絵本のあいだ

 なんて温かいのだろう。どうしてこんなに柔らかいのだろう。
 この体温が、子供が読む絵本のように、いつかは離れてしまうなんてあまりにも儚い。
 何で俺は、こいつといると、泣けてくるほど──
 妹が欲しいとは思っていた。きっとかわいいだろうなあと思って。でも、かわいいなんてもんじゃなかった。彼女は、一瞬にしてふらふらしていた俺の心をぎゅっとつかんだ。
 はにかんで頬に色をさし、「久しぶりだね、あおい」と微笑んだ彼女に、つらすぎて忘れていた記憶が急速に息を吹き返した。そう、欲しいなんて思わなくても、俺には妹がいた。両親の離婚で、小学校にもあがらないうちに離れ離れになったふたごの妹、なつめが。
 俺は母親に引き取られた。棗は父親に引き取られた。かあさんはけして愛情に欠けた人ではなかったけれど、仕事優先で、大学生になったのを機に俺がひとり暮らしを始めると言っても、何も反対しなかった。
 棗はわりととうさんに溺愛されて育ち、ちょっと世間知らずだった。ひとり暮らしも認めてもらえなくて、俺がひとり暮らしをしているとどこからか聞いたとうさんが、俺との同居ならと条件を出した。
 正直俺は、女を連れこめなくなるじゃねえかと不満だったが、待ち合わせの駅前の茶店に荷物を提げて現れた棗に、何もかも吹っ飛ばされてしまった。
「棗……か?」
 サイドはセミロングでも背中に届く長い髪、透き通る白い肌、もろげに細身で、繊細という言葉しか浮かばない。そんな綺麗な女の子が、俺のぽかんとした問いにうなずき、恥ずかしそうに頬を染めながら、風鈴のように心地よい声で言った。
「久しぶりだね、葵」
 俺はまばたきがいそがしくて答えられず、そんな俺に彼女は首をかたむける。さらり、と落ち着いた茶色の髪が流れる。
「葵?」
「……え、あ──ああ」
 棗はじっと俺を見つめた。その瞳に映る俺の瞳は、確かに彼女と同じ色で、あまり焼かない肌の質感もおなじだ。
 でも、肩幅や骨格はもちろん違う。ちなみに俺も茶髪だが、赤っぽい感触で彼女みたいにおっとりした色じゃない。
 棗の長い睫毛が上下し、それに切断されたみたいに、俺はやっと視線を剥がして咳払いすると、テーブルに向き直った。
「す、座れよ」
「え、でも」
「おごるよ」
「部屋には行かないの?」
「いきなり部屋かよっ」
 言ったあとで、やべ、と軆が熱くなった。こんな台詞、まるで部屋でいかがわしいことが待っているみたいだ。
 バカバカしい。どんなにかわいくても、実感はなくても、彼女は俺の片割れだ。
「いや、そうだな。部屋行くか」
「葵──」
「バカ、積もる話でもあるかと思っただけだ。とっとと部屋行きたいなら行くぜ」
「……怒ってない?」
「何でだよ」
「何か……」
「怒ってないって。ただ、その──」
 俺は席を立ち上がり、棗を見下ろした。いろいろ似ていると思ったが、目の高さはぜんぜん釣りあわない。
「……お前、身長何センチだ」
「えっ。百五十──二か、三かな」
 俺が思わず噴き出すと、棗は一瞬拍子抜けたあと、「もう!」とかばんで俺を殴った。
「気にしてるんだからっ」
「何にも言ってないだろ」
「笑ったじゃない」
「いいんじゃね。女はちまちましてるほうがモテるだろ」
「ちまちまって」
「ほら、俺が悪かったから。お詫びに持ってやるよ」
 棗の手からかばんを奪うと、けっこう重かった。あの細腕によくつながっていたものだ。
 棗はちょっとふてくされた顔をしていて、俺が兄貴面するとよくそんな顔してたなあ、とようやく記憶の棗と目の前の棗がシンクロしはじめる。
 クーラーが効いた茶店を出ると、真夏の太陽がアスファルトを炙っていた。
 棗の引っ越しは夏休みを機にした。会うことはなかったけれど、俺も棗も大学が集まっている街の大学にそれぞれ入学していた。俺はその沿線上に部屋を借りていて、それを知ってとうさんは棗が家を出るのを許したのだ。本当は、棗は入学した春からひとり暮らしを始めたかったらしい。
「葵、口悪くなってるよ」
 汗ばむ皮膚にはりつくTシャツを鬱陶しく思いながら、にぎやかな駅前を案内して部屋に向かっていると、棗はそんなことを言う。
「んなことねえだろ」
「『ねえだろ』とか」
「これくらい普通だろ」
「……そうなのかな」
「はいはい、棗ちゃんはお坊ちゃんとしかおつきあいしたことがないんですね」
「そ、そんなの、いたことないよっ」
「嘘つけ。隠すことでもないだろ」
「いないよ。ほんとに。葵はいるの?」
「今はいない」
「……いたんだ」
「何だよ。いたら悪いか」
「別に」
 棗は車が行き交う車道に視線を移した。こういう車道沿いの道で、排気ガスで吐きそうになるのがなくなったのはいつからだろう。街は何気なくエコに走っている。
「棗」
「………」
「棗ちゃん」
「……何」
「こっちがだよ。俺が童貞じゃなくてショック?」
「どっ……、バカ! そこまで言ってないっ。っていうか、そんな、……そう、なの?」
「普通に中学で捨てましたけど」
「中学!?」
「え、お前、まさかマジで──」
「……もうほっといて」
「俺の友達、紹介してやろうか」
「いらない。どうせ、今の葵みたいに軽い人でしょ」
「『今の』って。俺はそんなに変わってな──」
「変わったよっ。葵はもっと優しくて、芯があって、いつも私のこと守ってくれてた」
 俺は棗の憮然とした横顔を見て、とんだお嬢様が来ちまったな、と若干興醒めした。それで正しいのだろう。いくらルックスがよくて、ぱっと見でどぎまぎしても、やっぱり兄妹だ。
 そう、この子は妹なのだ。しかも箱入りで育てられた堅物だ。やっぱ同居断るべきだったかなと後悔しつつ、アパートの群集に踏みこんで、住みはじめて半年になろうとしている部屋にたどりつく。
「お邪魔します」とこれから住む部屋に断りを入れて踏みこんだ棗は、俺が一週間かけてなるべく片づけた部屋を見まわした。ベッドがロフトのせいか、意外に広いとよく言われる。
 俺は棗の荷物をフローリングにおろし、クーラーをつけると、キッチンの冷蔵庫を開ける。
「アイスココアでいいか」
「あ、うん。葵、ココアなんて飲むの」
「俺は緑茶。お前が飲むもんで思い出せるの、ココアだったんで買っといた」
 棗は、またじいっと俺を見つめた。でも、すぐ真剣な色はほどいて微笑み、「嬉しい」と駆け寄ってくる。俺はその笑顔にほうけそうになったけど、慌てて目をそらして、冷えたココアの紙パックをさしだす。
「ありがとう、葵」
「……ん」
「ふふ。やっぱり葵、変わってないのかな」
「変わったよ」
「私、葵のこういうところ好きだった。私の好きなものを、誰よりも憶えててくれるの」
 無邪気にそう言ってストローを差す棗を、俺はまた直視できなくなる。
 何だよ。簡単に言うなよ。好き、なんて。
 やれない女に言われたって迷惑だ。俺はそういう男だ。そういう奴になった。変わった。
 なのに、何でこいつはこんなに純粋なままなのだろう。
「とりあえず、その……」
 俺は緑茶のペットボトルを開けながら、不自然に視線が迷わないよう棗を見る。
「これから、よろしくな」
 ストローに口をつけていた棗も、いったんココアをおろしてまっすぐ俺を見ると、「よろしくね」と笑みを見せた。
 そんなふうに、俺と棗のふたり暮らしは始まった。棗は家事は完璧だった。とうさんは家事なんかしないだろうし、自然と棗の役目だったのだろう。
 かあさんと暮らしていた頃からコンビニ弁当だった俺は、数年ぶりに手料理にありついて感動した。俺に褒められると、棗は嬉しそうに咲う。
 そうだ。誰よりも俺に認められて初めて、棗はそれを自信にしていた。
 砂浜で貝殻を拾うようにそんなことを思い出しながら、あっという間に一ヶ月ぐらい過ぎた。
 俺が食べたいと言ったものは、棗はたいてい作れる。その夜もそうだった。ただ材料で足りないものがあって、俺は別メニューでいいと言ったのに、棗は「まだスーパー開いてる時間だから」と部屋を出ていった。
 律儀な奴、と俺は床に転がって漫画を読んで待つことにして──突然ケータイが鳴り、初めてうとうと眠っていたことに気づいた。
 電話の着信音だ。誰だよ、とケータイをスライドさせて目を開く。棗だ。俺は着信が切れる前に、何とか電話に出た。
「もしもし。棗?」
『葵? あの、今、駅にいるんだけど』
「スーパー閉まってた?」
『ちゃんと買えた。けど、えっと──』
 そこで棗の言葉はさえぎられ、遠巻きに会話っぽいものが聞こえる。
「棗?」
 嫌な予感がしながら呼びかけると、次に電話に出たのは、棗ではなかった。
『おにいさん、こんばんは』
 聞いたこともない、馴れ馴れしい男の声だ。
「は? 誰だ、あんた」
『今日この子帰れなくても、別に問題ないですよね?』
 やめてください、とか棗の声が聞こえる。これは──。
 俺はいらついたため息をついて、床を殴った。
「ふざけんな! 今からそっち行ってぶっ殺す!」
 そう怒鳴って、電話を切ると、そのまま部屋を飛びだした。
 棗のバカ。世間知らず。ナンパくらいさらっとかわせ。いや、それができる器用なタイプでもないか。
 大学の沿線上とあって、駅付近も夜は女の子のひとり歩きが危なくなる。何でついていってやらなかったんだと歯噛みしながら、俺はゆいいつつかんできたケータイで棗に電話をかける。
 最悪出ないのもありえたが、さいわい『もしもし』と棗の捨てられた子犬みたいに怯えた声がした。
「今どこだ? 男は?」
『何か、手、握られて──あっ』
「どうした」
『え、ちょっと待っ──』
 俺に対する言葉じゃない。
 焦って慣れた道順を突き進み、駅前に到着する。駅直結のスーパーの前に行くと、二十時閉店のスーパーの前に人影がふたつ見取れた。あの綺麗な長い髪は、間違いない。
「棗!」
 行き交う人を縫って叫んだら、棗ははっとこちらを向いた。
 棗の細い手首をつかんでいるのは、長髪にピアスの男だ。男は俺を認めると、あっさり面倒そうな顔になった。
 ぱっと手を放され、棗はこちらに駆け寄ってくる。
「大丈夫か?」
「うん、お金は取られてない」
「バカ、お前がだよ」
「え、私は──」
「そいつ、ほんとに兄貴?」
 歩み寄ってきた男に棗はびくっとして、俺はそいつを睨みつける。俺の目は女に言わせると丸っこくてかわいいそうだが、そのぶんガンをつけるときついと言われる。
 その男も臆して、そのあと、臆してしまったのがばつが悪いように舌打ちした。
「相当のシスコンだな。ただの妹に」
「うるせえ。とっとと失せねえと殺すぞ」
「彼氏じゃなくて兄貴呼び出すなんて、ガキかよ」
 負け惜しみを吐き捨て、やっと男は人混みに消えた。隣で棗が息をつき、俺はその頭をぽんぽんとした。
 棗はしばらくうつむいていたけれど、ふと顔をあげて俺をどきりとさせる。その瞳は濡れていた。
「ごめん、ね」
「え、何で」
「ほんとに、子供だよね。こんなときに呼ぶのが、おにいちゃんなんて」
「どうせ彼氏いねえだろ」
「ん……」
「何だよ、やっぱいるのか」
「いないよ。……はあ。怖かった」
 実感のこもった口調に俺はくすりとして、「じゃあ、これからは」と棗の手を取った。
「夜に外出するときだけ、兄貴じゃなくて彼氏だ」
「えっ」
「お前に本物の彼氏ができるまでな」
 棗はつかまれた俺の手を見て、「うん」と嬉しそうにうなずいた。俺は棗の手を引いて歩き出す。昔みたいに。
 でも、昔の俺は、棗の手の温もりを感じるだけで、こんなに緊張していただろうか。
 あまり言葉も交わさず、帰り道をたどった。棗が提げるスーパーのふくろが、がさがさと音を立てる。コンビニや飲食店がまだ明るい駅前を遠ざかり、あたりは暗くなって部屋が近づいてくる。
 なまぬるい風が、浮いた汗を冷たくなぞる。「葵」と小さな声がしたけど、俺は聞こえなかったふりをして、街燈だけの道をどんどん歩いた。棗は俺の手をきゅっと握って、もう何も言わなかった。
 近い。今、俺が一番、棗に近い。でも、それだけに誰よりも遠い──
 翌日、棗と部屋にふたりきりなのがなぜかぎこちなくなっていたところ、大学の友達が飲みに誘ってきた。棗を連れていくべきか迷ったけど、ナンパにあの対応だし、野郎共なんてパニックになるだろう。
 約束は十九時で、十八時過ぎにスニーカーに足を突っ込んだ俺が、「たぶん零時過ぎるから」と言い置くと、「じゃあ今日はごはんいらないね」と棗は寂しそうに答えた。俺はそれに何も言えず、ただ「眠くなったら寝ろよ」と見て見ぬふりをするときのような後ろめたさを感じながら、部屋をあとにした。
「えーっ、葵ってふたごだったの?」
 野郎共の飲み会かと思ったら、女連中もけっこう来ていた。でも明らかに棗とテンションが違うので、やっぱり連れてこなくてよかった。
 酒も入った俺は、無意識に棗のことをしゃべっていた。愚痴というかのろけみたいに聞こえたのか、みんな「俺もそんな妹欲しい!」と悶える。アホか、とアルコールをすすっていると、背中にそんな声がかかった。
 名前は出てこなかったが、顔は知っている女だった。巻き髪、フルメイク、露出度の高い服。何もかも棗と正反対で、かなり遊んでいそうだ。
 棗ってほとんど化粧しないよな、とその女のつけ睫毛を眺めながら、「まあな」と適当に返す。
「連れてこればよかったのにー」
「そういうノリの奴じゃないんだよ」
「えーっ、ふたご見てみたーい」
「そんなにめずらしいか?」
「あたしの人生ではめずらしい」
「ふうん」
「そのふたごちゃんがどうしたの。彼氏ができて寂しいとか?」
「バカ。親の離婚でずっと別々に育ったんだけどさ。行ってる大学近かったのが判明して、今同居してんだよ」
「えっ……」
「家事やってくれるのとか、普通に助かってるよ。あいつもレポートとかあるのにな」
 俺がそう言うと、「やっぱのろけに聞こえるっ」と隣の奴がビールを一気飲みする。俺がそいつの頭をはたいていると、「男女のふたごってさ」とまだ背後にいた女が、ふとまじめな声で言う。
「前世で心中した恋人同士なんだよね」
 俺は眉を寄せてそいつを見た。目が合うと、彼女はにっと笑って「なんてね」とさりげなく俺の隣に座る。
「タチ悪い冗談よせよ」と俺は空になったグラスをテーブルに置く。「じゃあお詫びにお酌するから」と彼女は手を挙げて店員を呼び、適当に酒を注文しはじめる。
 棗と恋人同士、となぜかぼんやりした俺は、何も考えずに勧められるまま飲んで──
 霞みがかった脳裏に、うっすら聞きおぼえのある泣き声が聞こえた。ガキの頃、俺はその泣き声を聞くと、その涙の原因を徹底的にやっつけた。そして、すぐ駆け戻るとしゃがみこみ、その子の名前を呼んだ。
「なつめ……」
 頭の中を針が通過した。品の悪い香水でも嗅いだように気分が悪い。
「葵」と名前を呼ばれて薄目を開けると、暑い光が眼球を刺した。くせのないシャンプーの匂いがする。
「大丈──」
「……泣いてた?」
「えっ」
 俺の部屋だった。ロフトでなく、床の棗のふとんに寝ている。レースカーテン越しの明るさを見ると、もう昼頃だろう。
 棗の目はやっぱり赤く腫れていて、俺はそっと手を伸ばして頬の涙の痕に触れた。
「葵……」
「何か、あったのか」
「………、女の人が、葵をここまで送ってくれたよ」
「女……?」
「ちゃんと、お礼言うんだよ。えっと、お水いる?」
「え、いや……女って誰? 俺、憶えてないんだけど……」
 こちらを見つめる棗の瞳は、確かに傷ついている。その目は俺の胸を暗雲でかきみだす。
 立ち上がりかけていた棗は座り直し、「綺麗な人だったよ」とぽつんと迷子のように言った。
「綺麗に化粧して、スタイルもよくて」
 しばし視線を空中に放ったあと、「あ」と声をもらした。
 そうだ。思い出した。昨日の飲み会で、何だか、棗の話で絡んできた女がいた。その女が勧める酒を、俺はぼうっとしていたせいでそのまま飲んでいて──
「くそっ」とつぶやくと棗に目を戻した。
「あの女に何か言われたのか」
「え」
「気にすんなよ。俺、あいつの名前も知らねえし」
「ほんと……に」
「ほんと。あー、でも、送ってくれたなら確かに礼のメールくらいしたほうがいいか。……いや、メアドも知らねえや。つか待て、何であいつが俺の部屋知ってんだ」
「あ、友達に住所聞いて、下までタクシーで来たって」
「マジか。うわー、借りじゃん」
 俺が息をついていると、棗は黙りこんでうつむく。そんな棗を見つめ、俺も何となく事は察した。ずうずうしい女だったし、いらないことを吹きこまれたのだろう。
 棗はそういうのを真に受ける。純粋なまま変わっていない。
 俺の視線に気づいた棗は、しばらく見つめあったのち、果実を絞ってこぼれるような雫を瞳から流し出した。
「棗──」
「葵は私のこと忘れてた、ね」
「えっ」
「私は、葵のことずっと忘れなかったよ。いつかまた会いたいって思ってた。だから、おとうさんが葵の話を出してくれたときは、本当に嬉しかった」
「……棗」
「私……私、ね、」
「棗」
 俺は息苦しく棗を見つめ、棗は言葉を彷徨わせる。彷徨っているうちに、俺ははっきり言う。
「それは、言っちゃダメだ」
「………」
「ダメなんだよ……」
 その拍子、ぽた、と棗の涙が頬に降ってきた。俺も唇を噛んで、視線を落とした。そうだ。もうとっくにそうだったはずなのだ。再会したときから、俺だって──
 俺は起き上がり、肩を震わす棗を抱き寄せた。俺たちには、これが限界だ。大人になれば見向きもしなくなる絵本のように、いつかは離れなくてはならない。懐かしさでページをめくることもあるかもしれない。でも、一生の一冊にはなれない。弱々しく体温を感じることまでしか、許されない。
 だったら、今だけこうしてこいつを抱きしめていたい。温かい。柔らかい。いつのまにか、涙が止まらない。
 前世では、きっと本当に恋人同士だった。現世まで引きずるのは罪で、いけないことだけど……。
 誓って言葉は飲みこむから、まだ絵本を読むあいだだけ、儚いこの体温を自分の体温に伝えておきたい。

 FIN

error: