三人の夜
「あのね、すごくはないんだよ。僕、この街には死んじゃおうと思って来たんだ」
「えっ」
「外でいっぱい苦しいことがあって、それで死にたかった。でも自殺する勇気がなくて、ここで難くせつけられて殺されようって。意気地なしなんだよ」
「………、来夢くんが言ってたのと関係してるの。忘れられない、とか」
「うん。弓弦に逢って、環境も変わって、なのに、心の奥の空っぽはなかなか変わってくれない」
「杏里、死にたいって思ったことある?」
「あるけど本気じゃないわ」
「同じく。えー、じゃあ、外行って大丈夫? お節介だったかな」
「ううん。弓弦に関することだから、弓弦に相談しても客観的にはなれないし。助かる」
「よかった」と息をつく芽留に、紗月は思い出したように電車の方面を問うた。世間知らずの芽留は答えられず、あたしを向く。「北方面よ」と言うと紗月はほっとした。南だと捨てた家の方面なのだそうだ。
「近所にも友達いるの?」
「え、僕はいない」
「あたしもいない」
「そう。僕も家に暮らしてたとき、隣の人の名字も知らなかったな。やっぱり、歳が近くて仲良くなったの?」
「というか、僕たち、ママたちが親友同士なんだよね」
「おかあさんたち」
「ほら、あたしのママってシングルマザーなんで、仕事のときあたしを芽留の母親に預けたりもしてたの。だから、姉弟みたいなとこもあるのよね」
「そうなんだ」
「僕、子供の頃、杏里にがんがん悪戯されたよ。そういや、馬乗りはほんとにしてたってよ。ママが言ってた」
「あー、ごめんなさい」
「もお。僕とママが、杏里のおじいちゃんちに行ったときなんだってよ。こう見ると僕たちって、文句言い合いつつずっと一緒なんだね」
「嫌な発見だわ」
紗月は咲い、「うらやましい」と言った。「そお?」とあたしと芽留は似た調子で言って、顔を合わせる。もう一度咲う紗月に、「これからは紗月くんもその仲間ね」と芽留は言う。紗月は芽留を見て、今度は優しく咲ってこっくりとした。
そんな具合で、紗月は芽留とあたしの家を行き来する生活を始めた。三日目にあたしは〈POOL〉に出向いたが、弓弦にも来夢にも逢えなかった。実樹ねえさんにはもちろん会えて、弓弦はかなりこたえているそうだ。紗月を捨てる気はさらさらなく、ひたすら待って、後悔にさいなまれているという。
「何でキスなんかしてたのかしら」と訊くと、「それは聞いてないわ」と実樹ねえさんは仕入れの本をめくっていた。あたしは家に帰って弓弦の状況を報告し、紗月は不安と申し訳なさを綯い混ぜて睫毛を伏せていた。「まだ落ち着かない?」と芽留に問われても、口をつぐんでうつむいていた。
「笑わないで聞いてくれる?」
紗月がここに来て五日が経った日、場所はあたしの部屋だった。日中でママはいなくて、三人だけで、芽留の服を借りた紗月はベッドに腰かけ、芽留は勝手に椅子に座っていた。弓弦の話をしていた中、不意に紗月がそう小さく切り出した。
「芽留と杏里には、知っておいてほしいことがあるんだ」
あたしと芽留は顔を合わせ、ただごとではないのは察した。あたしも芽留も、この五日間でより紗月に心を許している。「紗月くんが知っててほしいなら聞きたい」と芽留が代表して、紗月は深呼吸したあと、決然と顔を上げた。
「僕、昔、家出するまで、男におもちゃにされてたんだ」
「へ?」
「男に、性的に──その、虐待というか」
あたしも芽留も、紗月を凝視し、紗月は引き締めた表情を失くしかけて畏縮した。とっさに意味を測りかねた。男におもちゃにされていた。性的に虐待──「親に?」と芽留が何とか訊き、紗月は首を振る。
「親は、知らない。学校で、先生とか先輩とかに」
「え、相手はひとりじゃなかったの」
「うん。それで学校行けなくて、親には何にも言えなくて。何で学校サボるんだって責められて、どこにもいられなくて、それで死んで消えちゃおうって」
「あ、それで、あの街」
「うん。弓弦は、知ってる。来夢さんも」
来夢。確かに彼は、紗月の深いところを察した発言はしていた。「弓弦への不安にもそれが関係してるの?」と思い当たってあたしが訊くと、紗月はうなずいた。
「そういうことされたせいで、僕、セックスがすごく怖いんだ。気持ち悪い、とか思う。昔は、そんなのされてるのに何で男に惹かれるんだろって、ゲイってことがすごく嫌だった。でも弓弦が、大事なのは男を好きになることじゃなくて恋愛することだって、だからゲイってことを抑えることはないって、いろいろ教えてくれて、今はそんなのない。弓弦と寝るなら大丈夫だけど、いつもじゃない。弓弦が好きっていうのより、その頃が勝って、応えられないときもある。あのときも、そうだったんだ。女の子とキスしてた日のちょっと前、途中でできなくなった。なぐさめてもらうために弓弦に触られるのも怖いぐらいになって、気配も怖くて、弓弦は僕が落ち着くまでバスルームにいた。弓弦は、僕が落ち着いたら、気にしてないよって言ってくれたけど──」
あたしと芽留は瞳を合わせた。正直、あたしたちには現実離れした話だった。そんなのは、物語にしか存在しないと思っていた。ほんとにそんなのあるのか、なんていう間抜けな所感が強い。
けれど、そういえば、紗月の発行する〔こもりうた〕にはそれにも劣らないひどい体験談が淡々と載せられていた。きっとあたしたちが世間知らずなだけで、そういうことは考えるより蔓延しているのだろう。
「何で」と芽留が言う。
「え」
「何で、『笑わないで』とか言ったの?」
「え、だって」
「そんなん、笑う人いるの?」
「いる、よ。男同士だし、ふざけただけで大したことないとか。嫌悪感で笑い飛ばすとか。僕の場合は、ゲイでしょ。ほんとは嬉しかったんじゃないかって人もいる」
「そお、なのかなあ」
「僕にそういうことした人たちは笑うよ。中学のときは、ゲイって知られて、されてたんだ。男が好きなんだろって言われて、何にも言えなくてされてた」
同じくゲイの芽留としては、その脅迫には悪感情があるようだ。あたしも女なので、まあ、そう言われて男にのしかかられることはありえて、そのあざとさへの不快はつかめる。
「これまで弓弦と、何回もそんなのがあった。最後までできなくて、僕が泣き出すだけで終わるとか、吐いたこともある。そういうとき、弓弦は『気にするな』って咲ってくれるけど、どっかで哀しそうなんだ。弓弦を満足させてあげられないのがすごく怖い。芽留も言ってたけど、弓弦が女の子とも寝れるのも不安だし。浮気するとかそんなんじゃなくて、僕は弓弦を完全に満足させてあげられてるのかなって。そんなのが強くなってるときにあんなん見て、弓弦が分かんなくて。もしかしたら僕の知らないとこで、ああやってほかの人で満足してるから、面倒な僕とつきあってられるんじゃないかとか」
紗月はうつむき、目をこすった。「自分が嫌」とつぶやく彼の背中をあたしは撫でる。背凭れに頬杖をついた芽留は、経験不足でかける言葉に悩んでいる。処女ではないあたしは、性的なことがうまくいかなければ関係に自信がなくなる心理はまだ想定できた。大切なのは心でも、軆はいらないとは言えない。「不安ね」と言うと、紗月は濡れた瞳であたしを見る。
「セックスって、肉欲だけでできたものじゃないものね。人によっては子供を授かる行為だし、なぐさめだし、お金にする人もいる。紗月にとっては愛情なのね」
うなずいて頬にこぼれた涙をぬぐう紗月に、「でも、愛情だってセックスだけじゃないのよ」とあたしはベッドスタンドのティッシュを取って渡す。
「セックスができなくても、ほかにもあるわ。セックスが手っ取り早いのは事実でも、愛情表現はそれひとつだって定義されてるわけじゃないのよ」
「……ん」
「仮に定義されてたって、変えればいいのよ。紗月ができることから伝えればいいわ。セックスができないからって関係までダメにしたら、一番弓弦は苦しむんじゃないかしら。あいつ、誰が思ってるより紗月に執着してるわよ」
「そ、かな」
「うん。例のキスは、しょうがない事情があったのよ。きっと、あいつが心をこめてキスするのは紗月だけだわ」
「僕もそう思います」と芽留が何とか入りこんできて、紗月はそちらを向いた。そしてあたしに向き直り、「つらかったんだね」とあたしは彼を見つめ返す。瞳を潤ます紗月に、「僕たちで役に立つことあれば言って」と芽留も言う。鼻をすすってティッシュで涙を拭いた紗月は、「ありがと」とあたしと芽留に柔らかく笑みを作った。
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