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もぎとられた痕

 千羽ちゃんとは、もちろん学校でも会う。ふたりとも授業がなければさすがに登校しないけれど、どちらかに授業があれば学校で一緒に授業を受けた。でも、正直僕は、学校で会うのが心苦しかった。
 それはもちろん、校内にはいくらでもつきあっているらしいふたりがいる。どちらかといえば友人同士が多いとはいえ、廊下、教室、休憩スペース、手をつないだり耳打ちしあっているふたりを見かける。そういうとき、僕は喉が詰まるプレッシャーと、かすかにささめく嫌悪感を覚えた。それがすごく僕を追いこんだ。実際、千羽ちゃんも僕のそれを感じ取って、空気が気まずくなる。
 千羽ちゃんは咲ってくれる、「ああいうの私は恥ずかしいから」と。でも、僕も恥ずかしいだけなら、こんな気まずさはないだろう。むしろ甘酸っぱいくらいのはずだ。僕たちは──いや、僕は千羽ちゃんとああいうふうにできない。成り行きで手をつないだことはあるけど、普段からはできない。肌と密着するなんて、吐息を感じるなんて、ましてその末にあんな行為──気持ち悪い。
 千羽ちゃんは、女の子なのに。あの人たちとは違うのに。でも、だから余計に分からないし、吐きそうになる。今度は、僕が千羽ちゃんにあれを行うのか? 精通していない、勃起も知らない性器で。男と女。きっと自然なかたちなのに、男に犯されてきた心と軆が染みついて、男である僕を錯乱させる。
 気持ち悪い。怖い。あんなことできない。
 あんな行為、辱めではないか。荒い息遣いが聞こえた気がして、びくっと振り返る。動く腰につらぬかれる心象に、こわばって立ち止まる。べっとりと舌の感触がよみがえって、ぞっと鳥肌が立つ。思い出すほど、あの行為が愛の象徴だなんて思えない。むしろ、好きだからこそ、したくないくらいだ。何で、好きな人とあの恥辱を再現しなくてはならないのか。僕には、分からない。
 分からない僕は、おかしいのだろう。それだけ、欠けているのだろう。僕はあの体験で、“男の欲望”をもぎとられてしまった。それがない僕は、きっと、男として足りていないのだ。僕の性は欠陥していて、好きな人に愛情を伝えられない。
 いや、千羽ちゃんは分かってくれている。僕をせっつくことはしないし、事情だって知っている。それだけでしか愛情を感じられないとか、僕を追いつめる偏った人でもない。でも、だからこそ、僕はしっかりと捕まえておきたいのに──あれができないことが、情けない負い目に思えてくる。
 千羽ちゃんの前では咲っていても、そんなことをぐちゃぐちゃ考えていたある夜、僕はついに感電して悪い夢を見た。これは夢だ、と認識できなくて、何人もの手が服を破られた僕の肌を駆けまわる感触を生々しく感じた。
 うつぶせていると、ぐしゃっと髪をつかまれ、口をこじ開けられる。臭う陰毛の中の性器が呼吸を塞いで、勃起してくる性器は傷つけるように喉を突き上げる。舐めろ。吸え。歯を立てるな。命令が耳に刺さって、言われるままになる。縮れた陰毛が鼻をかする。
 右手も左手も誰かに握られ、熱いものにあてられ、そのうごめく脈打ちをこする速さは加速していく。うめき声、熱っぽい息、低い喘ぎ。
 えづきながらくわえていた性器が、大きく反り返ったかと思うと、口の中でびちゃっと爆ぜた。青臭い精液が、どろどろと喉の奥まで垂れる。吐き出したくても、もう胃に流れてしまって、ただ拒否反応みたいに息が痙攣する。
 がくっと頭を折って身を倒したら、右手か左手か、どっちかが離れてすぐに背後を抱かれた。腰に硬く腫れた性器を押しつけられる。やだ。もうやだ。やめて。そんなかぼそい声は、唇の端から精液と流れる唾液の泡くらいにしかならない。指が肛門を探り当てる。
 また……また、される。何で。どうして。僕は女じゃない、人形じゃない、便器じゃない。
 穴にたっぷり唾を吐かれて、ぬるりと熱いものが軆に入りこんでくる。先端が入ると、それはそのまま乱暴に一気に僕を引き裂く。根元まで突き立てられ、下腹部までが圧迫される。
 泣きたい。泣きそう。なのに、泣けない。泣いたら、泣くほど感じてるとか言われる。
 体内の性器のかたちが、嫌でも頭にイメージされて、口の中は胃液で酸っぱい。どんどん腰が激しく動いて、張り裂けそうに痛くて、誰も助けてくれないのが怖くて、快感に酔ってもれる声が気持ち悪くて、そしたらまた口の中に性器が──
 はっと目が覚めたとき、まだ僕は現実が分からなくて、ひどく震えていて、起き上がってすくみあがって暗闇の部屋を見まわした。どこ。みんなは。帰ったのか。ぽろぽろと涙がこぼれる。頭がぐらぐらして痛くて、息が切れ切れだ。
 どうしよう。戻ってきたら。逃げなきゃ。早く逃げなきゃ。なのに、腰が重くてだるくて動けない。戻ってくる、すぐにみんな戻ってくる! そしてまた、僕をめちゃくちゃに──恐怖がふくれあがった瞬間、僕はわっと泣き出してしまった。
 がちゃっと部屋のドアが開いた。僕はただ、首を左右に振りまくることしかできない。でも、聞こえたのはいやらしい男の声ではなく──
「萌梨くんっ」
 僕ははらはらと落ちる涙に頬を濡らしながら顔を上げた。揺れる視界で誰かが駆け寄ってくる。
「萌梨くん。落ち着いて、大丈夫だよ」
 柔らかな声でそう言われたかと思うと、そっと、本当にそっと肩を抱かれて、なぐさめるようにさすられた。憶えのある、やすらかな匂いがした。僕は無意識のその人の服をつかんでいた。
「夢見たの?」
 夢……。
 あ、と思った瞬間、僕はその人が誰だか分かった。
 そう、僕をいつも守ってくれる人。誰より分かってくれる人──
「聖樹、さん……」
「眠れなかった?」
 目をこすりながら小さく首を振って、「夢です」と言った。言ったあと、自分が混乱しているのが分かった。わけが分からなくなると、僕は昔のように聖樹さんに敬語が出てしまう。
「そっか。大丈夫、もうそれは、昔の夢だからね」
「……はい」
「今は僕や悠紗と暮らしてる。ちゃんと、そんな場所とは縁を切って暮らしてる」
「はい」
「学校も頑張ってる。彼女だってできたんだよ」
 彼女──。その事実に、ぎゅうっと胸がひずんで苦しくなった。最低だ。僕は最低だ。あの夢の原因は、きっと千羽ちゃんとつきあっていることから来る不安なのだ。千羽ちゃんは何も悪くない。ただ、僕はさすがに弱すぎる。
 涙で湿らせた聖樹さんの胸から顔を上げた。涙は止まらない。
「聖樹さん……」
「ん?」
「僕も……僕も、やっぱり、同じです」
「え」
「聖樹さんが、無理だったみたいに。僕も……」
 一瞬、聖樹さんの慰撫が止まった。でも、すぐにその手は頭を撫でてくれる。
「萌梨くんと千羽ちゃんは、僕とあの人とは違うよ。ちゃんと、萌梨くんは千羽ちゃんのこと好きでしょう?」
「好き……千羽ちゃんが、好きですけど。けど……できないんです」
「えっ」
「好き、なのに。何もしてあげられないんです」
「……しようと、したの? その──」
「してない、ですけど。やっぱり、してあげるのが男なんだろうなって。そう考えるとすごく重荷で、気持ち悪くて。千羽ちゃんが重いんじゃなくて、男の役割がすごく嫌なんです。こんな僕は、やっぱり、もう男じゃないんです。ちゃんとした男じゃないんです」
「萌梨くん……」
「何で、こんな……夢とか、ほんとに分からないです。あんなの、何でまたしなきゃいけないんですか。あんなの汚れてます。汚い。でも、そう思う僕は、男として間違ってるんです」
「………、」
「こんなに頭に焼きついてて、吐きたくなって。それがもう、嫌です。つらいです。せっかく好きな女の子ができたのに、思ってた通りです。好きな人にも、僕は男になれない。あんなことされてたせいです。あんなのなければよかった。そしたら千羽ちゃんを幸せにできた。千羽ちゃんを満足させられた。けど、あんなのされたから、僕はちゃんと恋愛もできないんです。あのことが、僕から千羽ちゃんを奪うんです。どうすればいいんですか。千羽ちゃんを失くしたくないです。でも、僕は男として、千羽ちゃんを引き止めることができない……」
 聖樹さんは何も言わなかった。僕も何も言われたくなかった。ただただ、あの体験を呪う言葉を吐いた。聖樹さんは、優しく僕の頭を撫でて、嗚咽を受け入れて、朝まで僕のそばにいてくれた。
 千羽ちゃんなら、分かってくれる。僕はそう分かっているし、聖樹さんもその場凌ぎにそう言いたかっただろう。でも、聖樹さんは言わなかった。実際、だからといって落ち着く感情ではなかった。あまりにも苦しかった。あの記憶が、僕から恋を掠奪する。幸せな、円満な、当たり前の恋を取り上げる。それほどまでに、あの体験が自分に根差している現実が、土足で心を踏み躙った。
 分かってくれる。けれど、それに甘えていたら、失うかもしれないのだ。だって、ほかにいくらでも健康な男はいる。こんな、壊れ物の僕なんか、いつまでもつきあってくれるわけがない。僕が変わらなければ。できるようにならなくては。傷を治さなくては。でも、そんな焦りは、かえって傷をえぐって広げて、僕を自分の底に突き落とした。
 その夜から鬱っぽくなってきた僕に、千羽ちゃんは心配そうに顔を窺ってきた。無意識にあんまり目も合わせていない自分に気づき、僕は慌てて千羽ちゃんの目を見る。そんな些細な所作が、かえって千羽ちゃんを傷つけた。
 千羽ちゃんも、いろいろあったから敏感な感覚を持っている。取り繕ったところで、ばれてしまう。僕はいっそう、せめて自然に振る舞わなくてはと焦燥にさいなまれた。千羽ちゃんを哀しませる男にはなりたくなかった。満たしてあげられる男になりたかった。でも、僕には女の子にそそぐ男としての何かが決定的に乾涸びていて、ただ、すべてを終わらせてしまう「ごめん」という言葉を飲みこんだ。

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