過去を買う
木曜日は十一日だった。心配そうな芽留に送られ、ファーコートを着こんだあたしは、無難に十六時過ぎに家を出る。「さむ」とつぶやいても、まだ息は白くない。天候は快晴とは言えなくも、不穏な雲の影もなかった。冷たく澄んだ青色がきんとする風を吹き、陽射しの恵みをかきけす。体熱を奪って無感覚にする冷気が停滞して、頭痛に首をすくめるとファーが顎をくすぐった。
考えてみれば、〈POOL〉を知ったのが去年の一月で、もうじきこういう生活が一年になる。早いな、と風に荒れた髪を撫で、光の射さない黒い靄に胸を侵されながら、あたしは〈POOL〉へと向かった。
着いたのは十八時半をまわった頃だった。外は暗く、街は色彩や雑音に覚醒している。紗月も弓弦もいなくて、夜の匂いの客に臆しかけたものの、実樹ねえさんはいるのでカウンターに行った。
きちんと空いているいつものテーブルのかたわらで、立ち止まりかける。淫売は時間にしっかりしていないといけないらしい。カウンターの右から二番めのスツールに、色素の薄い柔らかそうな髪をした男がいた。うなじはしっとりと白く、華奢な骨格にトレーナーにジーンズを着ている。そういえばあたしの注文って知ってるのかしら、と平静を努め、その右隣に腰かけた。
頬杖をついていた彼は、隣に来た客を興味なさそうに一瞥し、あたしだと認めるとぎょっとした。「お久しぶりね」とあたしはにっこりして、来夢は数秒間表情を止める。にぶく頬杖を解き、身を引いてあたしを確認し、「生きてたのか」と失礼なことを言う。「残念ながら」とあたしは実樹ねえさんにコーヒーを注文して、「こんな時間に何だよ」と来夢は眉を寄せた。
「ひとりか」
「うん」
「紗月くんは十八時前に帰ったぜ」
「あんたに用があるのよ」
「俺はこれから仕事だ」
「十九時にここで待ち合わせしてんのよね」
「………、弓弦に訊いたのか」
「あたしが弓弦に指定したの」
「は?」
「あたし、お買い物に来たのよ。あんたを」
来夢はぽかんとあたしを見つめ、「何」と再び眉を寄せる。「だから」とあたしは咀嚼させるようにゆっくり言う。
「あたしは、あんたを買いにきたの。今日のあんたの客は、あたしよ」
来夢はなおもあたしを見つめ、じっくりかけて把握すると、「ふざけんなよ」と早口に言った。
「俺は男娼だ」
「売り物ね」
「男に軆を売るんだ。女じゃない」
「弓弦にも言われたわ」
「弓弦、そう、弓弦はほんとに仲介受けたのか」
「弓弦直筆のメモもらったでしょ」
来夢は顔を顰め、「何だよあいつ」と毒づく。そしてあたしを直視すると、「嫌だ」ときっぱり言った。
「俺は男としか売りはやらない」
「約束破ったら、怖い人が来るんじゃないの」
「女と淫売するぐらいなら、殺されたほうがマシだ。悪かったな」
来夢はさっさとスツールを降りようとして、「待ってよ」とあたしはその腕をつかむ。
「頭悪いな。本気であたしが軆目当てに来たと思ってんの」
「思ってるよ」
「じゃあ、弓弦が軆目当ての女の仲介を許すと思う?」
「………、俺は軆しか売れないんだぜ」
「お話はできるわ。あんたとの時間を取りたかったの。それだけ。ゆっくり話して、あんたの望み通り失恋してやる気で来たのよ」
来夢はあたしに懐疑たっぷりの目見を向けた。あたしは彼の腕を握って見つめ返す。疑心の顰眉をしていた来夢は、「痛てえよ」とあたしの手をはらってスツールに座り直す。
「俺に惚れる女って、何かみんな怪力」
「弓弦に何にも聞いてないの」
「ないよ。……あいつ、今度逢ったら分かってろよ」
「あたし、あんたの過去を買いにきたの」
「は?」
「過去。今のあんたを作った、どろどろの過去よ。あたしに話して。できれば、責任取れないって自覚持たせるように」
「………、変なこと考えるな……」
「このままじゃ、あたしだってやばいんだ。あんた、女の振り方下手なんだよ。あんな優しいの、気い引いてるようなもんじゃない」
来夢は辟易して、「すみませんね」と皮肉っぽく紅茶を飲む。あたしのコーヒーもいつのまにか来ていた。こいつもコーヒーじゃなかったっけ、と思っても追求はしない。「過去ねえ」と来夢は渋そうにつぶやく。
「あたしに話したくないのは分かってるわ」
「別に、んなことないけど。訊かれりゃ話すよ。ほんとに知らないのか」
「知らないわよ」
「弓弦とか紗月くんに、ちらっと聞いたり」
「してない」
「………、そうか。あんまり、お前には知られたくなかったよ」
「外の人間だから」
「バカ。ヒカれて来なくなったら困るだろ」
来夢に目をやった。目を返してきた彼は、「深読みすんなよ」と注意する。
「紗月くんの友達だからだ。芽留くんも溶けこんだし、弓弦もおもしろがってるし。お前が来なくなったら、いろいろばつが悪いんだ」
「……あっそ」
「ま、俺も女友達がいて悪くないかなと思うけど」
来夢はスツールを降り、「場所変えようぜ」と代金をテーブルに置いた。あたしもそうして、「どこ行くの」とコーデュロイの上着を羽織る来夢に訊く。
「普通ならホテルだな」
「隣の声が筒抜けじゃ落ち着けないわ。でも、高いとこに行くお金もないし」
「俺の部屋でも行きますか」
「いいの」
「ほかにないだろ」
考えて、「まあね」とあたしはファーコートを着直した。「娼婦みたいなコートだな」と来夢は言い、あたしは自分を見下ろす。咲った彼は店内の何人かに声をかけられながら〈POOL〉を出ていき、あたしは実樹ねえさんには目配せして来夢を追いかけた。
外の空気は、太陽の退却に冷たくなっていた。人混みに紛れこめばやわらぐけれど、はぐれるわけにも手をつなぐわけにもいかないあたしと来夢は、混雑を外れた道端を歩く。地面にはゴミが現れ、イルミネーションは冷気に澄んでいた。テイクアウトの店がこぼす食べ物の匂いが、誘惑のごとくただよってくる。あたしは来夢の隣に並び、騒音に負けも勝ちもしない音量で声をかける。
「あんたって、その過去が夢みたいに消えてくのが怖いんだよね」
「まあな」
「あたし、失恋してもここに来ると思うわ。紗月いるし、芽留も来たがるし。あんたと顔合わせないわけにはいかないと思うの」
「だろうな。つらい?」
「つらくならないように、きっちりあきらめて友達に落ち着こうとしてるの」
「ふうん」と来夢は当たりかけた肩を無造作に避ける。
「無神経なのは分かってるわ。こじあけるっていうのよね。でも、あたしに話すのはあんたのためにもなるんじゃないかしら」
「そうか?」
「芽留が紗月に脚本の話持ってきたときにも、言ったじゃない。外に出して伝えたら、相手にもその経験が残ることになるって。話しておけば、あんたには消えてもあたしに残るでしょ」
「……うん」
「夢ってほんとにすぐ消えちゃうよね。あたしも思う。寝て見る奴も、起きて見る奴も──あたし、ひとつ夢を消そうとしてるんだわ」
「………、」
「同情引いてるんじゃないよ。友達になっても、あたしが一時はあんたのこと好きだったの忘れないでね。代わりにあたしも、あんたの消えそうなことを聞いて憶える」
来夢はあたしを見つめ、「うん」と言った。あたしは微笑み、すごい綺麗事だな、と内心では自嘲し、はっきりとは色づかないため息をついた。
来夢の部屋は、宿屋街のモーテルと入り混じったアパート群にあった。もともとは弓弦の部屋だったというその部屋は、映画やドラマにありがちな貧相さだった。台所や浴室、トイレは備えられていても、たたみの室内は寝るためだけの狭さだ。ベランダや押し入れはある。「よくこんなとこで暮らせるわね」と靴を脱ぐと、「弓弦の部屋に泊まったりもするよ」と先に上がった来夢は電気ストーブをつけた。
「今の弓弦の部屋ってどうなの」
「いいとこだよ。高層マンションだし、余裕で紗月くんとふたり暮らししてる。豪華ってわけじゃなくても、居心地はいい」
「弓弦がここに暮らしてたとき、あんたどこに住んでたの」
「しばらく共同生活してたんだ。その前は弓弦はあばら屋にいて、俺は街を外れたとこでミカと暮らしてた。──寒いな。インスタントコーヒーしかないけど」
「もらう」
「そのへん座ってな」
来夢は台所に行き、あたしは明かりの下の冷えたたたみに座りこんだ。紺のカーテンが引かれて、外は窺えない。来夢の匂いの中に、煙草と酒の匂いがしていた。酒も飲むのか、と上着を着るままの来夢を盗み見て、あたしも寒さにコートは脱がずにいる。
「なあ」
「ん」
「俺の話だけどさ、細かく話してもお前の感受性が変になるだけだと思うんだ。話して残すっつっても、俺の場合、生々しく残したら相手の心をおかしくしちまう可能性がある。話しゃいいってもんでもないんだ。相手に責任持ってもらわないと」
「……責任」
「覚悟はあるんだな。聞きたいって」
「うん」
「っそ。じゃあ簡単に事実だけ話すよ。あと、サヤのこと」
「サヤ」と首をかしげると、「女の子の名前」と彼は心当たりをあっさり肯定した。初耳の名前だ。こいつにはミカとやら以外の女の影もあるのか。
コーヒーを持ってきた来夢は、「ん」とあたしにカップを渡し、あたしが受け取るとストーブをそばによせる。腰をおろしてコーヒーに口をつけ、整理して鎮めるような沈黙を取ったのち、彼は静かにあたしに顔をあげる。
「元はといえば、俺のガキの頃が悪かったんだ。俺は子供の頃、親に虐待されててさ」
「は?」
「虐待だよ。憎まれてたんだ。理由はよく分かんなくても、とにかく愛してもらえなかった。ガキの頃は順応してたけど、弓弦に逢って捻くれだして、家に帰らなくなった。中学に上がった頃にこの街出入りするようになって、そのまま家出した。ミカに逢ったとき、彼女が輪姦されてたのは話したよな。相手は幼なじみだった」
「幼なじみ」
「お前と芽留くんとは大違いだよな。でも、家族みたいなつながりは同じだったろうし、そんなのがいきなり襲ってきたんだ。彼女は怖くて、セックスができないようになってた」
幼なじみ。確かにあたしには芽留だ。ぎくりとする反面、芽留が襲ってくるなんてありえないので、ぼんやりともしている。
「俺とミカは、半年ぐらいプラトニックだった。冬の公園で初めてやって、いつも生だった。それで子供ができて、その子がサヤ」
「えっ。ちょっと待って。子供。サヤって、え、生んだわけ」
「ミカがな。今はいないよ。死んだんだ」
「え……」
「十五になる直前の冬に、父親に部屋を探しあてられて。俺がいないときに部屋に来て、あいつはサヤをレイプして殺した」
「っ──」
「やっとつかんだ俺の生きがいだったのにな。ミカと弓弦も大切でも、サヤは別格で俺の支えになるはずだった。あの子のためなら何でもしてよかった。男娼なんて仕事に踏み切ったのも、あの子を育てるためだったし」
「そう、なの」
「すごくかわいかった。ああいうのが愛するって気持ちなんだよな。今いたら──よっつか。流暢にしゃべりだす頃だな。俺は、あの子がどんな声でしゃべるのかも知れなかった」
来夢の口調は自嘲気味な笑みさえ含んでいても、禁忌を踏み荒らすような話だ。事実なのかと疑いたくなる。
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