春の日に
きっと、もう僕は飛べない鳥だと思っていた。僕の羽は残虐な爪たちにむしられすぎた。こんな羽で、風を切ることはできない。僕の心は治ることなく、羽は朽ち果て、空に飛び出せる日は来ないと──そう、思っていた。
桜の花びらが、ふわっと空に浮かんでは、絵具を落とすようにアスファルトを染めていく。
まだ肌寒い日もあるけれど、たまに早くも初夏かと思うくらい暖かい。今日はよく晴れていて、でも風はすうっと涼しくていい気候だ。
降りる階段の脇の花壇には、チューリップも咲いている。
「お疲れ様」
毎度のことながら緊張していたから、ほっとして息をつく僕に、眼鏡をかける聖樹さんは物柔らかに咲った。僕は隣の聖樹さんを見上げ、「うん」とうなずいた。
風が吹いて、春の香りが僕たちの髪を撫でていく。
「まだ、少し……怖い」
あの頃より短くなった前髪で、 ちらちら邪魔されなくなった視界を見つめる。
「やっぱり全部取り消しますって言われないかなとか。今回から認められませんって言われないかなとか。法律の改正とか、すごく気にするようになった」
聖樹さんは柔和な瞳のまま、僕の頭をぽんぽんとした。
「大丈夫だよ。みんな、ちゃんと分かってくれてる。僕たちは家族だよ、萌梨くん」
僕は聖樹さんをもう一度見上げて、こくんとすると、微笑んだ。
心から咲えるようになった。口元が引き攣りもしなかった僕が。心なんか死んだと思っていた。確かに僕は致命傷を受けた。でも、この人と、この人の周りの人のおかげで、今、僕は心穏やかに息づいている。
来月で、この街に来て四年になる。それまでの僕は、まったく違う街、学校、親と暮らしていた。僕は十四歳で、学校でも家庭でも、心身を踏み躙られるあつかいを受けていた。
致死量の血に逃げ出した先で出逢ったのが、聖樹さんだった。行き場のない僕をかくまい、傷口の痛みに寄り添ってくれた。その痛みを、聖樹さんも知っていたから。
いつのまにか僕たちは本当の家族になっていて、でもしょせんそれは日陰のもので。でも、確かな絆を持った僕たちを、予想以上の人が応援してくれた。
聖樹さんの両親。聖樹さんが助けを求めた施設の職員の人たち。そこに保護されている子供たち。保健所の人、役所の人、警察の人。弁護士さんも、福祉士さんも、ケースワーカーさんも。聖樹さんの友達、聖樹さんの弟さん、そして、聖樹さんの息子である男の子も。
僕は自分のことを何度も話さなくてはならなかった。それは、信じられないくらい気が病み、精神を消耗することだった。話すだけなのに、思い出すだけなのに、夜になってうなされるどころか、その場で嘔吐してしまうときもあった。
意識に染みこんた黒に、滅多刺しに紅い陵辱が走り、涙のように血が流れて……それを、言葉にする。傷口にあえて痛覚を与えるような作業だった。話したくないと泣き出したり、思い出したくないと頭を抱えこんだり、本当にこれが実を結ぶのか途方に暮れて、面談がある朝には、起き上がれない憂鬱の闇におちいるようにもなった。
きっと、ひとりでは耐えきれなかった。けれど、僕の隣には必ず聖樹さんがいてくれた。話をしていてつらくなると、休憩を取らせてくれたり、切り上げさせてくれたりした。
それでも、どれだけ泣いたか分からない。ただ、その吐露は、けして誰からも、否定などされなかった。すごくびっくりした。なぜなら、僕はさんざん嗚咽を笑われてきた。なのに、一緒に泣いてくれた人もいた。言葉がなくて抱きしめてくれた人もいた。そんな毎日は終わらせよう、これからは必ず守ると約束してくれた人もいた。
そうして、僕はついに悪夢のような家庭や学校から引き離され、この街の住人として空の下を歩けるようになった。
それでも、戸籍から実父母の名前が消えることはない。半年に一回は、この街に越してきたことが分かる除票と附票というものを親に取られないため、更新手続きもしなくてはならない。たぶん、親は──できるなら、僕を取り返しにくるから。実際、実の親ならそれが可能であるらしい。
もし更新を忘れたら、すべて水の泡になる。自傷行為のような告白に、みんな、包帯やガーゼをくれた。その理解も無駄にしないため、更新する日は、仕事を休んだ聖樹さんに付き添ってもらって絆を改めて結い直す。
「四月だから、異動もあったみたいだね」
柔らかな髪が伸びてきた聖樹さんと並んで歩道に出ると、僕はうなずき、「松宮のおじさんがいなくなって寂しい」とつぶやく。
「松宮さんは、去年からの引き継ぎなのにすごく親身になってくれたね」
「何か、言ってほしいことをすごく言ってくれた」
「うん。まあ、情が移っちゃいけないんだろうからね。ああいう人だからこそ、新しい場所にどんどん引っ張られるのかもしれない」
僕はまたうなずき、葉桜になりかけた木陰を見上げる。木漏れ日が波のように揺らめき、葉擦れがささやいている。ガードレールの向こうでは、車が行き交っている。
「聖樹さんは──」
「ん」
「車の免許、持ってなかったっけ」
「はは、取り逃したよ。萌梨くんは取る?」
「えっ。あ、そっか。僕、もう取れるんだ」
「一緒に教習所に通ってもいいかもね。って、僕は何でも付き添いすぎか」
「そ、そんなことないけど」
「葉月が取ったのは驚いたね」
「あ、僕もそれ思って。先週、楽しかったね」
「お花見?」
「うん」
「ふふ、みんな帰ってきてくれたもんね」
みんな、というのは聖樹さんの友達の人たちのことだ。こんなにおっとりした聖樹さんからは想像もつかない、インディーズロックのバンドをしている四人だ。XENONというそのバンドは、音楽界隈にいる人間なら耳にしたことがあると思う。
先週の朝、満開の桜をバルコニーから眺めつつ洗濯物を干していると、突然ポケットのケータイが鳴った。同時に、家の中にいた聖樹さんの息子で、僕の義弟──悠紗のケータイも鳴った。顔を合わせてそれぞれ開くと、XENONのベースの要さんからのメールだった。
『高速かっとばして帰る。
花見の用意しとけ。』
「うおっ、マジか」
声を上げた悠紗は抱えていたギターを置いて立ち上がり、ベランダに駆け寄ってくる。
「萌梨くん、洗濯は俺やるから、弁当作ってよ。三段くらいの」
「え、えと、今夜帰ってくるのかな」
「要くんなら200キロで帰ってくるって。とうさんにもメールしよっ」
「このメールいってるよ。一括送信、悠紗と聖樹さんと僕」
「ん、ほんとだ。でもっ、沙霧くん呼びたい」
「沙霧はバイトかもしれないけど。まあ、一応連絡してみたら」
「よしっ、最後のEPILEPSY去年で会えなかったもんなっ。すっげえ楽しみ」
「………、悠紗って」
「ん」
「ほんと、みんなに似てきたね」
悠紗がきょとんとしたことを、聖樹さんや、その夜、本当に帰ってきたXENONのみんなに話すと笑っていた。聖樹さんの弟の沙霧は、やっぱりバイトで来れなかったけど、いたら同じく笑っていただろう。悠紗だけおもしろくなさそうに、「俺は俺だしっ」とむくれていた。
「男の子を持つとつらいね。どんどん離れていくよ」
聖樹さんが紙コップのお茶を飲みながら言うと、ぞんざいに髪を伸ばした要さんと、肩幅ががっしりした葉月さんが、楽しげに聖樹さんの肩をたたいた。
「いやー、悠は聖樹にまだまだ懐いてるぜ」
「女の子だったほうがすごいって、最近は」
「そうかな。悠って唐突だから。『今日から僕は俺』とか『今からとうさんって呼ぶね』とか」
「『とうさん』なんてかわいいじゃねえか」
「覚悟しろ、『親父』になる日が来る」
聖樹さんは悠紗を見た。「いつかね」と言った悠紗に、聖樹さんは嘆くため息をついた。
僕は歓談する輪から目を離し、あたりを見まわした。場所は近所の広いグラウンドの公園で、囲むように桜が咲き、橙々の提燈が飾られて夜桜を照らしている。
時刻は二十時くらいで、同じお花見の人やちょっとした屋台もあるから、騒いで目立つことはない。むしろ、騒いでいないほうが目立つというか──前髪でおもしろくなさそうな目を隠す紫苑さんはギターを抱えて無言でおにぎりを食べ、相変わらず高校生くらいに見えるヴォーカルの梨羽さんは、無表情でシートの隅に横たわってヘッドホンをしている。
「しかし、最近の女のガキはマジで怖いよ。客にもいるけどさ」
「お客さん」
「いいですか、淫売と援交は違うんです。なのに、勘違いしてるガキが多すぎる」
「だよなー。公園の便所に金ははらわねえ」
「よく言った要、俺はヒーターからウォシュレットまでついた便器にこそ金を出すんです。『葉月って買うんだよね』などと近づいてくるガキなどいらん」
「そろそろいないの、要と葉月に。恋人とか」
「いらね」
「めんどい」
「要くん、三十路なのに」
「悠がまた、どっかからいらん言葉拾ってきてるぞ」
「悠にいらん言葉吹きこむのは俺たちだったのにっ」
そんな話でわいわいしていると、ふと梨羽さんが起き上がって目をこすり、スニーカーを履くと桜の樹の下に行ってしまった。うるさかった、のではなく──
「何か、あの人だけ本気で花を見てるんですけど」
葉月さん言う通り、梨羽さんはポケットからケータイを取り出し、どうやら写メを撮っている。
「そういえば、四人でばらばらにケータイ持つようになったんだよね」
「見事に用途もばらばらですが。梨羽は写メしか撮らんな」
「ケータイよりカメラ買ってやればよかったぜ」
「でも、梨羽さんがくれる写メって綺麗で好きですよ」
僕がサンドイッチを手にしながら言うと、「ああ」と要さんはうなずく。
「そうか。人に添付できるな。アートワークにも使える」
「紫苑は悠にしかメールしないよなー」
「楽譜の写メ添付してくれる!」
「で、俺は事務、葉月は交流って感じか」
「交流」と聖樹さんがからあげに爪楊枝を刺すと、「こういうの十年やってるしねえ」と葉月さんが笑って、「アドレス交換が当たり前になったんだよな」と要さんも苦笑する。
「正直俺たちそういうのうぜえし、ずっと断ってたけど。でも、葉月がつきあい担当やるっつーから」
「俺っていい奴だわー」
そのとき、とんとんと肩をたたかれて振り返ると、いつのまにか梨羽さんが背後にいた。ケータイをさしだされて受け取ると、夜桜と提燈が幻想的に撮れている。闇夜の中、咲き誇る桜が橙色に浮かび上がって、すごく綺麗だ。「送ってください」と言うと、梨羽さんはこくんとした。
「梨羽、調子良さそうだね」
梨羽さんにケータイを返し、僕もケータイを取り出すのを見ながら、聖樹さんは言う。
「まあなー。明日のライヴに出たら、日曜にはもう出るし」
「そうなんだ。要、運転疲れない?」
「あー、葉月がやっと免許取ったんだよ」
「えっ!」
聖樹さんと悠紗が声を合わせ、僕も振り向いてしまう。葉月さんは心外そうに眉を寄せ、「鈴城さんちの反応むごいわー」とビールの缶を置く。
「俺はこれでも元ガリ勉よ? やればできる子よ? すべて一発合格で取得よ?」
「教習所とか、通うんだよね? 葉月だけ合宿はできないし」
「ああ。教習所の近くの安い民宿に駐在して、夜だけ街に出てた」
「一発合格に誰か触れろよ」
葉月さんが得意の泣き真似をしたとき、僕のケータイが鳴って、梨羽さんの添付つきメールを受信する。添付を開くと、梨羽さんのケータイにあった写メが僕の液晶にも映し出された。濃紺の空と、橙々の桜──
【第二章へ】
