聖希が死のうとしている、という連絡が来たのは、四月になったのに肌寒い日の夕方だった。
高校からの帰り道、泡雪のように桜の花びらが舞う中にいた。二年生に進級する直前、クラス替えの前に告白されてつきあいはじめた晶磨と一緒だった私は、おかあさんからの着信にちょっとうんざりした。
彼氏といるときに、親から電話なんて。
晶磨には「ごめんね」と笑顔を向けても、桜の樹のそばに行くと、いらだちをあらわにして電話に出た。そしたら、おかあさんが混乱しきった声で告げた。
『聖希くんが、あんたたちが通ってた中学で、人質を取って飛び降りようとしてるの』
瞬間、周囲の雑音が失せた。帰宅途中の生徒の笑い声も。頬にあたる風の音も。優しいピンク色の桜のざわめきも。
何の冗談かと笑えなかった。
だって、真っ赤なサイレンが鼓膜を引き裂く。
やっぱり私は、同じように茫然と突っ立っていて。
聖希は、そんな私を見つけると、救急隊員の人に抑えつけられながらも、闇に浮かぶ真っ白な息と共に叫んだ。
『死んでやる! 死ぬまでやってやる、お前が生きてる限り、僕は──』
「愛深?」
その声で幻聴が弾け、震えそうな瞳と息遣いで、顔を上げた。うらやましいくらいのストレートの茶髪の奥で、晶磨の漆黒の瞳が私の動揺を窺っている。
『今ね』というおかあさんの声の向こうでは、耳を澄ますと、やたらとドアフォンが鳴っている。
『マスコミとかも押しかけてる。だから、あんたも今家に帰ってくるのはよしなさい。まだ高校?』
答えられない。頭の中が、切り刻まれた写真のように、いろんな記憶をまきちらして、返す言葉も整理できない。
私が桜の樹にもたれかかって座りこみそうになると、晶磨が私を支えた。その手をきゅっとつかむと、『愛深』とおかあさんの声がして、思わず肩が揺れる。
『今、誰かと一緒なの?』
「えっ、あ、うん……」
『じゃあ、その人と離れないように。ひとりにならないように』
「う、うん」
『変な情で中学に行ったらしたらダメだよ。あんたは聖希くんに、じゅうぶんやったんだから』
じゅうぶん。じゅうぶん──やった、たぶん。
けど、私、ぶち壊したんだよ、おかあさん。
「──何かあったのか?」
電話を切ると、晶磨が怪訝より不安そうに尋ねてきた。私はうつむいたけれど、隠す必要はない。晶磨はすべて知っていて、むしろ支えてくれた人だ。
「聖希……、幼なじみが」
そう言っただけで、晶磨は表情を厳しく引き締めた。私は晶磨の胸にしがみつき、肩を抱いてくれた腕に息をつく。
「また、だって」
「……病院か」
「………、」
晶磨の胸から顔を上げ、握ったままのケータイを開いた。
「愛深──」
「何か違った」
「え」
「おかあさん、マスコミとか言ってた。人質とか」
「人質?」
「聖希、何やってんの……わけ分かんない」
適当なニュースサイトを表示させると、トップの見出しを追った。
「……これだ」
晶磨は、そうつぶやいた私の手元を覗きこむ。私はひとつのニュースを表示させた。
「『十六歳少年、人質を取って学校に立てこもり、自殺示唆』……?」
「たぶん、聖希」
「えっ」
「もう……何で、こんな。私を殺せばいいだけじゃない……」
「何言ってんだよ、愛深は──」
「だって、全部、私のせいなんだよ」
言いながら瞳がにじむと、「それは違う」と晶磨は私を抱きしめた。
「そういうふうに考えるのはやめようって、話し合っただろ」
「でも、」
口でぐちゃぐちゃ言うのは、晶磨の唇で止められる。でも、私の切り刻まれた記憶は、気紛れにフラッシュを当てられて脳裏に浮かび上がる。
聖希。私の同い年の幼なじみ。自殺行為は初めてじゃ、ない。
去年の冬だった。救急車に運ばれる聖希は、泣き叫んで暴れていた。手首のガーゼをむしり取り、隊員の人の服に血飛沫が飛び散る。凍った匂いがしそうな、真冬の深夜だったけど、私が震えていたのは寒さのせいではなかった。
騒然とする野次馬の中に、私を見つけた聖希は、澱んだ目を見開いて、断末魔を踏み躙られたようにわめいた。
『死んでやる!』
私はびくんと固まり、集まった野次馬の視線を、鋭利な針のように感じた。
『死ぬまでやってやる、お前が生きてる限り、僕はもう生きたりしない!!』
怖い。
やっぱり、私は怖いよ。
晶磨の制服を握りしめる。すると、その手をつかまれた。指を絡め、体温をぎゅっと重ねる。
それでも、散っていく桜が地面に積もるように、心が言い知れない闇に染まっていく。
『僕は死ぬしかない』
ずきずきとまたたく脳内に、後日見つかった、聖希の殴り書きがよぎった。
『愛深に裏切られて、生きていくなんてできない』
◆
本当は、とっとと飛び降りるつもりだった。
部活でまだ生徒の出入りが残っていたから、一年前に卒業した母校の校舎に入りこむのは簡単だった。三階にたどりついて、校門を見下ろすと通学路に沿う桜は、まばゆいほど満開だ。視覚を刺すその鮮やかさに麻痺していると、背後の階段から話し声が聞こえて、思わず廊下の影に身を潜めた。
四人の男女が、ひとりの男子を引っ張って現れた。鍵らしきものをちゃらちゃら言わせる女子を筆頭に、彼らは屋上へとのぼっていく。
こちらに気づかないそいつらを陰惨な目で見送り、いつもポケットにある、飛び出しナイフをつかみだした。
おもしろい。僕が飛び降りるだけでも、愛深への制裁になるだろう。でも、僕だけでなく後輩まで犠牲になれば、愛深はもっと苦しむはずだ。
愛深は偽善者だから。
僕はそいつらを追いかけた。誰も来ないという自信なのか、鍵はかかっていなくて、あっさり屋上に踏みこむことができた。鍵はこちらから締めておいた。
自然と引き攣った笑みがこぼれる。真冬に熱いココアを飲んだみたいに、胃に高揚が襲ってくる。
もちろん、そいつらのやっていたことは、ひとりの男子を殴る蹴るということで──
次第に笑みがぱっくり裂け、あふれる血のように興奮が全身にめぐり、僕は高笑いを上げた。はっと振り返ったそいつらに、僕は無邪気な子供のような笑顔を向けた。
「お前らの中に、人を殺せる奴はいるか?」
「な、何だよあんた──」
「お前らの中に、人を殺せる奴はいるか?」
「え、誰……」
「ちょっ、やばい、先生を」
「お前らの中に、人を殺せる奴はいるか?」
「待てよ、先生呼んだら、俺たちのことまでばれるだろ」
「でもっ」
「あ、あの、私たちは──」
僕は目を剥いて、そいつらにつかつかと近づき、ナイフを振り上げた。
「お前らの中に人を殺せる奴はいるかあっ!!」
甲高い悲鳴を上げた女子のひとりが、がしゃっとケータイを落とした。男子がそれに目を光らせ、声を上げる。
「け、警察! お前ケータイで、」
「呼びなよ」
せっかく灯った蝋燭が湿気ったような顔をするその男子に、僕はなめらかな笑みを浮かべた。
「それがお前たちの役割だ」
「けっ、警察呼んだら……」
「泣けよ。叫べ」
「俺たちが助かるだけ、」
「助けを求めろ」
「な、何なの、こいつ……」
「そんなん、」
「もっと盛り上げろよ」
ナイフをおろす。そいつらは無能にかたまっているから、僕はケータイを取り上げた。迷わずに110番した。何か聞こえても、無視して言った。
「中学生五人が人質だ。僕の自殺をテレビで流すなら解放する」
相手は何か言ったが、すぐ切った。ガキ共は茫然としていて、たぶん流れる涙を自覚すらしていない。
それから、どんどん下のほうが騒がしくなり、空も朱く陰っていって──今、この状態だ。
春になったのに、今年はなかなか暖かくならない。砂ボコリの混じった肌寒い風が、羽織るシャツの裾を耳障りにはためかせる。日没で視界が少しずつ悪くなっていく。
たゆまず、怯えた空気はこわばっていた。イジメをしていた男ふたりと女ふたりは、金網に背中をつけて並べさせた。イジメられていた男子は、隣に置いていた。
みんな僕に怯えていた。僕は彼らに共感していた。僕もそんなふうにあいつに怯えていた。
優しかった母が連れてきた、父親と呼ぶには若すぎる男。鼻血が出るまで、顔面を壁にたたきつけられた。煙草の火種を、手の甲にねじこまれた。ねじったシーツを首に巻かれて、絞め上げられた。
やがて、母も男に同調するようになった。ごはんをもらえない。全身は痣だらけ。ベランダに放り出される。熱湯を浴びせ、「早く死ね」と唾を吐かれる──
殺されたほうがマシだった。怖くて、つらくて、耐えられなかった。死にたかった。でも、引き止める女の子がいた。
「聖希くんが死んだら哀しいよ」
そう言ってくれるのは、愛深だけだった。近所も親戚も、見て見ぬふりだった。愛深だけ、親にいい顔をされなくても構わず、僕を家に招いて傷を手当てしてお菓子を分けて、咲いかけてくれた。
ずっと一緒だった。僕には愛深しかいなかった。
なのに、すべて壊れてしまった。
僕が彼女に精一杯の勇気で伝えた、「愛深が好きだよ」のひと言で。
◆
卒業以来に訪れた中学は騒然としていた。晶磨の影に隠れ、「マジかよ」「ありえない」というざわめきをちらちら聞きながら、年末のような人混みを進む。パトカーも救急車も駆けつけて、警戒している。回転するサイレンの赤で、桜が不気味な赤に浮かび上がっていた。
太陽が落ちた代わりに、月が空で凛としていて、その鋭利な冷たさが怖かった。震えが止まらなくて、晶磨の手を強く握ると、大きな手が握り返してくれた。
おかあさんに止められた。晶磨にも止められた。俺の家に来ていい、いきなり女の子が来たら驚かれるけど、それでも来ていいと言われた。それでも、来てしまった。
逃げて、ケータイの画面を更新しつづけ、新しいニュースが上がるたび胸をえぐられても、いたたまれない。
聖希が取った人質は、私と聖希の後輩になる、新二年生の男子三人、女子二人だった。聖希の遺書の話は出ていないから、今回はないのかもしれない。ただ聖希が要求していることは、『自分の自殺をテレビに流す』こと──
どうして、と唇を噛む。ここまでするなんて。
聖希は中学から不登校になった。おじさんが出ていって、家庭内暴力はなくなった。おばさんは酒浸りだった。冬の匂いがする秋の終わりだった。その日も、聖希の部屋は暖房でぼんやりしていた。
何か話すわけでもなく、放課後から夜まで、聖希と過ごすのが日課だった。すっかり暗くなっても、私の家は同じマンションのひとつ下だし、大して危なくない。
「そろそろ帰ろうかな」と立ち上がった私の紺のセーラー服の裾を、聖希は引っ張った。
『……愛深』
『ん』
『僕……ね』
『うん』
『……愛深が、好きだよ』
聖希なんて嫌いだ。……とか、そういうことは言っていない。本当に、嫌いではない。こんなことをされていても、聖希を嫌いだとは思えない。ただ、好きとか、そういうことを意識するには──
「あんた!」
しゃがれた女の人の声が耳をつらぬいて、びくっと顔を上げた。晶磨がさりげなく私を背後に隠したけど、突然の声にみんな注目して、声の主がこちらへと向かってくるのを追う。ざわめきがどんどん集中してくる。
「この子よ、あの子があんなことしてるのは、全部この子のせい!」
やつれて、目だけぎょろりとさせた女の人は、聖希のおかあさんだった。私が硬直していると、見憶えのある警察の人が、聖希のおかあさんを抑えようとした。
「落ち着いてください、今は──」
「この子があの子をたぶらかしたせいでっ。毎日毎日あの子の部屋に通ってたのよ、いやらしい、汚い、見苦しいっ」
「おかあさん、愛深さんも被害者なんです。そのことはよく分かっているでしょう!」
「何よ、新しい男まで今度は連れてきたの!? どこまで無神経なの。あんたがうちに踏みこんだせいよ、あの子を傷つけたのはあの子なのよ!!」
何……。何で。何で!
あなただけには言われたくない。私は見てきた。聖希のむごたらしい背中、膿んだ手の甲、栄養のない腕。
でも、顔を上げても、何の事情も知らない人たちだけだ。警察の人はさすがに知っているけど、おばさんが暴れていて、さすがに私をかばうまでは構ってくれない。
目。黒い目。同じ黒い目。みんな言っている。
期待させたのは、お前じゃないか。
膝ががくがくして座りこみそうなのを、心臓に痙攣を覚えるほど、踏んばってこらえる。ひやりと風が頬を切り、春の花たちの香りで髪がなびく。
私の周りは、永遠にこんなに冷たいというの? 聖希が飛び降りたら、私に春なんて来ないの?
晶磨を見上げた。月の光しかない暗がりで、晶磨はかたくなな横顔をしていて、私を見なかった。じっと見つめても、応える瞳は来ない。
私が……悪いの、かな。
でも、だって、私は──聖希が、怖かったんだ。
◆
ドアをたたく音が、沈黙を引きちぎった。唐突な音に、イジメられていた男子が、大げさに頭を抱えて泣き出した。また110番でひと言伝えた。
「屋上に踏みこんだら、飛び降りる前に中坊殺すよ」
僕の言葉に、女子のひとりもわっと泣き出した。
ガキ共の絶望しきった顔は、鏡のようだ。あれは僕だ。このまま殺される、嫌だ、でも死ぬ、死にたい、殺されるから死にたい、せめて自分で死にたい、死にたい、死に──
ドアをたたく音はおさまった。代わりにケータイが鳴り、通話ボタンを押した。途端、発狂したような泣き声と、野太い怒号が飛び出してきた。
『返せ、この気違いが! 女に振られたくらいで死ぬような奴はひとりで死ね! 人の子供を道連れにするんじゃない、さっさとうちの娘を解放しないと、俺がお前を殺してもい──
そのケータイはコンクリートにたたきつけ、勢いよく踏みつぶした。「おとうさん……」という乾いた声が聞こえた気がした。骨を折るような音と共に、精密機械がはみでる。
僕はガキ共を向いた。
「ほかにケータイ持ってる奴」
そう言ったのに、返ってくるのは、泣きじゃくる女子のみじめな怨みつらみだ。僕は彼女にまっすぐ歩み寄り、のめりこむほど首にナイフを押し当てた。途端、声は止まったけど、嗚咽でうごめいた皮膚で、かすかに首に血が滲む。涙と鼻水と涎にまみれた彼女に、僕は目をすがめた。
「死にたいか、ブス」
彼女の目玉がぎょろぎょろ動き、それは虫の蠕動のようで虫唾が走った。ナイフをつかむ手に力がこもり、力があまって、そのままざっくり引き裂きそうになったときだ。
「お、俺、ケータイ持ってる! 持ってるから、今出すからっ」
そちらを一瞥し、女子の醜い顔面を見下すと、急いでケータイを取り出す男子に近づいた。そのケータイは、屋上の暗闇に投げ捨てた。
「まだ持ってる奴」
僕がそう言った後ろで、がしゃんっと乱暴な音がした。一瞥すると、イジメられていた男子が、みずからケータイを破壊していた。
その行動に僕は思わず笑って、そのまま、人の腹に何度も包丁を突き立てているみたいに笑い出した。
「君は賢いんだね」
かたわらにしゃがむと、彼はびくっとかたまって、僕と目は合わせなかった。僕はにこやかな口調で続けた。
「君は僕と同じ?」
華奢な肩に手を置くと、ぶるぶると震えが伝わる。
「君は僕と同じ?」
「っ……」
「君は僕と同じ?」
「……じ、」
「うん」
「おな……じ……」
ますますにっこりとして、「そっか」と立ち上がった。
「じゃあ、こいつら、殺したい?」
四人が一瞬、息を飲む。恐怖と動揺が、月光に湧き立つ。その空気に肌を舐められ、心地よさに勃起するんじゃないかと思った。僕はナイフをイジメられていた男子の前に投げる。
「僕を殺すか?」
「えっ、あ……」
「あいつらを殺して、ついでにひとり助かるか?」
彼は目を大きく見開き、同時に、四人がぶん殴られはじめたように絶叫をあげた。
「もうやだ、やめてえっ」
「ふざけんな、そいつ殺せ!!」
「そいつやったらもう何もしないからっ」
「お願い、許して……」
「私たちが悪かったよ、ねえ、ごめんってば!」
「早くそいつを殺してよおっ」
「お前なら分かるだろ、イカれてんのはそいつだろっ。なあっ」
「やめてやめてやめてもうやだ死にたくないこんなのもうやめてお願い死にたくない」
次々と命乞いする四人を、彼はじっと凄涼な瞳に映した。僕はただ微笑んでいた。答えなんか分かっていた。
彼も見ている。あの四人に自分を見ている。そしてその頼みを無視され、殴られ、蹴られてきた彼なら──
僕と目を合わせ、一緒に笑い出して、ナイフをつかむ。
◆
「生徒がひとり、保護されましたっ」
桜の樹の陰で息をつめていると、突然そんな声が大きく響いた。はっとそちらを見て、でも、人だかりで何も分からない。すぐにおかしな笑い声が聞こえてきて、人垣が悲鳴を上げた。
とまどって様子を見ていると、まだ声変わりもしていない男の子のろれつのまわっていない声が聞こえて──ぬるっと風に生臭い匂いがした。
「あは……はははっ、ねえ、僕やったよ! あいつらを殺したんだ! そしたら助かった! 僕だけ!!」
……何?
「僕だけ勝ったんだ、もう僕は殴られない、蹴られない、終わったんだ。あははは、僕はもう助かったんだあっ」
離れてください、通ります、という強い声と共に、正体が近づいてくる。
「ははは、あはははははははははははっ──」
完全に狂った声の主が、パトカーへと誘導されてきて、晶磨にしがみついた。晶磨もさすがに私の肩を抱いた。
その子は真っ赤で──ひどい返り血を浴びていた。血の匂いが降りそそぐ桜の花びらに絡みつき、吐き気と寒気が一気にせりあげた。嘔吐する声も聞こえた。聴覚を逆撫でる不協和音の笑い声が、ぐるぐるとめまいになる。
何なの?
どういうこと?
この子、まさか、助かるために聖希を──
そう思った途端、耐えられずに、パトカーに押しこめられそうになっているその子や警察の元に駆け寄った。名前を呼ばれても、振り返らなかった。
「聖希は!?」
警察の人が迷惑そうに訝って、私をはらいのけようとしたけど、「愛深さん」と私を知っている人がひとりまわりこんできた。私は呼吸も混乱させ、泣き出しそうにその人の腕をつかんだ。
「何なんですか、この子、聖希を──」
「……へえー。マナミさん、やっぱり来てたんだあー……」
ぞくっとして振り向くと、あんなに狂乱していた男の子が、生気のない目で私を捕らえていた。警察がすぐ盾としてあいだに入る。その子はくすくすと含み笑うと、おとなしくパトカーに乗りこもうとして──強烈な目を私に刺すと言った。
「『もう人質はいない。僕も死ぬから、最後に愛深を連れてこい』」
◆
親はクズだった。同級生はカスだった。みんなみんな、世界のすべてがゴミだった。この世のゆいいつの宝石は、愛深だった。
愛深のことは信じていた。信じることができた。
僕のうぬぼれだってなんて。片想いのわけがないと思っていた。こんな尽くしてくれるのだ、愛深だって僕のことが──
『ご……ごめん、聖希はただの幼なじみっていうか』
すべて砂嵐になって途切れた。
ひとりぼっちだった。やっぱりひとりぼっちだった。
分かっていた、僕を愛してくれる人などやはりいない。でも、僕は誰かに愛されていないと生きていけないほど、弱くて。
ああ、もう、生きていたくない。
吐きたい。でも、胃は空っぽで。泣きたい。でも、涙は壊れていて。僕には血しかなかった。果物ナイフで手首も腕も切りつけた。手首の大きな傷口が、下品に笑って血を垂れ流す。腕の深い傷口が、熱く茹だって血を射精する。
息が苦しいのか。息をしているのが苦しいのか。あれ以来、愛深が来ても、家に入れないから会っていない。よく、ずうずうしくまだ訪ねてくるものだ。それでも、ついにやってこなくなると、見捨てられた孤独感が僕の脳髄を引き裂いた。流れ出てしまった脳漿に、無気力におおわれ、ただ眠くてだるい日々が続いた。
今、僕は生きているのか。
死んでいるのと、同じではないか。
だったら、本当に死んだほうが──
両手首を掻っ切った。歯車が合ったように、ついに涙が決壊した。視界がぐらぐらして止まらなくて、雫が頬を切り裂く。塩辛い液体は、口元を喉元を胸元をたどり、服をびっしょりにした。麻痺した手首を動かし、本のページをちぎって書き殴った。
『僕は死ぬしかない。
愛深に裏切られて、生きていくなんてできない。
死んでも悲しまれないなら、僕は死ぬ。』
そして、また切った。想いをぶつけるように。そこに殺したいものがあるように。害虫をたたきのめすように。繰り返し繰り返し、切った。
愛深が憎い。
憎い。憎い。憎い。
あの憎しみが胸に灯りかけ、金網に手をかけたときだ。屋上のドアをたたく音がした。僕はゆっくりとそちらを向き、どんどんと乱暴に叩かれるドアを眉も動かさず見た。
「聖希!」
けれど、その声にぐっとまぶたを押し上げた。
「開けて、聖希!!」
愛深の声だった。
◆
保護された男の子がパトカーで去って、私は茫然として、気を遣った警察の人が、温かいお茶を用意して花壇に座らせてくれた。お茶の熱が軆の芯に染みて、思っていたより、軆が冷えていたことに気づいた。ふわ、と肩を柔らかいものが覆って顔を上げると、名前は出てこなくても、聖希の自殺未遂のときに私の話も聞いた、年配の刑事さんがいた。
「今日は冷えるね」
肩にかかったのは毛布だった。震えたため息をつき、「そうですね」とうつむいた。
「花冷えって奴か。桜も満開だ」
「花冷え……?」
「桜が咲く頃の冷えこみのことだよ。寒さの峠を越しても、まだ感じる寒さのことも言うかな」
「……じゃあ、今日は聖希の心も花冷えですね」
「峠は越してると思うのかい」
「………、」
お茶に口をつけたとき、「愛深」と呼ばれてはっと顔を上げた。人混みをかき分けて駆け寄ってきたのは、晶磨だった。思わず立ち上がったけど、お茶を持っているし、刑事さんの手前、抱擁はちょっとできない。
それでも察したのか、「まだ終わってないんでね」と刑事さんは立ち去ろうとした。その言葉の重さに目を伏せたとき、「待ってください」と晶磨が刑事さんを呼び止めた。
「愛深を連れていってください」
私は目を開いて、晶磨を見上げた。刑事さんも驚いた。晶磨は一瞬うつむいたけど、刑事さんをまっすぐ見つめ直す。
「直接は聞かなかったけど、集まってるおばさんたちが話してました。『愛深を連れてこい』って言われてるんですよね?」
「君は──その、愛深さんの」
「友達です」
「何言ってるの、晶磨は私の──」
「愛深は逃げてるだけだ」
わけが分からなくて当惑していると、刑事さんは晶磨の肩をたたく。
「俺が言っちゃ厚かましいことを、君は愛深さんに言ってくれそうだ。分かった、愛深さんのことはしっかり守ろう」
「……ありがとうございます」
「え、ちょっ、何──」
「ふたりで話しなさい。話がついたら、救急車の隣のパトカーに」
落ちた毛布を拾い、刑事さんの背中は混雑に紛れていく。私が突っ立ってしまうと、「愛深はほんとに幼なじみが大事なんだな」と晶磨は小さく笑った。
「そいつが死んだかもって思ったら、俺の声も聞かなかった」
「あ、あれは、」
「俺とつきあったって、何の意味もない。つきあったから、俺もそれが分かった。愛深は、俺のことなんて……」
「私は晶磨のこと、」
「幼なじみのこと、『好き』じゃないのは分かる。でも、大切なんだろ?」
「え……」
「失くしたくないのは、幼なじみと俺、どっちだ?」
晶磨の瞳に映る私は、突いて出るはずの言葉を発することができない。晶磨は校舎を見やった。
「死ぬぞ、本当に」
「……そんな。どうせ、また……」
「取り返しがつかなくなる。それで平気なんだな?」
口ごもって、手の中の紙コップの温もりに少し力をこめた。言葉にならないものが、なぜか脳裏で光景になる。
マンションの前の公園のベンチの後ろに、誰かいた。幼い私はその子に駆け寄って、覗きこんで、その子が泣いていることに気づいた。どうしたのとつたない口調で問うと、僕なんか死ねばいいんだとその子は言った。私はびっくりして、とんでもないことだと思って、そんなことないよと返した。
『んっと……あ、わたしはまなみっていうの。あなたのなまえは?』
『きよき……』
『きよきくん。じゃあ、わたしがかなしいよ』
『え……』
『きよきくんがしんだら、わたしがかなしいよ』
その子は私を見つめた。私はその瞳を見つめた。ほんとに、と言ったその子に、私が力強くうなずくと──
……どうして? どうして、こんなときに、あの弱々しい笑顔を思い出すのだろう。私が孵化させた、小さな笑顔。その笑顔が心の中で鮮明になるほど、こんなにも涙があふれてくる。
「平気な女なら、それこそ俺がお前を振るぞ」
「晶磨……」
「行け」
「……ごめんっ」
「分かってたよ。俺こそ、なぐさめてつけこむみたいに告って、ごめんな」
私は晶磨に、泣いているまま精一杯咲ってみせて、足を踏みだした。
◆
「聖希、私だよ。連れてきてもらったよ! 開けて!」
誰もいない、どす黒い血の匂いだけの静けさに、その声はやたら響いた。金網に引っかけていた指をぎゅっと握った。ぎし、と金網がきしむほど。
「ねえ、聖希」
何だ、いまさら。警察も間抜けか。本当に連れてきたら殺すだけなのに。もうすべて遅いのに。
「聞こえてる?」
都合のいい説得など、もう僕には届かないのに。
「聞こえてるなら、私の話、聞いて」
うざったい。都合のいいことを言われるだけだ。
「私……私ね、逃げてたの。聖希から逃げてた。分からなかったの。自信がなかった」
……でも。
「聖希を受け止められるか、分からなかった」
ドアの向こうだけど、分かる。
「私なんか、聖希の支えになれるのかなって。なっていいのかなって」
泣いている。愛深が泣いている。
「聖希の支えになるなんて、そんなの、私でいいの? 私、何にもできないよ。何ができるか分からないよ」
こんな嗚咽混じりの愛深は、初めてかもしれない。愛深はいつも、僕に咲いかけて、涙は見せなかったから。
「私だから、そう思うんだよ。それは、分かるでしょ。ずっと一緒だったから、分かるでしょ」
冷たい風が抜ける。無意識に空を見ると、暗闇の中に月がくっきり浮かんでいる。
「私が一番、聖希のそばにいたんだもん。誰より、知ってるんだもん。聖希がどんなに傷ついて、どれだけ苦しんできたか。それを一番知ってるから……」
飲みこみそうな暗闇の中でも、月は凛然と輝いている。
「私が、何かを間違えたらどうするの? 聖希はもっと傷つくの? そんなのは嫌。それだけは嫌なの」
……愛深。君は──
「聖希に、それ以上傷ついてほしくないの」
ふとシャツが風をはらみ、軆がひやりとする。その寒気に不安になっても、月は光を放っている。
「聖希」
愛深……
「いなくならないでよ」
君は──……
「これからもそばにいて」
バカ、だな……
「憶えてる?」
……憶えてるよ。
「私は、聖希が死んだら哀しいよ」
塩辛い唇を噛む。そして一度息を吸った僕は、閉ざしたドアに向かって走り出した。
FIN