ゆめがたり-19

彼女の話

 梅雨が明けて夏が始まっても、あたしと来夢の仲に変わりはなかった。
 夏というのは、いやに精神が脈打って殺しでもやりたくなる。能天気な明るさの空にぎらつく太陽が、肌やアスファルトをひりひりに焼く。生温い空気はべたついた汗を流させ、ただでさえ日中にはぐったりする街並みは、めまいの渦中のような暑さにいっそう死んでいた。
 風流なのは数日で、あとは神経をかきむしるばかりの蝉の声が次第に孵化していって、あたしは十六歳になる。誕生日にはママと食事をして、ブランドのリュックを買ってもらった。来夢のことを話すと、押すだけ押してみればとママは笑っていた。
〈POOL〉に通うのも、クーラーのきいた部屋を出るのが億劫で、サボりたくなってしまう。それでも、梅雨のあいだ紗月と音信が途切れがちだったので、あたしと違って、いらつくよりぐったりしている芽留を連れておもむいた。
「太陽は僕たちに怨みがあるんだよ」と芽留は猛暑に泣き言をして、「めいっぱいあるでしょうね」とあたしは返しておく。「ごめーん」と空にむかってふらふらと言う芽留を、あたしは心身をなだめる涼しさの〈POOL〉店内に保護する。
 そこでは紗月がドライカレーの昼食を食べていた。ぶつぶつとうわごとをする芽留を座らせ、あたしは実樹ねえさんにアイスコーヒーとアイスココア、カスタードパフェを注文する。「僕も」と芽留が機敏に顔を上げ、「あんたのよ」とあたしはメニューを閉じた。正面の紗月は咲って、「久しぶりだね」と言う。
「そうね。できた? 〔こもりうた〕」
「うん。このあとこのへんまわって、いろいろ置きにいくとこ」
 そういえば紗月の隣には、いつものデイパックともうひとつ、ナイロンの迷彩柄のトートバッグがある。
「ただなのよね」
「もちろん。あ、一枚いる」
「うん」
 紗月はトートバッグを覗き、原稿用紙ぐらいの大きさの〔こもりうた〕を一枚くれた。「クーラーと神様、どっちがえらいかなあ」とか言う芽留は無視して、あたしは掲載された暗澹とした体験談を読む。
 相変わらず、動揺させるものを淡々と描写していた。ふたつおりで四ページあり、紙面を裂くものから数行で終わるもの、全部でみっつの話が載っている。実話なのよね、と思うと深刻さもひとしおだ。「すごいね」と一読して言うと、スプーンを口にふくんでいた紗月はうなずく。
「みっつめの話の女の子とは、会って話したんだ。何かつらくて迷っちゃったけど、載せてくださいって言われて」
 みっつめの話は、養父に妹が悪戯されてるのを見つけ、おぞましさに家出した女の子の話だ。家族の義務を放りだしてきたことへの後悔が、脱力のような後味の悪さを残す。
「それだけ生々しすぎるってこと、ない?」
「うん。ほかのもきついし」
「よかった。会ったから感情移入しやすくしちゃったかなって」
「こういうのも載せるのね。わりと加害者」
「うん。公表が懺悔になるとは思わないって、その子、自覚はしてたよ。ただ、ほんとに抱えてるままが苦しいから、誰にでもいいんで吐き出したいって。趣旨には沿ってるんで載せた」
「そう。紗月は平気なの? 何か、個人的に」
「複雑だけど。僕の私情で抑えこむのを強要するのは、それを出そうと思った動機に反するし」
「ふうん」と言っていると、冷房で少々回復した芽留がテーブルにべったりしていた上体を起こし、あたしから〔こもりうた〕をもぎとって読みはじめる。「怪談より冷えこむ」と芽留は独白し、あたしと紗月は咲った。そこで実樹ねえさんが注文したものを持ってきて、「わーお」とカスタードパフェに歓喜した芽留は、食べながら〔こもりうた〕を読む。
「ねえ、資金ってどうしてるの」
「え」
「〔こもりうた〕の。刷ったりってお金いるんじゃない? ただなら、その利益ではできないわよね」
「ああ、うん。ときどきタウン誌のライター依頼されたり、おもしろいって言ってくれる人が資金提供してくれたりもする。そんな、何万もかからないよ。頻繁には出してないし、製本するわけでもないし。添削OKと一緒に料金くれる人もわりと多い。しょせん僕は他人だから、お金で無気質さも保っておこうとするのかな」
「そう。ほんとに打算抜きでやってるんだ。弓弦とはどう? ちゃんと仲良くしてる?」
「うん。ごめんね、あのとき」
「ふふ、一緒に泊まれたのは楽しかったよ。ね」
 芽留を向くと、甘い香りのバニラアイスクリームを含んだ彼は、「冷たい」と瞳をうっとりさせていた。「食べ終わるまでダメね」とあたしはストローに口をつけ、紗月は咲った。
 今日は紗月ひとりなので、まわるのは近くの本屋やカフェに限るのだそうだ。弓弦がつきあえるときは、遠出して彩雪にも行ったりするらしい。
 昔ママに連れられて彩雪を出入りしたことがあるのを話すと、「だからそんな堂々とできるんだね」と紗月は納得していた。彩雪をまったく知らない芽留は、「どんなとこ」と知りたがる。
「音楽がたくさんあるよ。ライヴハウスとか、クラブとか。ネオンがきらきらしてて、歩いてる人は派手だし。杏里が行った服屋さんの通りもあるし、あとテアトル街とか」
「テアトルって、映画館」
「うん。メジャーばっかじゃなくて、インディーズを専門に上映するとこもあるんだって」
「へえ。いいなあ。行ってみたーい」
「弓弦って、あっちにも知り合いいるのね」
「うん。名前のききかたはこっちほどじゃないけど」
「行きたい行きたい」とわめく芽留を、あたしははたいて鎮める。「このへんにも覗いてみたいお店あるんだよねえ」とスライスのバナナをかじる芽留に、「一緒にこれ配りにいってみる?」と紗月が訊く。
「いいのっ?」
「うん。あ、暑いかな」
「あー。ま、このへんのこと知ってみたいし」
「そう? 僕、そんな広い範囲行けないよ」
「いいのいいの。わあい。あ、これ食べてからね」
「うん。僕も体力つけなきゃ」
「杏里はどうする?」
「あんたを二十一時前に帰すために、ここで待ってるわ」
「どういう意味ですか」
「十九時までに帰ってこなかったら、勝手に帰るって意味よ」
「そ、そんな。ひとりで帰れないよ」
「十九時までに帰ってきたらいいのよ」
「うー。今、十三時半か。大丈夫。だよ。ね」
 紗月はドライカレーを飲みこみ、「暗くなって混雑する前には帰ってくるよ」と言う。
「僕も怖いし。十八時前には上がるかな。大丈夫」
「ふう。この人、帰るって言ったらほんとに帰るからね」
「嘘つくよりマシよ」
「こういう場合、帰るって言っといて帰らなかったら、好感度上がるよ」
「アイドルじゃあるまいし」
「でもお──」
「あんまり言うと、パフェ代請求するわよ」
 芽留はおとなしく黙り、カスタードをすくった。紗月は微笑んでアイスミルクティーを飲む。「ったく」とあたしは都合のいい幼なじみに横目をすると、今度はじっくりと〔こもりうた〕を読んだ。
 芽留がパフェグラスを空にして、紗月がアイスミルクティーを飲みほすと、ふたりは仲良く〔こもりうた〕を配りに〈POOL〉を出ていった。弓弦と来夢に近づいてるかしら、とふたりがショウウィンドウをそれるのを見送り、あたしはアイスコーヒーとカウンターに移る。
 お昼時のいそがしさも済み、実樹ねえさんは雑誌を読んでいた。男たちの近況や〔こもりうた〕のうわさをして、みんな騒がしいわねと自分たちの平穏を咲って時間をつぶした。
 朝食を取りにきた来夢がやってきたのは、夕暮れの橙色の色合いがかすかにおりてきた十七時過ぎだった。外は依然むせかえる気候なのか、彼は汗にはりついた前髪を鬱陶しそうにかきあげ、Tシャツの胸元をあおがせている。
 あたしの左隣に来た彼は、「のんびりしてるんだな」とクーラーに瞳の色を癒して、スツールに腰かけた。実樹ねえさんに朝食とコーヒーを注文する彼に、「芽留のこと待ってるの」とあたしはアイスコーヒーの氷をストローで遊ぶ。
「芽留くん」
「紗月と〔こもりうた〕配りにいってるのよ。これ」
「できたんだ」と来夢は受け取ってざっと目を通す。あたしには信じがたいが、彼はこのペーパーで喉の奥で笑ったりする。
「どこがおかしいの」
「え、これ。才色兼備のせいでイジメられたって」
「おもしろい?」
「そういうのを妬んでイジメる奴が。才色兼備で何なんだろ」
「普通、被害者のほう見ない?」
「被害者の気持ちなんか、測るだけ飽き飽きするよ」
 この街の感覚なのだろうか。「紗月くんって文うまいよな」と彼はつぶやき、それには同感する。
「お前も同性に嫌われるタイプだろ」
「え、まあね」
「イジメられなかった?」
「イジメられるほど関わらなかったわ。あたしも同性って嫌いだし」
「女友達いる?」
「いない。歳がずっと上にならいるか」
「ママ」
「とか、芽留の母親とか」
「ママ、か。すげえ呼び方だな。俺は母親をそんなふうに呼んだことないや」
「何て呼んでたの」
「呼んだことなんかねえよ。無視されるだけだろ」
 あたしは来夢を見たが、彼は〔こもりうた〕から目を離さない。まあ、こんな街で男娼をやっていて、真っ当な家庭で育ったというほうが変か。
「ミカも、女同士のべたべたしたつきあいは嫌いだって言ってた」
「……そうなの」
「彼女は別に嫌われてはなかったけど」
「あたしとタイプが違うって、弓弦も言ってた」
「あいつは女ってことに執着してなかった。お前は女ってことを武器にしてるだろ」
「そういう女は嫌なの?」
「別に。ま、彼女、俺よりたくましかったよ。女同士が嫌だっていうのも、上辺ばっかの綺麗な友愛が嫌だったんだ」
「今でも彼女が好きなのね」
「何で」
「のろけじゃない」
 来夢はあたしをちらりとして、「バカバカしいのは分かってるよ」と息をついた。あたしは何も言わずにコーヒーを飲む。
「七月だよな」
「そうね」
「彼女に逢ったのも七月だった。六年も前だ」
「十三。いや、二──かな」
「十二だよ。中一。学校で逢ったんだ」
「行ってたの」
「夏休み前なら、たまにな。彼女は教室で輪姦されてた」
「は?」
「輪姦。男ふたりに無理やり。彼女は男を怖がってて、俺しかダメだった。ずっと、一生そうだと思うって言ってた。そのときはそういう意味じゃなかったんだけど、ほんとにあいつは一生俺だけにしちまった」
 あたしはコーヒーに染まった氷をストローでつつき、「あんたもそれに合わせて義理立てしたいのね」と言う。
「ああ」
「バカじゃないの」
 来夢はあたしを見た。「美しくて泣けるわ」と吐くと、来夢は〔こもりうた〕を置いていつのまにか来ていた水を飲む。
「お前には分かんないよ。俺にとって、どれだけミカが重要だったか」
「彼女はあんたに貞操くくってるんじゃないのよ。死んで停止しただけ。あんたはまだ生きてて、続いてる。もういない人に節操誓うなんて、精神的な心中じゃない」
「そうだよ。俺は彼女と心中した。ほかの女なんか欲しくない」
「可哀想ね」
「誰が」
「それが彼女への思いやりと思ってるの? 単に過去を吹っ切れてないだけよ」
「悲惨な過去は思うより強烈なんだ。現在に体当たりしてくる。彼女はただ死んだんじゃない。食い殺されるような恐怖の中で自殺したんだ。俺はそばにもいてやれなかった。この気持ちがそんな理屈で片づくと思うか」
「お取りこみ中ごめんなさい」と実樹ねえさんがオムライスとコーヒーを持ってきて、「ありがとうございます」と来夢は受け取る。店内を振り返ると、客層が入れ替わりつつあった。
 外は夕暮れが広がりはじめ、向こうのビルのあいだに夕焼けと青空が入り混じった透明色の桃色が見える。

第二十章へ

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