恋の名残
学校は相変わらずだった。教師は隙あらば進路について聞き出そうとし、クラスメイトには黙殺される。あたしは教室では嫌われている。特に女子からの無視がすごい。一年生のときは、いわゆる囲みもされたが、今はそれすらない。どうせ嫉妬だ。男は引いて見ないふりをするか、興味をしめしてくるかのどちらかだ。
興味をしめす男にはあたしは咲っておくので、また女子に男好きだとささやかれる。あんたたちだって遠巻きに発情してんじゃん、と思っても何も言わない。あたしは、好きな人に遠くからときめくだけという純情なんか嫌いだ。
「高校に行かないでどうする気なんだ」
昼休み、焚かれるストーブの換気に開け放たれる窓から、灰色の冷気にかすむ景色を眺めていた。冷たい風が髪を冷えこませ、頭痛につながる。寒いので生徒はほとんどどこかに移動していて、あたしは寒風に目を細めてこわばった頬に触れていた。
すると、いつのまにか忍び寄ってきた担任教師に通例のお説教をされた。「高校行くか分かりません」と言うと、ママと同年代の男の教師はわざとらしい、でも本気らしいショックを受けた顔になってそう言った。あたしは、軽蔑と倦色を綯い混ぜた冷めた目を彼に向ける。
「したいことするんじゃないですか」
「高校にも行かないで遊びほうけるのか。お前が思うほど、社会は甘くないんだぞ」
「あたし、学歴で生きるつもりないんです」
「学歴じゃない。もっと、高校で勉強しなきゃいけないこともあるだろう」
「たとえば」
教師は口ごもった。あたしは彼を一瞥して、閑散とした校庭を三階から俯瞰する。
「したいことって何なんだ」
「え」
「お前には夢があるんだな」
「は?」
「学歴や勉強より優先したい夢があるんだろう」
あたしはうんざりして、この場から立ち去りたくなる。こういう積極思考が、あたしは嫌いだ。ママも言っていたけど、学校は未来を定義しすぎる。あたしはその早急な感覚が理解できないし、ついていきたくもない。
「先生に教えてくれないか」
「え、何を」
「お前に夢があるなら、それに沿った進路を一緒に考えていこう」
「………」
「お前のおかあさんだってそうしてほしいはずだ」
「あたしの母は、教師に急かされて未来を台無しにするなって言ってましたけど」
またも教師は口ごもった。「トイレ行っていいですか」とあたしは続け、しかし先公もそれが口実なのは分かっている。「お前とゆっくり話したいんだ」と言った彼に、あたしはこういう男には絶対きく言葉を進呈する。
「生理なんです」
まさか下着を下ろして真偽を確かめるわけにもいかない教師を逃れ、あたしは屋上への階段でヒマをつぶした。この学校は屋上に自由に出入りできるので、不良の溜まり場にはなっていない。裏庭や非常階段、溜まれる場所がほかにもある。
右手の人さし指のマニキュアに小さな傷ができているのに気づいていると、「杏里」と声がして目を上げた。
直哉だった。一時期ちょっとつきあった、この学校の落ちこぼれだ。髪を茶色に染めてピアスをして、顔は悪くなくても変なものを吸っているせいで細身だ。
実樹ねえさん捜しの中でもっといい男に出逢い、あたしがその男に入れこんで長く学校をサボっているあいだに、関係は自然消滅した。けれど、彼はあたしに気を残している。「久しぶりだな」と隣に腰かけた彼に、「そうね」とあたしは微笑む。
「サカモトにつかまってたな」
「誰、サカモトって」
「お前の担任じゃん」
「ああ、あいつ。ああいう男、嫌い」
「俺も」
「あれ、あんたって男もいけたっけ」
「冗談。何でだよ」
「ああいう男じゃなかったら好きってことなんじゃないの」
直哉はあたしをはたき、あたしは笑う。ここは冷えるので息は薄く色づいた。
「お前さ、どうすんの」
「何が」
「進学とかさ」
「あんたまで言うわけ」
「いや、俺もそうだからさ。やっぱ高校行かされちまうのかな」
「行きたくないのね」
「行ってどうするって感じ」
「親はどう言ってんの」
「俺の母親は、お前のママみたいにあったかくねえよ」
直哉の両親は、彼が小学生のときに離婚している。引き取った母親は働きづめで、直哉は愛情に飢えすぎてひねくれた。
「寒くない?」と直哉はあたしを見て、あたしはうなずく。彼はあたしを抱き寄せ、うなじに顔をうずめてくる。
「ああ、この匂い覚えてる。嗅ぐだけでいけそう」
「やめてよ」
「お前がお嫁さんになるなら、更生してもいいかも」
「………、卒業したら逢えなくなるね」
「ああ」
「不安なの?」
「もう俺、たぶんダメだよ」
「ダメ」
「お前に逢う機会もなくなったら、めちゃくちゃだと思う」
あたしは彼のぱさぱさの髪を撫でると、「可哀想」と言った。直哉はあたしを抱きしめ、香水の匂いを必死に覚える。あたしは彼に、香水の名前を教えてあげることしかできない。
彼はあたしに手を出したかったのだろうけど、一抹の自制でそれを留めた。チャイムが鳴って、「卒業まで二ヵ月あるわ」と彼をなだめると、あたしは直哉とそれぞれの教室に別れた。
放課後は生徒の濁流に紛れて呼び出しを逃げ切り、登り坂の階段にたっぷり運動させられて家に帰った。ママはいなくて、制服を着替えると芽留の家に行った。
「疲れた」とリビングのカウチに横たわるあたしに、芽留はミルクティーを淹れてくれる。ミルクティーといえば、実樹ねえさんの店に来ていた男の子も飲んでいた。いつ行こうかなあ、と思いながら、ひとまずあたしは、芽留ののんびりした話で学校で蓄積した不快感を削ぎ出した。
実樹ねえさん捜しがなくなり、あたしは、しばらくそういう生活を続けた。学校には一日いると滅入るので、気分に合わせて遅刻したり早退したりする。
普通の生徒には、遅刻や早退は教師の許可がなければとんでもないことみたいでも、実際にはたやすいものだ。休み時間の混雑に混じり、さりげなく入りこんだり消えたりする。
夜は家でぼんやりしたり、芽留の家で夜更かししたり、駅前で人混みを眺めたりする。心の奥では将来にかかるもやが晴れなくても、あたしはぎりぎりまで何か見えるのを待っていた。
「ねえ芽留」
「ん」
「あんた、誰か好きになったことある?」
その夜は、雪が降っていた。あたしと芽留は、天窓の下に並んでふとんを敷いて横たわっている。ガラスに降りそそぐ粉雪を眺めて、あたしは何心なくそう言った。
「んー、ないかなあ」
「恋、したい?」
「そりゃあね。でも、どうやったらほかのゲイに知り合えるか分かんない」
「ゲイがいいの」
「ストレート好きになったって、失恋するだけじゃん」
「口説くだけ口説いてみたら」
「僕は僕と同じように、男が好きな男と恋愛したいな。それが自然でしょ。無理がない。ストレートと恋するのはきっと心が窮屈だよ」
白い雪が闇にきらめくのを見つめる。
あたしと芽留では、芽留のほうが賢いと思う。学校に行っていないせいか、考えたことを脚本を通して残しているせいか、視点が澄んでいる。
「どうして」と芽留は身動ぎに衣擦れをさせてこちらを向く。
「杏里、好きな人できたの」
「いや、ここんとこ、まじめに誰かを好きになってないなあって」
「まだあの人忘れてないの」
「忘れたわよ」
「それ以上の恋した?」
「………、してないけど」
「杏里は情が深いんだよね」
「浅いわ」
「深いから浅いふりするんだ。簡単に心使うには、世の中は軽薄だもんね」
「あの人には使ったわ」
「それで裏切られたから、杏里はまじめに誰かを好きになるのが怖いんだ」
あたしは芽留を見た。芽留の瞳は、色合いが色合いなので、真剣にしたって何か穏やかだ。
「ママはいつも心を使ってるわよね」
「だから、小梢さんはかっこいい」
「あたしの恋はみじめなのね」
「けっこうねえ」
「あたしはママに似てないわ。父親に似ちゃったのよ」
視線を落として天窓に戻した。闇から舞い降りてくる雪は、雲でなく空中から自然発生したようで神秘的だ。芽留も天窓を向き、しばし、沈黙に風が雨戸を揺らす音が響く。
「杏里」
「ん」
「ママとかには内緒だよ。僕、ときどきは思うんだ。ゲイじゃなくて女の子を好きになれたら、もっと自由だったのにって」
「え」
「思ったあと、自己嫌悪になれるけどね。僕、普通のゲイより恵まれてると思うよ。でも、この家が一生僕の世界ってわけでもないでしょ」
「……そうね」
「外にはいっぱい僕を不安にさせるものがある。どっかでは、男に捨て身になるのが怖いんだ。そうして襲ってくるものに、勝って誇りを守れる自信がない。で、ぬくぬくのおうちにいて恋愛する機会を逃げてる」
風が声を上げ、窓が不穏に鳴った。「みじめね」とあたしはつぶやき、「うん」と芽留は返す。あたしたちは声を出して咲い、「杏里は僕よりマシだよ」と芽留は言う。
「僕なんか、傷ついてもみないうちからビビってるんだ」
「ふふ、もったいないよね。芽留はいい恋できそうなのに」
「分かんないよ」
「あんたとつきあってみたいって男、いそうだな」
「そうかなあ。どうすればそういう人に逢えるかな」
「ゲイバーとか行って漁れば」
「怖いよ。まず寝るみたいな感じなんでしょ」
「じゃ、映画作って引き寄せればいいじゃない。共感するって、心が通じるってことだし」
「なるほど」
「あんたは才能あると思うしさ」
「杏里は、小梢さんの強さ受け継いでると思うよ」
あたしと芽留は顔を合わせ、また咲った。「そうだね」と一応受け取って肯定しておく。そうだといいとは、あたしも思う。「好きな人となら、常識がつらくても頑張れるかな」と芽留はつぶやき、あたしはうなずいた。
あたしたちはまた雪を見ていて、そのうちどちらからともなく眠ってしまった。
二月に入った風の強い日、その日は二日間だけ帰国するというトモキさんの元に行くため、芽留の家は留守だった。ママも仕事で、あたしはヒマつぶしに学校に行った。午前中で疲れて早退しても、今日は芽留ののんびりした癒しもない。
どうしよ、と制服でぶらついていると、怠けた朝食に空腹がやってきた。ファミレスに行くお金はあるけれど、この時間に制服なんて怪しまれるだろう。家に帰るか、と思ったとき、実樹ねえさんのところに行くのがあのままになっているのに気づいた。足を止めて考え、どうせ気分転換もしたいしな、と駅に向かった。
一度帰って制服を着替えるべきかと思っても、そうしたらあの魔の階段が避けられなくなる。重たいスクールバッグだけ駅のロッカーに預けて、その足であの街に行った。
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