こもりうた
あたしは彼がしている書き物を覗き、「小説か何か?」と訊いてみる。
「あ、まあそんなものかな。実体験を小説にしてるんだ」
「君の」
「ううん。えと──」
彼は隣に放っていたデイパックを取って、数日前に恋人にいじられていた封筒の束を取りだした。「こんな手紙書いてくれた人の」と紗月は言う。
「なあに、その手紙」
「心の傷の告白」
「………、君、カウンセラーか何か」
「ううん。僕が出してるペーパーに載せるんだ。心でじめじめしてる傷を表に出して、さらして、乾かそうって。でも、そのままだと生々しくて押しつけがましいから、僕が小説にリライトして載せるんだ。もちろん、リライトしたものを出してくれた人に添削してもらってね」
「むずかしそうね」
「うん。でも、けっこう読んでくれる人も手紙くれる人もいる。他人の傷なんかほっとけばいいとか、不用意に傷をさらすのは目障りだとか、たたかれることもあるけどね」
紗月は手紙の束を大切にデイパックにしまう。そういえば、よく見るとノートの隣には一通広げられた手紙がある。
「僕、外でつらいことがあったんだ。弓弦に逢って、それをいっぱい聞いてもらって、すごく楽になった。その幸せを分けてあげたいとかじゃないんだよ。ただ、心をさらせる人に出逢えない人もいるんじゃないかって思ったんだ。そしたら、聞いてほしくてもじめじめさせておくしかないでしょ。でも、内的なものはそんな外的なことに合わせて都合つくものじゃない。自由に告白できる公共のものがあってもいいんじゃないかって」
「すごいね」
「え」
「そういうの思いついて、実行するって。あたしなんか、進路希望で悩んでるよ」
「弓弦の恋人だからだよ。弓弦ってこの街で顔がきくんだ。名前貸してもらって流通させやすくて」
「え、顔きくって、あの人まだ二十歳ぐらいでしょ」
「十八だよ。弓弦は子供の頃からこの街に出入りしてるんだ。実樹さんにお小遣いとかもらって」
「お小遣い」とあたしは実樹ねえさんを見て、「私があの子に女を教えたの」と実樹ねえさんは悪戯に言う。
あたしは息をついてしまう。けっこう、したいことはしていたのだろうか。
「つらいことって、たとえばどんなが来るの」
「虐待されたとか、イジメられたとか。最近は失恋とか来るときもあるけど」
「そんなのって、そうざらにあるの」
「この街ではね。全国じゃなくて、この街で募ってるんだ。だいたいみんな過去かな。たまに現在の人もいるけど、ほとんどは子供の頃のこと。だから、タイトルは〔こもりうた〕って言うんだ」
「こもりうた」
「こもりうたって、子供の平和の象徴だと思うから。僕に手紙くれる人は、子供の頃、こもりうたどころか安心して眠ることもできなかった人たちなんだ」
あたしは書きかけの文章を見て、「重たいね」と言った。「これぐらいしかできないし」と紗月ははにかみ咲う。ゲイで、物を書いて──芽留と仲良くなれるんじゃないかしら、と思う。それとも、似過ぎて反発が生じるだろうか。「弓弦はいろんな人の支えになってるんだ」と紗月はシャーペンをいじる。
「僕も僕のやり方で、弓弦の強さに追いつきたかった。しなだれてるだけは嫌なんだ。僕も弓弦を支えたくて」
「彼が好きなのね」
「う、うん」
「大丈夫よ。彼には興味ないわ。興味っていえば、どちらかというと、こないだあたしの帰り際に来てた美少年」
「来夢さん」
「来夢。変わった名前ね」
「源氏名なんだって」
「………、意味がよく分からないんですけど」
「来夢さんは男娼なんだ。来夢っていうのは、その源氏名」
こめかみを抑えて考えこんだ。源氏名。男娼。彼はやめておいたほうがいい──実樹ねえさんに顔を上げると、にこやかにされた。
「そういうこと」
「それもあるわ」
「も」
「来夢さんは恋愛しないんだ」
「え、何で」
「これまでにいろいろあったから」
「………、マジで訳有りなんだ。男娼って、彼、ストレートなんでしょ」
「売り専なんだ。お金のためには男と寝るって」
「そんなのあり」
「できる人みたい」
「すごい貞操観念ね」
「僕は来夢さんのことよく知らないけど、弓弦はよく知ってるよ」
「恋人くん」
「親友なんだ。小さい頃からずっと一緒にいる」
「……はあ」
「本気なら、私の忠告なんて無視してもいいのよ」
一笑する実樹ねえさんに、「厄介な恋はする気力ないな」とあたしはコーヒーをすする。“来夢”が源氏名なら、と本名を尋ねると、紗月は知らないのだそうだ。彼は本名が嫌いで捨てているのだという。親友である紗月の恋人くんは知っているらしい。でもあの男あたしを嫌ってるし、とため息をつく。
実樹ねえさんは仕事中でもあるので、ふたりで話しているうち、紗月とはけっこう打ち解けた。「女の子とこんなに話すの初めて」と紗月は言って、「恋人じゃない男と話すの幼なじみ以来」とあたしも言う。
例の〔こもりうた〕のバックナンバーを読ませてもらったりした。小説といっても、さらさら書けるプロではない上、紙面も限られているので、執筆に手間がかかって発行は不定期なのだそうだ。内容はけっこうきていて、お菓子片手にさらりと読む類いではなかった。何回かに分け、連載というかたちになっているものもある。「これ、全部紗月ひとりで書いてるの」と訊くと、書き物を再開している彼はうなずく。プロじゃなくても文才あるんだわ、とあたしはお代わりした熱いコーヒーをすすり、深刻な顔になりながらそれを読んだ。
そうしていて、紗月の恋人の弓弦くんが〈POOL〉を訪れたのは突然だった。
「紗月」
肩にリュックをかけ、黒いナイロンジャケットにジーンズを穿いた彼の声に、紗月は顔をあげて笑みになった。彼は紗月に微笑み返しながら、隣のあたしに敵愾心をちらつかす。ガキっぽい奴、とあたしは〔こもりうた〕を置いてコーヒーを飲む。
「遅かったね」
「ちょっと変な奴が入ってきてさ」
「大丈夫だった?」
「もちろん。原稿できた?」
「まだ下書き。うまくまとまらなくて」
「っそ。俺飯食ってくからさ。あっち行こうぜ」
紗月はあたしを見て、あたしは微笑した。弓弦くんはあたしと紗月の瞳の疎通に不審そうにしながら、「何か適当なもんください」と実樹ねえさんに注文する。請け合った実樹ねえさんは奥に行ってしまう。紗月は散らかしたものをまとめはじめ、あたしは弓弦くんに目を向けた。
「来夢って男と親友って、ほんと?」
弓弦くんはあたしを見て、彼に惹かれる女ならぞくぞくしそうな鋭い眼光を突き刺してくる。
「だったら何だよ」
「彼の本名教えてよ」
「断る」
「義理堅いのね」
「あんた、こないだから何なんだよ」
「実樹ねえさんに会いにきただけよ」
「実樹さんの何なわけ」
「親戚って自分で言ってたじゃない」
「この街じゃ、血のつながりなんか何の言い訳にもならないんだぜ」
「そういう発言って、家庭が不幸でしたって白状してるようなものだから、やめといたほうがいいよ」
弓弦くんは眉をあげ、あたしは鼻で笑った。紗月はノートを抱いてはらはらしている。「やめなさい」と実樹ねえさんが戻ってくる。
「どっちに言ったんですか」
「弓弦よ。その子は私の姉に育てられた子だわ。男なんか敵わないわよ」
「こいつ、ムカつきますよ」
「女が男の手に負えてどうするのよ」
実樹ねえさんには弱いのか、弓弦くんは口ごもる。「弓弦」と紗月が小さく言って、彼を見た弓弦くんは瞳をやわらげた。けれど、あたしに目を向けなおすと、やっぱり瞳は険しくなる。
「お前にはあいつは無理だよ」
「どういう意味」
「お前が思うほどあいつは簡単じゃない。親友として言うんだぜ。お前にあいつの女になる資格はない」
あたしは息をつき、彼を見ると、右手を振りあげてその頬を思いきり引っぱたいた。破裂の衝撃が手首に伝い、店内中がその鋭い音にぎょっとする。たたかれた本人も目を開き、紗月もぽかんとする。あたしはスツールをおり、茫然とする弓弦くんを横目で睨んだ。
「外の女だからってナメんなよ」
彼はもう一度目を開いた。コーヒーを持つ実樹ねえさんが、「だから言ったでしょう」と弓弦くんの失態を肯定する。
あたしは代金をはらって、「今日楽しかった」と紗月に言った。彼は弓弦くんを気にしながらもうなずき、「また来てね」と言う。あたしは微笑み、「仲直りは今度ね」と弓弦くんの肩を軽くたたくとその脇をすりぬけていった。
〈POOL〉と書かれた自動ドアをくぐって、夕暮れに冷えこみはじめる通りに出ようとしたとき、ビルの入口に立つ人がいることに気づいた。わずかに目を見張る。
“来夢”だった。ベージュのコーデュロイジャケットに、ワイドストレートのジーンズを穿いている。彼は睫毛の長い大きな瞳であたしを眺め、あたしも立ち止まってしまう。彼は風に奪われる白いため息をつくと、店内に入るすれちがいざまにつぶやいた。
「すげえ女」
振り返った。彼はそのまま店内に行ってしまった。
すげえ女。褒めてないよな、と確認し、ちょっと羞恥を覚える。一瞬考えたけど、結局振り切るように足を踏み出し、空が濃紺に侵蝕される中で街をあとにした。
【第九章へ】
