ゆめがたり-30

叶うことなく

 来夢はいったんコーヒーで喉を潤し、立て膝に細い手首で頬杖をつくと話を再開する。
「俺はほとんど、事が済んだあとに直面した。ミカは全部見聞きしたんだ。彼女は俺の父親に殴られて動けなくてさ。俺の父親は、今は刑務所にいる。俺とミカは別々の精神病院に連れていかれて、ミカはそこで自殺した。まだ十五だった。耐えられなかったんだよ。俺を悪魔と思ってるミカの親に、いろいろでたらめも吹きこまれて」
 あたしは黙っている。そんなひどいものを背負って逝った女なのか。勝てないわけだ、と自覚が生まれ、一瞬拒否したくなったけど、受け入れる。あたしはこのために、こんな、あってはならない話を聞いているのだ。
「俺は山奥のやばい病院にいて、弓弦が脱走させてくれた。ここに帰ってきて、しばらく弓弦が一緒に暮らしてくれて。落ち着いたら仕事に戻って、弓弦も新しいとこに引っ越していった。弓弦がいてよかったとは、すごく思うよ。あんなんのあとでも前と変わりなく接してくれるし、家庭を捨てられたのも弓弦のおかげで、あんなの体験したくせに生きてられるのも弓弦のおかげだ。弓弦がいなきゃ、俺はめちゃくちゃになってた。俺は本質的にはついてるんだよな。いつもぎりぎりのとこで弓弦が助けてくれる」
「……うん」
「紗月くんに逢ったのは十六の春。男を怯える感じがミカに似てたし、弓弦がひと目惚れしてたから、あのあとに初めて気持ち許せた子。その冬に紗月くんが〔こもりうた〕始めて、そのあとは今と変わんないかな。俺の中でミカとサヤの実態がつかみにくくなって、それに恐怖覚えるのが深くなっていってるぐらい」
 あたしは何秒かたたみを見つめ、「そんなのでも薄れていくの」と訊いた。「生々しかったら、それはそれでつらいし」と頬杖をやめて来夢は脚を伸ばす。
「サヤは俺にそっくりだった。父親があの子を侮辱して殺したのは、そのせいかもしれない。あの子は俺のせいで、あんな、何で生まれたのかも分かんない殺され方をされた。考えると、あの子をミカに生ませたのも後悔したくなっちまう。堕ろしとけば、あの子はあんなの体感せずに済んだんだ。九ヵ月しかこの世にいなかった。あの子が存在したことは、どこにも残ってない。出生届も出してなかったし、写真撮るようなのんきな環境でもなかった。サヤがいるのは、俺の記憶の中だけだ。それが薄れていって、すごく怖い。心臓つぶれるみたいに。俺が死んだらサヤはなくなる。それも、死ぬわけにいかないなって俺に思わせるけど」
「……そう」
「でも、いつかは俺も死ぬよな。そしたら、サヤは消える。なかったことになる。ほんとに怖いよ。めちゃくちゃ怖い。あんなむごいことがなかったことになるんだぜ。申し訳なくて。情けなくて。こんなことになるなら、初めから命なんか与えなきゃよかった」
 来夢は唇を噛みしめる。息を苦しげに震わせ、鼻をすすっている。あたしはカップを置いて彼の髪に触れた。来夢はあたしを怯えて濡れた瞳で見ると、力なく笑い、「親失格だよな」とあたしの手をたたみに下ろさせて握る。
「作らなきゃよかったことしか愛情表現にならないなんて、そんなん親じゃないよな。俺は、俺の親より、ずっと最低な親だ。守れずに、あんなかたちで逝かせちまった。言葉も交わせなかった。あの子は、自分がこの世に生を受けた自覚もまま死んだんだ。俺はサヤを虐待した。俺が殺したんだ。ミカのことだって、全部俺のせいだ。俺が頼りなかったから。結局勝ったのは俺の親父で、俺は抵抗できずに何もかもぶち壊しちまった。俺がもっと──」
 あたしは来夢の手を握り、彼はそちらを見た。しばらく絡みあった手に目をそそぎ、もろく咲うと、ほどいてあたしの手はあたしに返す。そしてこちらを正視した。
「もう二度と、子供は欲しくない。だから女とは寝ない。ミカもいる。俺が生きてるあいだぐらい、彼女の気持ちを受け継いで残しておきたいんだ。今もミカを愛してる。俺、ミカに愛してるって言ったことないんだ。ずっといられると思ってたから、急いで言わなかった。言っときゃよかったな。俺の女は、ずっとミカだけだ。お前のこと好きになれたらいいのは分かってる。そうしたら心が癒えるのも分かってる。でも、ダメなんだ。俺はこの傷を消したくない。消して、ミカとサヤを埋めるわけにはいかない。ミカもサヤも猛烈な苦痛を味わった。俺は生きることでそれと同じ苦痛を受ける。家族だからだ。お前を好きになって、ひとり楽するわけにはいかない」
 あたしは来夢を見つめ、だんだんに視線をさげた。「ごめん」と来夢は言い、あたしはつい無反応でいてしまう。
 予想はしていたけど、やっぱり、これで想いは一掃されなかった。けれど、その女や子供まで引っくるめ、応えてもらえないと承知しながら来夢を愛するのは、どう考えても厳しい。あたしは強くないし、来夢を変える魅力もない。
 誰が思っているより、こいつは理解してかたくななのだ。家族だから。そういう強さは強さで、惹かれてしまう。けれど、あきらめると約束したのはあたしだ。それで自覚を持って友達になると言ったのもあたしだ。
 顔を上げて来夢を見ると、ゆっくり、笑みを作った。
「時間置いていいでしょ」
「え」
「今すぐお友達には豹変できないわ」
「あ、ああ」
「平気よ。あたしにとっての男はいくらでもいる。落ち着いたら、また実樹ねえさんとこで逢いましょ」
「……ああ」
 いさぎよく立ち上がって、出ていこうとした。が、這いつくばるように名残惜しいのが強かった。来夢をちらりとして、「ひとつお願いしていい」と言う。
「何」
「さよならのキスさせて」
「ここ、日本だぜ」
「いいじゃん。忘れてやるんだから」
 来夢は眉根を寄せ、仕方なさそうに息をつくと、「どうぞ」と許した。あたしは来夢のかたわらにいざり、身を乗りだして彼に口づける。深くはしなかった。コーヒーの味と煙草の匂いがする。それで何とか心をなだめると、あたしは立ち上がって財布を取り出す。
「いいよ」
「え」
「こんなはなし、一円の価値もないだろ」
 あたしは来夢を見下ろす。彼は笑み、おとなしくあたしは財布をコートにしまった。「話してくれてありがとう」とは言い、うなずいた来夢に微笑すると、心に圧力がかかった平面の空白を覚えながら、あたしはその部屋をあとにした。
 ドアをしめたら、泣くと思った。泣きそうになった。でも、泣けなかった。こぼれる前に蒸発してしまうように、感情が瞳から漏出しない。ひりひりと痛みが蓄積するだけで、吐き出すことができない。
 ただ、感情が胸に焼きつく。やばい、と思って歩き出す。泣こうとした。瞳は乾いている。軆は熱くても、どうしても泣けない。ひりつく火傷のように喉が痙攣して息もできないのに、何事もなかったように、家に帰るために歩くしかできない。
 好きだったんだ、と思った。あたしはほんとに、来夢が好きだったのだ。紗月の気持ちが分かる。弓弦の傷を、できるわけがないと思いながら癒したいと思ったと──あたしもそんな感じだ。
 あんなの取り返しのつかない致命傷で、癒すなんて絶望的で、そもそも彼は癒したいと思っていないのに、あたしはどこかで癒してあげられたらいいのにと思う。
 でもその先に、そうしたら振り向いてもらえるかもという利己があるのが、紗月とは違う。あたしじゃダメだ。あたしは、紗月のようにひたむきにはなれない。よく自覚しているのに、想いばかり残って、非望を捨てられない。そんな女である自体、来夢にはあたしではないのに──あたしは彼を好きになっている。
 バカみたい、と自分を貶しながら家に帰った。芽留の家には行かなかった。家は暗くて寒くて、ママはいない。ママを思い出すと会いたくなったけど、いそがしいのをこんなので邪魔するわけにもいかない。
 あたしは部屋に行き、明かりもつけないままコートだけ脱ぐとベッドにもぐる。まくらに顔を押しつけても泣けない。バカみたい、とまたみずからを罵る。そのうち、いっそう冷静で自虐的な毒が浮かんでくる。
 バカみたい、じゃない。あたしは本物のバカだ。
 どうして好きになってしまったのだろう。好きにならなければよかった。意思さえきいていれば、あたしはあいつを好きになったりしなかった。
 なぜ彼に惹かれたのか、自分でも分からない。だから失恋の糸口もつかみようがない。あたしは来夢に何もできない。そんな気力も才能もない。なのに、気持ちだけはその分量ふくらんでいる。身の程知らずに先走って、学習していないのだ。
 あのときもそうだった。あの人にママと捨てられたときも、あたしはこうして後悔にまみれていた。二度と本気にはならないつもりだった。あいつは何をもってあたしの自尊心を奪い、こんなださくてみじめな状態に追いこんだのだろう。絶望的だったからだろうか。だとしたらあたしは、あの初恋でいったい何を学んだのか。実らない恋であるほどのめりこむなんて、道化師もいいところだ。
 また行けるかしら、と暗い室内に視覚は虚ろに目を凝らす。あいつにはああ言ったけれど、分からない。もう〈POOL〉には行けないかもしれない。あたしはずうずうしいけど、くだらない虚栄心は高いのだ。
 どんな顔をしたらいいのか分からない。いつになったら来夢を友達として見れるようになるのか、メドもつかない。何年もかかるかもしれない。めちゃくちゃになってしまった。あいつに惹かれたりしなければ、こんなのなかったのに──本当に、もう、報われない。

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