初恋
「ただいま」
そう言って僕が玄関のドアを開けた瞬間、数年ぶりにダッシュが近づいてきた。そう、昔はよくこんなふうに僕を出迎えていたのは──
「悠紗くん!」
「千羽ちゃん!」
嬉しそうにお互いを指さしたふたりに、僕は噴き出してしまった。一発でこのふたりの息が合うのが分かってしまった。僕があんまり笑うので、どうやらいい匂いをただよわせている犯人の聖樹さんも、眼鏡をかけて顔を出す。
「何? 楽しそう」
「萌梨くんがすげー受けてる」
「だって、千羽ちゃんと悠紗、何か一瞬同じで」
「えー」
「悠が気にいるなら、ますます安心だね。こんにちは、千羽ちゃん」
聖樹さんににっこりとされて、きょとんとしていた千羽ちゃんは慌てて頭を下げた。
「あ、えと、新菜千羽です。萌梨くんには、その、学校で仲良くしてもらってて」
「うん。こちらこそ、萌梨くんと仲良くしてくれてありがとう。上がって。おやつの焼きプリンも作ってるから」
「え、あ──すみません、わざわざ」
「千羽ちゃん、けっこう大人の人だね」と悠紗は僕を見上げ、「僕が千羽ちゃんを子供っぽく話してたみたいだよ」と髪型だけは幼い頃に戻った悠紗の頭に僕は手を置く。
「んー、萌梨くんと変わんないと思ってた」
「変わらないというか、年下だよ」
「マジ!? えっ、千羽ちゃん何歳なの」
「十七歳だよ」
悠紗は演技でもなさそうにぎょっとして、「二十歳くらいに見える。梨羽くんより大人に見える」とぶつぶつする。千羽ちゃんは首をかたむけ、僕を見た。「悠紗には年上はみんな大人だよ」と僕は苦笑するしかなかった。
「何か飲むよね。麦茶かアイスティー、あとジュースがあるけど」
「僕は麦茶でいいよ。千羽ちゃんは」
「じゃあ、私も麦茶で」
「分かった。持っていくの邪魔かな?」
悠紗を連れていきながらくすりとした聖樹さんに、僕たちはどきりとして、「そんなこと、」と声を合わせてしまった。余計に気恥ずかしくなる僕たちに聖樹さんは咲うと、「お茶持ってくときだけお邪魔します」と悠紗をリビングにやり、キッチンに行った。
僕と千羽ちゃんは廊下でそろそろと視線を絡め、「部屋でいいかな」と僕が言うと、千羽ちゃんはうなずく。僕は思わず動作をぎこちなくさせそうになりながら、悠紗の部屋の前を通り過ぎて、自分の部屋のドアを開けた。
「どうぞ」
そう言って僕に招かれ、千羽ちゃんはゆっくり僕の部屋に踏みこんだ。この自分の部屋を家族以外に見られるのは初めてだ。何にも変なのないよな、とそっと部屋に視線を走らせてしまう。千羽ちゃんが部屋の中央あたりに行くと、僕は静かにドアを閉めた。
「えっと……その、片づいてるね」
千羽ちゃんはちょっとうわずった声で言って、「そうかな」と僕は似たような声で返す。
「何か、男の子の部屋じゃなくて、ちゃんと、男の人の部屋」
「もう、十九だから」
「そっか、そうだよね」
本棚に歩み寄って千羽ちゃんが覗きこんでいると、小さくノックが聞こえた。またドアのすぐそばにいた僕は隙間を作る。聖樹さんが麦茶のグラスをお盆に乗せて、覗きこんできた。
「あ、ありがとう──その、」
「大丈夫、持ってきただけ。でも、あとで悠の相手してあげるの、頼んでおいて」
「……はは」
「クーラーも入れていいからね。じゃあ」
「あ、待って。ちょっと、入って」
「え、でも──」
僕は聖樹さんの腕を軽く引っ張って、千羽ちゃんを呼んだ。はっとこちらを見た千羽ちゃんは、聖樹さんのすがたに初めて気づいたようでまばたきし、急いで頭を下げる。聖樹さんは、当惑しつつも千羽ちゃんには会釈を返す。
「萌梨くん、僕──」
「千羽ちゃん、この人が、会ってほしかった人」
「え」とふたりの声が重なる。千羽ちゃんは僕の家族と息が合うらしい。
「僕の、理想の、探してた……血のつながってない父親」
千羽ちゃんは目を開いた。つかんでいる聖樹さんの腕もこわばった。僕は千羽ちゃんだけをじっと見つめている。
「僕は十四歳のときに聖樹さんに逢って、引き取ってもらえた。それまでは──」
「萌梨くん、」
「それまではっ──」
「萌梨くん、落ち着いて」
聖樹さんの冷静な声に、僕はいつのまにか視覚が切れていたことに気づいた。千羽ちゃんは、部屋に立ち尽くして怯えているようにも見えた。僕は聖樹さんを見上げて、聖樹さんは僕にお盆を渡し、肩を部屋へと押した。
「三人で話すことじゃないよ」
「で、でも、」
「独りで話すことでもない」
「え」
「ふたりで、ゆっくり、話しなさい」
聖樹さんの瞳は、凪いで優しかった。僕は千羽ちゃんを見直した。千羽ちゃんは、我に返ったように僕を見た。視線を重ねていたら、ぱたん、といつのまにか背後でドアが閉まっていた。
ふわ、と千羽ちゃんはその場に座りこんで、僕はお盆を気にしつつも駆け寄って謝る。千羽ちゃんは首を振ったけど、顔を上げない。僕はとりあえずお盆を床に置き、深く息を吸った。そして、吐き出す息と一緒に、静かに訊いた。
「聞きたくない?」
千羽ちゃんは、僕に顔を上げた。何で、と思った。何で、今からそんな泣きそうな顔をしているのだろう。話し終えたとき、僕もきっとそんな顔をしている。そうしたら、僕たちは、一緒に泣くのだろうか。千羽ちゃんは、こんな……僕の見苦しい過去に、泣いてくれるのだろうか。
「本当の……」
不意に、千羽ちゃんが細い声で沈黙を破いた。
「おとうさんと、おかあさんは?」
僕は千羽ちゃんの瞳を見つめた。僕に見つめられて、揺らいでいた目が決意に固まっていく。僕はもう一度深呼吸すると、長い長い、惨く、汚く、哀しい話を始めた。
僕を愛さなかったおかあさん。そんなおかあさんしか愛さなかったおとうさん。ひとりぼっちだった僕につけこんだ大人たち。見せて。見て。触らせて。触って。舐めさせて。舐めて。顔に飛び散った精液の臭い。そして必ず言う──誰にも言っちゃいけないよ。
やがて、おかあさんが家を出ていった。おとうさんはおかあさんを探し当てることができず、お酒に澱むようになった。そしていつからか、大人たちは消えていったけど、代わりに同級生が僕を“女”として便器のようにあつかいはじめた。
ついで、この母親譲りの顔におとうさんがおかしくなりはじめて、とある夏、僕はついに実の父親に犯された。なぜみんな僕なのか分からなかった。みんなが次々と僕で性欲を満たす。もういつ誰が自分を使っているのか分からなかった。気づいたら終わっていて、気づいたら口の中に性器があって、気づいたら体内に射精を繰り返されていて、気づいたらまた始まろうとしていた。
十四歳のとき、僕は修学旅行の途中でホテルを逃げ出した。あの大胆さは、いまだによく分からない。すぐ捕まると思った。でも、僕を部屋に保護して、「死にたい」と口走るような怪しい中学生をかくまってくれたのは聖樹さん、そして、その息子である悠紗だった。
聖樹さんも、僕と同じ傷を持っていた。幼い頃、学生の頃、僕のように同性に──
それから、いろんな出逢いがあった。聖樹さんの弟の沙霧には、初めは胡散臭そうに疑われた。やっと誤解が解けたとき、XENONが帰省して一気に騒がしくなった。いつもヘッドホンで音楽を聴いていっさいしゃべらない、ヴォーカルの梨羽さん。暗い瞳のままギターを肌身離さず、無口で気配なく動くギターの紫苑さん。普段はポルノ雑誌ばかりめくっているのに、端正な顔立ちでホストをやったりするベースの要さん。無邪気に悠紗とゲームで張り合ったりするのに、どこか残酷な感覚もある、でもそれを感じさせないドラムスの葉月さん。いつのまにか、みんなが僕を屈辱ごと受け入れて、包みこんでくれた。
聖樹さんは、その頃から僕を「鈴城」にすることを考えはじめた。おじいちゃんとおばあちゃんがそれを助けてくれた。ずっとうまくいっていなかったけれど、聖樹さんが傷を打ち明けたことで、家族は真実に向き合ってしっかりとつながった。悠紗も聖樹さんの傷をそのとき知った。よく分からないところも多かったけれど、それでも悠紗は聖樹さんを受け止めた。そして、悠紗も応援してくれた。僕たちは“家族”になるべきだと。
それから、僕たちはいろんなものと戦った。法律、血縁、学校、常識、何よりも、記憶と。斬っても斬っても終わらないようにも思えた闘いだった。けれど、ついにその日は来た。
『鈴城聖樹戸籍入籍により除籍』──
僕は、いつのまにか泣いていた。その涙に触れる細い指をたどって、滲む視界に千羽ちゃんの顔を認めた。千羽ちゃんの頬にも、雫がすうっと伝っていった。
「千羽ちゃん……」
「……私は、最低なのかな」
「えっ」
「だって、こんな……泣くなんて、偽善すぎるよ」
千羽ちゃんはうつむいて涙を拭ったけど、それでも睫毛は濡れている。
「私なんかに、分かる痛みじゃないよ……」
「……千羽ちゃん」
「それに、私、自分のため以外に泣いたことなんてない……自分のことしか考えないのに。何で、こんな……泣いてるのかな」
千羽ちゃんは鼻をすすって、ちょっと乱暴に目をこすった。それでも、涙の量は増えていくばかりだ。
僕は床につかれている千羽ちゃんの左手に右手を重ねた。すると、千羽ちゃんはその手を幼く握って、緩くいやいやしながら、迷子のように頼りなく泣き出した。
「やだよお……つらいよお……」
僕は千羽ちゃんの手を握り返し、その体温が怖くないと思った。あんなに嫌いだった、怖くてたまらなかった人の体温を、僕はいつからこんなに優しく受け入れるようになったのだろう。
千羽ちゃんは泣いている。泣いてくれている。僕のために。僕の痛みのために。
僕には、聖樹さんがいる。悠紗もいる。沙霧も、XENONの四人だっている。それでも──
突然、鮮明な白い花が頭を走った。そう、きっとそうだ。いや、やっぱりそうだ。みんなの言う通りだ。
まだ、知らない。
──もう、知った。
「千羽ちゃん」
千羽ちゃんが泣きながら僕を見上げる。手の甲で砕けるその涙は、とても温かい。やっぱり、この子で間違いない。決めた。この子に決めた。この優しい涙をこぼす女の子に、僕は贈ろう。そう、それはもちろん──
「僕、千羽ちゃんが好きだよ」
白いつつじ。
僕の、初恋。
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