とてもそっくりなものがふたつがあると、人って無意識にどちらかが「本物」で、もう片方を「偽物」と思うみたいだ。私たちは、まさにその典型だった。私は昔から、いつも恋叶の「偽物」だった。
私と恋叶は、一卵性のふたごだ。見た目なら、どちらがどちらに見劣りしているということはない。ただ、性格までは同じといかないもので、恋叶は友達も多くて男の子にもモテるのに、私の友達は絵を描くノートで男の子とはしゃべることなんてなかった。そんな私を「愛望は陰キャのコミュ障だから」と恋叶は華やかに笑って、その笑顔に惑わされるように、みんな私に近づかなかった。
クラス替えの直後とかには、話しかけてくれる人がいないわけでもなかった。恋叶みたいな派手な女の子のほうが苦手だし、私と同じく、絵を描いたり漫画を読んだりすることが好きだと言ってくれる子。
そういう女の子と、私がおそるおそる親しくなっていって、順調にいきかけると、決まって恋叶の機嫌が悪くなる。すぐさま恋叶の取り巻きが動いて、友達になりかけた子にやけに甘く優しい態度を取る。それにその子がとまどいはじめてお膳立てが済むと、恋叶自身がその子に声をかけ、あっという間に自分のほうに取りこむ。
恋叶みたいな子が苦手だなんて言っても、それは自分には縁がないと思っているだけで、話しかけてもらえると結局誰だって有頂天なのだ。そして、みんな、私から離れていく。
それは中学生になっても変わらなかったし、高校でやっと恋叶と別の学校になってさえ続いた。スパイみたいに、私のことを恋叶に報告する子が同じ高校にいるのだ。
だから、私のノートを覗きこんで、「絵すっげーうまいね」と話しかけてくれた遠崎くんのことも、すぐ恋叶に知られた。
「愛望、好きな人ができたんだよねえ」と両親もいる夕食の席で、恋叶は笑顔のまま確認してきた。おとうさんもおかあさんも、きっと恋叶に虫がついたら心配しまくるくせに、私のことは微笑ましいぐらいにしか思わなかったようで笑っていた。
そんなんじゃない、と私がもごもご言っても、「照れなくていいじゃんっ」と恋叶はにっこりとして、でもその目は冷血だった。
あどけなく咲って話しかけてくる遠崎くんは、恋叶の存在を知らないようだった。好きな漫画がけっこう同じであることが、性懲りもなく私の心を開こうとした。
いや、でも。男の子なんて。また恋叶に取られるだけだ。仲良くなったらダメだ。近づいたら失うから、心なんて開いちゃダメなんだ。適度に距離を保っておかないと──
でもそれは、やはり遠崎くんは失くしたくない裏返しで、恋叶の取り巻きから見ても明らかだったらしい。取り巻きは私に話しかけている遠崎くんに、「ねえ知ってる? 真島さんってふたごなんだよお」と私の豆知識みたいなふうで恋叶の存在を遠崎くんに伝えた。「そうなの?」と遠崎くんは私にまばたきをしてみせて、私はうつむくままうなずいた。
「愛望ちゃんは、いつも恋叶ちゃんに守ってもらってたから。ちょっと人づきあいが下手なんだよね。でも、悪い子じゃないの」
「別に悪い子とは思ってないけど。ちょっと内気なだけじゃん」
遠崎くんの言葉に、ほんの一瞬、取り巻きの顔が引き攣った。私を褒めることは、彼女にとって、恋叶を貶されることなのだ。
取り巻きは何とか表情を繕うと、「愛望ちゃん、今度恋叶ちゃんに遠崎くん紹介してあげなよ」と私を向いた。私が黙っていると、「ふたごが揃ってるとこは俺も見てみたい」と遠崎くんも言って、取り巻きの機嫌はちょっと回復したようだ。
「ねえ、遠崎くんもこう言ってるからいいよね? あたし、恋叶ちゃんに伝えてお茶のセッティングするね」
嫌だった。何か言おうと、顔を上げた。でもそのときには、取り巻きはスマホで恋叶に連絡を取っていた。
遠崎くんは私の様子を見て、「真島、あんまり俺には踏みこんでほしくない?」と遠慮してきた。
そうじゃない。ただ、恋叶のことを知ってほしくない。君には私は恋叶の「偽物」だとは思われたくない。しかし、そんなことは口にできるわけもなく、取り巻きは恋叶と遠崎くんを引き合わせる手筈を整えてしまった。
そして後日、私と遠崎くん、例の取り巻き、そして恋叶の四人でカフェにテーブルを囲んだ。恋叶と私を見較べた遠崎くんは、案の定うりふたつの容姿と雰囲気の違いに驚いていた。
恋叶は丁寧に遠崎くんに頭を下げて、「愛望がお世話になっているみたいで」となめらかに微笑む。その笑みに気圧されるように、「え、あ──」と遠崎くんがとっさに声が出ていない様子に、そうだよね、と思いつつがっかりした。やっぱりこの人も、恋叶の手に落ちるんだ。
思ったより息が苦しくなって、私は桜風味のミルクティーを飲む。ほんのり、桜の香りの味がする。
「愛望、『ちょっと内気』ですけど、遠崎さんに迷惑はかけてないですか?」
「いや──それは、ぜんぜん。俺が勝手に話しかけてるだけで」
「そうですか。絵を描いてるときは夢中になって、愛望ったら周りに気づかないときもあるから」
「はは。それは少し分かるかも」
「もう、愛望。絵もいいけど、話しかけてくれる人は大事にしなきゃダメじゃない」
私はうつむいたまま、「ごめん」と言った。話しかけてくれる人を大事にして、どうなるの。どうせ恋叶に取られるのに。遠崎くんだって──
恋叶と向かい合い、私の隣にいる遠崎くんをちらりと見た。遠崎くんの瞳にくっきり浮かんでいるのは、やっぱり恋叶だ。「恋叶さんが姉なの?」と遠崎くんが言うと、「はい」と恋叶は極上の笑顔を浮かべた。
「しっかりしてる感じだもんなー」
「愛望みたいな特技があるわけでもないから」
「基本がちゃんとしてるのも大事だよ」
遠崎くんの関心が恋叶に移り変わっていくのを、取り巻きは満足そうににこにこと眺めている。私はいたたまれなくて、早く帰って絵を描きたいなと思った。恋叶は適度に私にも話を振ったけど、それに私がうまく答えられないのは見越していて、「愛望、ちゃんと話聞いててよー」と言って、私が間が抜けているみたいに言った。
その日、恋叶はちゃっかりと遠崎くんの連絡先を手に入れていた。そのついでに、私も遠崎くんの連絡先を知った。「夜とかメッセしていい?」と恋叶が訊くと、「寝てなきゃ何か返すよ」と遠崎くんは咲って、駅で私たちと別れた。
遠崎くんが雑踏に見えなくなると、恋叶はひと息で思わしくない表情になり、「愛望のくせに」とつぶやいた。「でも遠崎くん、もう恋叶ちゃんのことしか見てなかったから」と取り巻きがごますりして、「そうかなあ」と恋叶は長い睫毛を夕射しに透かす。そしてじろりと私を見ると、「あれ、私のものにするから」と宣言した。私は伏し目になったまま、何も言うことができなかった。
それからも、遠崎くんは私に話しかけてきたけど、話題はもう好きな漫画とかそういうものじゃなかった。恋叶の誕生日、男性のタイプ、恋愛歴まで訊かれる。そんなもの知らない。誕生日は同じ日だけど、遠崎くんはそのことにさえ気づいていない。
高校一年生の夏休みが来た。遠崎くんと恋叶は、何やらよく一緒に出かけたことで一気に距離を縮め、八月の終わりからつきあいはじめた。
友達だけじゃない。好きな人だって、私は恋叶に横取りされる宿命なのか。そう思うと泣けてきて、ベッドでふとんをかぶって嗚咽を押し殺した。
そうだ。私、ほんとは遠崎くんを好きになってたんだ。にこやかに話しかけられて、絵を褒めてもらって、同じ漫画の話をして──好きにならないわけないじゃない。それに、私の気持ちがそれほどでもなければ、恋叶だって遠崎くんに興味は持たなかっただろう。私の好きな人だから、恋叶は遠崎くんを自分のものにしたのだ。
二学期になって、改めて遠崎くんに恋叶とつきあいはじめたことを報告された。「おめでとう」だけ私がぼそっと言うと、遠崎くんは人懐っこく私と同じ目の高さになって、「恋叶のことで悩んだら、相談乗ってくれよな」と微笑んだ。何でそんな残酷なことを、親しい優しさみたいに言えるんだろう。そう思いながらも、知らないよ、なんて言えずに私はこくりとした。
恋叶のことだから、一度手に入れたら、わりとぽいっと遠崎くんを捨てるかとも思っていたけど、意外にも本気で彼に惹かれはじめたみたいだった。高校二年生になっても、ふたりの仲は続いていた。
遠崎くんは恋叶に優しい。そして、めずらしいことに平等に私にも優しかった。もはや、恋叶の片割れだからという理由なのだろうけど。しかし、恋叶は遠崎くんに本気になるほどそれが気に食わないようで、「圭弥になるべく近づかないでくれる?」と私をきつく見据えた。私はぼんやり、圭弥くんって名前なのか、とそんなことも知らなかった自分に気づいた。
恋叶と遠崎くんは、家でゆっくり過ごすこともあって、親も公認の恋人同士になった。私が隣の部屋にいる中、ふたりで楽しそうに恋叶の部屋で長いこと過ごしていた。私は膝を抱えて、ふたりはもう寝たのだろうかなんて考える。
そのさまを想像すると、みぞおちが黒く焼けて、煙たい悪感情が吐き気のように襲ってきた。嫉妬。憎悪。劣等感。何でいつも私は愛されないの? 何でいつも恋叶ばかり選ばれるの? 顔は同じなのに。私の中身はそんなに醜いの? ほんとに私が醜いの? 恋叶のほうが、よっぽど──
遠崎くんと恋叶がつきあいはじめて、一年が経とうとしていた。今年も夏は狂ったような猛暑だった。
今日も恋叶は遠崎くんを部屋に呼んでいて、私はクーラーの冷風がかかるベッドに横たわって、イヤホンで音楽を聴いて外界を拒絶していた。それでも、隣の部屋のドアが開く音がして、恋叶の咲い声がして、ようやく遠崎くんが今日は帰ることにしたときは分かった。ため息をついてイヤホンを外し、「お邪魔しました」という遠崎くんの声をぼんやり聞く。
射しこむ茜色の夕暮れを見て、起き上がって窓に近づいた。この家の門扉が見下ろせる。遠崎くんと恋叶はふたりだけの世界で、手をつないで庭を横切っていく。眉をしかめて窓を離れようとしたものの、ふと、この家が面した道路を自転車で漕いでくる人がいるのに気づいた。
恋叶も遠崎くんもその自転車に気づかず、門扉を開いた。その瞬間、自転車に乗っていた人はサドルを飛び降り──ふところからぎらりと夕映えを反射するものを取り出した。
私は目を開いて、カーテンを握った。その人は躊躇いなくそれを構え、突進するように恋叶にぶつかってお腹を刺した。ついで、悲鳴をあげようとした恋叶の喉に、いったん引き抜いたそれを再び刺した。恋叶は膝をがくがくと震わせ、その場に崩れ落ち、力なく遠崎くんのほうへ手を伸ばしかけながらうずくまる。
真っ赤な血が一気にその場に広がる。遠崎くんは息をのんだまま立っていたけど、はっとした様子で刺した人を見た。その人は凶器をその場に投げ捨て、自転車にまたがると、一瞬にしてその場を去った。
遠崎くんは追いかけようとした。でも、恋叶が足にすがってくるので、その場にしゃがみこみ、それから「誰か!」と叫んだ。私はその声でびくんと窓から身を引いた。
どういうこと?
恋叶が刺された?
通り魔?
殺されたの?
……死ぬ、の?
恋叶が、死ぬ──
息が、こぼれた。口元がいびつにわななく。私はとっさに、笑っていた。恋叶が死ぬ。お腹と喉をあんなに深く刺された。誰だか知らないけど、やってくれたのだ。
私、恋叶から解放されるかもしれない!
私の家の前には、まもなくどんどん人が集まって、夕闇を切り裂くサイレンがいくつも飛んできた。生々しい血だまりにみんな騒然としていた。おかあさんが泣きながら私の部屋に飛びこんできて、自分とおとうさんは病院に行くから留守番をしていてほしいと言った。私はこわばった表情を造ってうなずいた。危ないから絶対家から出ないことを言い残し、両親は恋叶に付き添って救急車に同乗していった。遠崎くんは警察に保護されるように連れていかれたようだった。
私はベッドに座り、祈っていた──どうか、どうか、恋叶が助かりませんように。
──そして、恋叶は、輸血するヒマもなく、病院に着く前に出血多量で死んだ。
救急隊員の人は、あとで恋叶にはふたごの妹である私がいることを知り、悔しそうに言ったらしい。その子が救急車にいて、すぐに輸血できていたら──。そこまで気がまわらず、私を家に置いていったことを両親もまた悔いて泣いていた。だけど、誰が血なんか分けてやったものか。無論口にはせず、私も葬儀では沈痛な面持ちを通しておいた。
犯人はすぐに捕まった。恋叶の高校の同級生の男の子で、あっさりした話だった。恋叶に振られた腹いせ。たったそれだけ。恋叶の最期にしてはあまりにもお粗末で、私は部屋でひとりになるとまた笑ってしまった。
ただ、遠崎くんのことは心配だった。彼はだいぶ恋叶に夢中だった。目の前で無力に無残に愛する恋人を殺され、ショックはひどいはずだ。夏休みが終わりそうな日、私は交換しただけだった遠崎くんの連絡先を呼び出し、トークルームを開いた。
『来週、学校来れそう?
無理しないでね。』
二行に絞ってメッセを送信すると、意外とすぐに既読がついた。と、間を置かずに通話着信が来て、びっくりしながらも私は慌てて応答をタップした。
「……遠崎、くん?」
私がこわごわ声を発すると、遠崎くんが息を飲みこむのが聞こえた。そして、苦しげな嗚咽が耳に響く。
『恋叶……恋叶の声がする』
私は唇を噛み、そうか、と気づいた。私と恋叶は声も同じだ。今は聴かせないほうがいい声かもしれない。
「……ごめんなさい、心配だったから」
『………、いや。そうか、来週もう学校か』
「つらかったら、休んでいいと思うけど……」
『いや……行くよ。愛望は?』
恋叶との区別だろうけど、いつのまにか遠崎くんは私を「愛望」と呼ぶようになっていた。
「私も、来週なら忌引き明けてるから」
『そっか……。愛望も、つらいよな。あんなにいいねえさんだったのに』
「……そう、だね」
『一緒に、恋叶の話をしような。愛望となら話せる気がする』
「うん……」
『愛望もつらかったら学校無理すんなよ』
「……分かった」
『ふたごだもんな。俺なんかより、ずっと愛望はつらいよな』
黙りこんでしまった。私は、神様に祈ったくらいだ。恋叶が助かりませんように、と。周りは打ち沈んでいて、それに合わせることはしているけれど、本当は胸が空く想いをしている。
だって、私はもう恋叶の「偽物」ではない。私は私だけ。唯一無二になれたのだ。
二学期が始まり、先生にも同級生にもお悔やみを言われた。報道された事件だったから、みんな事の顛末は知っていた。心配されても、私は目を伏せて「大丈夫」と心もとない声音で言っておけばよかった。
放課後になり、さすがに同情の目にしおらしくしているのが嫌になってさっさと帰ろうとしたとき、「愛望」と呼ばれてはたと振り返った。教室の入口に遠崎くんがいた。目が合って、私は慌ててうつむいたけど、遠崎くんは私のところまで歩いてきて「ごめん」とすりつぶした声で言った。
「えっ……」
「あ、……いや、恋叶を守れなかったこと、謝ってなかったから」
「……遠崎くんに、怪我がなかったなら──」
「代わりに刺されてでも、恋叶を守るべきだった」
「それで、遠崎くんに何かあったら、恋叶もきっとつらかったよ」
遠崎くんは私を見つめ、急に表情をゆがめると、泣きそうな声で「優しくしないでくれよ」と言った。
私は遠崎くんを見上げる。遠崎くんは涙をこぼし、「もっと責めていいんだ」とそうしてほしいみたいに言う。
「俺はあの現場にいたのに。バカみたいに突っ立って、その場で犯人の奴を殴ることもできなかった。最低の彼氏だ。恋叶も天国であきれてるよ」
何を言えばいいのだろう。そうだね、と肯定すればいいのだろうか。私が責めれば、遠崎くんの気も済むのだろうか。だけど、恋叶がいなくなってせいせいしている私は、あの子が天国に行けるわけないじゃないなんて考える。
「遠崎くん」
泣いている遠崎くんに、私はひとまず声をかける。
「おとうさんとおかあさんも、遠崎くんのこと心配してた」
「えっ」
「だから、うちに来て話してあげてくれると、嬉しい……」
「………、」
「嫌、かもしれないけど」
「嫌ではないよ。でも、俺なんか……いいのかな」
「私の両親は、遠崎くんのこと気に入ってたから、怒ったりはしないと思う……」
「……はは。俺のこと、もっと怨んでいいのに」
「恋叶の大事な人……は、私の家族にも、大事な人だから」
遠崎くんは涙に濡れる瞳を開き、それから、崩れるように哀しそうに微笑むと「何でそんなに優しいのか分かんねえや」とつぶやいた。私は伏し目になり、優しくなんかない、と思った。
私の祈りが恋叶を殺したのだ。恋叶にさんざんひどいことをされてきた。あの祈りは私の精一杯の復讐だった。私は優しくない。そして、恋叶だって君が思うようないい子ではなかった。君は何も知らないだけだ。
やっと泣きやんだ遠崎くんと教室をあとにして、私の家に向かった。遠崎くんは私を見て、たまにつらそうに眉を寄せたり唇を噛んだりしていた。恋叶と同じすがたの私が隣を歩いているのは、かえって苦しいみたいだった。
私は気づかないふりをしておいた。恋叶のどこがそんなに良かったんだろうとかぼんやり考えた。
やがて家にたどりつくと、門扉のところで遠崎くんは立ちすくんだ。もうあの毒々しい血だまりはない。でも、そこに花は供えられていた。遠崎くんは顔をそむけて目をつぶる。フラッシュバックしているのかもしれない。
私は遠崎くんの手を取り、「目をつぶったままでいいから」とそこを通り過ぎるのを手伝い、玄関まで誘導した。玄関ですぐ手は離し、まだおとうさんもおかあさんも仕事から帰っていないだろうなと思いながら、スクールバッグから鍵を取り出そうとした。
そのときだった。
「……めん」
「え?」
よく聞こえなかったけど、遠崎くんが何か言ったので、私は振り返った。同時に、遠崎くんが私の背中を引き寄せて、ぎゅっと抱きしめてきた。思わず目を開き、何、と頭が混乱する。遠崎くんは私の肩に顔を伏せ、「ごめん」と今度ははっきり言った。
「分かってるけど。恋叶じゃないの、分かってるけど。でもやっぱり、恋叶といるときぐらい恋叶で頭がいっぱいになる。だから、」
私は心臓を腫れあがらせながら、とまどったけど、遠崎くんを突き放せなかった。分かっている。はっきり言わないけど、つまり恋叶の代わりに抱きしめているということだ。
それは、恋叶の代わりには、私は適任だろうけど。私にしかできないだろうけど。
「遠崎くん──」
「圭弥って呼んで」
「え……っ」
「俺のこと、圭弥って呼んでくれよ」
私は躊躇したものの、「圭弥……?」と窺うように呼んでみた。すると遠崎くんの腕に力がこもり、「恋叶」とこぼしたのと同時に私に口づけてきた。
頭がいっそうぐるぐると嵐に巻き起こす。遠崎くんは私の軆を自分に向けて、貪るようなキスをしてきた。わずかに塩味がして薄目を開けると、遠崎くんはぼろぼろと涙を流していた。
……こんなの、遠崎くんも望んでないんだ。でも、私が映す恋叶の幻影にすがらないと、壊れそうなんだ。私はおそるおそる遠崎くんの制服を握りしめた。口の中の舌に応えた。水音が跳ねて、やっと顔を離すと、お互いの口元のあいだに銀の糸が引く。
「恋叶の部屋に行きたい」
切実な瞳で遠崎くんが言ったので、私はくらくらする発熱を感じながらも、うなずいて玄関の鍵を開けた。ばたん、とドアが閉まると、遠崎くんは鍵をかけて私をもう一度抱きしめた。
「恋叶の、部屋は──……」
二階だけど、と言おうとすると、またキスが口をふさぐ。そのまま崩れ落ちるように、玄関先で私の上に遠崎くんが覆いかぶさった。
少しだけ、軆が震える。男の子のこんな獣みたいな衝動を目の当たりにするのは、初めてだった。
でも、遠崎くんの舌が首筋に移って、耳をすすられるように舐められると、その音も生々しくて小さく痙攣してしまった。服越しだけど胸をつかまれ、遠崎くんは息を切らしながら私の鎖骨に口づける。夏服の薄いシャツの前を開かれて、下着からこぼれた乳房をきゅっと吸われて、私は声をもらす。
「もっと声出して」
遠崎くんはそう言うと、スカートの中に手を入れて、ショーツの上から私の脚のあいだに触れた。感じたのことない、焦れったい変な感覚が襲ってきて、それが怖くて、遠崎くんにしがみつく。すると遠崎くんは私の頭を撫で、ショーツの中に手を入れてきた。目をつむった瞬間、ふわっと下肢が蕩けて広がるような感覚がこみあげてきた。喘ぐ声がどうしてもこぼれてしまう。
遠崎くんは私のそこを指先で刺激して、どんどん私のその甘美な感覚の波に溺れそうになる。軆の奥がひくついて、自分の内腿を伝っていく水分があることに気づく。遠崎くんは身を起こし、ベルトを緩めてスラックスのファスナーをおろした。私が怯えるような目を向けると、「痛くしないから」と言って、それを私にあてがった。動顛して目が泳いているうちに、「力抜いて」と遠崎くんの自分自身が、私にゆっくりと分け入ってきた。
痛い、というか──はちきれそうな圧迫感があって、私は歯を食いしばった。遠崎くんが私の中で硬くなって脈打っている。私は遠崎くんの目を見て、遠崎くんも私の目を見る。遠崎くんは優しく微笑んで、私の上体を抱き寄せて耳元でささやく。
「俺の名前」
「え……っ」
「呼んで」
「……とお──……けい、や?」
「うん」
「圭弥……」
「……うん」
「圭弥、……圭弥、っ」
次第に遠崎くんの腰が動きはじめ、奥までつらぬかれる。私は遠崎くんの背中に腕をまわし、その名前を呼んだ。呼びながら、ああ私もこの人を圭弥って呼びたかったんだと思った。指で刺激されたところまで、律動がじんじん響く。いっちゃう、という言葉が自然と口からあふれる。「俺もいきそ……っ」とひときわ強く突き立てられたとき、それが届いたみたいにぱあっと快感が破裂した。同時に、体内の彼も爆ぜたのが分かった。
はあ、はあ、とお互いの息遣いが空間にこだまする。私は玄関のマットにぐったりしつつ、遠崎くんを見上げた。遠崎くんも肩で息をしながら、私を見た。私は微笑んで、「そばにいるから」と言った。あなたのことが好き、それは逆に言ってはいけない気がした。
あくまで代わり。恋叶の代わり。完璧な恋叶の代わり。それでもいい。この人のそばにいたい。私はそれで嬉しい。
遠崎くん──圭弥は泣き出して、私の胸に顔をうずめた。私のその髪を梳くように撫でて、ゆらりと天井に視線を移してから目を閉じた。
私たちは、けしてつきあいはじめることはなかった。相手に「好き」という言葉を伝えることもなかった。それでも、私には初めて自信と呼べるものがあった。恋叶の代わりなんて、絶対に私以外の人にはできない。だから、圭弥は私を離れることもない。圭弥の恋叶への想いは、そのまま私にそそぎこまれる。
それでよかった。幸せだった。
秋になり、冬になった。高校三年生が目前になって、進路について教室がざわめきはじめる。そんな中、一年生の女の子に告白された圭弥がその子とつきあいはじめた──という話は、その日のうちに私の耳にも入ってきた。
その話を私に伝えて「遠崎くん、立ち直ってきたのかなあ」とか言うクラスメイトを、私は茫然と見つめた。
何? 告白? つきあいはじめたって……私は? いや、恋叶は? 君は私を介して、恋叶を引きずって生きていくんじゃないの? 立ち直る? ふざけないでよ。私、何のために──
放課後、私は圭弥の教室に向かった。圭弥のクラスはもう終礼していて、半分以上、生徒は流れ出してしまっていた。でも、少ない居残りの中に圭弥はすがたはあった。ついでに、はにかんで咲う女の子も一緒だった。見たことのない子で、すぐに例の一年生だと分かった。圭弥も照れるみたいに彼女の前で咲っている。その初々しい甘やかな雰囲気だけで私の打ちのめされ、あとずさって、廊下を駆け出した。
何で。何で。何で。私がいるのに。私を通して、恋叶がまだいるのに。何でそんな新しい恋を芽生えさせているの?
夜になっても、圭弥からの連絡はなかった。聞きたくないけど、それでも、彼女ができたという報告は礼儀だと思った。それとも、まさか、本当はつきあってないの? 何なの? 圭弥が何を考えているのか分からない。ただ、自分が無下にされていることしか分からない。
数日待った。圭弥の連絡はない。私からもしていいのか分からなかった。私がしなくても、圭弥から何か来るのがほとんどだったから。私から何を切り出せばいいのだろう。もたもたしているあいだにも、圭弥に彼女ができたといううわさは信憑性を帯びていった。
一緒に帰っていた。手をつないでいた。休日に会っていた。
ついに私はこらえきれず、圭弥に『話がしたい』というメッセを絞り出した。しばらく経ってから既読がつき、『じゃあ明日の放課後』とだけ返信が来た。
放課後、本当に話せるだろうか。かすかに猜疑しながらも、翌日、私はおとなしく一日をそわそわと過ごした。ホームルームのあとに終礼して、私は急いで圭弥の教室に行こうとした。
けれど、「愛望」と呼ばれてはたとかえりみる。廊下の窓にもたれる圭弥のすがたがあった。私はぎこちなくその正面に立ち、圭弥は「話って?」とこの場でうながしてきた。
「え……と、どこか、お店に入ってから──」
「そういうの、もう愛望とはできないんだ」
「………、やっぱり、一年生の子って」
「つきあってるよ」
私は顔を上げた。どうして、と顔に浮かんでいたのだろう。圭弥は首をかしげてから、「だって、あんなのダメだって愛望も分かってるだろ」と言った。
「だめ……って」
「異常だと思うし」
「で、もっ……」
「いつまでも続けるつもりもなかった」
「れ、恋叶のことは……」
「愛してるよ。だからって愛望に乗り換えるのは、一番残酷だ」
「恋叶の代わりは、私じゃないと無理でしょう……?」
「………、代わりじゃないよ」
「えっ」
「愛望は恋叶の代わりじゃない」
「………っ」
「というか、代わりにはできなかった。愛望じゃダメなんだ。愛望だけは、恋叶の代わりにできないんだよ」
「何、で……」
「恋叶を思い出すだけだから。俺はぜんぜん違う女の子と恋愛しないとダメだったんだ」
「わ、私の……こと、バカにしてるの?」
「してないよ。愛望だって、ちゃんと自分を見てくれる奴とつきあったほうが──」
「私のこと見てくれる人なんかいない! いつも恋叶にっ……。ねえ、恋叶の代わりでいいよ。私の価値なんかそのくらいだし。だから──」
圭弥は眉間を寄せ、息をつくと「彼女待たせてるから行かないと」と立ち去ろうとした。私はその腕に取りつき、周りから視線が来ているのにも気づかずに、「恋叶の代わりにしてよ」とすがった。圭弥は小さく舌打ちして、私の手をうざったそうに振りはらう。
「恋叶の気持ち、考えられないのかよ!? 一番可哀想なのはあいつなんだ、それをさらに穢すようなことはしたくない。代わりって言うけど、俺には愛望は代わりでさえないんだ」
代わりでさえ、ない? 私、恋叶を映す鏡ですらないの? もちろん、もともとは恋叶とそっくりのこの容姿は大嫌いだった。でも、そのおかげで圭弥と結ばれたから、私はやっと自分を受け入れられた。
なのに、この人、いまさら恋叶の気持ちとかくだらない正論を出して、私を拒否するの? 私を恋叶の亡霊として抱いたのは、そっちなのに──
「愛望も恋叶がいなくなって寂しいだろうけど、現実見ていかないと。俺たちは生きてるんだ」
そう言い残すと、圭弥は背を向けてその場から歩き出した。私はその場にへたりこんで、次第に息をおののかせて泣き出した。「真島さん」と心配そうに声をかけてきた同級生が何人かいて、その子たちは、私の手を握ったり肩をさすったりしながら言った。
「おねえさんのことはつらいだろうけど、遠崎くんの言ってたことは正しいと思うよ」
「頑張って前を向いて生きていかないと」
「代わりとして生きていっても、おねえさんは哀しむよ」
私は嗚咽をもらして唇を噛みしめた。うるさい。うるさい。うるさい! 恋叶が傷つくことなんて、私は誰より知っていた。その上で代わりとして生きたいと思った。圭弥を私のものにする以上に、それが恋叶にとって、途轍もなく屈辱だろうから──
圭弥。私で現実逃避しておけばいいじゃない。恋叶への愛に狂っておけばいいじゃない。私を介して、永遠に恋叶を抱いていればいい。それがどんなに異常でも冒瀆でも、私は怖くなかったのに。
そんなに私じゃダメなの?
彼女を作ってどうするの?
その子なら楽になれるの?
恋叶を過去にして生きていくなんて、本当にできる?
恋叶を愛してるくせに。
恋叶に会いたいくせに。
恋叶を抱きたいくせに。
──生きていくなんて言って、本音では、恋叶のところに行きたいんでしょう?
私はゆっくりと顔を上げた。分かった、それなら私が役に立ってあげる。簡単だ。あの夏の日と同じ。もういい。恋叶のところに行けばいい。
ふたりで仲良く地獄に行けば? 私こそもう嫉妬さえない。ただ、君と恋叶が、忌ま忌ましく憎い。
介抱してくれた子には謝罪を口にして、その場を繕って、私は立ち上がるとふらふらと帰宅した。圭弥の家には連れていかれたことがある。私はキッチンの包丁を一本盗み、タオルに包んでバッグに入れた。それから、恋叶の部屋に入って必要なものも盗んだ。乾燥した寒風が髪を舞い上げる中で、圭弥の家に向かった。二月の夜、かなり寒いはずなのだけど、心臓がどくんどくんと脈を打って軆はほてっていた。
圭弥の家はマンションの一室だ。インターホンに出たおばさんは、恋叶の妹と名乗れば玄関を通してくれた。圭弥はさっき帰ってきたところで、部屋にいるという。「遠慮せずに恋叶ちゃんの話をしてね」とおばさんは下がり、私は圭弥の部屋の前に立った。
バッグの中に手を入れ、そのままタオルをほどいて包丁をつかんだ。ただし取り出しはしないまま、ノックもせずにドアを開ける。「えっ」という驚いた声がして、私は声の主である圭弥が、制服を着替えようとしている無防備なときであるのを確認した。名前を呼ばれた気がする。私は無視して圭弥に素早く歩み寄り、シャツがはだけた胸に飛びこんだ──一度肘を引いて勢いをつけた包丁を、バッグの中から突き出し、そのお腹に刺す。
するり、と飲みこむように包丁は圭弥の腹部を貫通した。ほとんど手ごたえがないので、ちょっと包丁を動かしてえぐる動きを加えた。拍子、圭弥は口から血を垂らして、もう一度私の名前を呼んだ。「違うよ」と私はささやいた。こう言えば、この男が絶望に沈んでいくのは分かっていた。
「私は、恋叶だよ?」
羽織っていたコートの下に、恋叶の学校の制服を着ているのも見せた。圭弥は血走った目を開く。私は息を吸いこみ、包丁を引き抜いてバッグを床に投げ捨てると、血に濡れた凶器をあらわにした。圭弥がその場にくずおれ、私はそれを見下ろし、さっと包丁を振り上げる。
「一緒に幸せになろうね?」
何度も何度も、圭弥を刺した。喉も。胸も。お腹も。圭弥は何か言おうとしていたけど、結局、声は出なかった。私は圭弥の生温かい血をたっぷり浴びて微笑んだ。
ああ、私は優しいなあ。
本当に優しいなあ。
これで、私もやっと自由だ。片羽ずつになったみたいに、恋叶とはかけはなれた。お互いを生き映す忌まわしい存在でもなくなった。私は亡くした片羽の代わりに、鏡をまとって、ひとりでふたりぶん空に羽ばたいていく。
あんたは、地獄でこの男と這いずっていればいい。私のことを二度と傷つけないなら、それぐらい許してあげる。
本当に、私が優しい妹でよかったね。
血の匂いが暖房の風に乗ってむせかえって、空気さえ金属の味がする。私はぐちゃぐちゃになって息絶えた遠崎くんを見た。「好きだったよ」と小さくつぶやいた。吐血にほのかなキスをした。
それから私は、あの日祈りを聞き届けてくれた神様に会えるよう、再び祈りながら──自分のお腹に、包丁を深く突き刺した。
FIN