ゆめがたり-13

謎の行動

 教師を丸めこんで後腐れなしに中学を卒業し、あたしはママが見つけた通信制の高校に四月に入学した。
 あんな中学時代で受かるものかしら、と思っていたけど、本当に試験もなしに面接だけで受かった。高校ってこんなもんなのか、と世に聞く受験戦争とかけはなれた合格に拍子抜けもした。かくしてあたしは、中学時代と変わりない、気が向けば学校に行くというモラトリアム生活を続行した。
 高校のことに構っているうちに、季節は初夏を帯びていた。色鮮やかな春は、雷をともなう雨にもぎとられ、桜も桃色の花びらを雨に流して、新緑にすがたを変える。凍りついて低かった空は、春雷を含んだ黒雲に覆われたあと、高く澄んだ青に白いちぎれ雲を浮かばせるようになった。抜ける風も冷酷さを失くして柔らかく、陽射しも暖かく肌になじむ。
「神様がお昼寝しろって言ってんだねえ」と白昼を天窓の下でごろごろと過ごす芽留の隣で、あたしはポテトチップスをかじって小説を読んでいる。
「あー、杏里」
「んー」
「ぽかぽかですねえ」
「そうですねえ」
「ねむたーい」
「寝れば」
「ママのお昼ごはん食べたら、みんなのとこ行くんでしょ」
「あんたは置いていってもいいのよ」
「やだあ、僕も行く。こないだのひどいよ。僕置いて勝手に行ってさ」
「ひとりで行くのがダメだっていうの」
「誘ってくれたっていいじゃん」
「そろそろひとりで行けるようになりなさいよ」
「ケチー」
 あたしは無視して塩味の唇を舐め、ポテトチップスを手に取る。芽留は仰向けになると、なごやかな光に幸福そうにした。
「紗月くんどうしてるかなあ」
「さあね」
「杏里はこないだ逢ったんでしょ」
「いなかったって言ったでしょ。来てないときもあるみたい。逢ったのは弓弦よ」
「弓弦くんってバイなんでしょ」
「そうね」
「杏里と大丈夫かなあ」
「あんなに紗月にべた惚れしてる男、惹かれる気も失せるわ」
「来夢くんがいるからでしょ」
「……もう、あいつ分かんない。ママもやめといたほうがいいって言ったし」
「でも、杏里の好きにしろとも言ったんでしょ」
「あたしはママに思われてるほど強くないわ。死んだ女に執着する男なんか、経験不足よ」
 芽留はごろりとうつぶせになると、ポテトチップスを何枚か一気に口につめこむ。「どんな女の子だったのかな」ともぐもぐ言われ、「さあ」とページをめくると、芽留は口の中のものを飲みこんだ。
「忘れられないぐらい、いい子だったのかな。忘れがたいシチュエーションで亡くしたのか。何で死んだと思う? 事故。病気。離婚」
「最後の変よ。自殺なんてどう?」
「あー。でも、来夢くんいたわけでしょ。いや、別れて未練してたとこで死なれたのか」
「関わらないに越したことないのよ」
「もお。そろそろあの人も時効でしょ。恋してみればいいのに」
「あたしもあいつも、差はあっても恋愛に欠陥があるの。うまくいくわけないわ」
 芽留はポテトチップスをかじって、「相手がいるだけいいじゃん」と仰向けに戻る。
 あたしは芽留を見た。煌めきを織りまぜてさしこむ陽光に、芽留の睫毛や前髪の先は光の微粒子を踊らせている。相手がいるだけ──どうとも答えられず、小説に目を戻した。
 マリカさんお手製のオムライスの昼食のあと、あたしと芽留は〈POOL〉に出かけた。芽留が好んで遠出するようになったのを、マリカさんは喜んでいる。先月のマリカさんの誕生日に帰ってきたトモキさんも、同じく感慨深そうに歓迎したそうだ。
 マリカさんはあたしの卒業式の日にご馳走を作ってくれたのだけど、同席したあたしのママにも、安堵と期待を混ぜて息子の新しい行動を語っていた。マリカさんは芽留の友達を見てみたいそうでも、あの街に暮らす人間は“外”に出るのを極端に恐れている。なかなかむずかしくて、仕方なくマリカさんはあたしと芽留の話で紗月や弓弦をつかみ、悪い友人ではないのにほっとしていた。
 芽留は街を歩くのにも慣れ、きょろきょろもぎょっともしなくなった。「あの店行ってみたい」と興味をしめすぐらいになっていて、とはいえ、「勝手に行け」と言うと、「ひとり嫌」という幼稚も残している。「紗月くんにつきあってもらおうかなあ」とつぶやく芽留とあたしは、だいぶ通い慣れた〈POOL〉の自動ドアをくぐる。
 紗月たちに溶けこんで以来、カウンターの手前のテーブルを確かめるのが習慣になった。暖房は消えても室温の心地よい店内に踏みこむと、今日もそうする。
 そして、つい眉を寄せた。そこでは、紗月と来夢が同席していた。同席はともかく、向かい合っているのでなく、奥の紗月の隣に来夢が腰かけている。しかも、デイパックを抱いてうつむく紗月を、来夢は身をかがめて覗きこんでいる。
 何事、と思っていると、「あれえ」と芽留があっけらかんと声を上げた。
「紗月くん、どうしたのー」
 芽留はテーブルに駆け寄って、あたしはカウンターの実樹ねえさんと顔を合わせた。実樹ねえさんは肩をすくめ、あたしもとりあえずテーブルに歩み寄る。
 紗月は芽留の声に顔を上げ、来夢もそうした。「浮気?」と芽留は平然と訊いて、泣きそうだった紗月は慌てて首を振る。「俺より彼のほうがいいよね」と来夢は席を立って、芽留を紗月の隣に座らせた。「どしたの」と芽留は紗月を覗き、紗月は言いよどんでうなだれる。
 テーブルのそばに立ち止まったあたしは、必然来夢の隣に立つ。彼を見上げると、彼もあたしを見下ろした。
「何かあったの」
「弓弦とね」
「喧嘩?」
「滅多にしないよ」
「ぜんぜんじゃないのね」
「……ぜんぜんかな」
 あたしは咲い、「あんたってこの時間帯、寝てんじゃない?」と訊く。「休みなしにやってられっか」と彼は答え、納得する。男は絞られるのは限界があるだろう。彼とまともに口をきくのはこれが初めてだった。が、意識する前に、彼は紗月と芽留の正面の席にすべりこんでしまう。
 繊細な手のぞんざいな手つきで、彼は食べかけのシーフードパスタとコーヒーを引き寄せる。どちらも湯気は立てていなくも、コーヒーの香りはまだ強い。紗月の前には何もなかった。
 フォークを手にした彼は、「俺が言ってあげようか」と大きな瞳で紗月をちらりとする。ただでさえおとなしい瞳の色を弱くする紗月は、小さくうなずいた。彼はフォークでパスタをつつき、「俺がこれ食べてたら」と注目する芽留とあたしに言う。
「紗月くんが来てさ。泣いてて」
 芽留は紗月を見、あたしも彼を一瞥した。言われてみれば、瞳が赤くて釣り目に沿った睫毛が湿っている。
「『どうしたの』って訊いたら、弓弦が道端で女とキスしてたって」
「は?」
「ここ日本だし、キスなんて挨拶じゃないよ。『弓弦』って声かけたら振りむいてビビって、でも、紗月くんは無視してホテルに女と消えたって」
「ホテル」
「いかがわしいわね」
「そのあとどうなったかは不明」
「キスって──角度でそう見えたりねえ。ていうか、何で紗月くんそんなん知ったの。見たの」
 紗月はうなずき、「えー」と芽留は信じられないように席に浸かった。あたしも同感でも、紗月はくだらない嘘で騒ぎを起こすタイプでもない。といって、弓弦に浮気の甲斐性があるとも思えない。「ほんとに弓弦くんだったの」と芽留に確認されても、紗月はうなずいた。
「呼んだら、振り向いたし」
「あ、そっか。しかし、女の子ってどんな。ていうか、どのへんで見たの。いつ」
「質問を整理しなさい」
「え、えと、じゃ、どんな」
「弓弦の影にいて、よく分かんなかった。でも、普通の人。きらきらしてなくて、きちんとしてた」
「娼婦じゃないんだよな」とパスタをフォークに巻きつける来夢が言う。
「仕事中じゃなかったら分かんないんじゃないの」
「娼婦のオフなんて外に出れたもんじゃないぜ」
「……ふうん」
「どのへんで見たの」
「部屋の近く。ここに来ようとして」
「いつ、ってさっき見たんだよね。う、じゃあ今頃弓弦くんはその女の人と──」
 あたしは芽留をはたいた。「痛い」と芽留が頭をさすったところで、実樹ねえさんがコーヒーとココアを持ってくる。「実樹ねえさんはどう思う?」とあたしは湯気と香りを兼ね備えたコーヒーを受け取り、「そうね」と実樹ねえさんは芽留のカップを置く。
「弓弦に触れてもらえるなら、仕事の上で、何か有利なことしてあげてもいいわね」
「仕事か」
「俺も可能性としてはそれだと思う」
「弓弦くんって、仕事に軆使うの」
「そこなんだよな」
「あの子は、最低限のお金があれば構わない子よね」
「紗月は、弓弦にそういうことされる心当たりないの? プライベートでも、仕事でも」
「………、仕事は、よく分かんないし。……プライベートなら」
「ここで言える?」
「………、」
「言えなきゃ、弓弦に直接ぶつけるしかないわね」
「お前シビアだな」と来夢が言って、「その程度の男ならとっとと見極めたほうがいいじゃない」とあたしは返す。弓弦の親友である彼は、納得いかないように頬杖をついた。「女のやり方ね」と実樹ねえさんは咲い、カウンターに戻っていく。「僕は、男だし」という紗月の細い声に、「ん」とココアを飲む芽留が反応する。
「弓弦は、バイでしょ。女の子が欲しくなることもあるかも」
「こないだ弓弦は、男女とかじゃなくて紗月だから満たされるって言ってたよ。軆じゃなくて心だって」
「………、軆を通して、でしょ」
「うん」
 紗月は心苦しそうにうつむいた。「こいつの言う通り、弓弦に訊けばいいじゃん」と何か察したように来夢が素早く言う。紗月は彼を見、乾きかけた睫毛を伏せた。
「でもさあ、本人に体当たりって怖いよ。紗月くんは杏里みたいにずぶとくないしさ」
「悪かったわね」
「どんな答えされたって、キスが事実ならショックだし。つっても、言い訳はもっとやでしょ。キスしなきゃ殺すとか冷めた事情がほんとにあったなら、現場で説明してたろうし」
「女の立場が強くて、差し置けなかったとしたら?」
「仕事関連で弓弦より立場上なら、取引で軆欲しがるなんて、無粋でまずないぜ」
「えー、じゃあ、プライベート。プライベートで差し置けない──」
 嫌な沈黙が流れて、「バカ」とあたしは芽留に言う。芽留はしゅんとして紗月を窺った。紗月は唇を噛んでいる。

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