一輝とつきあいはじめたのは、中学二年生の冬だった。
冬休みが始まったクリスマス、何人かで友達の家に集まった。夜遅くまで騒ぐつもりだったが、なぜか酒を飲んでみようぜということになり、冷蔵庫からチューハイを盗んで、まわし飲みした。「けっこう飲めるじゃん」なんて言いつつ、結局酔ってきてひとりずつ寝落ちしていった。
俺も零時になる前に床に陥落したけど、ふと目が覚めた深夜、ベッドのきしむ音がしてそちらを見た。
明かりも暖房もつけっぱなしの部屋で、抱き合ってキスしているふたりの片方が、一輝だった。かすかに頭痛が刺さる頭で、え、とその光景を脳内処理しようとした。
何? ここ、男しかいなかったよな。てことは、野郎同士?
舌が絡む水音。明らかにキスしている。かなりエロいキスをしている。
ええと、これは──
「俺でいいじゃん」
抑えられたその声で、一輝の相手が昌弥だというのも分かった。
「俺は、一輝のこと好きだよ?」
何だ、これ。夢か。いや、何が哀しくてBLの夢を見なくてはならないのだ。
「やっぱり、ダメだよ」
一輝の声。そうだよ。ダメだよ。クラスメイトのBLとか我ながらヒくわ。
「僕が好きなのは、」
「智志なんか、お前の気持ちにも気づいてないだろ」
……いや。いやいやいや。智志って俺のこと?
「俺にしとけよ」
「……昌弥、酔ってるだけだよ」
「んなことないって。酔っててこんなになるかよ」
こんなって何? 待て、ちょっと待ってくれ。
「でも、」
「一輝、俺ならお前のこと──」
分からない。分からないけど、一輝が困っているのは、その声音で分かった。だから俺は、かなりわざとらしくうめき声を出して、おもむろに起き上がった。
背を向けているベッドで、慌てて会話が止まる。ふたりが寝たふりをしたのを見計らい、俺はそちらを振り向いた。一輝も昌弥も軆をこわばらせて、寝息が聞こえないから、かなり焦ったままだ。
俺は息をついて、また寝てしまったら一輝が昌弥に襲われるかもしれないと思い、うつらうつらと朝まで起きていた。たぶん、一輝も昌弥も起きていた。
朝陽が射しこみはじめ、やがてほかのみんなも起き出してきた。「智志、寝なかったのかよ」と言われ、「眠いけど……」と思わず一輝を一瞥した。
そしたら、一輝とばっちり目が合ってしまった。俺の視線に一輝は目を開き、それから頬を染めてうつむく。
あ、ばれた。
そう思いつつ、俺は「自分の部屋じゃないと、落ち着いて寝れねえわ」とか友達には言っておいた。
おじさんとおばさんに酒を盗んだことを問われ、お説教されてから俺たちは解散した。
軆がだるいのは、酒のせいなのか、寝不足のせいなのか。朝の冷気の中をぼんやり歩いていると、「智志」と声がかかって俺は振り返った。
そこにいたのは一輝で、「あー……」と俺は目をこする。
「何?」
「……き、昨日」
「昨日」
「の、夜の……」
「………」
「もしかして……気づいた?」
「まあ……うん」
一輝は一気に瞳を潤ませ、顔をゆでたみたいに真っ赤にした。俺は頭をかいて、「お前ら、ホモなの?」と訊いてみた。一輝はぶんぶんと首を横に振り、「昌弥は違うと思う」と言った。
「昌弥のほうがぐいぐいいってたぞ」
「あれは酔ってたから……と思う」
「じゃ、一輝は──」
違う。訊かなくても、こいつは俺が好きだとか会話に出ていた。俺は一輝を見つめ、なよっちいけど美少年だよなあと思う。
「俺のこと好きとか……聞こえたけど」
一輝は、俺の言葉にいよいよ涙をこぼしはじめた。「え、ごめん」と俺が言うと、一輝は首を振って「僕のほうが、ごめん」とこぶしを握った。
「気持ち悪い、よね」
俺は首をかたむけて、「気持ち悪くはないけど」と答える。一輝は泣きながら俺を見上げる。
「俺より、昌弥のほうがイケメンじゃね」
「か、顔じゃないよ。僕、智志の優しいとこが……昨夜だって、僕が昌弥に押し切られないように起きててくれたんでしょ?」
「一輝は困ってるみたいに感じたからな」
「そういうふうに、黙って優しいとこが好きなんだ」
「好き……ですか」
「あっ、……ごめん」
俺は顔を伏せた一輝を見つめ、「いつから好きなの?」と問う。
「二年に、なってから」
「そっか。ま、一輝が俺のこと好きなのは自由じゃね?」
「え……っ」
「俺が拒否ったら嫌いになるとかでもないだろ」
「智志が嫌じゃない?」
「別に。つか、もし俺がOKだったらつきあってくれんの?」
「そ、そんな。無理しなくていいよ」
「無理はしてねえけど──てか、俺がつきあわないと昌弥がまたうぜえのかなって思うと、つきあったほうがいい気もする」
「昌弥は……気にしなくていいよ」
「でも、お前は嫌なのに、あいつとまたキスとかするのは俺がやだな」
一輝はとまどったように俺を見る。俺はこまねいて考えて、「俺以外の奴が、昌弥から一輝を守れる話でもないだろ」と言う。「そうかもしれないけど」と一輝が睫毛を伏せると、「よし」と俺は一輝の肩をたたいた。
「俺たち、とりあえずつきあおう」
「え……ええっ?」
「昌弥が離れて、そのときはまたそのとき考えて。しばらく俺は一輝のそばにいる」
「でも」
「あ、さすがにつきあってますってみんなに報告はできないけど。昌弥にはふわっと伝わるようにしよ」
「どうして……」
「ん?」
「僕のこと、好きなわけではないでしょ」
「好きだよ。俺のほうは友達としてだけどな」
「智志……」
「一輝が好きでもない奴に迫られて困ってるなら、助けるくらいには好きだよ」
俺の言葉に一輝はますます泣き出してしまい、「泣くなって」と俺はその華奢な肩をさすった。
そう、本当に友達として始まったのだ。
俺がよく行動を共にすることで、昌弥は案の定、一輝に近づかなくなった。俺と一輝は三年生でも同じクラスだったから、相変わらずつるんで行動した。そして、受験勉強にまみれた夏休み、俺たちの関係に変化が起きた。
一輝は頭がよかったから、塾だけでは心もとない俺の勉強をよく見てくれた。初めは塾に行く予定のなかった一輝も、俺が行っているならと八月からは一緒に通いはじめた。いちいち口にして約束はしなかったものの、俺たちは同じ高校に行くつもりだったから、そのほうがいいのかなと俺も思った。
その日も、夕方から塾だった。進学塾の厳しい授業についていくために、俺は部屋を訪ねてきた一輝に予習を見てもらう。塾が十七時からで、予習にキリがついたのは、十五時半だった。
午前中は異常すぎた蝉の声が、ちょっと落ち着いている。「休もうか」と一輝は教科書を閉じて、俺はうなずいてから、一階で氷をたっぷり入れた麦茶をグラスに作ってきて、部屋に戻った。
「ありがと」
グラスを受け取った一輝は、口をつけてこくんと麦茶を飲みこむ。俺はその隣に腰をおろし、勉強でふやけたような頭に首をまわす。「疲れた?」と一輝がくすりとして、「うん」と俺も麦茶を飲む。
「このあと、塾かー。一輝の勉強は優しいからいいけど、塾の先生はきついから嫌だな」
「受験終わるまでだから」
「そんなん、春じゃん」
俺はベッドにもたれかかり、夏日に明るい白い天井を仰いだ。冷房が全力でかかっているのに、からん、と暑さで氷が溶けて響く。しばし沈黙が流れ、「智志」と呼ばれて「んー?」と俺は一輝を向く。
「僕、智志と同じ高校に行っていいのかな」
「え、普通に同じとこだろ」
「でも」
「あ、レベル高いとこ行きたい?」
「そういうわけじゃなくて。智志は、もう……無理しなくていいと思うから」
「無理とは」
「……昌弥は、もうクラスも違うし、僕に言い寄ったりしないよ」
俺はベッドにもたれていた背を伸ばし、一輝を見つめた。
「それ、別れ話?」
「別れ話、というか──そもそも、僕たちは」
「俺は一輝と一緒にいるの楽だから、つきあってていいけど」
「楽なんて、そんなの違うよ。智志は僕みたいにどきどきしないんでしょ。触ってほしいとか、もっと……キスとか、そういうのはする気ないんでしょ」
一輝の泣きそうな横顔を見て、俺は首をかしげて考えたあと、グラスを床に置いた手で一輝の色づいた頬に触れた。一輝がびくんとこちらを見る。視線が重なって、さとし、と言いかけた唇を身を乗り出してふさいだ。
その先はやり方が分からなかったから、そっと顔を離して至近距離で見つめあう。一輝の睫毛と吐息が震えて、俺はその軆を抱きよせた。
「たぶん、昌弥のほうがうまいよな。ごめん」
「……智志」
「でも俺、一輝が俺じゃない男と仲良くするのはやだよ」
俺の言葉に、一輝は急にきつく抱きついてきて、唇を重ねてきた。俺の幼稚なキスとは違う、舌も伸ばして絡めあう、息もできない大人のキス。
何でこいつこんなキス知ってんの、と思い、昌弥に教わったのだろうかと思うと、こめかみがちりっと焼けた。俺は負けないように一輝に応え、そのまま崩れるように床に押し倒した。拍子に、俺か一輝か、どちらかのグラスが倒れて麦茶がフローリングに流れたけど、構わずにキスを繰り返した。
「智志……好き」
キスしながら一輝は甘えるような声で言って、俺は蕩けて麻痺するような感覚にぞくりとした。全身の細胞が甘美に騒ぐ。
「一輝……」
「智志は……?」
「そんなん、好きに決まってんだろ」
「僕と同じ?」
「絶対、手離さない。一輝は俺のもんだ」
「智志──」
「好きだよ。一輝が好きだ」
言いながら、昂って脚のあいだが熱っぽくなるのを感じた。一輝もそうなっているのが腰に当たる。それに違和感や嫌悪感はない。むしろ、今すぐ一輝の服を脱がせて全部見たい。かたちを帯びた一輝に手を這わせると、一輝は甘い声をこぼしてわななく。
「一輝、ここ見てもいい?」
「ん……うん」
俺は起き上がり、一輝のジーンズのジッパーを緩めて、黒のボクサーの中で硬くなっているそれを取り出した。ゆっくりとしごいてやりながら、俺は一輝のかたわらに横たわって、首筋を舌でたどって耳たぶを食む。反応が手の中で跳ねるようにして届く。「気持ちいい?」とささやくと、一輝はこくこくとして俺を見つめてくる。
「智志……ほんとに、嫌じゃないの?」
「義理でここまでしねえだろ」
「じゃあ、僕も……ず、ずっとしたかったこと……していい?」
「おう」
「智志の、舐めてみたい」
「えっ、そんなん……してくれんの?」
「うん。したい」
「そ、そうか。じゃあ、俺もするよ。一緒にしよ?」
一輝の潤んだ瞳がかわいい。俺はちゅっと軽くキスをしてから、自分もジーンズとボクサーを脱いだ。そして、俺は一輝のものに唇を当て、一輝も俺のものを口に含む。そのまま、夢中でお互いの勃起を口でむさぼった。
温かくて、気持ちよくて、くらくらして、気づけば日が暮れて塾はサボってしまった。ふたりとも親に怒られるのは分かっていたけど、途中で止められなかった。今までで一番気持ちいい射精をしたあと、荒い息で俺たちは向かい合って、「ずっと一緒にいよう」とお互いを抱きしめた。
そうして、その約束通り、俺たちは高校も大学も共に過ごした。一輝の隣にいるのが幸せだった。一輝も俺の隣で幸せそうにしてくれていた。
誰にも打ち明けない関係だったが、そんなことは問題ない。俺が一輝を愛していて、一輝が俺を愛しているなら、それでいい。周りに話し、とやかく言われるくらいなら隠しておいたほうがマシだった。
大学を卒業して社会に出た俺たちは、初めて別々の生活を送りはじめた。それでも、夜や休日に時間を取って、初めてそうしたときと同じように愛しあった。
だが、やがてそれぞれの職場である程度の地位につき、部下の面倒を見るとか、大きなプロジェクトを任されるとか、そういうことが増えてきた。さすがに会える時間にすれ違いが生じてきた。電話口でどうにか「寂しい」とか「好きだよ」とか言葉を交わし、仕事が落ち着くときを待った。二十代、特に転職も考えずに仕事に打ちこんでいると、俺も一輝も三十歳の手前になっていた。
帰りの電車に揺られながら、最近の俺はスマホで物件情報をよくチェックしている。春の引っ越しシーズンを過ぎてからだけど、三十歳を節目に、一輝と同じ部屋に住めたらと考えていた。そうしたら、一輝とまた一緒に過ごせる。
「会いたい」と泣きそうな声で言われて、「俺もだよ」と答えつつ、都合をつけられない自分が我ながら嫌だった。最寄り駅で降りて、ひとり暮らしの部屋への夜道を歩いていると、ポケットでスマホが振動したので取り出す。一輝の名前があったので、慌てて画面をスワイプして通話に出た。
「一輝。どうした?」
『あ、今、大丈夫かな。話せる?』
「部屋まで歩いてるとこ。話せるよ」
『そっか』と一輝はつぶやいたけれど、そのあとを続けようとしない。俺は春の満月を見上げながら、「何かあった?」と優しい声でうながした。夜はまだ、すりぬける風がひんやりしている。
『……怒らない?』
「え、俺が怒るようなことしたの?」
『………、分からない、けど』
「冗談だって。怒らないよ。ちゃんと聞く」
俺の言葉に、一輝は小さく息を吸ってから吐き出した。
『あの──僕ね、』
「おう」
『部長に持ちかけられて、ちゃんと、断った……んだけど』
「……うん」
「相手が乗り気になってて、断れないって言われて──今度、取引先の専務のお嬢さんと、お見合いすることになった』
「は……?」
声が消え入るのと同時に、足取りも止まった。街燈とは離れた場所で暗かったけど、そのぶん空の月明かりはくっきり白い。
『ほんとに、断ったんだ。でも、つきあってる人がいるなら紹介しろって言われて。それは、できないし。だったらやっぱ、部長の顔を立てないといけなくて』
何だよ。何だよそれ。それくらいなら、俺が一輝の恋人だと名乗ったほうが──
『ごめん。その、先に断っておいたほうが、変に耳に入ったとき不安にさせないかなって……』
一輝の声が怯えるように震えている。俺は何も言えず、しばらく歯を食いしばっていた。それで不安になったのか、『やっぱり……怒った?』と一輝が窺ってくる。俺は自分の革靴を見つめ、「断るよな?」とざわざわする心臓をこらえて訊いた。
『う、うん。それは、頑張る……』
「頑張る」
『部長は、新人のときから僕の面倒見てくれてた上司だから。断るっていうのは、その顔をつぶすことになるし』
そんなもん、いいじゃねえか。つぶせばいい。何で、一輝の幸せがそんな義理みたいなもんに左右されるんだ。
『でも、やっぱり好きでもない人と結婚とかはダメだし。僕が結婚したいのは、昔から智志だから』
「……うん」
『ごめんね。だから、今度の日曜は連絡くれても出れないかもしれない。本当にごめん』
俺はうつむき、言いたい言葉は全部飲みこんだ。
ふざけんな。そんなもん今すぐ断れ。恩がある上司か知らねえけど、プライベートに口出されたら拒否しろ。自分の立場より俺の気持ちを考えろよ。俺は今も変わらないよ。お前が俺以外の奴と仲良くするのは嫌だ。男だけじゃない。女であっても、嫌なもんは嫌だ。
じっくり深呼吸して、本音は全部胃に溜めこんだ。そのあと、軽くお互いの近況報告をしたら通話を切った。俺の暮らすアパートの前に着いていた。
一緒に暮らしたいと願っているのは、もしや俺だけなのだろうか。月を見上げていると無性に不安になってきて、俺はやるせなくかぶりを振ると、アパートの敷地に踏みこんだ。
週末は、もやもやと過ごした。こんなことになるなら、顰蹙を買っても、一輝との仲をカミングアウトしておいたほうがよかったのかと思った。誰にも邪魔されたくないから、言わなかった。言わなかったせいで、一輝は見合いなんかを勧められた。それなら──。
俺は頭をぐしゃぐしゃとかきむしり、いらついて歯軋りした。一輝を盗られたくない。その一心だった。中学時代、あいつが俺に惚れていて始まった関係だが、今では俺だって一輝を愛しているのだ。
日曜日の夜、料理する気になれずコンビニ弁当をのろのろ食べていると、スマホに着信がついた。一輝からの通話だ。俺は急いでスマホに手にして、スワイプした。「一輝」と俺が声を発すると、『智志』といつもの声が返ってくる。
『いそがしかった?』
「いや、飯食ってただけ」
『そっか』
俺は緊張して一輝が続ける言葉に耳を澄ました。しかし、一輝は何も言わない。俺は眉を寄せて待っていたが、焦れったくなってきたので「どうだった?」と自分から訊いてしまった。
『あ……うん、いい人だったかな』
「相手?」
『うん』
「……そうか」
でも、断るよな。断るんだよな。何なら、すでに断ったよな?
矢継ぎ早に言いたくても、喉でつっかえる。沈黙には、一輝の当惑が感じられた。
「けっこう、気に入った?」
自分でそう言った瞬間、ずしっと自身の心臓に杭を立てた気がした。一輝はまた少し黙っていたけれど、ようやく口を開いた。
『ふたりで……話したときに、彼女に言ったんだ』
「えっ」
『僕には同性の恋人がいるって』
「………っ」
『そしたら彼女、「それでもいいので、よろしくお願いします」って……』
「そんなのっ、」
『智志は、嫌だよね』
「は……っ?」
『僕が結婚したら、もう……会ってくれないよね』
一輝が結婚したら? どこかの女と、紙の契約とはいえ、結ばれた一輝に? そんなもん──
「その反対は?」
『えっ』
「俺が結婚して、それでも一輝は俺に会いたいと思うか?」
また沈黙が流れ、『……そうだね。嫌だね』と一輝はささやくように言った。断らないとね、という言葉は続かない。俺は唇を噛んで強い言葉は抑えこむと、「俺たち、」と静かに口を開いた。
「幸せだったよな」
『え……っ?』
「じゅうぶん、幸せな時間を過ごしたよな」
『智志──』
「だから……」
言いながら涙がこぼれてきて、手の甲で目をこする。
何だよ。何で、こんなこと言わなきゃいけないんだ。俺は一輝が好きなのに。一輝だって俺を嫌いになったわけじゃないのに。どうしてこうなっちまうんだ。
ずっと一緒にいたい。俺たちにそれは叶わないのか? 本当は、俺は──
「あーっ、もっと、一輝のこと幸せにしたかったなあ」
わざと明るく言うと、一輝の嗚咽が聞こえてきた。俺も声とは裏腹に涙が止まらない。
悔しかった。ちょっと理解した言葉を言ったくらいで、一輝を揺らしたそんな女に負けたくない。俺のほうが一輝を幸せにできる。俺のほうが一輝を愛してる。なのに、どうしてそれを公言できないことで、こんなふうに心を引きちぎられないといけないのだろう。
『ありがとう、智志』
一輝のそんな声が耳元で響く。
『幸せだったよ。本当に、幸せだった』
小さく震えるため息が聞こえて、そのまま、通話は切れてしまった。俺はついに声をもらして泣き出してしまい、スマホを床に取り落としても、拾うことなく噎んだ。
こんなの嫌だ。これで終わりだなんて信じられない。だって、俺たちはこんなにも一緒にいたのに。それが、世間体みたいなもんでこんなにもあっさり途絶えるのか?
それとも、仕事がいそがしくなって会えないのが増えているあいだに、予想以上に一輝には心の穴が開いていたのだろうか。だとしたら、悪かったのは俺なのか。俺が勝手に揺らがない絆があると信じていただけか。一輝は、とっくに俺のことを信じられなくなっていた?
だとしたら、一輝を思いやるのなら、俺が我慢するしかないじゃないか。いまさら、一緒に暮らそうとか言ったって遅いんだよな。俺はもうお前を見送ることしかできないんだよな。
くそ。あきらめるしか愛情表現にならない。そんな愛のかたち、ゆがんでいてむごすぎる。
過ごした時間の長さも重みも何もない。結局、どれだけ「普通」かなのだ。子供の頃は意識していなかった。でも、社会に出て当然のように「男女」の話が出る中、俺は普通じゃないんだなとぼんやり考えることもあった。
でも、だから何だ?
俺は一輝と一緒にいたかったよ。今も愛しあってるなら離れたくないよ。その想いに正直に生きることが、俺にとっては「普通」のことなのに。
好きだよ。好きだよ、一輝。俺には、お前を好きでいることがもう当たり前すぎるよ。
「……俺から離れていくなよ」
口に出してみても、無論、返事などない。ずっと大切にしてきた。ずっと大切にしたかった。俺でも誰かをここまで想えるんだなって驚くほど、愛していたのに。
なあ一輝、皮肉なもんだな。お前との出逢いがなければ、俺のほうがとっくに彼女も作って結婚していただろう。なのに、お前が先に「普通」なんてもんに逃げていくなんて、本当に残酷だよ。
こんなひずんだ音を立てる俺の心だけ、取り残していくなんて……お前は本当に残酷だ。
FIN