凛夜に

 闇夜に浮かぶ月下美人の画像を初めて見たとき、確かに、月の下にいる女にはこんな魔力があると思った。
 それまで、何とも想っていない幼なじみだった。それが、あの夜を境に、麻由佳まゆかは俺の心で凛と咲く花になった。
 麻由佳は昔から男勝りな女だった。俺も何度泣かされたか分からない。泣かされながらも、俺は麻由佳のあとを追いかけていた。
 あのときもそうだった。
 理由は、いつも散らかしたおもちゃを片づけないとか、おやつを食べたあとの皿をシンクに持っていかなかったとか、とにかく些細なことを親にしかられたせいだった。
 小学四年生の夏だったと思う。マンションの六階に住む麻由佳は、四階の俺の家に立ち寄って、「あたし、今から家出する」と宣言した。
「は?」
 そう返すしかない俺の頭をぽんぽんとして、麻由佳はふくらんだリュックを背負い直した。
「あんたには世話になったから挨拶しとくわ。じゃあねっ」
「な、何言ってんだよ。無理に決まってんだろ」
「大丈夫。あの家にいたらおかあさんもおとうさんもうるさいんだもん。それから逃げられるなら、何でもやるから」
 麻由佳があまりにもきっぱり言い切るので、俺も徐々に不安になってきた。
「じゃ、じゃあ、もう会えないのか」
「たぶんね」
「……そんな、」
「じゃ、のろのろしてたら見つかるし。さよなら!」
「待てよっ。じゃあ、俺も行くよ」
 きびすを返しかけていた麻由佳は、俺を見て首をかしげた。
「あんたは、おばさんともおじさんとも仲いいじゃない」
「そうだけど──お前にだって、男がついてたほうがいいだろ。働いたりしなきゃいけないんだぞ」
「あんたじゃ頼りないんだけど」
「でも、お前ひとりでも危ないだろっ。待ってろ、すぐ荷物持ってくるから」
「別に無理しなくても──」
「してねえよ。いいな、ひとりで行くなよ」
 そう言って、俺は家の中に引き返して自分の部屋に飛びこんだ。
 持っていくものは、何だろう。学校にはもう行かないのか? 働くなら行けないか。とりあえず着替え、と服をリュックに押しこんだ。あとは一応、財布も。ゲームも持っていきたいけど、どうしよう。漫画やCDは無理だ。
 精一杯持っていくものを絞って、玄関に戻ると、「遅い」と麻由佳は待ってはいてくれた。
「どこ行くんだ?」
 マンションを出て、夕陽を通して長い影法師を連れて歩き出す。麻由佳のリュックもいっぱい詰まっているようだと思いながらそう問うと、「見つからないところ」と返ってきた。
「電車とか乗っていくのか?」
「お金あるの?」
「財布持ってきたから」
「あたし、ないな」
「いや、家出だろ」
「だって、お小遣いで家出しても何かムカつくじゃん」
「じゃあ、どうすんだよ」
「まあ、しばらくは公園で──」
「危ないだろっ。あんなん、夜は変態とか集まるんだぞ」
「ほかに行くとこあるの?」
 眉を寄せて考え、どこも思いつけないまま、とりあえずマンションの群集は抜けていた。何となく通学路をたどっていて、結局学校のそばの公園に行き着いていた。
 いつも寄り道する生徒がいる公園だけど、日の落ちたこの時間に人影はなかった。麻由佳はのんきに「誰もいない!」とか言って、俺に荷物を押しつけるとブランコで立ち漕ぎを始めた。
 麻由佳のリュックは予想より重くて、何入ってんだよ、とぶつくさしながら俺は隣のブランコに腰かける。
「小学生でも働けるとこってどこかなあ」
「新聞配達とかじゃね」
「早く起きるの? 家出したのに?」
「売りとか言い出すなよ」
「言わないよ」
 すとんと麻由佳はブランコに腰をおろした。「リュック貸して」と言われてずしっと来るそれを渡すと、麻由佳はお菓子を取り出して俺にはポテチのふくろをよこした。
「お前、そのリュックの中って──」
「一応缶詰とかもあるし、しばらくは持つよ」
 そう言う麻由佳は、クッキーを取り出し、口に投げこみはじめる。
「食いもんしか持ってこなかったのか」
「あんたは何持ってきたの」
「服とか」
「はあ? どこで着替えんの」
「え、いや……だって、今、夏だぞ」
 麻由佳は俺を見た。俺が見返すと、「汗かくね」と麻由佳は初めて気づいた様子でつぶやいた。
「そういや、お風呂とかどうしよう……。あっ、トイレは? てか、服マジでどうしよ」
 俺はのりしおのポテチのふくろを開けて、その塩味をぱりぱりと噛んだ。麻由佳はしばらく悩んでいて、「あんたのおばさんとかいいよなあ」と不意につぶやいた。
「優しいし。綺麗だし」
「んなことないけど」
「あたしのおかあさんなんか、怒ってばっかりだよ」
「俺には優しいぞ」
「それがムカつくの! 友達とかには優しいくせにさ、あたしには文句ばっかりなんだから。普通、自分の娘が一番かわいいもんなんじゃないの」
 麻由佳を見つめた。街燈もない公園で、ゆっくり、月明かりだけが届いている。
 麻由佳の横顔も、うっすらと月光に映し出されて白く透き通っていた。まばたく睫毛、すっと通る鼻筋、頬から顎の丸み。
 何か綺麗だな、と思った。そういうふうに見たことがなかったので、気づかなかったけれど──こいつ、意外と綺麗なんじゃないのか。
 麻由佳がこちらを見た。俺は慌てて目を伏せて、不整脈を感じながらのりが香ばしいポテチを食べた。「あたしにも」と言われて、ふくろごと突き出す。
 がさがさ、とふくろの中をあさる音が静かな空中に響く。夜になっても消えない熱気に、汗が服と肌でべたつきかけている。
「そういえばさ」
「……ん」
「友達の家とかって行けないのか」
「………」
「麻由佳?」
「……帰ろうかな」
「えっ」
「何か、このまま生きていくとか、ほんとにできるのかな」
「でも、お前──」
 麻由佳はブランコを立ち上がった。俺はそれを見上げる。
「やっぱ帰ろ。あーあ、あんたを巻きこんだから、余計に怒られるな」
 ぬるい夏風がぐったり流れて、麻由佳の瞳が月を飲みこんで光っている。昼間、俺を揶揄っては笑っている女なのに。夜に見ると、やけに大人びて、綺麗に見える。
 どくんどくんと心臓が脈を刻む。
 何? 何だ。麻由佳相手に、何をこんなに緊張しているのだ。こんな女、俺は──
「ほら、あんたの親にはあたしも謝るから」
 麻由佳の手が俺の腕をつかむ。ほてった体温が伝わる。その温度になぜか頬が熱くなって、俺はその手をはらって「立てるよ」とブランコを立った。
 どう、しよう。こんなの嘘だ。どきどきする。麻由佳に。「かわいくないなあ」なんて言いながら歩き出す、かわいくない幼なじみに。
 月の下のすがたに、凛とした女の顔を見ただけで……
 いつのまにか、麻由佳に恋をしている自分がいた。麻由佳のほうは、俺に対してそんな色はまったくなかった。だから、知られないように、気取られないように努めた。気づかれたら、きっと「友達」でさえいられなくなる。
 麻由佳は、相変わらず俺をがさつにあつかう。それでも「他人」よりずっとよかった。麻由佳と関わりがあればいい。「恋愛」になれなくても、そばにいられるなら──
「一番つきあい長いのって、あんただから」
 中学二年生に進級した春だった。俺と麻由佳は、それぞれ友達を持ちつつも、相変わらずよくつるんでいた。
 だから、少しだけ期待していた。こんなに俺と過ごしてくれているのだ。もしかしたら、麻由佳も俺が──
「一番相談しやすいし、言うけど。あたし、好きな人ができた……っぽい」
 ブレザーを着る麻由佳に目を開いた。麻由佳は昔のショートカットから、ずいぶん髪が伸びいている。
「一年の後期の、委員の先輩だったんだけど。久知ひさち先輩。進級して委員も変わって、もうつながりがなくなったのがけっこうこたえてるんだよね。どうしたらまた話せるかばっか考えてて、好きなのかなあって」
「……そう、か」
「先輩とか敷居高いじゃん。どうしよう。あー、夜寝る前とか、すごい考えるんだよね。てか、もう忘れられてるかなあ。どうやったら、せめてまたつながれるかな?」
「さあ」とか言いながら、急激に息が苦しく閉塞していくのを感じた。
 好きな人。麻由佳に。俺なんかじゃなく、ぜんぜん別の男。
 そうだよな、と嗤いそうになった。
 そんな簡単に、両想いなんて。
 それから、麻由佳の恋の相談が始まった。俺なんかより、女子同士でやればいいのに。それとなくそれを言ってみても、「男の意見が欲しいしっ」と麻由佳は必死に訴えてくる。そんなことを言われても、こんなに喉も胸もひりひりになっているのに、意見なんて浮かばない。
 俺はお前が好きなのに。ほかの男のことをそんなふうに話すなよ。話さないでくれよ。
 何とか中間考査が終わった六月の初め、この状況きついなあ、と息をつきながら教室移動で廊下を歩いていたときだった。
「あ、ちょっと」と声がかかった気がして、足を止めて振り返った。三年の青いネクタイをした男の先輩が、友達を先に行かせて俺に駆け寄ってきている。知らない先輩で、臆していると、「君って」と先輩は深呼吸してから言った。
香田こうださんと仲いいよな」
 香田。麻由佳のことか。その先輩の、かっこいいというか親しみやすいルックスを認めつつ、「まあそうですけど」と言うと、先輩は首をかしげて言いよどんだものの、口を開いた。
「香田さんの彼氏?」
「はっ?」
「いや、彼氏なら邪魔したくないなーと」
 ……邪魔?
「えと、……別に。何でもないです」
「ほんとに?」
「はい」
「そっかっ。あ、じゃあ、何か変なこと訊いてごめんな。香田さんのことでは、君が気になってたから」
 俺は、先輩の左胸の名札を見た。心臓がぎゅっと止まったかと思った。
“久知”──
「じゃあなっ」と去っていった先輩の背中に、麻由佳の笑顔がよぎる。
 そんな簡単に、両想いなんて。……俺には起こらなかったのに。ありえるっていうのかよ。
 その夜、コンビニに行くと言って家を出た。まだ認めたくなくて頭が混乱していた。
 しかし、あの口ぶりは確実だ。久知先輩は麻由佳が気になっている。麻由佳も、久知先輩が気になっている。
 要は、麻由佳の恋は実ろうとしている。俺のことなんか差し置いて。俺のほうがずっとそばにいたのに。あのふたりは、気持ちを伝えあって結ばれるだけのところにいる。
 コンビニでは、適当にお茶を買った。二年くらい前にできたそのコンビニは、ちょうどあの公園の隣にある。あの家出の真似事の夜、公園は暗闇に包まれていたものの、今踏みこむとコンビニが明るい。
 天を仰ぐと、月が静かに灯っている。あの日からだった。凛とした月の下で、やけに麻由佳が綺麗に見えて。それから、俺はずっと──
 でも、どうせ通じないのだ。報われないのだ。俺にできる麻由佳のためになることは、すでに両想いであるふたりを応援することだ。俺が割りこんでどうなる? そんなの、麻由佳には迷惑にしかならない。
 バカだなあ、とブランコに腰をおろした。手の中の冷たいペットボトルを握る。
 こんな終わり方かよ。期待していた自分が際立って情けない。いつか、向こうからほのめかす態度があるかも、なんて──どこかでは思っていた。だって、一番麻由佳のそばにいたのは俺なのだから。
 けれど、そんなのは甘ったれだった。
 罰だ。何もしなかった俺が悪い。この気持ちには静かに鍵をかけよう。そして心の水底に沈める。この恋は俺の奥深くにしまって、古ぼけて無感覚になるのを待つしかない。
「──昨日、久知先輩に話しかけられたぞ」
「えっ」
「お前が気になってるらしいですよ」
 翌日の朝、通学路で合流した麻由佳に、俺はそんなふうに冗談めかして久知先輩に話しかけられたことを伝えた。久知先輩の言葉の端々に、麻由佳は「えっ? えっ?」と頬を染めて狼狽えていた。「とりあえず、お前から話しかけにいってみろよ」と俺は笑ってその肩をたたいた。
「他人」にならなきゃ、「友達」でいれば、麻由佳のそばにいられると思っていた。でも、そんなわけはないのだ。麻由佳は行ってしまう。俺を置いて駆け出していく。
 月の下で見た麻由佳に、何か伝えればよかった。でも何も言えなかった。言ったら壊れるかもしれないものに怯えてしまった。
 この恋が叶わなかったのは、意気地なかった俺のせいだ。
 ずっと、お前の隣で咲っていたかった。そんな願いも、深い深い底へと沈んでいく。実らぬ想いは散る。あの日の凛とした夜の記憶も、かすれて見えなくなっていく。

 FIN

error: