星降らぬ夜に

 おかあさんと手をつないで買い物に行くとき、同じアパートに住む人とたまにすれ違う。そんなとき、憐れむような目を向けられたり、声をかけられそうになったりする。おかあさんはそれを避けるように私の手を引っ張り、スーパーに急ぐ。
 スーパーに着いたら、忘れないように真っ先に缶ビールをかごに入れる。六本で一セットの奴。うちはこれを二日に一回のペースで買う。
 おとうさんが毎晩二本飲む。おとうさんが酔いつぶれて寝てしまってから、おかあさんが寝る前に一本飲む。それでうちは、毎日三本の缶ビールが空くのだ。
 二本飲んでも、その日のいらだちが落ち着かないと、おとうさんはおかあさんの料理を食卓から薙ぎはらったり、私がうさぎのぬいぐるみを離さないのを怒ったりする。そういうとき、おかあさんは私をベランダに追いやって、うさぎのぬいぐるみだけ持たせて家から締め出してしまう。
 夏でも冬でも、物心つく前からそうだった。そして家の中からは、食器が割れる音がしたり、「すみません」と繰り返すおかあさんの涙声が聞こえたりする。私は膝を抱え、うさぎのぬいぐるみの手を握る。
 郊外の町の夜空は、星がいっぱいだ。夏はきらきらと力いっぱい輝き、冬はさらさらと透き通って煌めく。
 お星様は、死んだ人の魂なんだって──。そんなことを書いた絵本を読んでからは、ますますその星空に圧倒された。ぱっちりと光る星も、粒みたいに光る星も、いろいろあったから、確かにそれは人がみんなそれぞれであるのと同じだと思った。
 けれど、どうしてだろう。私は自分が死んだあと星になれる気がしなかった。自分の死の先にあるのは、ただの暗闇で。たぶん、私が死ねば、私がここにいたことも何もかもが消えてしまう。そんなふうに感じていた。
 小学校に上がる前、私が夜な夜なベランダに締め出されていることやおとうさんがおかあさんに暴力を振るっていること、家庭内のすべてが明るみに出た。ついに同じアパートの人が通報したらしい。
 おとうさんは警察に捕まり、おかあさんは病院に入院した。私は施設に保護され、そこに暮らしはじめたけれど、まもなく不妊治療を十年以上続けて子供をあきらめかけていた夫婦に引き取られることになった。ふたりはもちろん私の事情を知っていたものの、それでも、と私に何度も面会に来てくれて、私も次第にふたりに懐いていった。
 新しいおとうさんもおかあさんも、とても優しかった。私が手放さずに連れてきた、うさぎのぬいぐるみまでかわいがってくれた。小学校に入学してからは、同じクラスの友達もできた。その子たちを家に招くと、おかあさんは嬉しそうにお菓子やジュースでもてなしてくれる。
 教室の中には、「お前、親と血がつながってないんだろ」とか言ってくる子もいたけど、私が待っていたみたいに「そうなの、なのに何であんなに優しいのかな?」と問い返すと、邪気をくじかれたみたいに、それ以上意地悪を言う子はいなかった。
 キャラメル色のランドセルを背負って帰宅した私は、自分の部屋のつくえに座っているうさぎのぬいぐるみに、同じ質問をしてしまう。
「何で、今のおとうさんとおかあさんは、私に優しいのかな」
 プラスチックの赤い瞳は何も答えない。けれど、同じくその質問を私に投げかけられた友達は答えてくれた。
「おじさんもおばさんも、詩帆しほちゃんが大好きなんだよ」
 大好き。きょとんとした私に、友達の女の子たちは「私たちも詩帆ちゃんが好きだから友達なんだもんねっ」と顔を見合わせ、それから私に向かってにっこりした。
 みんな、優しい。私は周りの人に愛されている。家も学校も楽しい。満たされている。それなのに、どうして私の心にはぽっかり穴があって、そこに響く風音がひどく寂しいのだろう。
 中学生になって、高校生になって、あっという間に成人した。父も母も、成人式を迎えて振袖を着た私を涙ぐみながら喜んでくれた。そして大学も卒業すると、ひとつ年上の彼氏である裕樹ひろきと同棲することになった。
 裕樹が勤める会社の近くにしたから、市街地の真ん中のマンションだった。十階建ての八階だ。ずっと戸建てだったから、集合住宅に暮らすのは久しぶりだ。入居した日の夜、私がベランダを覗くと、「ここ、夜景は綺麗らしいぞー」と裕樹が笑った。しかし、私は下を望むより天を仰ぐ。星はひとつも見えない。
「裕樹」
「んー?」と段ボールを開きながら、裕樹がのんびりした声で応える。
「星は死んだ人の魂だっていうお話の絵本、知ってる?」
「えー。絵本はたぶん知らねえけど、それはそもそもよく言われることだろ」
「そうなの?」
「死んで星になったとか言わね?」
「……そっか。言うね」
 裕樹は段ボールをまたいで、私のかたわらに来る。そして「あー、星は全滅だなあ」と私と同じく夜空を見た。
「空気良くないし、ネオンもあるからなあ」
「裕樹、私の昔の話、憶えてる?」
 裕樹は私に目を向け、「実の両親のこと?」と首をかしげる。
「そう。ベランダに締め出されたりもしてたんだけど、そのとき、空を見たらたくさん星があったんだよね。それをほんとに死んだ人の魂なんだろうなあとか思ってたの」
「うん」
「でも、私は自分は死んでも星になれない気がしてた」
「え、何で?」
「その頃は分からなかったけど、『私は悪い子だから』とか思ってたのかな。ぬいぐるみを手放せないのを甘えてるとか言われた」
 四月上旬、室内にすべりこんでくる夜風はまだ冷たい。その風から守るように、裕樹は優しく私を抱きよせる。
「俺は、詩帆ほどいい子は見たことないよ」
 私は裕樹を見上げ、急に泣きそうになって彼にしがみついた。「それを」と震える声でつぶやく。
「本当のおとうさんとおかあさんが言ってくれてたら……」
 我ながらバカげたことを言っている気がして、本当に涙がほろほろ落ちた。裕樹はなだめるように私の髪を撫でてくれる。
「ずっと一緒にいたら、私、おとうさんもおかあさんも嫌いになってたよね。分かってるの。それでも、そばにいてくれてたら嬉しかったのにって思っちゃう」
「……うん」
「私を愛してほしかった、って……」
 嗚咽で声がわなないて、裕樹にぎゅっと抱きついた。彼の軆の温柔が肌に伝わってくる。
 一番愛している人に、今はこんなに愛されている。私はもう、満ちあふれるように幸せなはずなのに、きっといつまでも心に虚ろを抱きつづける。
 あのまま本当の両親と暮らしていたら、実父を怨んでいたと思うし、実母を憎んでいたと思う。だから、あの星空を見上げた日々を愛するなんて愚かなことだ。
 私には、優しい現在の両親がいる。今でも連絡を取り合う友達がいる。かけがえのない恋人ときっと結婚する。
 だから、いいの。ねえ、もういいんだよ、幼かった私。自分は暗闇に消滅してしまうなんて思わなくていい。
 星の降らない夜でも、愛しい人の体温がこんなにも温かい。
 もう寂しくない。だから、あのうさぎのぬいぐるみも実家のつくえに置いてきた。自分が死んで、星になれるかは分からない。だからこそ、私は愛してくれる人を悔いの残らないように愛そう。せめてその人の心に、私からの愛が灯りつづけるように。

 FIN

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