ゆめがたり-34

うたたね

 喧騒とネオン、寒さを縫って連れていかれたのは、街の外れの一般人の出入りもあるアパートの群衆だった。ここまであたしたちは、無言で歩いてきた。ときおり盗み見る来夢は無表情だったが、瞳は弛緩していた。
 娘が死んだ日。あんなふうに殺された日。どんな言葉をかけるべきか、あたしには分からなかった。それにまた彼を愛する資格がないのを突きつけられ、胸が痛む。
 来夢も何も言わなくて、ずっと沈黙が張りつめていた。
 街を外れているので、あたりは普通に暗かった。静かで、寒くて、足音が冷気を震わせて響いて、人の気配がほとんどない。来夢は、明かりがつく部屋が少なくなる入り組んだ奥へと入っていく。息が薄く色づいていた。あたしは冷えこみに引き攣る心臓に身を硬くしているのに、来夢は淡々と歩行している。こんな、死んだみたいに寂れた場所が何だというのだろう。やがて来夢は、「ここだ」とゆっくり立ち止まった。
 アパートだった。明かりのつく部屋がないどころか、廃屋と化している。窓が割れたり、ドアが開きっ放しになっていたり、二階の廊下の手すりが一部なくなっていたり。まるで幽霊屋敷で、不気味に闇にそびえたっている。来夢はアパートを傷んだ瞳を見つめたあと、あたしを向いた。
「四年前の今日まで、俺はあの二階の奥の部屋で、ミカとサヤと暮らしてたんだ」
 目を開いた。来夢は口をつぐみ、何かをひそめた静けさでアパートを仰ぐ。そして消え入りそうに咲い、「四年振りだ」とつぶやく。
「ずっと来なかった。怖かったし、来たくもなかった。二度とな」
 来夢はアパートに踏み出した。「何」と訊くと、「部屋に行くんだよ」と来夢は当然のように言う。
「そんなとこ行ってどうするの」
「嫌か」
「………、別に」
「ひとりじゃ嫌なんだ。怖いから」
 来夢はあたしの手を取った。どきっとしたけど、彼は迷子になりがちな子供の手を事務的につかむように無頓着だ。いや、この場合、迷子は来夢のほうなのだろうか。
「誰もいないみたいだな」ときしめく階段を登って来夢は独白する。
「あんなことがあったんだもんな」
 あたしは来夢の手を握った。彼の手は暖かく、あたしの指先は痺れを通して溶けていった。彼といて初めて頬が発熱し、瞳が濡れている。
 期待させやがって、と胸で罵りつつも、あたしは来夢について二階の奥の部屋の前に行く。
 鍵はかかっていなかった。戸には蜘蛛の巣がかかっていて、けれどさいわい主は留守で何もいない。後ろの抜けた手すりの鉄から、錆びた臭いがしていた。来夢はドアを開け、躊躇なく中に踏みこむ。「虫とかいないの」と訊くと、「死骸はあるだろうな」と平然と答え、来夢は躊躇うあたしを引っ張りこむ。
 電気が通っていない部屋は、言うまでもなく真っ暗だった。窓が割れていた。歩くとホコリが舞い立ち、嗅覚を邪魔して咳きこみそうになる。天井には暗目にも蜘蛛の巣が張りめぐり、案の定虫の死骸が転がるたたみには土足で上がる。ただよう空気はしんと冷たく、周りからの音もなかった。ただ、来夢とあたしの息遣いと、たたみを踏みしめる音がする。
 来夢は室内を見まわし、奥の浴室を覗いた。
「あそこでサヤは殺されたんだ」
 あたしも覗いた。引き戸は開いていて、奥の戸も開いていた。タイルは黒ずみ、窓が錆びついている。
 あそこで、と言われても、あたしには現実感がない。闇に浮かぶ来夢の白い表情は、苦しげだった。瞳が幻覚に飛び、苦痛をたたえている。あたしは彼の手を引いた。
 来夢ははっとあたしを見て、弱く咲うと、瞳をかすかにやわらげる。ホコリを気にしたひかえめな深呼吸した彼は、たたみの虫の死骸を足蹴にした。
「おばけ屋敷みたいだな」
「……そうね」
「こういうの見ると、やっぱミカとサヤとの生活が夢だったみたいだ。ここに、どうやってあんな幸せが存在してたんだろ」
 あたしは来夢を見つめた。来夢はつないでいた手を優しく話す。そして、あたしの瞳を見つめ返した。
「お前を女として見ることは、やっぱりできない。俺にはミカがいる。愛してるって以上に、今も彼女は俺の中にいる。あいつの存在は命だけじゃない。サヤもな。死んだからって、捨てられない。俺たちはここで心を交わしてた。家族だったんだ。あのふたりのおかげで、俺は悪夢と思ってた家族ってものを見直せた。ここにあった空気が、すごく大切だった。愛してたんだ。それ以上のものはいらなかった。贅沢も、浮気相手も」
 あたしは唇を噛んだ。皮肉だ。何なのだろう。そんな話をするために、こいつはあたしをこんな感傷的な場所に連れてきたのか。嫌がらせではないか。
「ごめんな。お前のプライド傷つけてるのは分かってる。けど、俺はお前に女としての資質は求めてない。お前って人間は好きだよ。そばにはいてほしい」
「………、自分が王様だと思ってんじゃないの」
「そうかもな。悲劇の主人公だ。だから、お前に俺の茶番を聞いてほしい」
「……え」
「俺の子供の頃から今までのこと、話すよ。詳しく。そのときどう感じたか、どう思ったか、どんなに苦痛だったか、全部話してやる。道連れにするって言っただろ。俺の絶望に感染させてやる。この痛みを体感させて、お前を無力感に追いこんでやるよ。聞いてほしいんだ。俺の痛みを知って、そして、ミカとサヤを一緒に憶えててほしい」
 来夢の瞳に瞳を映す。自分を失恋に追いこんだものを救いあげるなんて冗談じゃない。そんな反発心もあっても、なぜか口にはできない。来夢のまっすぐな瞳は強かった。
「聞いてくれるんだろ」
「え」
「俺が忘れてもお前が憶えてるって。俺の過去はむごいよ。誰だって中座する。どんなに夢みたいに薄れていくのが怖くても、俺は無闇に人の記憶を利用できなかった。俺自身、信頼した奴じゃないと話す気になれないし。お前は俺と傷を共有しようとしてくれた。それはすごく嬉しいよ。ほんとに。俺はお前のそこに執着してるんだ。お前にこの恐怖をやわらげてほしい」
「………、」
「嫌だったらいいけどさ。お前、別に恋人にならなくったって俺のたしになれるんだぜ。それは分かってろよ」
 あたしはうつむいた。来夢も黙りこみ、沈黙が停滞した。
 風ががたがたと窓を不穏に揺らすほか、何の音もしない。冷えこんだ闇の隙間に彼の視線を感じた。
 あたしは顔を上げ、「それであんたを友達として見れるようになるかは分からない」と言った。
「なれるよ」
「分からない。今も好きなの」
「……うん」
「ごめんね。こんなしつこく想われても迷惑よね」
「別に。押し倒そうとはされないし。ただ、可哀想だな」
「………、聞いて、それで友達になるって約束はできない。それでもよければ、力にはなりたい」
 あたしと来夢は見つめあった。しばしそうしたのち、来夢は瞳で微笑んだ。彼は上着を脱いで床に敷くと、あたしのことはそこに座らせる。自分はそのまま汚れたたたみに座った。
 弓弦の言葉を思い返す。見捨てないで、受け止めてやってほしい。「先にひとつ約束して」とあたしは言う。
「最後まで話して。泣いても怒ってもいいから、何時間かけてもいいから」
 来夢は考え、うなずいた。あたしは寒さに膝を抱え、息をひそめて耳を澄ます。来夢はあたしを見つめたあと、あっけなく危うい夢を確かな現実として残すため、「俺は悪夢を見ていた」──そんなふうに切り出し、唇に言葉を綴りはじめた。

 FIN

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