今を侵さずに
八月のなかばには、あたしも芽留も帰省する。といっても、ママとマリカさんは中学時代からの親友なので、実家も自転車で行き来できる距離だ。
郊外のここは、アスファルトとコンクリートに囲まれた住宅街に暮らすあたしに、ずいぶん自然を感じさせる。田んぼや裏山、家の庭も広く、あのへんではいらつく蝉の声もうるさくない。匂いや感触が見事に違う。
ここにいた頃ママが行きつけにしていた喫茶店で芽留と落ち合い、道端の駄菓子屋でかき氷を買い、それを食べながら青空の下を歩く。五感がほどかれるだけで、うだる暑さも舌への甘い冷たさで季節感として許せるようになり、「夏ですねえ」と芽留のうわごとも健康なものが多くなっていた。
とはいえ、家は複雑だ。何しろ、実樹ねえさんの失踪が重い影を落としている。十六になったあたしに実樹ねえさんを投影するおじいちゃんや、娘の行方を案ずるあまり軆を壊したおばあちゃんを見ていると、あたしは最近しょっちゅう実樹ねえさんに会っているのを言いそうになった。
けれど、それはママにきつく口止めされていた。実樹ねえさんがここでなくあの街にいるほうがいいのなら、ここにいた事実は葬ったほうがいいのだそうだ。実樹ねえさんの心の安穏には、ママが正しいのだろう。生きているかどうかも不安がるふたりに、「大丈夫だよ」と言うことしかあたしはできなかった。
「実樹ねえさんの今の生活を壊さないって約束で、生きてるかぐらい教えられないのかな」
昼は蝉の下手な独唱でも、夜はいろんな虫の澄んだ合唱になる。あたしとママは、客間のたたみにならんで敷かれたふとんに座っている。そばには蚊取り線香が焚かれ、細いけむりの匂いが湯上がりの香りを妨げていた。
ぞっとさせる形態から想像できない虫や蛙の声に紛れる抑えた声で、あたしはうちわをあおがせるママにそう訊く。ママは考え、「たぶん無理よ」と同じく抑えた声で答えた。
「教えられたときはそう約束するとしても、いずれ我慢がきかなくなって会いにいくわ。杏里も、とうさんたちの心配はずっと見てきたでしょう」
「……うん」
「実樹の気持ちより、親心に走るわ。とうさんたちが、そういう行動を取るのが間違ってるとは言えないわよ。親ってそういうものだもの。でも、実樹には迷惑よ」
明かりが低い音を立てる。時計は二十一時過ぎをしめしていた。部屋にはふとんとあたしたちの荷物以外、何もない。
「実樹はここにいた過去を消したいのよ。だから、あの男に解放されても帰ってこないんだわ。帰らないまでも、手紙も電話もあるのに」
「……うん」
「あの子には、ここは窮屈だったの。いつも寂しそうだったって、あんたも言ってたじゃない」
「うん」
「その──弓弦くんだったかしら。そういう、自分をきちんと慕ってくれる子といるほうがあの子自身でいられるのね。邪魔しないほうがいいわ。あの子はあの子よ。この家も、両親も、あたしも、あの子の重たい贅肉だったのよ」
「ママも?」
「ええ。あの男と家出して、楽しいことは少なかったと思うわ。それでもあの子があの男を振り切らなかったのは、ここを捨てられるのが魅力的だったからじゃないかしら」
ママは乾いてきた髪をほどき、あたしはむずかしい気持ちでひなたの匂いのふとんの上を座りなおす。確かに今の実樹ねえさんは、あたしの記憶の実樹ねえさんと違って伸びやかだ。
ここにあるものは、実樹ねえさんの心に属さない異物だった。あたしは、ママは好きでも、父親はどう思えばいいのか分からない。だから闇雲に血筋を肯定することはない。肉親というだけで義務を課すのが重圧なのは分かる。おじいちゃんたちを見ていると情に動かされそうになっても、子供は親の私物でもないのだし──ママが正しいんだわ、とあたしは脚を伸ばした。
ママが髪をほどくひかえめな音が響く。エアコンのない部屋に汗が流れても、不思議とべたついた暑さはなかった。地面がアスファルトにおおわれていないせいで、太陽が引けば素直に風が熱を孕まなくなる。窓を開けておけば、不快ではない程度に室内を涼しくできる。
蚊取り線香の灰が、落ちそうで落ちずに長さを伸ばしている。それを観察していると、「男娼くんとはどうなの」とママが悪戯っぽい瞳で問うてきて、「ぜんぜんダメ」とあたしは肩をすくめた。
「何か嫌なの。絶望的ってはっきりしてくるほど、執着しちゃって」
「狩猟感覚ね。分かるわ」
「例の女のこととか聞くの。ただの昔の女ってわけじゃなさそう。よく言うじゃん、心の傷って」
「ええ」
「それとして残ってるとこもあるみたい。聞いてあげたほうがいいのかな。あたしがつつくからいやいや話してんのかも」
「厄介そうな恋ね」
「ほんと。ママ、そういう人とつきあったことある?」
「つらい過去を持った人とつきあったことはあるわ。そうね、やっぱり溜めておくと心に悪いみたい。本人が吐き出したいと思ってても、思ってなくても」
「そっか」
「話させてるっていうのは、彼の意思はともかく、いいことかもしれないわ。それが恋愛感情になるかは断言できなくても」
「とりあえず、いいならいいんだ。あいつとは打算抜きでつきあうしかないみたい」
「やってみなさい」とママは髪に水分補給の霧をかけるあたしに櫛を貸した。あたしはうなずき、受け取った櫛で髪をほどく。「杏里なら真摯ってものができると思うわ」と言ったママに、「親バカね」とあたしは咲う。ママも笑って、「おばさんかしら」と黒髪を後ろにひとつに縛ると、乳液を肌になじませた。
あたしとママは盆の一週間をここで過ごすけれど、芽留とマリカさんは後半はトモキさんの実家を訪ねる。そちらは当然遠いところで、あたしと芽留はしばし別れることになる。幼い頃から常にじゃれあっているので、いざ遠く離れると、生活の一部が欠けたようで物足りなかった。
ママは仕事があるので、盆が終わればきっちり帰る。おじいちゃんと実樹ねえさんのことを少し話して、「また来るわね」とおばあちゃんにも声をかけたママは、あたしを連れて車に乗りこむ。消えた実樹ねえさんにばかり心をかたむけ、そばにいる自分をよく見ない両親に、ママが少し傷ついているのをあたしは知っている。でもママはその痛みをさらそうとしないので、あたしも何も言わない。「また冬物でいそがしくなるわ」と言うママの話をおとなしく聞き、「たまに構ってくれたらいいよ」とあたしは微笑んだ。
八月が下旬になると、滝のようだった蝉の声が少しずつ削れてきた。けれど、日射しは真夏のくらつきを残していて、冷たいものは手離せない。
トモキさんの実家から帰ってきた芽留は、原稿用紙を睨んで考えごとをするようになっていた。それが着想がまとまりかけ、書こうとしている前兆なのは永年のつきあいで知っている。あたしは芽留をクーラーの元にそっとしておいて、ひとりで〈POOL〉に出かけた。
ちょっと寒いぐらいの電車を降りると、むっとした空気をかきわけて駅を出て街に入る。この道を通い始めて半年以上が経ち、景色にも慣れてきた。どこにコンビニがあるとか、何のファーストフードだとか、無意識に頭に書きこまれている。まあ、いつまでもこんな生活をしていられないのも分かっている。
あたしの将来は、相変わらず白紙だった。何かしたいこと、と考えても、何もない。やりたくないことばかりで、このままでは消去法に妥協しそうな気がする。大きなことをしたいとも思わない。あたしは普通で、できないことをやってやろうなんて野心はない。あたしにできること。自分の可能性なんて試すだけ無駄だと、探ったこともない。
たとえば、と周囲の人を羅列してみる。ママはデザイナーをしている。芽留は映画を作りたい。トモキさんは映画監督で、マリカさんは女優という夢を叶えたあと主婦に移った。紗月は〔こもりうた〕で傷ついた人の心をやわらげ、弓弦は何やら人望の強まる仕事をしている。実樹ねえさんはお店を持って、来夢も男娼で──何かみんな未来があるな、とやっかみたくなる。
あたしひとり息づまって、この先どうなっていくのだろう。ぜんぜん分からなくて、久しぶりにあの黒い吐き気を感じていると、「杏里」と突然名前を呼ばれて足を止めた。
振り返って目を開いた。通りにいたのは、直哉だった。だらしないシャツとジーンズを穿いて、茶髪の髪は伸びて金髪になり、顔つきの荒っぽさが強くなっている。あたしに駆け寄ってきた笑みは無邪気だったものの、芽留がいなくてよかったな、とちらりと思った。
「久しぶり」と言った彼は背が高くなるかわりに身が細くなっていて、あたしに同じ言葉を返させるよりため息をつかせる。
「卒業式以来だ」
「そうね。何よ、その髪」
「変かな」
「茶色のが綺麗だったわ。痩せたね」
「背が伸びただけだよ。お前、こんなとこもうろついてたのか」
「そっちこそ。このへんにお引っ越しでもしたの」
「家なんか帰ってねえよ。帰ったって誰もいないし」
あたしは肩をすくめ、「高校は」と訊かなくていいことを訊いた。「行ってないよ」と彼はぼろぼろのスニーカーで地面を蹴る。
「入学はさせられた。ランク低い、不良ばっかのとこ。お前は?」
「通信制に行ってるわ。基本的に、通学より単位を取ればいいとこ」
「建設的だな」
「高校のほかにやることなかったの。あんたは落ちこぼれちゃったのね」
「どうせお似合いだよ。末端だけど、一応チームに属してる」
「パシリじゃん」
「分かってるよ。俺だって同じだ。ほかにやることねえんだよ」
酒や薬に明けくれているのか、彼の声は以前よりしゃがれていた。「女は?」と訊くと、「どうだろ」と彼は眉を寄せる。
「いるけど。おねえさんかな。小遣いせびるときだけやる」
「嫌ね」
「お前みたいな女ってなかなかいないよ」
「いっぱいいるよ」
「俺にはお前は特別なんだ」
「あたしなんてぜんぜんダメ」
「男いるのか」
「いない。信じられる? このあたしが、今、片想いしてるのよ」
直哉は笑い出し、「マジ?」と言った。「マジ」とあたしは右手を腰にあてる。
「どんな男?」
「複雑。顔はかわいいの。子供の頃からここに住んでる、アウトローな奴」
「すげえな。俺なんかアウトローのアウトローって感じだ」
「はは。あきらめたのがいいって分かってんだけどね」
うつむいたあたしを直哉は見つめる。「嫉妬しそう」とつぶやいた彼にあたしは笑う。
「お前のこと振るなんて、価値が分かんない男なんだな」
「あいつは高級品なのよ。あたしなんか、がらくただもん」
「お前にそんなこと言わせるんだ。マジで嫉妬するな」
「嫉妬ねえ」
「俺はお前にまた逢えたことにすげえ感動してる男なんだぜ」
あたしは微笑し、「そういう奴がいるのってありがたいわ」と言った。彼は鋭い眼を極力優しくしてあたしを見つめ、あたしの頬に触れた。あたしは彼の骨の浮いた手に手を置き、おろさせる。
「今、男と寝ても、あいつの代わりとしか思えないわ。あんたとは、そう思って寝たくない」
「期待させるなよ」
「ごめんね。でも、生きててよかったわ」
「……うん」
「あたし、この街、ときどき来てるの。また逢えると思うわ」
「ほんと」
「うん。逢うだけでよければ」
彼は長いこと乾涸びていたような瞳を潤ませて微笑むと、うなずいた。笑んだあたしを彼は抱きしめ、それぐらいは受け入れてやる。
【第二十二章へ】
