真枝空。弓音と同じ大学に通いながら、高校生の頃からピアニストとして活躍している男だそうだ。
家には帰らないから、ひとまず時雨の部屋に世話になりつつ、私はまずその空という男に会うことにした。
『あれ、弓音じゃないか』
空は大学のそばのマンションでひとり暮らしをしていた。私がそこを訪ねたのは、蒸し殺すような真夏の午後だった。
勝手に踏みこめないエントランスだったので、私はインターホンを空の部屋につないだ。つながるとカメラが作動するらしく、名乗る前にそんな声が聞こえてきた。
「ちょっと遊びに来ちゃった」
『言ってくれてたら、掃除とかしておいたのに。どうぞ』
女を連れこんでいたら面白かったのに、それはないみたいだ。エントランスのガラス戸が開いて、私はそれをくぐると空の部屋がある七階までエレベーターでのぼった。『真枝』という表札を探し、見つけるとドアフォンを鳴らす。すると、すぐにかちゃっと鍵が開いて空が顔を出した。
優しそうなお坊ちゃん、といった感じの男だった。穏やかな弧の眉、穏やかな瞳、白皙で細身で、線もしなやかだ。いかにも育ちがいいのが分かる。弓音も好みそうだ。
「もうすぐコンサートだよね。また行ってもいい?」
「弓音に見られてると緊張するなあ」
「そこはほっとしてほしいなー」
「はは。そうだね、ほっとするよ」
「空くんのピアノ、好きだよ。私もあんなに弾けたらなあ」
「昔は弾いてたんだろ?」
「ずーっと、昔です」
「少し弾いたら思い出すよ。弓音のピアノ、僕も聴いてみたいな」
冷たい飲み物をもらってそんな当たり障りない会話をしながら、この男が弓音を想っているのが垣間見れた。それでも、私と弓音を見抜くことは結局なかった。夕食を一緒に食べてから「また大学でね」と別れると、そろそろ時雨も計画成功してるかな、と時雨の部屋に帰ることにした。
「ユミ」
部屋のドアを合鍵で開けると、時雨が駆け寄ってきた。「うまくいった?」と問うと、時雨はうなずく。
私は微笑み、部屋の奥で唸りながら横たわっているその女を見やった。手足は縛られ、猿轡をされている。私を見て、その女は目を剥いた。
「久しぶりだねえ、ミネ」
私はそう言いながら弓音に歩み寄って、悠然と見下ろした。
「私のこと、分かるよね?」
もちろん、弓音は猿轡で何も言えない。でも、その血走った目で分かっていることは察せた。私は腰をかがめて弓音の髪をぐしゃっとつかみ、頭を引き抜くように持ち上げると、「よくも男だと思ってナメてきてくれたね」と目を細め、前触れなくその頬をばしっと引っぱたいた。
「あんたの隣で、私がどれだけみじめだったか、これからたっぷり教えてあげるよ」
それから私は、弓音をその部屋に監禁し、容赦なくいたぶり尽くした。
蹴って殴って、飲み食いさせず、殺す寸前まで連れていく。朦朧としはじめてやっと猿轡をほどき、水だけ与える。「もお許して……」と叫ぶこともできない嗄れた声で弓音は泣きつき、それには唾を吐いて、また猿轡をぎゅっと締めた。
猿轡には涎だけでなく血もついていた。私は弓音の頭蓋骨を壁に向かって蹴りつけて、額からぴくんぴくんと流れる血を眺めて、高らかに笑った。
そして、大学にも、友人にも、両親にも──空だけでなく、弓音の居場所すべてに忍びこんで、気づかれることなく入れ替わっていった。空に初めて抱かれたときは、さすがにやや警戒したものの、疑われることなく済ますことができた。
そうやって、私は表向きは緩やかに「弓音」として生活するようになっていった。
すっかりその生活になじむ頃には、秋が終わろうとしていた。弓音の顔面はぼこぼこで、脚や腕は痩せ細り、蹴られた痕は内出血で青くなっていた。ここ一ヶ月くらい、時雨には用事を言いつけて出払ってもらっていた。
その時雨が、準備ができたから帰ってくると連絡をよこした。私は横たわる弓音の耳を踏みつけ、かかとに体重をかけた。弓音が痛みでびくっと覚醒して、低くかぼそくうめく。
「つらいよねえ……」
弓音は私がそばに来ると、条件反射で涙を流すようになっている。
「もう、そろそろいっか……」
弓音が私を見上げた。私は弓音の頭から足をおろすと、まくらもとにしゃがみこんだ。
「確かにいい加減飽きちゃったし、あんたも私がどれだけつらかったか分かったよね?」
弓音は躊躇いがちにうなずいたあと、急に何度もこくこくと首を縦に振りはじめた。私は微笑み、弓音の赤黒い頬に手を添えると、言った。
「じゃ、あとは死ぬだけね」
──私の留守に車の免許を取っておくのも、時雨に命じていた。夜、レンタカーを借りて部屋に戻ってきた時雨は、ぼろぼろの弓音を見てちょっと臆面していた。
私は自分で用意しておいた手錠をかけてから、弓音の手足を縛っていた縄をほどいた。弓音は私に急かされてよろけながら立ち上がり、逃げようとしたのか足を踏み出したものの、しばらく自立していなかったせいか倒れこんでしまう。
私は笑って、乱暴に弓音を立たせると後ろ手の両手をつかんで背中を押した。時雨が狼狽を見せつつもドアを開け、私たちをレンタカーに案内する。
私は弓音を後部座席を押しこむと、助手席に乗りこんで、運転席に乗った時雨に「用意できてるんだよね」と確認した。時雨はうなずき、何か言おうとしたものの、口をつぐんで車を発車させた。
高速道路を飛ばして三時間、冷え切った深夜に車の行き来もない山間の道路を進んだ。峠に駐車場があって、そこに車を停めると人がいないのを確認して、弓音を引きずりおろした。
時雨が懐中電燈を照らして案内を始める。ガードレールを乗り越え、靴底がめりこむ柔らかい山中を進み、完全に周りを林に囲まれたところにそれはあった。
人ひとり、突き落とせる深さの穴。一ヶ月、時雨にはこの場所決めから穴掘りまでを任せていた。
私は弓音を振り返った。
「ここでさよならだよ」
弓音の痣と血の顔に涙が流れ、必死にいやいやをする。私は弓音の腕を引っ張った。が、弓音はさすがに抵抗して踏ん張る。私は舌打ちして時雨を見た。
「時雨、分かってるでしょ」
「えっ……」
「こいつ、突き落として」
吐く息が白い。こちらを照らしていた時雨は、動揺して固まっていたものの、ゆっくり歩み寄ってくる。弓音が唸って身をよじらせ、何とか逃げようとするから、私はその臑を蹴りつけた。声を上げた弓音は転んで、そのまま穴に落ちそうになった。
やっと片づく、と安堵した瞬間だった。
突然、ぐっと弓音を支える腕が伸び、その手が弓音を引っ張った反動で、私が前のめりになった。え、と思ったときには、私が泥臭い土の中に落ちていて、はっと振り返ると、時雨が弓音を引っ張っていくのが見えた。
私は急いで立ち上がって這い出ようとしたけど、足を捻ってしまったみたいでうずくまる。それでも舌打ちをして、「時雨えっ」と叫んで、爪に泥をつめこむように這いつくばって穴を脱出し、どうやらまた転んだらしい弓音を時雨が介抱しようとしているところに追いつく。
「時雨、あんたねえっ──」
「ダメだ、ダメだよっ。こんなのはダメだ。ユミがつらいのは知ってる。この人が憎いのも一番知ってる。でも、殺すのは」
「あんたに説教されたくないねっ。退けっ」
「お願いだよ、やめて。こんな人、どうだっていいじゃないか。俺はちゃんとユミといるんだよ」
「もうこの女は邪魔なんだよっ。居場所なんてない、残してない、私が『弓音』になるのっ! この女には帰るところはないんだから、殺すしかないっ」
「頼むから、ねえっ……ダメだよ。それだけはやめて……っ」
捻った足首がずきずきしていたけど、それでも私は弓音の腕をつかんだ。弓音の眼球が痙攣している。時雨は座りこんで嗚咽をもらしだした。
肝心なときに、といらいらして私は懐中電燈を奪うと、弓音を穴まで引きずり戻していった。
「じゃあね、ミネ。あんたの人生は私が生きるわ」
そして、貧弱になっていた弓音の軆を穴に突き落とした。懐中電燈であたりを照らし、掘っただけの土とスコップがビニールをかぶっているのを見つけて、足を引きずって弓音を生き埋めにした。時雨の泣き声がここまで聞こえてくる。
ずっと思ってきた。死ね。あんたなんか消えろ。ふたごじゃなければよかった。私だけが生まれていればよかったんだ。あんたがいたせいで、まるで私は欠陥品だったみたいに育った。そんな最悪な人生はいらない。あんたが認められる人生を送るなら、私はその人生を奪ってやる──!
人が埋まっているなんて分からないように表面の土を軽く混ぜ返して整えると、スコップを杖にして時雨の元に行った。時雨はまだおののいて泣いていた。
弓音がいつも光だった。弓音ばかり光だった。私はいつも闇だった。言えない闇を抱えてきた。男として生まれたけど、どうしても男じゃない、女だという自覚が違和感としてつきまとった。
もし、私が初めから女だったら。あるいは問題なく男だったら。私も心にこんな闇は抱えなかったのかもしれない。男なのか、女なのか、よく分からない、こんな混じったような存在として生まれてしまったから……
男でも女でも好きだよ。
そう言ってくれた、この男がいたのに。その男のことさえ、私はよりどころにできなかった。だから、このスコップを勢いよく彼の頭に振り落とす。
だって、私は自分がオーロラソースであることは認められないの。好きじゃないの。愛することができないの。
男と女。精液と血液。マヨネーズとケチャップのオーロラソース。
そんなの、私は受け入れられない。この返り血のように鮮やかな赤に染まり、私は今、本当の女になる。
FIN