ゆめがたり-24

あたしとママとあの人

「このあと、仕事ってすぐにあるの?」
 夜の到来は早くなっても、日中の太陽に残暑が色濃い九月下旬、十八時過ぎの〈POOL〉にはいつものテーブルに芽留と紗月と弓弦、カウンターにあたしと来夢がいた。
 淡い夕暮れを心細い薄暗さにしながら、外はネオンを灯しはじめている。変わり始める客層に、実樹ねえさんはいそがしかった。
 朝食のフレンチトーストを食べ終わろうとする来夢にあたしはそう訊いて、「何で」と彼はこちらに一瞥くれる。
「あんたって、ごはん食べるとすぐ行っちゃうじゃん」
「張れるだけ張っといたほうがいいだろ」
「張るって、そういえば売春って階級みたいのあるよね。高級とか下等とか」
「俺は中級だよ。やるだけじゃないけど、やるだけ」
「意味分かんない」
「突っこませるだけじゃないけど、売り物はセックスだけ」
 あたしは眉を寄せて、ホットコーヒーをすする。中学時代、あたしは“援助交際”をしているとうわさを立てられたりもしていた。実際はそんなのはしたこともない。なので、来夢の説明は今ひとつ分からなかった。あたしの不可解を感じ取ったのか、来夢は解説をよこしてくる。
「道端に立って客引きするって、一番低級でやばいことはしてないよ。張るっつっても、淫売が溜まってる喫茶店とかな。勝手に溜まってるんであって、お店じゃないよ。そこに客が直接物色に来るか、じゃなかったら予約。そういう淫売には、ほとんど後ろ盾がいるんで、そいつに注文するんだ。斡旋者に指定の時間と場所をもらって、で、客と落ち合う。高級だとまず店に縛られて完全予約制だし、売り物も客とホテルでセックスとは限らない。商談で賄賂にされたり、愛人みたく旅行に乗っかっていったり」
「ふうん。あんたあたりが一番自由なんだ」
「ああ。今日は予約はないんで、すぐ仕事ってわけにはいかないよ」
 あたしはうなずき、「でも行っちゃうよね」と確認する。「何かあるのか」と言う彼に何と言えばいいのか、あたしはカップに口をつける。来夢はひそみで訝しそうにすると、残りのトーストをかじった。
 背後のテーブルでは、空気が緊迫している。芽留がこわごわと、紗月に例の脚本のことを切り出したのだ。驚きを困惑に緩めた紗月は、芽留のひかえめな認可の希求にとまどっている。
 来夢と共にやってきた弓弦は、紗月の隣で来夢と同じフレンチトーストを食べていた。芽留はその弓弦にも、紗月とのつきあいについて話を聞いておきたいと言う。けして無理強いはしなくて、紗月の心を一番尊重したいと芽留は言っている。紗月と弓弦は顔を合わせ、弓弦は紗月に任せる息をつき、紗月は拒否しそうな表情でミルクティーの水面に目を落としていた。
 コーヒーを飲む来夢はそのテーブルを振り向き、日和見感覚で肩をすくめている。「あんたはどう思う?」と声をひそめて訊くと、「紗月くん次第だろ」と彼は答えた。
「公表するなら、ある程度の覚悟がいるよな。映画にしたとして、この街に限った公開でもないんだろ。外は公表することで傷が完治してるって勘違いするから、周囲に記憶をえぐられるのは確実だな」
「でも、闘って生き延びたことが残って、かたちとして功績になるわ。あんたみたいに、夢みたいに消えていくって恐怖からは解放されるんじゃない」
「俺は幸せが苦痛の前にあったから怖いんだぜ。紗月くんは弓弦に逢うまで苦痛しかなかったわけだろ。紗月くんが俺みたいな心理になるとしたら、弓弦に『セックスできなくてもうつまんねえ』とかって振られた場合だな」
 あたしは、向こう側の紗月と弓弦を見る。紗月は芽留と話していて、弓弦は紗月を見つめている。あのふたりは本気で生涯に共にしそうだ。恋人ってだけじゃないもんな、とあたしはコーヒーをスプーンでいじる。
「芽留くんの言う通り、似たような奴を勇気づけるってのはあるかもな」
「そうね。まあ、建て前と思うわよ」
「建て前」
「芽留はただ、作家としての本能を紗月に刺激されたのよ。表現したいって」
「なんだ。そっちのがかっこいいじゃん。勇気づけるとかって、この街で一番嫌悪されることだぜ」
「そうなの」
「舐めるしかできない他人の傷なんか、構うべきじゃないんだ。血をすすって、膿も飲み干して、永遠に愛撫できる相手の傷だけ構っときゃいい。ここは生半可な偽善を何より嫌うんだ。面倒見れないなら、どんなにむごい傷も無視する。残酷だけどな」
 来夢はテーブルを振り向き、「弓弦は行き倒れを拾ったりするけど」とつぶやく。
「それは弓弦が、この傷は舐めれば治るって判別できるほど賢いからだ。バカは残酷でいるに限るよ」
 弓弦と芽留が話して、紗月はこちらを見た。あたしは微笑み、来夢も瞳をやわらげる。紗月も笑んで、そこで弓弦に振られて話に戻った。
 やっぱむずかしいのかな、と思っていると、来夢がスツールを降りて弓弦に声をかける。
「んー」
「お前このあと、部屋帰るんだよな」
「ああ。お前はお仕事」
「うん。もう行くよ」
「えー。何か最近、妙にお前といられないような」
「紗月くんいるじゃん」
「あのなあ、その自分の存在を紗月で埋めさせるのやめろって言ってんだろ。お前はお前で俺に要るの。卑屈ですよ」
「はいはい」と来夢は苦笑し、「じゃあな」とあたしに言うと代金を置いてカウンターを離れた。テーブルのかたわらで立ち止まり、「今度、時間合わせようぜ」と弓弦に言う。弓弦は子供っぽい嬉笑をして、「ガキ」と来夢は親友の額を小突く。
「取材で客観的な意見が欲しかったら俺も協力するよ」という来夢の言葉には、芽留は色めいて紗月と弓弦は当惑した。来夢は笑って店を出ていき、そのあいだに探り出した財布から料金を一応テーブルに置いたあたしは、スツールを降りる。
「え、あれ、杏里どこ行くの」
 テーブルを通りかかると芽留が声をかけてきて、「用事があるの」とあたしは夜におおわれていく外を気にしながら言う。
「えー、じゃあ僕も行くよ。ひとりで帰れない、」
「戻ってくるわ。おとなしく待ってなさい、いいわね」
「えー、んー、置いてかないでねー」
 適当に返事すると、あたしは〈POOL〉を出た。鮮やかなイルミネーションの元で人が増殖しはじめていたもののの、左手に来夢の華奢な後ろすがたは見つけられた。喧騒を縫って、名前を呼びながら駆け寄ると、彼は立ち止まって振り返り、わずかに目を開く。
「何──、忘れ物したっけ」
「してないわよ」とあたしは来夢の正面で足を止める。濃紺の空は、夜の手前にいた。じゅうぶんネオンが生きて、太陽を解放された人々で街が覚醒しつつある。夜になればそろそろ涼しいのだけど、ここは人の熱気で蒸している。
「あのさ」とあたしは怪訝そうにジーンズのポケットに指を引っかける来夢を見上げた。
「あんたが張ってるとこって危ない?」
「は?」
「あんたがこれから行くとこ」
「………、来る気か」
「芽留の世話があるんで長居はできないわ。そこまで行くだけ、したいの」
「やめといたほうがいいぜ」
「危ないの?」
「お前なんか、レイプされてヤク打たれて記憶消されるだけだ。行きはともかく、帰りは俺は付き添ってやれないだろ」
「じゃあ、危なくなる前まで一緒させて。帰りがひとりでいいとこまで」
 来夢は胡乱そうにあたしを眺めたあと、「迷子になっても知らねえからな」と歩き出す。あたしはにっこりして、その隣についた。
 動いている来夢を見るのは、これが二度めだ。椅子に腰かける来夢はぞんざいな所作より繊細な印象が勝っていても、こう歩いて煙草に火をつけたりする大きな動作は荒削りで男っぽい。
 彼は暖色の光であたしをちらりとすると、「用でもあるのか」と雑音になじんだ声で言う。
「昔話でもしようかなって」
「信頼してないって言っただろ」
「あたしのことよ」
「お前の血なんかすする気ねえな」
「責任はあたしが取るわ。あんたは聞くだけ。嫌?」
「………、人並みの野次馬はあるよ」
「そ」とぶつかりかけた人をよけるあたしに、「お前にわざわざ話すことあるのか」と来夢は煙草を口につける。
「ないよ。ただ、フェアになろうと思って。あたしばっかり、あんたの初恋聞いてるじゃない。あたしだって話すべきかなって」
「……自覚あったのか」
「聞きたい?」
「だったら、そう言ってとっとと訊いてるよ」
「っそ」
 来夢は灰を通りすがりの花壇のコンクリートに落とし、「男となんかうんざりするぐらいつきあってきたんだろ」と歩速を戻す。
「こないだの奴とか」
「そうね。本気になったのはひとりだけよ」
「何か弓弦も言ってた」
「十二のとき。その人に処女もあげた」
「中学生」
「小学生」
「同級、じゃねえよな」
「大人の人よ。二十歳も離れてた。ママの恋人だったわ」
「は?」
「ママの恋人。あたしのママが結婚しないのは知ってるでしょ」
「お前が誘ったわけ」
「ママが仕事で遅くなった日に、待ちくたびれたその人があたしのベッドに来たの」
「………、そのとき、そいつのこと好きだったのか」
「寝て情が移っただけ」
 来夢はあたしに奇怪なものを見る目をむけてきて、「何よ」と睨み返すと、「女ってそんなもんなのか」と彼は信じがたそうに眉をひそめる。
「さあ。あたしが特別軽薄なんじゃない」
「……そうだよな。ていうかお前、大人が十二のガキに手え出すって犯罪じゃないか」
「だからその人は、あたしを本気にさせたんだわ。あたしが納得してれば、心情的には事が正当化されるじゃない」
「そういうの理解しながら本気になったのか」
「まさか。優しくされて、甘やかされて、愛されてるって信じこんだの。この人は自分を裏切らないってね。ま、その無知加減は子供だったせいよね」
「そいつは、お前のこと──」
「何とも想ってないに決まってんじゃない。ママの代わりよ。よくてもおまけ。ママとの関係が終わったとき、あたしのことも捨てたわ。『さよなら』のひと言もなしにね」
 微笑んだあたしに、来夢は何とも言えない息をつき、「意外だな」と話し声や笑い声に紛れそうにつぶやく。
「お前がそういう過去持ってるって」
「あんたとか紗月に較べれば、どうってことないよ」
「ひとつ訊いていい?」
「うん」
「母親は知ってたのか」
 あたしと来夢は顔を合わせた。闇に包まれた空に赤いネオンで瞳も合わせる。「ばれないわけないじゃん」とあたしは簡単に言う。
「っていっても、あたしが話したんだ」
「マジ」
「マジ。あたしとママって、隠しごとしないの」
「どうなった?」
「避妊しろって」
「はあ?」
「避妊。あ、その前に無理やりだったか訊かれたか。『別に』って言ったら、じゃあ避妊はちゃんとしろって」
「お前の母親、正気か」
「正気よ」
「変だぜ」
「そうかな」
「自分の男がほかの女と寝て、それが娘だったんだぜ」
 あたしは笑い、「純粋な考えね」という。来夢は口ごもり、怒ったように煙草を吸った。あたしはネオンに透く髪とそれに隠れた長い睫毛を見つめ、「ママはね」と微笑する。
「その人にとって、あたしが自分の代わりに過ぎないって分かってたのよ。終わったあとにも言われたわ」
「……優越感でお前を放ってたのか」
「そうよ」
「性格悪いな」
「女同士ってそんなもんだよ。ママに反対されて、引き離そうと真実さっさと言われてたら、あたし、反抗してもっとその人にのめりこんでたと思うわ。そしてもっと深く傷ついて、しかもママにばつが悪くならなきゃいけなかった。ママはママなりに、あたしの傷を最小限に食い止めたのよ。あの恋であたしが傷つくのは、避けられないことだったもの」
 来夢は口をつぐみ、複雑そうにうつむいた。しばらく無言で歩く。夜が始まり、街はイルミネーションと喧騒に息づいていく。人混みにかきけされがちだったものの、来夢の煙草の匂いは嗅げた。「ずっとね」とあたしは沈黙は破り、来夢の混み入った瞳を受ける。
「そのせいで、本気で誰かを好きになるのは嫌だった。軽くしかつきあわない。上辺で、関係の要はセックス。軆に飽きたらおしまい。心なんか使わないから、いずれ飽きるのよね。本気なんか大っ嫌い。自分なんかさらすもんじゃないわ。柔らかい部分なんか引き裂かれるためにあるのよ。信じて心を開くなんてバカバカしくて、あたしは恋愛に身をかけるのが怖かった」
「………、」
「あれにいまだに傷ついてて、振りまわされるとは思わないけど」
「……そうか?」
「あたしはね。芽留は引きずってるって言うわ。思い出していい気分はないけど、自業自得でもあるし、彼やあの経験を怨んだり憎んだりするのは筋違いだと思う」
 人混みでは、人が落ち合ったり言い合ったりしている。電話で話したり、店先でテイクアウトを買ったり、見つめ合って手を繋いだり──「強いな」と立ち止まった来夢は、道端に煙草を捨てて踏む。

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