ここは自分の町のように思えない。すぐにでも飛んでいってしまえる。
そう、できるものならこんな場所はとっとと飛んでいってしまいたい。
存分に睡眠をむさぼり、目が覚めると実里はいなかった。
ヤク混じりのイカれたセックスのあとにご出勤とは、骨の折れることだ。俺はそんなに疲れていない。彼女が勝手にひとりでキメていただけだ。
ベッドにうつぶす俺はシーツに肘をつき、上体を起こすとぼさぼさの前髪をかきあげた。ベッドサイドのごちゃごちゃしたチェストに目をやると、化粧品や医薬品に混じって、くしゃくしゃの福沢諭吉がふたりいる。
真冬の今はふとんを這い出るのがつらい。しばらく、パイプベッドで半覚醒を揺蕩った。
全裸だった。「さむ」とつぶやき、床に散らかったブルージーンズに脚を通す。
部屋の中央に位置するベッドを降りると、ストーブをつけて頭をかきむしりながら、ユニットバスに直行した。
コインシャワーでいいと俺は部屋を探すとき思ったのだが、実里の職業上、シャワーは手近にあったほうがよかったのだ。淫売。用を足してからやったままの汗を流すと、タイルは冷えるからさっさと出る。
部屋は暖かくなっていて、足蹴で上半身に着る服を探した。
床にはいろんなものがある。彼女の服、俺のポルノ、ジャンクフード、アルミホイル、ビールの空き缶、パンクプリントのトレーナー──が見つかるとそれを着て、例のチェストに転がる煙草とライターをつかむ。
それをふかしながら冷蔵庫を開けると、空だった。舌打ちして扉を蹴り閉めても、空腹は変わらない。「しょうがねえなあ」と福沢諭吉をつかむと、オーバーを着こんで部屋を出た。
外は完全な闇だった。白い息は、煙草の煙と絡みあって風に添って流れる。
ここは夜は真っ暗になる。自然さえちらつく郊外で、俺には寂れた辺境に感じられる。一瞥してきた時計は二十一時くらいだった。
鍵をジーンズのポケットにしまうと、住人は俺と実里だけのボロいアパートに背を向ける。
実里は俺が十三のときから俺の女で、ふたつ年上だ。現在十八歳で、十六から淫売をしている。 “風俗”ではない。好きでやっているわけでもない。俺にケツを蹴られているだけだ。
俺は実里の稼ぎで暮らしている。俗に言うヒモだ。
このあたりはすごく平和だ。殺人も強盗も別世界の話で、誰もが野暮ったい。
そんな町で、俺と実里は偏見の的だった。何かやらかす前に出ていけと疎まれている。それは望むところなのだが、俺は実里の寄生虫だ。彼女がここを離れなければここを捨てられない。
実里は毎晩きらびやかな場所におもむき、風俗にまで行けない男たちを拾い、脚のあいだを安売りしている。俺が移動をほのめかそうが、周りが忌ま忌ましく睨んでこようが、彼女は静かなここで眠りたがるのだった。
俺と実里の棲み家は、郊外の郊外で、熱気もまったくなく、寒さもひとしおだ。乾燥して凍った風が頬を麻痺させ、湿った髪を痛めつけて頭痛を呼ぶ。
無音で何も聞こえない。五分も歩くと、明かりが現れるものの、それだって電柱にへばりついたしけた街燈だ。
実里のお小遣いがはずむと、俺も実里が商売する自堕落な場所に遊びにいく。楽しめる場所だが、やっぱりもっと遠くに行きたい。そんな考えこそ田舎じみているのかもしれないが、いつもそう思っている。
ここは自分の居場所だと思えない。行き先は華やかな場所でなくてもいい。腐った路地裏だろうが、しなびた山道だろうが、ここでなければ、どこだって。
遊びにいかない限り、現実逃避の隠居に明け暮れている。服や生活用品は、いつのまにか実里が床に放り出している。出かけるとしたら、食べなければならない正常な状態の場合、このコンビニぐらいだ。俺はここに食料のみを買いにくる。
コンビニに入ると、高校生らしき男の店員が怯えと嫌悪の混じった圧を向けてきた。俺は鈍感野郎を演じて無視する。こういうのに直面するたび、ここを離れたい衝動が暴れてならない。
暖房をくぐって食品売場に行くと、女の客が飲み物を選んでいた。真っ先に目についたのは腰まで伸びたストレートの黒髪だった。ついでに男物のジーンズ、ジージャン──黒い、綿布のごついリュックを肩にかけている。
見たことのない女だ。俺がまとう隔離とはまた別の、外部的な、ここになじんでいない匂いがする。
このコンビニは、基本的に地元の人間しか利用しない。俺がここにいるのを窮屈がっているのと同様、その匂いは際立っていた。ほかに客はいない中、俺はその外の匂いにちょっと惹かれる。
カフェオレを選んだ彼女は、視線を感じたのか煙草が煙たいのか、こちらを振り向いた。
顔は悪くなかった。二十代前半くらいだろうか。目鼻立ちがくっきりしている。胸のふくらみが下着をつけていない自然さで、ふくよかな曲線になっていた。
俺の品定めの視線に、彼女は瞳に不審そうな色をかすめさせる。まんざらでもないでもなく、不愉快そうな嫌悪でもない。彼女は彼女で俺をひと目で品定めすると、にこりともせずに食品選びに戻った。
俺に脅しでもされているいるように、店員は居心地の悪さを発散している。それはじりじりといらだちを植えつける。彼女がレジに行くと、彼は救われた様子で仕事にありついた。
言っておくが、あの男は間違いなく俺より年上だ。きっと家で「あいつには近寄るな」と教育されているのだろう。
この町で親をやる人間は、子供には俺に近づくなとたたきこむらしい。このコンビニで、「近づいちゃダメなおにいちゃんってこの人?」とガキに指をさされたこともある。
訊かれた親は焦っていた。俺は無言だった。いつも通り、この町にいるのが鬱陶しくなっただけだ。
彼女はコンビニをあとにした。俺だってこんな野郎と店内にふたりきりなんて耐えられない。適当に食べ物を買いこむと、ビニールぶくろを肩にかけて、くわえ煙草で外に出た。
暖房にぼやけた頭に外の冷えこみはきつかった。普段ならさっさと帰宅するところだが、今日は立ち止まる。停まっているワインレッドの車のボンネットに、彼女がいた。
缶コーヒーに口をつけている。彼女がそのコーヒーを買ったであろう自販機の明かりが、コンビニの明かりに加わり、あたりは比較的まぶしかった。彼女の顔も窺え、彼女もまた俺に目を向ける。
「何?」
澄んだ、落ち着いた声だった。女の声といえば、ポルノの高い喘ぎ声か、薬でつぶれた実里のしゃがれ声だったので、新鮮だった。
「何か用?」
荷物を肩からおろし、煙草を取って煙をふかした。彼女はそれを眇目で眺め、「坊や」と続ける。むっとして睨んでも、彼女は無表情だ。
「あなた、ここの人?」
「そっちこそ」
「見て分かんないかしら」
「俺も見て分かんない?」
彼女は再度俺を眺め、「どこの人?」と言った。「ここの人」と俺は無機質に返した。意外そうにした彼女に、やっぱり俺はそういう柄なんだなと思う。
「ここの人にしては、のんきそうじゃないわね」
「住んでるだけだよ」
「そうでしょうね」
「あんたは何してんの」
「別に」
「別に」
「いろんな場所をふらついてるの」
放浪という奴だろうか。ほんとにそんなのする奴いるんだな、と浮動性に欠ける俺はぼんやり思う。
「ここ、つまらないわね」
「何にもないからな」
彼女は咲うと、缶コーヒーを飲みほした。
行くのだろうか。訊いてみると「ここは通っただけ」と返ってくる。
「でも、疲れてるわ」
彼女はボンネットをおり、そばのゴミ箱に空き缶を捨てる。
「じゃあ、泊まってくのか」
「無理は嫌いなの」
「ふうん」
「このへんに、休めるところってないかしら」
「あっちの駅前に出れば、あるんじゃない?」
彼女は俺を見つめる。どう見ても彼女が年上なのだが、背は俺のほうが余裕で高い。彼女の視線に微妙に含まれる問いには、肩をすくめた。
「俺の部屋はダメだよ。女がいる」
「でしょうね」
彼女は車のかたわらに戻る。
「そんなにおいがするわ」
「におい」
「安い香水」
含み笑った。大当たりだ。
「“あっち“でいいところを探すわ。教えてくれてありがとう」
運転席にまわろうとした彼女に、名前を訊いた。「瑞乃」と即答された。
舌に転がして覚えているあいだに、瑞乃は車に乗りこんでエンジンを入れた。助手席に躊躇いなくリュックを放る。同行者はいないわけだ。
瑞乃はこちらを見もせずに車を出し、“あっち”に行ってしまった。俺も俺で、見送りもせずに部屋に帰った。
消すのを忘れていたストーブで、部屋は快適になっていた。ホットドッグを取り出すと、ほかは冷蔵庫にそのまま突っこむ。ベッドサイドに腰かけ、テレビに向き合い、ホットドッグの包装を咬み開ける。
テレビをつけると、拾ったビデオデッキで、返却を延滞しているAVを再生した。集中して見るわけではない。適当に部屋に流しておく雑音としては、くだらないバラエティやドラマより、このほうがマシなだけだ。
ベッドに転がって、ホットドッグを食べ、低い剥き出しの天井を見つめる。
露悪な喘ぎ声が響く。だけどときどき、ポルノはセックスよりずっといい。
俺には、愛だの相互だのが欠落している。そういうものを信じる神経が理解できない。
何がどう、いかなる基準で愛だというのだ。セックスは好きだ。メイクラヴは謎だ。俺の性観念はそんな感じだ。
実里とは、三年つきあっている。なぜ始まったのかは分からない。俺も実里も落ちこぼれだった。授業をサボっていたら鉢合わせて、いつのまにか彼女にぶちこんでいたのは、恋愛というより共感だったのだろうか。
そのとき俺は中一で、実里は中三だった。ふたりとも初めてではなかった。
美少年だった俺は、夏に来た教育実習生の女子大生に、童貞を盗まれていた。彼女は、一ヶ月で俺にいろんな手ほどきをした。何もおもしろくなかった。彼女の中に導かれながら、性的虐待をされているみたいな気分だった。
実里とだって似たようなものだ。いいと思うときなんか少ない。俺が実里といるのは、金のためだ。実里が俺といるのは、養うペットがいることで、自分の存在価値を確かめたいためだ。そんな、あってないようなゴミクズじみた関係が、三年を越えている。
実里が嫌いだったり、憎かったりはしない。無意味に彼女を殴ったりもしない。好きだとは思わなくても、やりたいときもある。実里もそうだ。そんな気紛れの瞬間があって、だらだらと続いている。
とはいえ、女なんかたくさんいる。ほかにいい女が現れたら、乗り換えてもかまわない。好悪や愛憎がないのは、執着がないということだ。
俺と実里がつるんでいる第一の理由は金だ。ほかに金蔓ができれば、俺はあっさり実里を捨てるだろう。
実里に対してゆいいつ「嫌いだ」と思うのは、この町にいたがるところだ。俺は自分の町じゃない場所なんかいらない。いつかは飛んでいってやる。どこだっていい、とりあえず遠くに。
ホットドッグを胃に収めると、どうでもいいゴシップ雑誌を読んだ。二十二時半をまわっていた。
ヒマだ。そういえば先週、実里が紙を噛んでいた。俺のぶんもあったが、そのときは気が向かなくてやらなかった。
俺は理性をきかせてしかやらない。実里みたいに、やらなくてはまともでいられないからやるなんて、願い下げだ。
チェストをあさるとシートが見つかって、口に入れた。紙の味しかしなかった。ベッドに寝転がって、考えごとで効いてくるのを待つ。
瑞乃を想った。よさそうな女だった。今頃、どうしているだろう。自腹などせず、引っかけた男にはらわせてホテルにいるだろうか。いや、そんなに安くなさそうだった。
AVを一瞥し、女の顔に瑞乃の顔を重ねようとした。しかし、彼女があんなふうに、露骨に快感を眉間の皺に表すのは想像がつかなかった。
たぶん、悠然と落ち着いている。落ち着いた女は男を焦らせる。手を出すには自信か覚悟がいる。
気づくと呼吸が深く、広がるようにこころよくなっていた。頭に力が入らず、満ち足りた疲労感でシーツに沈む。思考回路が緩んでほどけ、何も考えたくなかった。
耳が澄み、AVの喘ぎがその律動で音楽みたいにくねってくる。鮮やかな模様が目の前を踊り、それが眼前を支配して、天井も電燈も見えなくなる。虚脱に慣れると、快感がやってきた。
何にもしたくない。どうせ軆は動かない。でも精神は源を得たように蕩けた至福感に満ちあふれている。かなりの効果で、時空の感覚が消えた。
射しこむ朝陽が陽光に落ち着き、実里が帰宅しても効果は落ちない。実里は俺の状態に何かぶつぶつ言うと、明かりを消してカーテンを閉め、いろいろしたあと隣にもぐりこんできた。
安い香水の匂いがする。俺はやりたかったけど、彼女にその気がないのが感じられて、するとどちらでもよくなった。
実里はすぐに寝てしまい、俺は腹が減ったので菓子パンを食べた。普通に食べられた。
いつのまにかAVは止まっている。つけなおすのは億劫で放っておいた。
眠るがりがりの軆の隣で、俺はその日を幸福に過ごした。
無意識の中、気持ちいいものとして瑞乃を想っていた。今どうしているだろうとか、また逢えないかとか、やっときゃよかったかなとか。瑞乃の綺麗な顔や豊かな胸も想う。男の服をざっくりと着ていた彼女の軆の線は、胸のほかははっきり分からなかったが、デブではなさそうだった。
確かめてみたい。腕に触れるこの痩躯より、弾力があって心地いいに違いない。
ひと晩休んで、行ってしまっただろうか。そうだったら、あのだぼだぼのトレーナーとすりきれたジーンズを剥がし、一回、犯しておけばよかった。
瑞乃を想っていると、やけにやりたくなってきた。深くつらぬいて、引っかきまわしたい。
部屋に当たる陽は緩んでいった。実里が動いた。この女は眠ると死体になる。身動きは起床の合図だ。
案の定、彼女は起き上がり、波打つ長い髪を後ろにはねやって俺を一瞥した。
実里はきつめの美人だ。整いすぎて冷たく、造りものじみて生身っぽさがない。そんな顔に軆は痩せぎすで、この女には生きている感触が希薄だ。
まあ、軆つきに俺は文句は言えない。薬に手を出したのは実里でも、出させる状況に追いこんだのは俺だ。
そういえば、実里の顔を認識している。強烈に目にきていたのが、やわらいでいる。さっきまで何も見えなかったのに。うごめく残像は目を閉じれば再現されても、絶頂は過ぎたのだ。
切れる前にやりたかった。ベッドを降りようとした実里の腕をつかむ。割り箸より簡単に折ってしまえそうだ。「何」と目を眇めた彼女をベッドに引っ張り、いくらか重みが漏洩した軆で、俺はおおいかぶさる。
「あたし、これから仕事なのよ」
「客がひとり増えたって思えよ」
「金もよこさないくせに」
実里を見つめた。すると、実里は被害をこうむる前に抵抗をやめた。賢い。今の俺は、逆らう奴は殴って黙らせる。
この真冬に、実里は俺のトレーナーしか着ていない。がりがりの彼女に、がっしりした俺の服をあてると、ただのずんどうなワンピースだ。
俺には色気がない。やりたければやるだけだ。さっさと服を剥がして、彼女を全裸にする。
細いだけに、実里は手足は異様に長く見える。二の腕や太股に、噛みちぎりたくなる女らしい肉はない。俺は枝のような腰を抱き、ゆいいつわずかに弾力を残す乳房に口づける。大きさはないが、かたちはいい。ついでに前述どおり手足は長いので、彼女は服さえ着れば映える。虚しい女だ。
薬が効く俺は、限界も加減も吹っ飛ばして、攻めまくった。実里のことは見なかった。頭にいたのは瑞乃だ。
きっとあの女は、こんな突っ込ませる能しかない女ではない。肌や弾力も味わえる軆をしている。毎日こんながらくたみたいな軆を抱き、余計に、俺は瑞乃の生々しい肉体に惹かれているのかもしれない。
そのうち、実里の中に射精した。いつもそうだ。これで三年も何もないのを見ると、俺か実里に生殖的欠陥があるのだろう。
俺は実里と離れて、シーツに寝転がる。実里は起き上がって後始末をした。
「ねえ」
「ん」
「客みたいな目、してたわよ」
実里をちらりとした。実里はそっぽをして、ベッドを降りてシャワールームに行く。
客みたいな目。確かに今日は実里を道具にした。俺が本当に犯したかったのは瑞乃だ。
シャワーを浴びてきた実里は、俺に観察されながら娼婦になった。髪を梳かすのに始まり、化粧をしたり、クローゼットを引っかきまわしたりする。
実里の服のセンスは嫌いじゃない。今日彼女がえらんだのは、俺が一番好きな服だった。褪せた黒のスリップドレスで、上半身はごくシンプルなホルターネックなのだけど、下半身が刺激的だ。裾がぼろぼろなのだ。フリンジなんてかわいいものじゃない。しかも粗雑な深い切れこみがある。強姦されたような。
その服を着ると、実里の点数がかなり上がる。外は寒いので彼女は落ちついた毛皮のコートも羽織った。出かけるとき、俺は実里を呼び寄せて、口づけをした。実里は俺を眺め、一万円のお小遣いをよこすと編み上げのブーツで部屋を出ていった。
実里を抱いたことで、やり残したことはない気分になっていた。睡眠薬を飲み、部屋の明かりを消した。ベッドにもぐると、静かなのがかえって聴覚に障った。だが、いらいらする前に睡眠薬が全身に広がり、バッドトリップも逃れてそのまま眠っていた。
起きたら、朝になっていた。実里は帰宅して死人になっている。薬の名残がだるくとも、悪いことにはなっていない。頭痛は持病みたいなものだ。
シャワーを浴びて、コーヒーを飲むと、クローゼットのそばの窓を開けて室内に冷えびえした外気をふくませた。桟に肘をつき、朝陽に目を細めてぼんやり一服する。
望める景色は、人影もない終わったアパートの群集だ。俺の瞳は、色彩のない寒々とした灰色としてしか、ここを捕らえない。吐いた白い息は、視覚的にも寒さを強調する。ひと気がなくて静まり返って、吹き抜けるように蒼ざめたここは路地裏みたいな町だ。
俺はますます飛んでいきたくなる。もっと寂れていてもいい。好きになれる場所なら、本当にどこだっていいのだ。
俺はここを好きになれない。すぐさま捨ててしまえる。そんな風に感じさせるのが嫌だ。この町は愛着を湧かせず、居心地が悪く、窮屈だ。
羽を伸ばせる遠くにいきたい。この町が影を落とすことのない、できる限り遠くへ──実里という、殻さえなければ。
まばゆかった朝陽も、慣れると弱い冬陽に落ちていった。今日は何してようかなあ、とだらけていると、耳慣れない、しかし聞き憶えのある爆音がした。
目をやると、右手の坂道からワインレッドの車が登ってきている。寒色の光景で死にかけていた俺の視覚に、その色は快感のように鮮やかだった。この町に、あんな鮮烈な車でうろつく奴はいない。だが見た記憶があり、何でと思ったらあれは瑞乃の車だ。
昨日一日いっていたので、記憶がばらついている。何しにきたんだと思っていると、車は俺のいるアパートの横に停まった。
窓が開き、やはり顔を出したのは瑞乃だ。
「何してるの」
「そっちこそ」
「静かなところに来たかったの。あっち、男がうるさいんだもの」
俺は笑って、煙草をふかした。彼女はしばし俺を眺めると、エンジンを切ってこちらにやってきた。
服装は変わっているが、男物に変わりはない。俺は実里の雌性を強調した服を思い返し、瑞乃にああいうのを着せてやりたくなる。
瑞乃は窓辺に来て、脇の壁にもたれた。
「こんなところに暮らしてるのね」
「誰もいないだろ」
「ひとり」
「いや、いるよ。寝てる。淫売でさ、昼夜反転っていうの」
「淫売」
「俺はその金で暮らしてる」
「最低ね」
「楽だよ」
瑞乃は視線を向こうにやった。俺は睫毛の先が際立つ瑞乃の横顔を見つめる。
やたらと手入れしていないのだろう、肌が自然に生きていた。吐息を風に流す唇は一見荒れていても、何気なく唾液に湿って艶やかに光る。
いい顔だ。眺めていて飽きない。実里と違って血が通っている。
「昨日、どうしてた?」
「あっちにいたわ」
「休めなかった?」
「車で寝た。歩くと男が鬱陶しいの」
「男、嫌いなんだ?」
「好きじゃないわ」
「でもあんた、そそるよ」
瑞乃はこちらに目を向ける。何もこもっていない目だ。俺は笑い、「俺はね」とつけくわえる。
「あなた、いくつ?」
「十六」
「子供ね」
「あんたは」
「二十五」
「おばさんだな」
今度は瑞乃は咲った。
「いろんなとこうろついてんだよな」
「そうね」
「ひとりで?」
「誰かいるのは嫌なの」
「いつからやってんの?」
「あなたの歳から」
「十六」
「そう」
「何で」
「そこにいたくなかったの」
「ふうん」
桟に頬杖をつく。
分からなくもない。いや、大いに分かる。俺だってここにいたくない。
「静かなところに来たかったんだけど」
「ん」
「ここ、静かっていうか寂れてるわね」
「そう思う?」
「思うわ」
「ここに暮らせって言われたら、どう?」
「逃げるでしょうね」
俺は煙を吐く。のぼった太陽より夜の名残が強く、息は芯まで冷えた空気に色づき、紫煙を置き去りに舞い消えていく。夜ほどくっきりしていなくても、その霞んだ感じがくすんだ光景には似合っている。
「あなた、いつからここに住んでるの」
「十三、かな。そこの女が中学卒業したあと」
「家は」
「そこだよ」
「そこ」
「縁切ってる。あっちはここで居心地がいいんだ」
「あなたは悪いの」
「ガキの頃からな。何か」
「出ていけばいいじゃない」
「そこの女がここにいたがるんだよ」
「仲良しなのね」
「金蔓だよ」
「自分で働かないの」
「面倒なんだ」
「甘えてるわよ」
「知ってる」
瑞乃は灰色を眺めやる。「あなたはここに似合ってないわ」と彼女は言った。俺はうなずく。
しばらく無言でそうしていて、彼女は息をつくと体重を脚に返した。
「行くのか」
「修羅場はごめんだわ」
「寝てるよ」
「私も寝たい」
「寝たら行く?」
「そうしてもいいわ」
「俺、あんたとやりたいんだけど」
開き直って、焦った態度を取ってみる。瑞乃は俺を見つめ、「疲れてるの」と歩き出した。「っそ」と俺はあっさりあきらめたような顔で、彼女の後ろすがたを見送る。
頭の中では、その背中に実里の卑猥な服をあててみたりしていた。あの強姦の服も似合いそうだ。俺は服を着たままやるのも好きだから、ジーンズを脱がすよりスカートをたくしあげるほうが好みだ。瑞乃にあの服を着せたい。
そう思っていると、彼女は車に乗りこんでしまった。光景の色調は、燻されたように冴えない。渋いわけでもなく、ただたゆんでいる。そんな光景の中で、彼女のワインレッドは瞬間的に通過する光のように新鮮だ。
車はバックせず高台に進んでいった。車が失せると、光景は瞬時に蒼然と吹きすさぶ。白濁の息がなじむ冷めた風景に、あの衝動が強まり、雑然とした部屋に戻った。
煙草をつぶすと、新しいのに火をつけた。コンビニで買いこんでいたコーンサラダを食べ、床で雑誌を読む。AVを観たり、寝転がったり、一日を無駄に過ごす。
やりたいことも、やらなきゃいけないことも、何もない。
甘えている。その通りだ。遠くに行きたい気持ちは本物だが、そのためには努力しなくてはならない。俺はそれが面倒で、結局実里とここにいる。
この町を出れば変われるなどとは思っていない。俺は死ぬまで身持ちが悪いだろう。俺はただ好きになれないこの土地にいたくないのだ。自分のものだと思えないものには関わっていたくない。
夕方に出かけた実里は、明け方にずいぶん不機嫌そうに帰ってきた。こういうとき、彼女は決まって、自殺するのかと思うような量の睡眠薬を飲んで寝る。ひと晩中、眠るか眠らないかの狭間をふらついていた俺も、彼女を抱きしめてやっと寝た。こんながりがりの軆では瑞乃と錯覚することもできない。そんなのを思っていたら、意識は消えていた。
先に起きたのは俺だった。睡眠薬の効果で実里は病的に熟睡している。こいつが薬で死ぬのは、時間の問題ではないか。そうなったら、俺はやばい。
三年。時期的にも、新しい女を見つけて乗り換える頃なのだろうか。外が真っ暗になった頃、寝坊して起きた実里は「今日は帰らないわ」と残して出ていった。もう週末か、とベッドに転がる俺は頬杖をつく。
週末、実里は帰ってこない。そして、大量の金を持って帰ってくるから、何かやっているのだろう。でも、あいつがいようがいまいが、どうしようかなあ、と俺がここでごろごろしているのに変わりはない。
とりあえず何か食べるか、と冷蔵庫に行くと、中は空に戻っていた。三日前に買いこんだきりなので、当たり前だが、今回も俺は舌打ちして、ドアをやつあたりで蹴り閉める。実里が使ったばかりでシャンプーの匂いが立ちこめるシャワールームで手早く汗を流すと、煙草と共にコンビニに出かけた。
今日の店員はおばさんだったが、偏見を向けてくるのは、あの高校生と変わりない。ほかの客もだ。鬱陶しさはあの衝動を駆り立て、わけもなくいらいらしてくる。
大量に食べものを買いこみ、かごをレジに突き出したとき、客が入ってきた。瑞乃だ。彼女の歩くあとにもよそ者を疎む視線がまとわりつく。
けれど、彼女は俺のように刺激されたりしない。俺に気づいても冷静だ。そういうとこがそそるんだよな、と思っていると会計が済み、実里の股ぐらの値段の一部をおばさんに渡すと、俺はコンビニを出た。
自動ドアを境に急に寒くなり、オーバーのあわせをつかむ。ワインレッドの車が停まっている。考えれば瑞乃と逢ったのはここで、三日前だ。
行っちまうんだろうな、と半眼になっていると、瑞乃がふくろを提げてやってきた。今日の彼女も男のような格好で、かえって色気が滲んでいる。女の格好で女を強調すれば、こいつは最強だろう。
俺の隣に来た彼女は、「何?」と言う。
「別に」
「感傷に浸ってるように見えたわよ」
「行っちまうんだなあと」
「行ってほしくないの」
「そういうわけでも」
しばらく俺も瑞乃も黙る。ワインレッドのボンネットが、自販機の光を反射している。
「次、どこ行くの」
「決めてないわ」
「そんなもん」
「そのうち、外国には行くわ」
「外国」
「離れたい場所があるのよ」
瑞乃を見つめた。特に傷ついた表情を浮かべたりはしていない。
「もうここには来ないだろ」
「たぶんね」
「そっか」
瑞乃は俺と視線を合わせる。俺たちは、初めてまじめに見つめあった。何となく、分かった。先に視線を外したのは、彼女だった。「乗りなさい」と瑞乃は運転席にまわり、俺はそうした。
車の異臭がほとんどでも、敏感になれば彼女の匂いを感じた。風景を見るヒマもなく部屋に到着すると、「彼女は?」と瑞乃はエンジンを切る。
「いないよ。明日も帰ってこない」
「そう」
「俺はここでもいいけど」
瑞乃は俺を一瞥する。俺は笑って、「でも、生ものもあるし」と車を降りた。瑞乃はあとをついてくるでなく、隣に並ぶ。
彼女を部屋に通すと、俺は食べ物を冷蔵庫に突っこむ。思えば、この部屋に俺と実里以外の人間が踏みこむのは、生活しだして初めてだ。
瑞乃はリュックをベッドにおろし、散らかり具合に息をついている。俺はスナックトーストをかじりながら、ベッドサイドに腰をおろした。瑞乃はチェストを見、「ずいぶんいけないものがあるみたいね」と俺の隣に腰かける。
「彼女が持って帰ってくるんだ。あいつはヤク中なんだよ」
「あなたは」
「俺はかじってる程度。したきゃしていいよ」
「しないわ。せっかくやめられたのに」
「意味深」
「最悪になったことがあるの。一週間ぐらい死ぬ気で何もしないで、何とか抜いたわ。そのあと、二度とそうならないようにそこを離れて、こうしてるのよ」
「歴史あるんだな」
トーストの最後のひと口を口に放りこむ。瑞乃は口紅を取り、「こんなのずっとしてないわ」とつぶやく。
「したら」
「人のなんか」
瑞乃は口紅をチェストに戻す。
「人のって嫌?」
「こういうのはね」
「服は?」
「服」
「俺、あんたに着てほしい服があるんだけど」
俺は立ち上がって、普段は触りもしないクローゼットを開けた。
「すごい服」
「数が」
「趣味が」
「淫売の服は特別だからな」
「そうなの?」
「着るんじゃなくて、脱がせる服じゃん」
「……まあ、そうね」
「あ、あった。これ」
あさっていた手をとめ、あの服を引っ張り出した。強姦されたようなスリップドレスを。
瑞乃に入るかな、と思ったものの、彼女もデブではない。瑞乃の膝にその服を投げると、彼女はそれを広げた。
服で彼女の顔がさえぎられる。隣に行って表情を窺うと、瑞乃は眉を寄せていた。
「悪趣味ね」
「そう?」
「この切れこみ」
「男みたいだな」
「え」
「そういう発想」
瑞乃は俺を見て、「いいわ」と立ち上がった。トレーナーを脱いだ彼女は、やっぱり下着をつけていなかった。男物のジーンズの下が絹の切れ端みたいな奴なのがいやらしい。
末期になったことがあるらしいにしては、豊潤でしっとりした軆つきだった。とはいえ、服は入った。煩わしそうな長い黒髪を背後にはねやると、瑞乃のすがたが澄む。俺は腕組みをして、彼女を眺めた。
実里よりずっとよかった。俺のものでもないのに、「それやるよ」と言いたくなるぐらい。彼女は実里と違って、弾力のある軆つきをしている。切れこみの役目が、その白くて柔らかにふくらむ腿できわやかになっていた。
俺はこういう女にその服を着せたかった。そして、強姦犯人になりたかった。
瑞乃を抱き寄せながら、チェストに手を伸ばした。手にしたのは口紅だ。キャップは床に捨てる。
「何」
「塗れよ」
「嫌よ」
「こうして食べたいんだ」
瑞乃の顎をつかみ、その唇に水を含むような口紅を描いた。ワインレッドだった。思ったより瑞乃は抵抗しなかった。
塗り終わって口紅も床に捨てると、この寒色の町に新鮮を持ちこむその色に、きつく口づける。長らく唇で揉みあうと、ベッドにもつれこんだ。
勃起していた。前開きを開けて彼女は俺を飲みこむ。男は嫌だとか言いつつ、かなりうまかった。彼女の口ではいかない。ベッドに押し倒し、引き裂かれた服をたくしあげて、布切れをもぎとった。彼女の脚のあいだも濡れていて、挿入はたやすかった。
泰然とした彼女に、俺はやっぱりガキっぽく焦ってしまった。あんなに着せたかった服を、剥ぎ取る手が落ち着かない。彼女と素肌を合わせながら、深く熱を絡みあわせる。
頭が陶酔するセックスだった。瑞乃の中はよかった。しっとりと内壁が吸いついてくる。何度もやれた。そして、それがこれ以上いきようもない絶頂に昇華すると、やっと拍動や息遣いが意識にあふれてくる。
シーツに流れる瑞乃の髪に寝転がった。彼女は俺を見つめてくる。「何?」と笑うと、彼女は首を振った。
「ねえ」
「ん」
「私、ほんとに男ってダメなの」
「どこが」
「私の服も、あんな風にされたことがあるわ」
「え」
「兄にね」
身動きして彼女を見る。瑞乃は天井を見ている。彼女の肌は淡雪のように色づきをうっすら残していて、すごく綺麗だ。
「兄」
「十一のときに」
「近親相姦」
「違うわ」
「血はつながってなかったのか」
「無理矢理だったのよ」
「……ごめん」
彼女は咲って、俺を抱き寄せる。俺は子供っぽく彼女の胸におさまる。
「中学を卒業して家を出たのよ。でもバランスが取れなくて、ぐちゃぐちゃになったわ。そしたら、兄が心配してやってきたの。頭を使ってあの男を逃げるために、薬はやめたの」
「まだ追いかけてると思う?」
「追いかけてきたんじゃないわ。心配しにきたのよ」
「………、」
「私に執着してたわけじゃない。近くにいて、ちょうどよかったのよ」
「そんなもん」
「たぶんね」
俺は彼女の胸に頬を押しあて、「何でそんなん話すわけ」と訊く。「話してもいいと思ったの」と彼女は言った。「そう」と俺は追求せずにまぶたをおろす。
瑞乃の胸の中は、汗と彼女と服に染みていた安い香水、そしてもうすぐ行ってしまう匂いがした。
夜中に彼女は出ていった。俺はジーンズだけ穿き、ベッドサイドに座って、膝に頬杖をついていた。彼女の匂いが、変なものだけど、鼻より心から離れなかった。
俺は考えていて、部屋に蒼く射しこむものが現れた頃、ベッドを立ち上がった。
アパートの前に車はなかった。だが、きちんと聞いていた。車の走音が、奥の高台へと向かったのを。寂れたアパートの群集を奥へと進む。高台に抜けたとき、ワインレッドの車が鮮やかに目に入った。
夜が明けてきていた。灰色がかった蒼い空気は、この冷めた町に似合っている。白い息は風に寄り添い、くすんだ光景になじむように消えた。
俺はそんなふうにここにはなじめない。ここは俺のいるべき場所ではない。単なる殻だ。すぐに捨てられる。俺は遠くに飛んでいく。
瑞乃は車にいた。俺を見ても驚かなかった。俺は助手席のドアを開け、そこにリュックがないのに気づく。思わず笑うと、当たり前にそこに乗りこむ。
「来ると思ってたわ」
「うん」
「いいの」
「いいよ」
「帰ってこないわよ」
「最高じゃん」
瑞乃はエンジンをふかした。来ると思っていた。その言葉は、どんなヤクよりも俺を良くした。彼女に許容されたのだ。この女が自分のものだというのは、気分がいい。ワインレッドの車は動き出し、蒼ざめた町をどんどん突っ切っていく。
「ここを出たこと、ないんでしょう」
「ん。まあね」
「どこか行きたいところ、ある?」
俺はシートに沈んだ。窓を見やると、けして愛せなかった景色が過去になるように背後に流れている。
ここを飛んでいってしまえる。それは窮屈だった羽が伸びるような解放感で、俺は目を細めながら彼女につぶやいた。
「どこでもいいよ。遠くなら」
FIN