの?」とあたしは芽留の下に行く。紺のフリーツ生地の上着に包まる芽留はうなずき、「いい身分ね」とあたしは毒づいた。
芽留は笑い、「早退するならママにお昼ごはん頼んどくよ」と風に息をたなびかせながら言う。あたしは考え、「夕ごはんは頼むわ」と答えた。承知した芽留は震える身をすくめ、「さぶ」と鼻をすすりあげる。
「風邪ひくわよ」と言ったあたしに芽留はこくんとして、「学校頑張ってねえ」と応援をよこして避難していった。あんなのんきな登校拒否児があっていいのだろうか。あきれた息をつくと、あたしは学校に向かった。
【第五章へ】
