十六時からのシフトに合わせて、十五時半になる前に家を出る。私の職場は二番目に近いコンビニだ。一番近いコンビニは、普段利用するので職場にしたくなかった。だから二番目だけど、じゅうぶん歩いて通勤できる。
住宅街を抜けて、車道沿いの道を歩いていく。よく車が出てくる三叉路の横断歩道で足を止めたとき、ふっと足元を影が抜けていった。
茶色と白の子猫が、赤信号なんて気にせずとことこと向こう岸に渡ろうとしている。
「……あ、」
横道から出てきた自転車の急ブレーキが響く。でもその自転車に軽く当たってしまった子猫は、飛ばされて道路の真ん中に打ちつけられた。そして、とっさに動けなかった隙に、車が突っ込んできて容赦なく子猫を轢いてしまう。
「わっ……」と自転車を運転していた中学生くらいの女の子が動揺した声を上げた。けれど、車は何も気づかなかったみたいで、そのまま通りに出ていってしまった。
つぶれた真っ赤な子猫の死体が残る。自転車の女の子は、突っ立つ私を一瞥したものの、何も言わず逃げるように走り出してしまった。
私はざわつく心臓を手のひらで抑えて、端に寄せてあげたいけど近くで見るの怖いな、なんて思った。そして迷った挙句、青信号に気づいたので、そのまま何もせずに職場に向かってしまった。
この全国チェーンのコンビニで働きはじめて、三ヵ月くらいだけど、私は物憶えも要領も悪くて、笑顔や声出しも上達しない。接客が向いていないし、陳列のセンスもないし、清掃も気が利かない。職場の人にうんざりされているのは、泣きたいぐらい感じている。
特に今日はあんな事故を見てしまって、胸の中が煙たく重く、集中力が続かなかった。お釣りを間違えたり、ポイントカードを後出しされて狼狽えたり、陳列中に商品を選ぶお客様の邪魔になってしまったり。「ちょっとバックで休んでてください」と店長に声をかけられ、しずしずとスタッフルームに引き下がった。
ダメだなあ、と空いていた椅子に腰かけてうつむいていると、しばらくして店長もスタッフルームにやってきた。ぼんやりして、「お疲れ様です」すら言わずに落ちこんでいると、露骨なため息が聞こえた。「松永さんさ」と店長は私の隣の椅子に腰かけると、眉間に皺を刻む。
「無理しなくていいよ」
「……えっ」
「というか、無理されると僕らが困るわけ」
「………、」
「コンビニの仕事を楽しめっていうのがむずかしいのは分かるけど、君、その楽しくないのがすごく顔とかに出てるんだよ」
「は……あ」
「そういう店員、お客様から見てどうだと思う?」
「……不愉快、ですね」
「そう。だから──もっとやりがいを感じる職場を探したほうがいいんじゃないかな」
ゆっくり顔を上げ、店長の苦々しい表情からその意味を読み取る。
「でも、私……やっとここの面接に受かって、」
「うん。でも、さすがにもう君の面倒は見れないんだよ」
「が、頑張る……ので」
「ほかの場所で頑張ればいい。ここで君をこれ以上雇うのは、無理だ」
「………、」
「今日ももう帰っていいよ。後日、制服だけクリーニングして返して」
そこまで言うと、店長は荷が下りたような顔になって立ち上がり、売り場に出てしまった。
私はうつむき、クビ、と思った。クビになったんだ。そうだよね。三ヵ月経ってもこれだもんね。私なんか、やっぱりダメなんだ……。
制服を私服にのろのろと着替えると、ほかのスタッフに挨拶もせず、私は職場だったコンビニをあとにした。
ケータイで確かめると、十八時をまわったところで、ひぐらしが鳴く八月の空はまだ夕焼けさえ始まっていなかった。蒸し暑い空気に肌を舐められながら、家に帰る。
あの三叉路に、もう子猫の死体はなくなっていたけど、血だまりは生々しく残っていた。
一軒家の家には誰もいない。父も母もまだ仕事だろう。母はもうすぐ帰ってくるかもしれない。私は部屋のベッドに倒れこみ、幼い頃から手放せない毛布を頭にかぶった。
クビになったと言ったら、また両親は、私が大学にも専門にも進まなかったことを責めるだろう。高校を卒業したら、水商売を始めた。家を出たかった。でも私にホステスなんてできるはずもなく、半年もせずに店を辞め、ただ夜の街をふらふら歩いた。
そんな中で、瑞哉に出逢ったのだ。
◆
キャッチのおにいさんが、私を一瞥して変な顔をして、結局何も声をかけない。子供がこんなきらびやかな街で何をしているのか。そう思ったのだろう。この夏で私はもう十九歳が近いけど、化粧も不器用な童顔で、このあいだまで働いていた店のお客さんには、さんざん中学生だろうと言われた。
でもママは言った。
「小学生でももうちょっとマシな化粧するわよ」
「もっと華やかに咲うことはできないの?」
「援助交際の子でも、あなたよりは頭を使ってお客と会話してるんじゃないかしら」
ママの口ぶりは、もともとそんなに物柔らかなものではなかったものの、私への言葉は特に容赦がなかった。「気にしないようにね」と言ってくれるお姐さんもいた。でも結局、芸能人のお客さんが来たとき、私がその人をぜんぜん知らなかったことにお客さんが腹を立て、すぐ帰ってしまったことで、ママは私に「もうあなた来なくていいから」と冷たく言い放った。
それから、夜にこのネオン街にはやってきても、どこに落ち着くこともなく人波に揺れている。お金のなさそうな子供に声をかけるキャッチはいないけど、お金をあげるからと声をかけてくる男ならたまにいる。私は腕をつかまれる前に逃げ出すけれど、処女売っちゃおうかなあ、と捨て鉢に考えることもあった。
煙草のにおいや酒のにおいとすれちがって、今日もあてもなく通りを歩く。足が疲れたので、クラブやラウンジが入ったビルのエントランスにあったベンチに座った。
そばに自販機が並び、ここで一服する人がいるのだろう。客の男でなく、お見送りをしたあとのお姐さんが、店に戻る前にここで煙草を吸っていくのだと思う。煙草なんて吸う意味が分からない、とか思っていたときだった。
「隣、誰か来るの?」
突然そんな男の声がして、はっと顔を上げた。思わずまばたきをした。その男の人が、スーツのホストでなく、黒服のボーイでもなく、Tシャツにジーンズというこの街にそぐわないすがたをしていたからだ。歳は二十代半ばくらいだろうか。
「邪魔じゃなかったら、休んでいいかな」
「あ、……はい。どうぞ」
男の人は私の隣にどさっと座り、リュックを足元に投げた。どうぞ、って。別に深い意味はないのに、勘違いされたらどうしよう。離れようかな、と思っていると、男の人は煙草を取り出してライターで火をつけると、大きく煙をふかした。
「どっかのお店の子?」
「……そう見えますか」
「見えないけど」
「おにいさんは、お客さん?」
「そう見える?」
「……見えないです」
男の人は含み咲いをもらすと、「これでも黒服だったんだよ」と煙草を吸った。
「だった」
「そう。さっき飛んできた」
「飛ぶ……?」
「ばっくれて辞めた」
「……ああ」
「こういう私服で出勤してくるのが気に入らないってママに言われてさ。そこまで縛られたらしんどいわ」
「そう、ですね」
「でも、ママが頂点で黒服は底辺だからなあ。どんな悔しいこと言われても、頭下げるしかないんだよな」
「分かります。私も……ダメなホステスだったから」
「やっぱキャストなんじゃん」
「だった、です。今は何もしてません」
「次の店探してるの?」
「私はどこ行っても同じです」
「そっかあ。俺もだけどね。やっぱ、地道に昼間働くしかないのかねえ」
男の人は遠慮なく煙草の煙を吐く。私はうつむき、昼の仕事かあ、と思った。私もそうして、こつこつお金を貯めるあいだは、家で我慢するしかないのだろうか。
中学生のとき、不登校になった私に、父は「俺の金で食ってるんだから、学校くらい行け」と言った。そう言われたときから、私は自分で稼いで親の支配から逃れるのが夢になった。どんなきらきらした将来の夢より、それを叶えたかった。
「ねえ、じゃあこのあと君はヒマなんだよね」
そう言った彼に目を向け、私はやや躊躇ってもうなずいた。「じゃあ」と彼は携帯灰皿に煙草をつぶして、私のショートカットの頭を優しく撫でた。
「ちょっと、俺と綺麗なもの見にいこうよ」
◆
ネオン街を少し離れたオフィス街の中でも、そのビルはとりわけ大きくて高層で、近未来的な造りで観光スポットにもなっていた。オフィスだけでなく、飲食店やイベントホール、映画館まで入っている。最上階は展望台で、夜に訪れるとあのネオン街のきらびやかな光を見渡せて、すごく綺麗だ。
気分が落ちこむと、私はこの展望台に来て瑞哉のことを思い出す。この場所を教えてくれたのは瑞哉だった。ふたりで自分たちを弾いた街が美しく夜に煌めくのを眺めた。
夜遅くなってきて、閉館が近づいて人がいなくなったとき、瑞哉は私の肩を抱き寄せて口づけてきた。私はキスさえしたことがなかったけど、瑞哉の服をつかんで必死に応えた。息が苦しくなって、やっと顔を離した瑞哉は「ホテル行く?」と訊いてきた。私は小さくうなずいた。
ゆっくり、瞳に夜景を焼きつけるようにまばたきをする。それから窓を離れ、エレベーターに向かった。相乗りした人がいて、私は下降していくエレベーターの回数表示の数字が減っていくのを見ていた。途中でエレベーターが止まって、ひとり乗りこんでくる。私はその人をちらりとして、心臓があふれるように脈打つのを感じた。
その男の人が、数年ぶりの瑞哉だったから。
◆
仕事をクビになったことは、父にも自分で言いなさいと母に言われた。
残業の上、飲み会に出てきた父は、零時過ぎの深夜に家に帰ってきた。母は本当に手伝ってくれなくて、軽食の準備を始める。父は酒を飲むと機嫌が良くなるタイプだったけど、終電に揺られて疲れたのか酔いは冷めはじめていた。
リビングに突っ立つ私は、うつむいて言葉を考えていたけど、結局ぼそっと「仕事辞めた」とだけ言った。
クーラーの風音が室内に流れる。
ネクタイを緩めた父は、私を一瞥すると、「続くと思ってなかったさ」と吐き捨てた。私は唇を噛み、言い返したいけど何を言えばいいのか分からない。すべて、父の予想通りだったのは間違いない。
「仕事仲間と子供の話になると窮屈だ」と父は言う。
「お前は話題に出すのも恥ずかしい。ひとつぐらい、自慢になるようなものはないのか」
「……おとうさんだって」
「何?」
「おとうさんも、昔から友達に話せないような人だったよ」
「俺は仕事もやって、お前とかあさんを食わせて、立派にやってる人間だ。お前とは違う」
「立派じゃないよ」
「お前に言う資格が、」
「私もおとうさんのこと恥ずかしい」
父がぎろっと私を睨みつけ、こちらに一歩踏み出した。私は身を返して、二階の部屋に閉じこもった。父が怒鳴りはじめるのが聞こえる。そういう切れるところが、私は大嫌いだよ。
ベッドの上で膝を抱えていたけど、父の怒声がやまなくていらいらしてきて、ベッドスタンドに置いているカミソリで手首を切った。赤い裂け目が増えて、ぽたぽたと深紅の雫がシーツに飛び散っていく。
いつも落ち着くまで切る。手首でおさまらないと、腕も切る。つうっと赤い筋になって血がしたたる。
痛いけど、こんなものじゃない。もっと痛めつけて、苦しい心を表して、感情を吐き出さないと。それでもなかなかいらだちは落ち着かず、死ぬしかないのかな、なんて考える。
死ぬほど、生きているのが苦痛なこと。それは、死んで見せることでしか表せない。真似事では理解されない。届かない。あんな父のお金に寄生して、私なんか生きていても仕方ない。死んだほうがいい。
ベッドを降りると、部屋を出た。血の雫の痕がぽつぽつとついてくる。階段を見下ろし、頭から落ちれば段で打ちどころを強打できるかもしれない。身を乗り出す。怖くはなかった。吸いこまれるように軆を空中に投げて、そのまま落下した。
ダンダンダンッと階段に何度も頭を殴られ、すごい音がしたけど、気絶もしなかった。両親が駆けつけて、さすがに驚いた声で何か話すのが聞こえた。
意識がある。痛みはない。でも、床と後頭部のあいだにぬめりがあった。そのまま出血してれば死ねるかな。
そう思ったけど、やがて救急車のサイレンが聞こえてきた。
◆
街に出向くと、彼と会うようになった。瑞哉という名前と、二十八歳という意外といっている年齢も知った。私は親がつけた自分の名前が嫌いで、小秋という源氏名に使っていた名前で呼んでもらった。「秋生まれなの?」と訊かれると、「秋が好きなの」と答えておいた。
◆
とっさに顔を伏せたので、瑞哉は私に気づいていない。彼はそのまま一階に到着したエレベーターを降りていった。私は一瞬迷っても、やっぱり瑞哉のあとを追いかけた。声をかけたいと思う半面、いまさら再会しても迷惑だろうと分かっていた。
瑞哉は駅前の居酒屋に入って、座敷に集まっていた人たちの席に混じってくつろぎはじめた。友達だろうか。私はカウンターからそっと瑞哉を窺った。何年ぶりだろう。そのすがたを見ているだけで、あの頃の感情がこみあげてくる。
瑞哉が好きだった。本当に好きだった。彼に死ねと言われたら、死んでもいいほど好きだった。そして、死んで消えろと言われてもおかしくなかった。でも私が実行しそうだから、瑞哉はそこまでは言わなかった。ただ、何度も私を突き放し、しばらくすると結局連絡をよこしてきた。
瑞哉のすがたを見ているだけで、心も視線もそわそわしてくる。しかし声はかけなかった。私に気づいていないから、そうして咲っているのだと思う。私がここにいるのを知れば、また……。
そばにいたかった。彼も初めは私をかわいがっていた。いつから彼との関係はあんなにいびつになったのだろう。終わったことだと分かっていても、もし、また瑞哉のそばにいられるなら、今度は離れたくない。
瑞哉に揺らがない本命の恋人がいても、私は二度も彼をあきらめることなんてできない。
◆
私は救急車の中でずっと泣いていた。「死にたい」と狂ったように繰り返し、「そんなこと考えなくていいんだよ」と救急隊員の人が腕を手当てしながら、根気強く励ましてくれた。同乗した母は黙りこんでいた。
やっと受け入れる病院が見つかって到着すると、後頭部の傷を縫うために、髪を一部分だけ刈られた。私はまだ泣いていて、「死にたい」「死なせて」と口走るばかりだった。
生きていてもしょうがない。仕事すらできない。親にも恥ずべき存在だと言われて愛されない。心から愛した人もそばにいない。生きる価値がないのだ。そんなことをつらつらとうわ言で語りつづけた。
「しばらく入院してもいいと思うんですが」
傷を縫合され、どこかの部屋に移動して、そこにあったベッドで相変わらず泣いていると、ふとそんな提案が聞こえた。入院。家にいなくて済むのなら、それでもいいと思った。
親と同じ家にいたくない。家にいると消えたくなる。自分を養えず、しょせん父の言う通り食べさせてもらっている状態なのが耐えがたい。話し合いが続くのをぼんやり聞いていると、足音が近づいてきて「しばらく入院して、様子を見ましょう」と言われた。
その夜はそこのベッドで過ごし、朝、看護師さんに大部屋の病室に連れていかれた。大部屋かあ、と思ったものの、個室なんて贅沢なのは分かっている。
私はベッドに横たわり、持ってきてもらった朝食を食べた。あんまりおいしくなかった。ごはんのあとは薬を飲んで、白く消毒されたシーツに沈みこむ。
昨夜熟睡できなかったから、すぐうつらうつらしてきた。隣のベッドの人が聴く音楽の音もれとか、向かいのベッドで話をしている人たちの声とか、そんなのがゆっくりと遠くなっていく。
◆
病院での生活は、思っていたより楽ではなかった。同じ病室の人は遠慮がないし、共用のお風呂もすっきりしなかったし、食事は食堂まで出なきゃいけないし。消燈も起床も早すぎる。薬で眠っている時間だけが楽だった。
日中、起きているあいだは何もやることがない。読む本も、聴く音楽もない。救急車でやってきたまま入院したから、そんなもの何も持っていない。眠れるときは、ひたすら眠った。
◆
瑞哉に会うと、よくオートバイの後ろに乗せられて、夜の街を走った。どこに行こうと決めることもなく、高速道路に乗って、適当に降りて見知らぬ街で過ごす。
深夜、高速道路から遠くの夜の街の明かりを見るのが好きだった。暗闇で街はきらきら輝いていて、その光から遠ざかって、私は瑞哉とふたりだけになる。
そして、ひと気のない海辺や静まり返った駐車場で淫らなことをした。瑞哉は口でされるのが好きだった。私は彼にひざまずき、何度も瑞哉のものを口にふくんだ。
初めはやり方なんて分からなくて、瑞哉は私の指を舐めてお手本を見せた。そのまま、私は瑞哉をしゃぶる。浮いた血管に口づけ、こわばったものを根元から舐める。最初は全部口に入れるなんて無理と思っていたのが、やがて飲みこむようにふくみ、きゅうっと吸い上げることもできるようになった。
瑞哉はあんまり挿入はしたがらなかった。私は欲しかったけど、万一妊娠なんてなるのは怖かったし、何も言わなかった。
「小秋、いつものやって」
瑞哉がそう言うと、私は下着をおろして自分のことをいじってみせる。瑞哉は私の自慰を見るのが好きだった。見ながらまた、硬くなってきたものを私に握らせる。
その感触を手のひらに感じながら、私は自分をなぐさめて愛液を地面にまで垂らし、瑞哉が耳元がささやく淫語にかすかに喘ぐ。私は瑞哉が好きだったけど、正直、瑞哉に何かされて感じたことはない。自分でするといやらしいほど感じるから、瑞哉があんまりうまくなかったのかもしれない。
「瑞哉って」
「うん?」
「彼女とかいないの?」
「何で」
「……いたら、彼女に悪いかなって」
「はは。いたらこんなふうに小秋に会ったりしてないよ」
「ほんと?」
「うん」
「私、瑞哉のこと好きなんだけど」
「えー」
「好きでいていい?」
「小秋は妹だからなあ」
「妹とこんなのするの?」
「しないけど」
「……妹でもいいよ。そばにいたいの」
「そっか。俺も小秋のことほっとけないから」
瑞哉は私の頭を撫でる。初めて逢ったときから、瑞哉はよく私の頭を撫でてくれる。子供あつかいだけど、嫌いじゃなかった。髪を愛撫するときは、瑞哉の指先に脊髄が蕩けるような感覚を覚える。
◆
瑞哉に出逢って、何年か過ぎた。瑞哉は昼に営業の仕事を始めて、夜は疲れて寝てしまうからと、あまり私に会わなくなった。私から連絡しても、すぐ切ってしまうか、無視だった。ぜんぜん会わないわけじゃなかったけど、会っていてもよくケータイをいじっている。
「仕事?」
「うん」
彼女ができたというのなら、それでもいいんだけどなあと思った。もちろん瑞哉の恋人になりたいけれど、たぶん妹止まりで、なれないのは分かっている。
ファーストフードでハンバーガーを一緒に食べながら、「瑞哉に彼女できたからどんな人かなあ」と言うと、「楽な奴がいいや」と瑞哉は答えた。
「楽な人」
「一緒にいて楽な感じ」
「……私は?」
「小秋は見てて危なっかしいよ」
「そうかな」
「だって、俺が死ねって言えば死ぬだろ?」
「………、うん」
「そういうとこが、危ないよなあ」
「そう言われても、死ななきゃ彼女になれるの?」
「彼女になる人には自立しててほしい」
「自立」
「恋愛自体がそもそも面倒だしな。つきあうなら、安定したいの」
「結婚するってこと?」
「そうだな。結婚してもいい相手ならつきあう」
「瑞哉が結婚したら、会えないのかな」
「そんなことはないだろ。小秋が結婚しても、俺、会うよ」
「えー……」
「旦那の留守中に家に行ってエロいことする」
「浮気だよ」
「俺は浮気する男だし、小秋も誰かとつきあったら普通に浮気するよ」
「しないよ」
「いや、絶対する。浮気しない奴なんていないね」
瑞哉とつきあえたら、そんなことしない。そう思っても、それは飲みこむ。
瑞哉と私はハンバーガーを食べ終わると、遠出はせずに近くの映画館でオールナイトの映画を観た。最後列の周りがいない席で、瑞哉は私の手を取ってジーンズの前開きを開けさせて握らせる。私は瑞哉の肩に少しだけ寄り添って、優しく刺激してあげた。やがて手の中に精液がこぼれ、私はそれを舐めて唾液と飲みこんだ。
「まずいだろ」と瑞哉は言うけど、「好きだよ」と私は笑顔で答える。
◆
瑞哉は一年経つ前に営業の仕事を辞めたけど、私に会う回数は戻らなかったし、連絡はますます減った。行為も乱暴になってきて、「小秋は俺の奴隷だから」と言うようになった。
目隠しをされた。手を使わずにしゃぶれと命令された。私はおとなしく従って、でも、それが逆に瑞哉をいらつかせるみたいだった。「何で抵抗しないんだよ」とホテルの一室で言われたある日、「私は瑞哉が好きだから」と返すと、瑞哉は息をついて、私を突き放してベッドに仰向けになった。
「瑞哉──」
「もっといい女はいるんだ」
「え」
「昨日も、女の子とデートした。小秋みたいなガキじゃない子」
「……そう」
「楽しかったよ」
「私は、瑞哉の奴隷でいいよ」
「………っ、そんなの、おかしいって分かるだろ」
「おかしくても、」
「もう小秋といるのしんどい」
床に座りこんでいた私は、ゆっくり立ち上がってベッドサイドに腰かけた。
「小秋のことは、頭がおかしいストーカーだって言ってある」
「……え」
「出会い系で会って、そのままつきまとわれてるって。それで、今のところは納得してもらえてるけど」
「………」
「これ以上は無理だ。ごまかせない」
「ごまかす……って、」
「彼女に決まってるだろ。高校のときからつきあってるんだ」
視線を下げた。ぜんぜん、驚かない自分がいた。そんなの、とっくに感づいていた気がする。なぜ瑞哉が本命の存在を隠すのか、そちらのほうが分からなかった。
「その人のこと、好きなの?」
「別に……長くいるから、好きとか何にも感じない」
「そんなの、」
「ただ、楽だから。お互いのこと全部知ってるし。結婚するならあいつしかいない」
瑞哉はじっと天井を見つめていたけれど、不意に私に目を向けた。「それでも俺のそばにいるのかよ」と言った彼に、私はうつむき、答えられなかった。
いまさら瑞哉に恋人がいたことに傷つくことはあまりなくても、ただ、瑞哉にそばにいても不毛なことは分かった。私は瑞哉に選ばれることはない。
それでもそばにいる? 会いつづける? ろくに会ってもらえないのに、たまに呼び出されたら深夜でも駆けつけて、やることを済ましたら別れて。
「私……瑞哉が、好きだもん」
瑞哉の眼つきが苦みを帯びる。
「死ねって言われたら死ぬよ」
「……お前さ、」
「その代わり、瑞哉を殺してから死ぬ」
「そういうの──」
「瑞哉のこと殺す。殺したいよ。それぐらい好きなの」
瞳からぽろぽろと雫が落ちてきて、どんどん止まらなくなった。「泣くの鬱陶しい」と瑞哉はうんざりしたため息をつく。それでも私は泣きじゃくりはじめた。引き攣った嗚咽が部屋をぐるぐるまわる。
瑞哉は起き上がってバスルームに行ってしまった。私は喉がひりひりになるほど泣いていた。頬がぐしゃぐしゃにぬかるむ。やっとしゃくりあげるのも落ち着いてくると、丁重に深呼吸して、ベッドにくたっと横倒しになった。
戻ってきた瑞哉は、ベッドには近づかずにソファでケータイをいじっていた。
早朝、ホテルをチェックアウトして、会話もなく駅で別れた。これが最後かなあ、とも思ったけど、引き止める言葉なんてもうなかった。
でも瑞哉からの連絡は続いて、むしろ彼は恋人の存在を明かしてすっきりしたのか、前みたいに優しくなった。その優しさは、私の違和感をあおった。
私の軆に触れながら、彼女からの電話に出る。自分は悪いことをしているのだと、そんな自覚が執拗だった恋心を緩やかに灰にしていった。
◆
「朝まで一緒にいられるから、小秋の好きなところに連れていくよ」
出逢って三度目の夏の夜、瑞哉はそう言って久々に私をオートバイの後ろに乗せた。オートバイにまたがった私は、「海がいい」と言った。「よーし」と答えた瑞哉はエンジンをふかして、オートバイを発進させた。
瑞哉の背中にしがみつく。煙草の匂いがした。ネオン街を突っ切って、光が飛んでいくのを眺める。高速道路に乗ると、ネオンサインの景色が暗い空の中で輝いていて、やっぱり綺麗だなあと思った。
以前、誰もいないからと砂浜で戯れたことのある海に到着した。夏という季節のせいか、今夜は少し人がいた。「エロいことできないなあ」と瑞哉は言って、「しなくていいよ」と私は苦笑してさくさくと砂を踏みしめる。
だけど、潮が香る波打ち際の手前で並んで座ると、瑞哉は私の軆に自然と触れてきた。「人いるよ」と言っても、「どうせ見てないから」と私の胸をつかむ。
相変わらず、瑞哉の手つきに感じることはなく、私は特にもらす声もない。その声で言葉攻めでもされながら、自分の指でするほうがいい。瑞哉は女の子をいかせたことは何度もあると言うけれど、単に演技に気づかなかったんだろうなと思う。
彼女のことは「何でも知っている」から良くしてあげられるのかもしれないけど、肝心のその人とはセックスレスらしい。「だから小秋で抜くんだよ」と瑞哉はささやき、私の手を硬くなってきたものに導く。
不意に瑞哉の尻ポケットのケータイが震えた。「彼女じゃない?」と私が言うと、「今はいいや」と瑞哉は私に脚のあいだを刺激させる。ケータイの着信は長く続いた。やっと途切れたものの、また震え出す。私は無言で、瑞哉のものを手でゆっくりしごいていた。
何度目の着信だったか分からない。さすがに気に障ったのか、「少し出てくる」と瑞哉は前開きを正してケータイを取り出すと、立ち上がった。私は瑞哉の温かく硬い感触が残る手を、白波にさらしてすすいだ。
ミニリュックからケータイを取り出し、現在位置から近い駅を探した。時刻は二十三時前だ。まだ終電にも乗らずに済むだろう。
波の潤った音が、繰り返し押し寄せるのを聴く。その音を聴いていると、すっきりした気分になってきた。海面を見やると、月と星がきらきら降りそそいで、夜景とは違った美しさを放っていた。
戻ってきた瑞哉は、私を背中から抱き寄せて、また胸を探ってきた。私はその手に手を乗せ、「帰らなくていいの?」と訊いた。「男友達と盛り上がってて帰れないって言ったから」と瑞哉は平気で嘘をつく。私は身動ぎして瑞哉の腕をほどくと、その場を立ち上がった。
「帰ってあげなよ」
「え」
「で、こういうのは彼女とやるの」
「……何、」
「彼女も瑞哉とセックスしたいと思うよ?」
「い……や、それはない──」
「それでも瑞哉は、彼女とセックスしなきゃいけないの。私じゃないの」
「………、」
「彼女のこと大事にして、仲良くして、結婚するんだよ」
「小秋──」
「それで……したいときは、彼女を抱いてあげて」
私はスカートについた砂をはらった。瑞哉はぽかんと私を見上げていたけれど、不意に「最後?」と言った。私は瑞哉を見返し、「最後」と答えた。瑞哉はうつむき、「それなら」と私の手をつかむ。
「しないけど──映画の一本でも観ていこう」
「いいよ、そんなの」
「でも、こんなふうにもう会わないって、」
「ずるずる一緒にいたら、結局何かするでしょ。それはおしまいにしなきゃ」
「小秋はそれでいいのか」
「彼女に悪いからね」
「……そう、か」
「じゃあ、近くの駅まで歩けそうだから、私、帰る」
「えっ、危なくないか。道、分かる?」
「何とかなるよ。じゃあ、さよなら」
「……さよなら」
私は笑顔を作った。瑞哉の前でこんなふうに咲うのは久しぶりだなと思った。瑞哉の手が離れると、私はまっすぐ顔を上げて歩き出す。
◆
目を覚ましたとき、十五時が近かったから私は慌ててベッドを抜け出して、十五分で支度をすると家を出た。夏の日射しが白く、半袖の肌を焼く。職場のコンビニまで急ぎながら、眠っているあいだ見ていた夢を思い出した。
瑞哉の夢を見た。出逢った日に行ったあのビルのエレベーターで、偶然、彼に再会していた。懐かしい彼のすがたにどきどきして、つい追いかけて、彼が友達らしき人たちと笑っているのをこっそり眺めていた。今度こそちゃんとつながらなきゃ、なんて思って。でも結局、話しかけられなかった気がする。リアルで、感情が巻き戻って、夢の中で私は本当に瑞哉が好きだった。けれど、その愛情が生々しさは、何だか疲れた。
何年前かな。海の日が本当に最後だった。私は弱いから、つい連絡してしまうのを恐れて、携番もメアドもあのあと変えた。
当時、まだSNSやメッセアプリがなくてよかった。今、瑞哉がどうしているかは知らない。知ることもできない。それでいい。
忘れてるのにな。たまにあんな夢を見て、夢の中で私はまだ瑞哉のことを想っている。でも、ほんとに未練はないんだ。
あの人が彼女と結婚して、父親になって、ちゃんと仕事をする男の人になっていれば、それでいい。
職場は家から二番目に近いコンビニだ。速足で歩いていたけど、三叉路の横断歩道の赤に引っかかって立ち止まった。
足元を何かが通った。茶色と白の子猫が、赤信号なんて知らずに向こうに渡ろうとしている。声がもれたけど、それを自転車の急ブレーキがかき消した。自転車に勢いよくはねられた子猫は、道路の真ん中にたたきつけられる。ついで、そこに車が突っ込んできて──
赤くつぶれた子猫の死体を見つめた。押し寄せる波のように、繰り返されるこの瞬間。もうこれで何度目だったかな、と思った。
FIN