結局、俺は男だったのかな。女だったのかな。あるいは、そんなことどうだってよかったのかな。
白い精液と赤い血液を混ぜて、オーロラソースのできあがり。そんな俺を信じてきてくれたこいつがそばにいたら、それでよかったのかな。
分からない。もう、俺の手の中は血まみれだから分からない。
冬の夕映えが射しこむ教室で、残っているのは俺と時雨のふたりだけだった。がたん、とつくえと椅子がぶつかって音を立てる。俺は下半身を脱いでつくえに腰かけ、脚を開いて右のかかとを隣の席のつくえに乗せている。
こみあげてくる快感に震え、呼吸が軽く弾んで蕩ける。しゃがみこんだ時雨は、俺の脚のあいだに顔を伏せ、そこから生えるものをしゃぶっている。窓の向こうの短い夕暮れの赤みを見つめ、時雨の髪に指を絡めながら喘ぐ声がうつろう。
一年前は下手くそでいらいらしたけど、時雨もずいぶんうまくなった。時雨の黒髪を撫でると、俺の言うなりになるちょっと怯えた上目が来る。俺はその目に微笑みかけ、「気持ちいいよ」とささやく。
すると時雨は深く俺を飲みこんで、喉と舌で俺を刺激する。下肢は剥き出しなのに軆がほてって、じわりと熱が流れるくらい、脚のあいだに感覚が集中していく。息が小刻みに飢えて、目を閉じて天井に頭をかたむける。したたった唾液を時雨はすすりあげ、その音が卑猥で、いっそう血管が脈打って敏感に腫れあがる。
気持ちいい。気持ちいい、けど。
これって、俺が求めてる快感なのかな。いくら男にしゃぶらせてみても、やっぱり違う気がする。
俺はホモじゃない。胸がふくらまない。性器がもげない。軆の線だって柔らかくならない。それらすべてが気に食わない。
どうして、この軆は男のままで女のかたちにはならないのだろう。
「……あ、っい……く、」
無意識にそう口走った瞬間、一気に駆けのぼって俺は時雨の熱い口の中に射精した。時雨はいつも全部飲みこむ。
俺は息をついて、「ん」と股間をしめした。時雨はまたそこに顔を寄せ、舌で片づける。そして、左のかかとに引っかかっていた下着とスラックスを俺の脚に通す。「サンキュ」と俺はつくえを降りて、ファスナーとボタンは自分で閉める。
「帰ろうか」
「……うん」
時雨の股間がふくらんでいるけど、俺から時雨にすることはない。「抜いていく?」とだけ訊くと、時雨は俺を見てうなずき、抱き寄せてくる。
そして、俺の内腿に制服越しにこすりつけながらしごいて、長引くと俺に突き放されるから、なるべく素早く処理する。「弓矢」と時雨はうわごとのように俺の名前をつぶやく。
「弓矢、好き……好きだよ、弓矢……っ」
俺は時雨の腕の中でぼんやりとそれを聞いて、ほんとこいつ俺が好きだな、と思う。俺が男なのか女なのかはっきりしないことを打ち明けても、それでも時雨は俺が好きだと言った。男でも女でも、弓矢が好きだと言った。物好きだな、と思う。
時雨の処理も終わると、一緒に教室を出て鍵をかける。早くも外は暗くなりかけて、首を縮めてしまう冷気が静かに舞い降りていた。
十二月、十七時半で切り上げられる部活が終わり、一階には少しだけ生徒がいた。靴箱で靴を履き終えていると、「よう、弓矢」とクラスメイトの男が、同じくスニーカーを靴箱から取り出しながら声をかけてきた。
「弓音ちゃんは?」
「知らね」
「ピアノは?」
「聞こえないから帰ったんだろ」
「弓音ちゃんのピアノ癒やされるよなー」
「あっそ」
「ちぇっ。お前はさー、家に弓音ちゃんがいるとかさー」
俺はため息をついて、絡んでくるそいつを追いはらって歩き出した。時雨が急いでついてくる。俺がうつむいて苦々しい顔をしているので、「大丈夫?」と時雨が心配そうに問うてくる。俺は時雨に横目をして、「平気」とぼそっと答えた。
弓音、というのは俺のふたごの妹だ。成績優秀で、品行方正で、みんな弓音のことが好きだ。同級生も、先生も、親だって。いつだって、誰だって、俺より弓音だ。みんな何も知らないから。弓音の本性を知っているのは俺と、俺の話を信じる時雨だけだ。
時雨は俺を家の前まで送る。並ぶと、背は時雨のほうが高い。もさっと伸びた髪、太い眉、おどおどした瞳や口数の少ない口元。顎や肩、腰つきへの骨格は綺麗だから、もっと身だしなみを整えてしっかりした態度を取れば、そこそこモテるのだろうと思う。まあホモなのかどうなのかよく分かんないけど、と家に着くと、俺は「また明日」と言って振り返らずに家の中に入っていく。
「おかえり、弓矢。遅いわよ」
寒い玄関で靴を脱いでいると、廊下をまっすぐ行った先のキッチンからかあさんが顔を出す。夕食の匂いがただよってきている。
「弓音はもう帰ってきてるのに」
「別に、ミネといつも一緒じゃないし」
「まったく。おとうさんも帰ってくるから、着替えたらごはんに降りてらっしゃいね」
「はあい」と生返事をして、左手にある階段で二階に上がる。中学二年生にもなるのに、俺と弓音はまだ一緒の部屋だ。せめてもう部屋は分けてほしくても、あまっている部屋がないから仕方がない。電気をつけなくても、勘で廊下を進む。
そして部屋のドアを開けると、セーラー服のまま着替えもせずに床に座りこみ、ケータイをいじっている弓音がいた。
「おかえり、ミヤ」
「……ただいま。いつ帰ってきたんだよ」
「何で」
「制服」
「おとうさんが帰ってきてからごはんでしょ。そのとき着替えればいいじゃん」
「……っそ」
「あーあ、ごはんのために降りるのも面倒だなあ。部屋出たくない。階段寒いもん」
俺は無言で、ふたつ並ぶつくえの左側にどさっと荷物を置く。
「というか、もう親と一緒にごはんとかいうのが嫌じゃない? おとうさんとか嫌いなのに」
「そう言えば」
「ミヤが言ってよー。私がおとうさんにそう言ったら可哀想じゃん」
小さく息をついて、無視することにする。
弓音のこの二重人格は、本当に疲れる。弓音は本来こういう奴なのだ。身の周りにだらしなく、言葉遣いも物のあつかいも乱暴で、人に対して傲慢で。
この素顔は親も知らない。安心しているのかナメているのか、弓音は俺だけに本性をさらす。
「ねえ、ミヤってまた木山くんと帰ってきたの?」
「そうだけど」
「あの人、もったいないよねー。ちゃんと気を遣えば、けっこう美少年なのに」
「……大したことないだろ」
弓音は自分にないものが俺にあるのが嫌いだ。だから、時雨が俺といるのも気に食わないのだろう。それでも、時雨だけは絶対に弓音に譲らないけど。
一年生の秋、告白されたときから時雨だけは俺に従うようにしてきた。時雨のことは何とも想っていないけど、俺にひざまずいてしゃぶるのを見下ろすのは好きだ。あのときだけ、時雨の舌から伝わる快感を通して、ふたりきりの時間が愛おしい。だから、そんな甘美な時間を、よりによって弓音には奪われたくないと強く思う。
俺と弓音は、性別を間違えて生まれたようなふたごだった。俺はおとなしく、家でのままごとや絵を描くのが好き。弓音は活発に外でかくれんぼや鬼ごっこをする。「弓矢みたいにちょっと落ち着きなさい」と弓音はよく言われていた。そう言われているうち、弓音には親や先生に見せておく表と、部屋でゴミを散らかすような裏を持つようになった。
弓音がピアノを習いはじめたりと穏やかになってくると、今度は大人は「弓矢が弓音みたいに元気にしないと」と俺を室内からたたきだした。俺は女の子らしく淑やかにしていたいのに、もっと乱暴になれと強要される。
俺はそれが苦痛でどんどん感情を殺すようになったが、弓音は演じて周りの目を引けるのが快感になってきたようで、外面を磨いていった。そのぶん内面は荒れて、そのストレスはこの部屋で全部俺にぶつけられた。
弓音に対して、嫉妬を超越した憎悪がある。いろんな面で、俺は弓音が嫌いだ。女の軆を持っていること。大人に対して小賢しいこと。人を見下していること。俺にないものを全部持っていること。両親の期待も教師の信頼も、たくさんの友達も異性からの羨望も、俺が持てないものをすべて手に入れて、見せつけるようにもてあそんでいる。
弓音はうざったそうに制服を私服に着替えていたが、一階に降りてとうさんも帰宅しているのを見つけると、にこやかに「おかえりー」と声をかけていた。陰では嫌いだと吐く相手によくそんなふうに咲えるものだ。
俺は仏頂面で無言のままテーブルに着く。弓音は食事をダイニングに運ぶかあさんを手伝って、「よしっ」と夕食を整える。炊きこみごはん、ふろふき大根、油揚げの味噌汁やきんぴらごぼう、春菊のたまご焼き。「今日も手伝いを弓音ばっかりにさせて」と言う両親は、昔、料理を手伝うのが好きだったのにキッチンを追い出された俺を忘れているのだろう。
「まあいいじゃん。ミヤ、今日も帰ってくるの遅かったし。友達と勉強でもしてるんじゃない?」
「あら、そうなの?」
「弓矢の勉強は弓音が見るほうがいいだろう」
「妹に教わるとか嫌だよね。ねえ?」
俺は弓音を一瞥して、「そうだな」とだけ返しておいた。
「ミヤにはミヤの友達がいるんだから」と弓音は少しずつ料理を口に運ぶ。部屋でお菓子を食べるときは、口いっぱいに頬張って、ぽろぽろこぼしながら食べるくせに。
弓音の何が一番嫌いかって、自分の表と裏を熟知していて、コントロールしているところだ。
三学期、冬が終わりかけて中学三年生が近づくと、進路のことを考えなくてはならなくなる。教室から人がいなくなるまでのあいだ、「弓矢はどこに進む?」と時雨が不安を混ぜて訊いてきた。窓際にもたれて調査表を眺めながら、「ミネがいなきゃ何でもいいよ」と俺はつぶやいた。
「男子校?」
「ふざけんな。俺、男じゃねえし」
「……ごめん」
「時雨はどこ行くんだよ」
「………、弓矢と一緒のところに行きたい」
俺は手すりに頬杖をついて、時雨を見た。時雨はわずかに頬を染めてうつむく。俺は鼻で嗤うと、時雨の耳に口を寄せる。
「死ぬまで、夜には俺を満足させてくれるの?」
「……弓矢が俺で満足するなら」
「そう。かわいいね」
時雨は雨に濡れた子犬のような目で俺を見る。そのとき、「鍵ここに置いておくからねー」と最後に残っていた女子のグループが、鍵を教卓に置いて教室を出ていった。
話し声と足音が遠ざかって、初めて時雨は俺を抱きしめてくる。空気は冷たくても日が長くなってきて、窓の向こうはまだ青く明るい。学ランから時雨の匂いがして、それを嗅ぐと高揚がこみあげてくる。
【第二話へ】