光があれば
あたしの香水を嗅いだ彼は、「同じ奴買ってオナニーした」と告白し、「バカ」とあたしにささやかせる。彼は汗と酒と非合法ないかがわしい匂いがした。あたしの首筋に顔と唇をうずめていた彼は軆を離し、「お前みたいに思える女がいるだけ俺はマシだな」と言う。
「ここでグレてる奴って、すごい孤独で、終わってる。信じてるのは金と暴力で、崇拝してんのは酒とヤクだけ。俺、お前のこと信じてるかは分かんねえけど、崇拝はしてるよ。ヤクよりお前のほうがいいって思うもん」
あたしと直哉は、いっとき見つめあったあと別れた。路地裏に消えた彼を見送り、あたしなりにほっとする。生きていてよかった。正直、直哉なんて普段は脳裏に浮かびもしなくても、思い出すと、死んだのかしら、と心配になっていた。
この街に流れついたのか、と息をついて歩き出すと、さりげなくあたしの右に並ぶ人が現れる。
「お前、ああいうのが趣味なのか」
顔を上げると、来夢だった。髪が湿って、石けんの匂いがしている。昼食を〈POOL〉で食べれるように出てきたので、太陽は南中前だ。「こんな時間に何してんの」と質問に答えずに言うと、「客の部屋に泊まったんだ」と彼は言う。
「そういうのもするの」
「金くれればな」
「ふうん」と言うあたしに、来夢は後方をかえりみる。「あいつ知り合い?」と問う来夢に、「中学の同級」とあたしは答える。
「いつから見てたの」
「あの男が笑ったとこから」
笑ったっけ、と思い返し、そういえばあたしが片想いをしているというくだりで笑っていた。ということは、抱きしめられたのも見られた。
あたしは彼を見るけど、来夢に神経を逆撫でられた色はない。ほんとに何とも思われてないんだわ、と悔しくなる。
「ねえ」
「ん」
「前から訊きたかったんだけど、あんたっていくらぐらいなの」
「定価三万円」
「………、定価ってどういう基準」
「コンドームつきで最後まで。部屋代とか全部客持ちだぜ。チップも斡旋代もいる」
「斡旋」
「弓弦にな。俺は弓弦の名前の傘下なんだ」
「弓弦の仕事って知らないわ」
「一般人は知らないほうがいいよ」
勘繰りたくなっていると、「弓弦は俺より知能指数高いから」と来夢はジーンズを探って煙草を取り出す。「そんなの吸うの」とまばたくと、「知らなかったっけ」と彼は百円ライターで火をつける。
「あ、そうか。実樹さんとこでしか逢わないもんな。あの店、禁煙だし」
「イメージ違う」
「ガキの頃から吸ってるよ。酒も飲む」
「薬は」
「薬はしない。人間捨てる気はないんだ」
「学校みたいな考え方ね」
「悪かったな」
彼は慣れた手つきで煙草に手を添え、煙をふかす。イメージは違っても、絵にはなっている。
あたしは酒も煙草もしない。煙草は似合う自信がないし、酒は例の子供の頃にママを怖くさせたものとして匂いが苦手だ。
「あいつはヤクもやってんだろ」と来夢はもろい手首を揺らして、灰をアスファルトに落とす。
「あいつ」
「さっきの男」
「妬いてくれるの」
「冗談。つきあえば? あいつ、お前に気があるだろ」
「知ってるわ。それに、もうつきあったわ」
「は?」
「別れたの。より戻す気はないわ。嫌いじゃないけど」
「お前、俺のこと好きなんだろ」
「うん」
「節操ないな」
「どっちもアウトローじゃない」
「あんなチンピラと一緒にすんなよ」
「ホモ相手の淫売がえらそうにしないでよ」
来夢は不快そうに舌打ちし、先に行こうとした。あたしは駆け足で隣に追いつく。「あんたが男と寝るとこって想像できないわ」と言うと、「こんな顔だぜ」と彼は煙草に口をつける。
「性格は男らしいわ」
「よく言われる。客の前では感触変えるんだ。生意気になったり、かわいくなったり、色っぽくなったり」
「男娼っていつまでもやってられるもんじゃないでしょ。歳取ったらどうするの」
「売春関連の裏方にまわると思う」
「あんたって、売春の家系に生まれたとかじゃないよね」
「十二まで外で暮らしてた」
「どうして男娼で稼ごうと思ったの」
「弓弦に勧められたんだ。才能あるって」
「弓弦」
「それまでは、盗みとか引ったくりで生活まかなってた。いつまでも、そんなんやってられなかったしな」
あたしは複雑に正面に目をやる。いつまでもこうしていられない。それは、あたしも今思っている。でも、そんなふうにあっさり向かう道を見つけられない。
男娼というのは、プライドは必要だろうが、誇り高い仕事とは見ない人もいる。でも彼は生きるために身を投げた。あたしのこの迷いは、高ぶった自己愛に過ぎないのだろうか。
生温く肌にのしかかる空気の中、腐敗を起こしていないゾンビのように人は歩いている。消滅はしていない蝉の声を聴きながら、あたしはだるい風に乗る来夢の煙草の匂いを嗅いだ。
盗み見ると、彼は何か物憂げな遠い瞳をしている。
「何」
「え」
「何か考えてたでしょ」
「………、仕事始めた頃のこと」
「その頃って、彼女はそばにいた?」
「いたよ。あの頃が一番幸せだったな。俺、一生の幸せをあのときに使い果たしちまったのかもしれない。今思うと、夢だったみたいだ」
紗月も言っていた。彼は昔を夢みたいに感じていると。
「どんどんかすれて、消えていってる。怖いよ。なくなったとき、俺大丈夫かなとか。忘れられたら楽だろうけど、記憶喪失みたいに綺麗に忘れるなんて無理だよな。生々しいのも怖いけど、薄れるのも怖い。あのとき確かにあった幸せが、どんどん頼りなくなってる」
来夢は煙草を吸い、あたしは半眼になった。彼の口調は重く、弱いながら苦かった。
こいつの深みにはまるのはやばい、と危機感が働く反面、たまらなく、その暗闇を探検したくもなる。その闇に敵う光を、どうすれば彼に灯すことができるのだろう。彼の心はきっとすごく湿気っていて、並みの炎なんかすぐつぶす。強烈な光がいるのだ。そんな光あたしにないよなあ、とみじめになっていると、「ごめん」と来夢は慮外の言葉をよこしてくる。
「愚痴だな」
彼のばつの悪そうな瞳を見て、「平気よ」とあたしは微笑んだ。
「あたしこそごめん。引っ張り出したくせに、ろくなこと言えなくて」
「言うほど俺を知らないだろ」
「まあね。いろいろあるのね。あたしなんかと経験の密度が違うわ」
「深けりゃいいってもんじゃないよ。つらい過去を劇的だったって個性として受け入れるのなんて、俺は吐き気するし。あんなのなけりゃよかったって俺は思う。ほんとに夢だったらよかった。でも現実なんだ。そう思うと、ちぎられるみたいな痛みだけ残して、幸せだったときは夢みたいにつかめなくなっていってるのがすごく怖い。痛みも一緒に消えるならいいんだ。痛みは今も残ってる。大切なものだけ触れなくなっていってるんだ」
実樹ねえさんは、来夢は弓弦以外をすべて失ったと言っていた。生きているのが不思議だと。あたしが──誰が思っているより、こいつの傷は致命傷なのかもしれない。前方に〈POOL〉が見えてくる。来夢は煙草をはじき、歩行のついでにアスファルトに踏みにじった。「聞くぐらいならできるわ」とあたしは来夢を仰ぐ。
「え」
「あんたが嫌じゃなきゃ。話すのってマシにならない?」
「俺はお前をそこまで信頼してないよ」
「これからすればいいわ」
「………、自分が俺の信頼に値すると思ってるのか」
「さあね。心閉ざすのは、やってみて頼りないって判断したあとでもいいんじゃないってこと」
「俺の精神は、そんなに健康じゃないんだ」
「だからこんな恥ずかしいこと言ってんじゃない。にぶいわね」
こちらを見下ろす来夢にあたしはそっぽを向き、〈POOL〉のショウウィンドウを横切る。
店内では紗月がひとりで手紙を読んでいて、実樹ねえさんももちろんいた。紗月の読む手紙は、先日発行した〔こもりうた〕の感想や反響だろうか。読んでいるもの以外にも束がある。
「そういや芽留くんは」と思い出したように言う来夢に、「悩んでるんで置いてきたわ」とあたしは返す。
「悩んでてほっとくのか」
「原稿用紙と睨めっこしてんの。脚本のアイデアが浮かんだんでしょ。邪魔したら怨まれるわ」
「……すごいな、そんなの思いつくって」
「ほんと。あたしなんかしたいこと何にもない。数年後、どうしてるのかしら」
来夢はあたしを見つめた。「何」と横目をすると、「お前にしてはしおらしい悩みだな」と彼は言う。あたしは顰め面で不愉快を彼に向けておくと、天国みたいに思える清涼さの〈POOL〉に入った。
そんな具合で、あたしと来夢の仲は進展しないまま、ゆだる暑さを残してカレンダーは九月になった。夏と変わったのなんて、蝉の声が稀になったのぐらいで、服はタンクトップやキャミソールだし、室内にいればクーラーをつけてしまう。朝起きたら真っ先にシャワーを浴びて、今月いっぱいは涼しくならないんだろうな、と朝食代わりにアイスを食べる。
新学期になっても、あたしは自宅学習を決めこんで登校をサボっている。いくら通信制とはいえ、少しは登校も必要なのだけど。午前中は部屋で本を読んだり来夢を想ったりして、あたしは昼前に芽留の家に行った。
迎えてくれたマリカさんに芽留はデッキだと聞き、あたしは家に上がらずに右手の門を通って芝生の庭に踏みこんだ。視覚を焼きつけるように鮮やかな緑の芝生は、踏みしめると、さく、と音がする。
雨も降っていないのに水滴が太陽を反射しているのは、マリカさんか芽留が水をやったのだろう。あたしも週に二回は庭の芝生に水をやっている。
芽留はサンデッキの日陰にぐったりと寝転んでいた。声をかけるとこちらに目をやり、へこんだ声であたしの名前を呼ぶ。
「どうしたの」
「うー。落ちこんでるのお」
「また脚本失敗したの」
「違うー。書いていいのか分かんないのー」
踏み石で靴を脱ぎ、三段の階段を登って木製のデッキに上がる。あたしは洗濯物はデッキに乾すけれど、マリカさんは二階のベランダに乾す。広々としたまま頻繁に使用されないここは、日にあたって木の匂いがしていた。
【第二十三章へ】
