フラット

 谷の前にいた。落ちたら助かりそうもない、深い谷だ。
 背後には風が抜ける荒野があるばかりで、僕は谷の向こう側を見やった。そこには霧がかかっているけれど、何だか楽しそうな笑い声がしている。
 僕は突っ立って、その霧をただ見つめる。
「──直生なおき、おはよう。朝だよ」
 ふとおかあさんの声が聞こえて、僕は目を覚ました。見ていた夢を思いながら、「うん、おはよう」とベッドから軆を起こす。
 冬の朝の冷気にちょっと身震いする。「朝ごはん、できてるからね」とおかあさんは僕の部屋を出ていって、僕は目をこすってベッドを這い出す。
 あの谷の夢、最近よく見るなあ。何なんだろう。
 そんなことを思いながら部屋を出て、ダイニングに向かうと、おとうさんがスーツすがたで朝食をとっていた。「おはよう、直生」と言われて「おはよう」と答える。弟の将生まさきはまだ起きてきていないようだ。
 僕はテーブルの自分の席に用意されている食パンに、シュガーバターを塗ってトースターにかけた。スクランブルエッグやベーコンは皿の上にできあがっている。
 カフェオレを作ってゆっくり飲んでいると、「おはよー」と寝ぐせもパジャマもそのままの将生が起きてきた。将生はバタートーストと決まっているから、僕がシュガートーストを作った余熱でおかあさんが作ってしまう。
「早く冬休みになんないかなあ」
 おかあさんに急かされて朝食を食べる将生は、面倒そうにそんなことを言う。
 焦げた砂糖が染みこむトーストをざくっと食べる僕は、十二月だもんなと思った。こないだ期末考査も終わった。終業式まで特に何もないのだから、僕も早く冬休みになってほしい。
「来年には将生も中学生だな」
 おとうさんはポタージュスープをすすり、「そだねー」と将生はベーコンに嚙みつく。
「直生は中学校には慣れたか?」
「……うん。何とかね」
「にいちゃん、イジメられたりしてない?」
「えっ。な、何で」
「そんな感じー」
「……大丈夫だよ。何にもない」
「そうよ、将生。直生はイジメなんてされる子じゃないでしょ」
「そうかなあ」
「将生っ」
 おかあさんが語気を強めると、「怒らないでよー」と将生は首をすくめる。僕はうつむき、甘いシュガートーストを噛みしめる。
 イジメなんてされる子じゃない。そうだよな。やっぱりそう思ってるよな。だから僕は、家族に何も言えない。
 午前八時になる五分前、学ランの上にコートを着こみ、重たいスクールバッグを肩にかけると家を出る。かさかさの唇が吐く息は、うっすら現れては消える。灰色の空からの唸る風は凍りついて、指先や爪先はたちまち麻痺した。無意識に肩に力が入り、マフラー巻いてきてもよかったかもしれないと少し後悔する。空気が冷たくて、鼻の奥まできんと冷えた。
 アスファルトを踏んでいくスニーカーを見つめる。右の靴紐はいくらきつく結んでも、いずれ緩んでほどけてしまう。僕はそれをぼんやり見つめても、今のうちに締めておこうという発想ができない。いつも、ほどけて踏んで、転んでしまってからだ。
 周りに同じ中学の生徒が増えてきて、挨拶の声が飛び交いはじめる。僕に声をかける人はいないし、僕が声をかける人もいない。生徒たちを急かす先生がいる校門を抜け、花壇沿いを歩いて靴箱に向かう。
 一年二組の靴箱で、僕は自分の上履きが濡らされているのを見つめた。試しに触れてみると、水気がかなり冷たい。ため息をつくと、スニーカーを脱ぐだけで上履きには履き替えず、靴下で廊下を歩いていった。
 教室に着くと、憂鬱な顔を伏せたまま、閉まっているドアを開ける。ちらほら一瞥が来るけど、やっぱり僕に「おはよう」と言ってくれる人はいない。自分のつくえに向かうと、今日もチョークで中傷を殴り書きされていた。
 ネクラ。死ね。学校来るな。
 僕は教壇から黒板消しを借りてきて、無言で落書きを消す。教室のざわめきの中に、くすくすという嗤笑が混ざっているけれど、振り向いて確かめることはせずに席に着く。
 僕が耐えていればいい。誰かに相談なんてしたら、もっとひどいから。僕さえ黙っていれば、何も問題にはならない。
 なぜ自分が標的になったのかは分からない。すでに一学期から、僕はこの教室のはけ口だった。殴るとか蹴るとか、直接的な暴力はなくても、体操服を隠されたり教科書を破られたりした。
 たぶん、担任は何も知らないわけじゃない。だけど僕に何も言わないから、僕も担任を頼ろうと思わない。
 教室には暖房がかかっていても、爪先は一日冷たいままだった。今日もお弁当を女子トイレの汚物入れに突っ込まれたりした。終礼のあとは、みんな帰る前に、班ごとの当番の掃除場所に向かう。僕は今週、教室の番で、誰もやらないから雑巾がけを担当する。
 バケツに水を張り、ときおりそれで雑巾をすすいで絞っては床を拭く。最後に教壇に積もったチョークの粉を拭き取っていると、ほうきを持つ男子が無造作にバケツを持ち上げ、「いくぜー!」と高笑いしながら、僕に澱んだ水をばしゃっと浴びせてきた。
 背中に体当たりしてきた冷水に、びくっとさすがに振り返る。その拍子に、残った汚水を顔面にも投げつけられた。床を抜いたあとの嫌な臭いが鼻につき、髪からぽたぽたと雫が垂れ落ちる。
 こわばった軆に、びっしょり濡れた制服がはりつく。とっさに目をつぶったので、視界は守られたけど、急激に寒気がこみあげて肩や息遣いが震えはじめる。
「脱げよ。そこで」
 唐突にそんなことを言われ、「えっ」とつい間抜けな声をもらしてしまう。男子たちは僕を見下ろしてげらげら笑う。
「そのままだと風邪ひくぜ」
「てか、普通に臭いわ」
「脱ーげっ、脱ーげっ」
 調子のいい手拍子に、僕はとまどってうつむく。すると、「脱げっつってんだろっ」とその男子たちは僕を取り押さえ、乱暴に学ランも中に着たシャツもむしりとりはじめた。
 やだ、と言いかけた口には雑巾を押しこまれる。あっという間に僕は下着さえも奪われて全裸になり、その頃にはほかの男子も笑い出して、女子たちも悲鳴混じりながら甲高く笑っていた。
「ほら、突っ立って乾燥されとけよ」
 そう言われ、無理やりその場に立たされる。全身をクラスメイトの視線にさらされ、寒いやら熱いやらで頭がぐるぐるしてくる。
 みんな笑っている。その笑い声を聞いていて、不意にはっとした。そうだ。この楽しそうな笑い声。あの谷の夢で、いつも霧の中から聞こえていた笑い声だ。
 頬が痙攣した。口元から雑巾がこぼれおちた。僕も笑えばいいのかと思った。だから、「はは……」と引き攣った声で笑ってみた。
 しかし、そしたらこのクラスの仲間になれるなんて、そんなわけはない。「うわ、キモ……」とヒイたような声が、笑い声にほんの少し混じっただけだった。
 その日僕は、体操服を着て帰路に着いたものの、団地二階の玄関前に荷物だけ置いて、ドアの中には声もかけずに最上階に向かった。五階という高さで確実に死ねるかは分からなかった。けど、下にクッションになるものは何もない。落下すれば、勢いよくアスファルトかコンクリートにたたきつけられるだけだ。たぶん死ねる。
 手すりに体重を預け、足をかけてよじのぼった。鮮血みたいな夕陽が、涙でぐしゃぐしゃになっている。冬の強い風を胸に受け、大きく息を吸った。そして僕は、「できる」とかぼそくつぶやくと、思い切って空中に飛びこんだ。
「申し上げにくいのですが、息子さんの意識が戻る確率は大変低く──」
 どこからか、そんな声が聞こえる。おかあさんの泣き出す声に、おとうさんがつぶやく僕の名前。「このまま死ぬなんて嘘だよ」という将生の言葉。だが、轟々と風が吹き、そんな声たちはかき消されてしまう。僕はまっすぐ荒野を歩いていって、またあの深い谷に行きついた。
 ああ、僕はここを飛び降りないといけないんだな。うまくやらないと死ねないんだ。今度こそ、ちゃんとやろう。
 そしたら、僕も向こう側の人間になれるかも。
 足を踏み出す。虚空に進む。瞬間、がくんと軆がバランスを失った。その不安定に思わず目を剥く──
 ついで、心電図のフラット音が、暗く深い谷に冷たく響き渡った。

 FIN

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