夜、ワンルーム、ふたり。

 客と目も合わせない店員は感じが悪い。僕もそんなふうに思っていたときがあった。
 でも、いつのまにかこう思うようになった。客といちいち目を合わせてくる店員なんて、気持ち悪いだろ。
 だから僕は、今の居酒屋のバイトで注文を受けるときも、酒や料理や運ぶときも、レジを打って「ありがとうございました」と送るときも、客に目を向けない。
 それでいいと思っている。僕が客ならじっと見つめてくる店員なんて嫌だ。
 しかし、いつだって正しいのは昔の自分なのだ。
 午前三時に店を閉め、もろもろの片づけが済むと、「あんたねえ、お客さんに愛想なさすぎるよ」と女将さんの小言が始まる。
「今だって、こうやって話してるあたしの目を見ないだろう。接客っていうのは、言われたことを聞いてるだけじゃないんだよ。目を見て察するものなんだ」
 それでも僕は、下を向くまま「すみません」とだけ言う。女将さんはうんざりしたため息をついて、「あんたも言ってやってよ」とカウンター内の厨房で明日の仕込みを始めている、店の大将である旦那さんに声をかける。
「……もういいだろう」
 寡黙な旦那さんは、ぼそっとそう言う。「そう言って甘やかすと」と女将さんが言いかけると、「そうじゃない」と旦那さんは続けた。
「坊主に言ってるんだ。明日から来なくていい」
 かすかに肩が揺れる。でも、僕はやはり旦那さんをまっすぐ見ることができない。
「でもねえ、あんた。人手が──」
「また、純子じゅんこに手伝わせたらいい」
「あの子は今年、受験生なんだよ? せめて春までは」
「純子が言ってきた。坊主を雇ってるより自分が手伝うって」
「……そうなのかい?」
「客が減ったら小遣いに響くなんて言っていたが、分かってくれてるんだろう」
 僕は無表情のまま、エプロンの紐をほどいた。「来週、洗濯してから持ってきます」とたたもうとすると、「いいよ、もう!」と女将さんは僕の手からエプロンをひったくった。
「とにかく、もう来ないでおくれ。客としてもだよ。あんたの陰気な顔には、本当に疲れたよ」
 僕は黒いスニーカーを見つめ続け、「すみません」と繰り返すと、そのままロッカーの荷物だけ持って、店を出た。繁華街の路地に入ったその並びには、ラーメン屋とキャバクラとモーテルがあって、この時間なのにぎらぎら明るい。
 九月、夜にはねっとり肌を舐めてくる熱気はなくなったけど、風が冷えこむほどではない。
 小さく唾液を飲みこんで、またか、と思った。また一週間かそこらで仕事をクビになった。
 昔の僕が、客の目を見ない店員は感じが悪いと思っていたのは、両親の教えのせいだ。僕の実家は、古くから和菓子を受け継いできた。真治しんじも大きくなったら、お菓子を作るだけでなく、お客様も大切にできる職人さんになるのよ。母はよくそう言っていた。でも、弟の佑治ゆうじのほうが手先が器用で、父の目にかなった。
 僕は高校を卒業したら、つきあっていた奈々恵ななえと一緒に暮らすと言い張り、無理やり家を出た。
 コンビニで働いた。少し手伝ったことがあった和菓子屋とは、ぜんぜん違う粗暴な客が多かった。いらいらされたり、舌打ちされたり、怒鳴られることさえあった。
 僕はどんどん「客」というものが怖くなり、嫌悪するようになった。同時に、自分が「客」として何かの店を利用するとき、この店員も僕を鬱陶しく感じているのだろうと、被害妄想が働くようになった。
 まもなくコンビニは辞めた。それでも、一年ぐらいは続いたから、今思えばマシだった。
 僕はなかなか仕事が続かず、次第に面接に受かること自体減っていった。やっと仕事にありついても、眠れなくなって、わけもなく涙が止まらなくなったりした。
 そんな僕の手を握り、奈々恵は優しく「真ちゃん、私が行ってた病院行こう」と言った。奈々恵は学生時代、ひどいイジメを受けて心療内科に通っていたことがあった。それから、僕は通院しながら続かない仕事を転々として、奈々恵はラウンジでホステスとして働くようになった。
 僕と奈々恵は、繁華街の裏通りに面した、保証人のいらなかった安アパートに暮らしている。ワンルームだけど、ふたりで暮らしていい許可は大家さんにもらっている。
「あんまり騒音は立てないようにねえ」と言われて、ふたりだからと騒音が多くなるものだろうかと思ったが、軆を重ねるときに初めてそういう意味だったのかと気づいた。
 奈々恵は嬌声をあげるような子ではなくとも、やっぱり、薄い壁越しには息遣いだけでもうるさいかもしれない。そう思って、僕たちはなるべく行為を遠慮している。万一子供ができたら心中しかないから、それでいいのかもしれない。
「奈々ちゃん、ただいま」
 部屋に明かりがついていたから、僕はそう言いながらドアを開けた。「真ちゃん、おかえり」と奈々恵のおっとりした声と食事の匂いが返ってきて、ひどくほっとする。
「今、ごはん作ってるからね」
「……うん。いい匂い」
「カレー、ちゃんと甘口だから」
 ざっくりしたワンピースを着た奈々恵は、艶々した黒髪をひとつに束ねている。僕はそれが奈々恵らしい髪色だと思うのだけど、ラウンジでは茶色に染めろとうるさいらしい。
「ねえ」
「うん?」
「僕、また……クビになった」
 奈々恵はこちらを振り返る。ちょっとかわいいからって、男子に色目使いやがって。そんな理由でイジメられていたから、奈々恵は愛らしい顔立ちをしている。
「そっか」
「ごめん」
「ううん、無理してなくていいよ。私も働いてるし」
「……奈々ちゃん、ホステスなんて辞めたいよね」
「そうでもないよ? ママさんがちょっと怖いけどね」
 僕は奈々恵の背中をぎゅっと抱きしめて、その軆からいつものボディソープの匂いが香るのを吸いこむ。「僕はダメな奴だ」とつぶやくと、湯気とスパイスが立ちのぼるカレーを煮こむ奈々恵は苦笑する。
「真ちゃんは、ちょっと心が柔らかいだけだから」
「そんなこと、ないよ。むしろ硬いよ。冷たくて硬い」
「そんな無神経じゃないよ、真ちゃんは。私が一番知ってるから」
 僕は唇を噛んだけど、それでもほろほろ泣き出す。奈々恵は「涙はからいでしょ」と咲う。
「うん……」
「涙が甘かったら止まらないよねって、真ちゃん、私が泣いてたら言ってくれたよね」
「うん」
「だから涙はからいんだよって、私、その言葉が今でも好きだよ」
「何か、バカみたいだ」
「そんなことないよ。優しいよ。仕事もね、立て続けに探すのつらいでしょ。少し休んでもいいんだよ」
「でも」
「真ちゃんはいつも生きるの頑張ってるから、休んでいいの」
「奈々ちゃん……」
「私もそうだったから分かる。生きてるだけで必死だったから」
 僕は奈々恵を抱きしめ、涙をこらえようとして、かえって噎んでしまう。優しいのは奈々恵だ。何でそんなに、僕を受け入れてくれるのだろう。
 甘口のカレーを一緒に食べたら、僕はユニットバスでシャワーを浴びた。水圧が戻るのを待っていた奈々恵は、僕が戻ってから食器を洗う。こんな明け方から、どこかの生活音が耳に障る。
 ひなたの匂いにふくらんだふとんを敷いたら、僕たちは並んで軆を横たえて手をつないだ。部屋を探すとき、エアコンがあるのだけは譲らなかったから、除湿がほどよい室温を作っている。
「真ちゃん、しばらく家に顔出してないよね」
 ふと奈々恵が言って、「うん……」と僕はうやむやにうなずく。
「ご家族、心配してない?」
「してない……よ、僕のことなんか」
「……そっか」
「奈々ちゃんこそ、家はいいの?」
「私は、あんまり会いたくないし」
 奈々恵の両親は、娘がイジメを受けていることをあまりきちんと理解しなかったらしい。毅然とした態度を取ればいい、としか言わず、助けようとはしなかったそうだ。追いつめられて手首や腕を切る奈々恵を、叱責すらした。
「真ちゃんのご両親は、私の親とは違うと思うから」
「……そう、かな」
「お店のママさんがね、真ちゃんちの和菓子が好きなんだけど」
「えっ」
「真ちゃんのご両親、私のことよろしくお願いしますって、和菓子をたまにさしいれてくれてるんだって」
「………、」
「私のこと気にかけてくれるってことは、それは、真ちゃんのことを想ってるってことだと思うよ」
「そうなのかな……」
「今度、顔だけ見せておいたら?」
 僕はしばらく黙っていたけど、「うん」と答えた。奈々恵は僕に微笑みかけると、「眠いね」とカーテン越しにも明るくなってくる朝陽の中でつぶやき、睫毛を伏せる。
 僕はその横顔を見つめて、やっぱり夜に働けるだけあって綺麗だなあと思った。
 数日、僕は部屋に引きこもって鬱々としていたけれど、月に一度の通院日がやってきて、ついでに家におもむくことにした。
 家を出て、二年以上が過ぎている。そのあいだ、まったく帰ってこなかったわけではない。家を出たのは無理やりだったけど、それで勘当されたりはしなかった。店を手伝うことなく、大学にも行かなかった僕を、怒ってはいるとは思うけど。
 繁華街の最寄りから三駅、その駅前商店街に僕の実家である和菓子屋はある。
 木造の門構えには伝統があって、母はここでいつも着物で接客し、やってくる客も穏やかに買い物していく。ぼんやり店の前に立って、客みたいに前から入るか、まだ返していない家の鍵で裏から入るか考えていると、「坊ちゃん」と声がかかった。
 はたと顔を向けると、僕が子供の頃からよく来てくれる、お客のおばあちゃんがいた。「あ……」と僕が声を詰まらせ、やっぱりうつむいてしまうと「帰ってきたのかい?」とおばあちゃんはそれでも優しく言ってくれる。
「え、……いや、たまには挨拶しなきゃって」
「そうなの。坊ちゃんがお店にいなくなって、おばあちゃん寂しいわ」
「佑治がいるから」
「ふふ、おばあちゃんは真治坊ちゃんも大好きよ。今日は通りかかっただけなんだけど、嬉しくなったから、何かいただいて帰ろうかしらね」
 そう言って、おばあちゃんは少し曲がった腰が不自由そうに、店の扉に手をかける。僕は慌てて、その扉を開けるのを手伝った。「いらしゃいませ」と凛とした母の声がして、「今日も来ちゃったわ」と茶目っ気に咲ったおばあちゃんに、「あらあら」と母の柔らかい咲い声が続く。
「ご主人、もう芋羊羹食べちゃいました?」
「お店の前に坊ちゃんがいたからね、つい立ち寄ってしまって」
 おばあちゃんの言葉で、母は初めて、戸口を半開きにさせて隠れているような僕に気づく。僕はどうしたらいいのか分からずうなだれたけど、そろそろと店内に踏みこんだ。
 母は一瞬ため息をつきそうな表情になったけれど、客の手前か、それは抑えて「じゃあ、今日はどちらになさいますか?」とおばあちゃんに話しかける。「そうねえ」とおばあちゃんは、ケースの中で彩り豊かに並ぶ和菓子を眺める。
「坊ちゃんはどれがおいしいと思う?」
「………、今は、栗大福がおいしいんじゃない……かな」
「ああ、いいわねえ。それをふたついただきましょう」
「ありがとうございます。包みますので、少しお待ちくださいね」
 母は店員の女の子に指示を出すと、そのあとのおばあちゃんの接客は彼女に任せた。「真治」と僕に声をかけてきて、僕はこわごわ母のほうを見る。
「ゆっくりしていけるの?」
「……あんまり。このあと病院」
「そう。でも、お茶くらい飲んでいけるでしょう。居間に行ってなさい」
 僕はこくりとして、おばあちゃんに「ありがとうございます」と挨拶してから、従業員用のドアから休憩室を抜け、家の中に入った。和風の居間では、相変わらず大きな柱時計が時を刻んでいる。病院は十六時の予約で、今は十五時にもなっていない。
 座卓のそばに腰をおろして、ため息をつく。奈々恵の話を思い返し、さしいれのお礼言わなきゃいけないな、と考えていると、「真治」と母が着物すがたのまま現れた。
「何かあったの?」
 たたみに膝をつき、てきぱきと急須でお茶の用意を始める母が尋ねてくる。
「え……と、いや、奈々ちゃんがたまには顔見せたらって言ったから」
「相変わらず、しっかりしてるのは彼女さんのほうなのね」
 顔を伏せる。お茶の葉のすっきりした匂いがする。
「あなた、働いてるんでしょうね?」
「えっ」
「彼女さんの稼ぎで生活しているの?」
「………、こないだ、クビになって──まだ次は見つかってない」
 母は深く息をつき、とぽとぽと急須にポットのお湯をそそいでいく。
「分かっている? 今のあなたのような男は、世間様にはヒモとか何とか言われるのよ」
 僕はぎゅっと口の中で舌を噛む。泣きそうになったからだ。
「そんな暮らしを続けるくらいなら、観念しておとうさんに頭を下げて、ここに帰ってきなさい」
「……でも」
「あなたを養わなくてよければ、彼女さんも夜の仕事はしなくていいでしょう」
「……さしいれ──」
「してますよ。ママさんがそういう取引でもしないと、彼女さんのことは雇っていられないと言ってきましたからね」
 僕は膝の上でこぶしを握った。そう、だよな。そんなもんだよな。奈々恵を気にかけて、僕の親がママさんにさしいれをするなんて──
「意地を張るのはやめて、彼女さんのことも自由にしてあげなさい」
 お茶を飲みながらいっとき話し、帰り際には母はこまねいてそう言った。ぼんやりする頭のまま、僕はさらにひとつ先の駅にある心療内科に向かった。
 仕事をクビになって、部屋に引きこもって、次の仕事の意欲もなく、こんな僕はヒモだと母に言われて──診察では連綿とそんな話を続けた。主治医は「おかあさんの言葉のまま、自分を責める必要はありませんが」と僕の話をPCに打ちこんでいく手を止める。
「実家に帰って休むというのは、楽になるかもしれません。今すぐ焦って就労することは、あまり良くないように思います。実家なら、お金の心配はいらなくなるでしょう」
「……彼女のことは、どうするんですか」
「おかあさんの言う通り、僕も奈々恵さんには昼の仕事に切り替えてもらいたいです。そして、待っていてもらうしか。奈々恵さんは実家には帰れないでしょうからね」
 僕は視線をうつむけ、確かにそうだと思った。奈々恵のことも診てきたこの主治医の言う通り、彼女は実家には帰れない。そういう理由がある。
 でも、僕が家を出た理由は、ただ父が僕より佑治の腕を見込むようになったから。ただの弟への嫉妬なのだ。
 部屋に帰宅したのは十七時で、奈々恵はクーラーと夕射しの中で出勤の支度をしていた。腕や手首に傷痕がある奈々恵は、長袖のスーツでしか出勤しない。髪色同様、もっと肌を露出しろとママさんはうるさいそうだ。
 ヘアアイロンで髪を巻く奈々恵に、僕は母にも主治医にも言われた、しばらく実家で休むという案を話した。
「かあさんは、奈々ちゃんを自由にしろって言ってた」
「別れろってこと?」
「……たぶん」
「真ちゃんは、私と別れたい?」
「嫌だよ。僕は、奈々ちゃんとずっとつきあいたい」
「そっか」と奈々恵はいったんヘアアイロンをおろす。
「それがはっきりしてるなら、私は真ちゃんの好きなようにしてくれていいよ。家のほうが休めるなら、私はここで待ってる」
「奈々ちゃん……」
「待ってるよ。真ちゃんが元気になるまで」
 僕はぐったり首を垂れて、泣き出した。
 元気になるまで。そんなの、いつか分からないよ。僕なんか、一生ぐずぐずしているかもしれない。永久にまともになれないかもしれない。
 そうしたら、僕と奈々恵はどうなる?
「たぶん」
 奈々恵はまたヘアアイロンに髪を巻いてスイッチを入れた。髪が緩やかに焼ける匂いがする。
「先生やおかあさんの意見が正しいのかな。私たちには、この状況でどうしたらいいのか分からないもんね」
 僕は奈々恵の顔を見つめた。やや派手めに化粧をするのも、店に言われるからだそうだ。
 髪も、服装も、化粧も、奈々恵は今の仕事で文句ばかり言われている。きっと、辞めたいのが本音だろう。僕さえ養わなくていいなら、奈々恵は──
「……帰ろう、かな」
 奈々恵はこちらを見て、「うん」と優しくうなずいた。僕は手の甲で涙をぬぐった。
「すぐ、戻ってくるから」
「焦らなくていいよ」
「帰っても、ここに会いにくるし」
「うん」
「僕には奈々ちゃんが一番だから」
「私にも真ちゃんが一番だよ」
 奈々恵は穏やかに微笑み、僕の頭に手を伸ばすと髪をくしゃっと撫でてくれた。僕はまだ泣いていた。
 どこかでは、もしかしたらという想いがあった。もしかしたら、ここで僕たちは終わってしまうかもしれない。そんなつもりはなくても、離れているうちに、絆は消え入ってしまうかもしれない。
 奈々恵は出勤して、僕はひとりで夜を過ごした。もやもやした息をついて、やることがないので荷造りを始めてみた。ここには帰ってくるし。たまには訪れるし。最低限の荷物でいいや、とまとめてみると、あんがい少ないもので、トラベルバッグにつめこみおわってしまった。
 このまま帰れるな、なんて思っていたら、午前三時頃に奈々恵が帰ってきた。僕の荷物を見た彼女は、「もう帰るの?」と訊いてくる。「うん」と僕が答えると、「ごはんは食べていくよね」と奈々恵はシャワーを浴びて着替えて、台所に立った。
 さんまの塩焼きだった。それから白米、ほうれん草の胡麻和え、豆腐とわかめの味噌汁。僕はその味を噛みしめて、しばらく奈々恵の料理も味わえなくなるのかと哀しくなった。
 塩加減とか、米の柔らかさとか、味噌の濃さとか、奈々恵は全部僕に合わせて作ってくれる。だから、いつもおいしい。奈々恵は「真ちゃんがおいしいと思ってくれるものが、私もおいしいから」と言う。
 食事のあと、奈々恵には先に寝てもらって僕が食器を洗った。この部屋を去るときを、なるべく引き延ばしたかった。それでも、食器を水切りに並べ終えてしまうと、やることがない。
 僕は奈々恵のまくらもとにひざまずいて、その寝顔を眺めた。化粧は落ちているから、愛らしい童顔だ。
 出ていく。この子をこの部屋に残して。僕を支えてくれる、優しい彼女なのに。
 僕はその場に座りこみ、「嫌だな……」と無意識につぶやいていた。
「奈々ちゃんを、置いていきたくないなあ……」
 声に出してみると、急に目頭がぎゅうっと絞られて、こみあげるような涙がぽたぽた落ちてきた。
 本当に、僕は泣いてばかりだな。情けない彼氏だ。もしかして、このまま奈々恵と別れることになるのは、彼女にとってはいいことなのかな。
「……真ちゃん」
 僕が泣いていると、きらきらと朝陽が映りこむ中で奈々恵は目を覚ましてしまった。それでも僕は泣きやめずに、「やっぱり嫌だ」と口走っていた。
「え」
「奈々ちゃん、一緒に行こう」
「えっ?」
「一緒に僕の家に帰ろう」
「……え、と──」
「僕が親を説得する。住み込みで働いてもらうって体になるかもしれないけど。奈々ちゃんをこの部屋にひとり置いていくのは嫌だよ」
「真ちゃん……」
「一緒にいたいんだ。ひとりで待たなくていいよ。僕と一緒にここを出よう」
 奈々恵は僕を見つめて、返事を躊躇っている。僕は彼女の手を握ると、その瞳に瞳を映した。
「結婚したい人だって、奈々ちゃんをきちんと家族に紹介する」
 奈々恵は長い睫毛を上下させ、少し参ったように微笑むと「気が早いよ」と言った。「うん」と言いつつ、「でも、そのために頑張りたい」と僕は続ける。奈々恵はゆっくり身を起こすと、ふわりと僕の軆に抱きつく。
「頑張らなくていいのに」
「頑張りたい。……とうさんにも、修行できるか頼んでみる」
「……そっか。そうだね、ほんとは私、真ちゃんが作った和菓子を食べてみたかった」
「佑治みたいにうまく作れないかもしれないけど、それでもとうさんが作らせてくれるなら」
「うん──。じゃあ、ふたりで頑張ろうか」
 僕はうなずき、奈々恵を抱きしめた。カーテン越しにまばゆい朝陽が舞いこむ中、彼女の髪を撫でると、指先で溶けるように透ける。
 離れるなんて嫌だ。置いていくなんて無理だ。僕たちは一緒に生きていくのだ。ふたりで手を取り合って家を出たときから、絶対この相手だけは見捨てないと誓った。
 夜に、このワンルームで、ふたりで過ごして。僕たちはお互いの隣にいることが永遠であればいいと思った。
 今日、やっと朝が来た。夜を巣立つ。決意がずいぶん遅くなったけど、離れることで奈々恵を失うくらいなら、僕はやらなきゃいけない。
 奈々恵の優しい体温と、陽光の温もりが、僕の心も温めていく。実家に戻り、すぐ和菓子に作らせてもらえるとは思わない。まずは店員として接客だろう。だから僕は、まずは、もう一度客の目を見るようにしてみる。
 夜はすっかり引いてしまい、部屋には朝が満ちあふれている。近隣の物音や鳥のさえずりが転がり、どこかの部屋の朝食の匂いもほのかにただよっている。
 始めよう。そう思って、僕は奈々恵の瞳に微笑みかける。「久しぶりに咲ったね」と奈々恵はそんな些細なことも褒めてくれる。
 僕はそれにちょっと照れたあと、光射す窓を向き、カーテンを開けるために立ち上がった。

 FIN

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