千羽鶴に祈りをこめて
千羽ちゃんの家は、ニュータウンといった感じの中の一軒家だった。門の手前のドアフォンを千羽ちゃんが押すと、聞き憶えのある女の人の声がした。「帰ってきたよ」と千羽ちゃんが言うと、『はいはい、開けるからね』とドアフォンが途切れる。
僕は千羽ちゃんを見た。千羽ちゃんも僕をうなずき、僕たちは門扉を抜けて階段を登った。そして茶色のドアがあり、僕たちが何となく手はほどいておいたところでドアが開く。
「おかえりなさい、ちーちゃん」
ちーちゃん。僕がまばたきをすると、「おかあさんっ」と千羽ちゃんが見たことのない幼さでじたばたした。
「あ、彼氏の前では『千羽』だったね。ごめんごめん」
「もう遅いよっ」
「え、えと、ちーちゃん……」
僕がしどろもどろに言うと、「千羽っ」と千羽ちゃんは頬を真っ赤にして訂正した。
「……千羽ちゃん」
「あ、いらっしゃい。あら、今日はずいぶんかっこいい。ホストみたい」
「おかあさん、それ褒めてないよ。もうっ、とりあえず家入れて」
「はいはい。あ、萌梨くんもどうぞ」
「あっ。は、はい。ええと、名前……」
「この子が毎日萌梨くんのこと話すからね、憶えちゃった」
仕方なさそうににっこりした女の人は、確かに一度会った千羽ちゃんのおかあさんだった。髪をアップでまとめて、千羽ちゃんより少し細面だった。化粧をしていても、やっぱり何となく、千羽ちゃんに似ている。
「毎日、話してるの?」
僕がきょとんと言うと、千羽ちゃんは「だからずっと萌梨くん連れてこなかったのに」と熱に耐えられないように顔を伏せた。
「ほんと、変なこと言わないって言うから。やっと、連れてくるって約束したのに」
「変なことなんて言ってないでしょ」
「言いまくってるよっ。もういい、萌梨くん、私の部屋行こ」
「え、おとうさん──」
「そう、おとうさん、楽しみに待ってるよ」
「どうせまた変なこと言うもん」
「変なこと言わないように、おかあさんも言うから」
「おかあさんだって変なこと言ってるのに……じゃあ、リビング?」
「たぶんテレビ観てるね」
千羽ちゃんは一気に疲れた様子で息をつき、「ごめん」と僕に言った。僕が首をかしげると、「イメージ壊れたでしょ」と言われる。僕はもちろんかぶりを振った。
「別に、イメージとか、気にしないよ。それで好きになったんじゃないし──」
そこまで言いかけ、はっと僕は真っ赤になった。何を言うのだ。彼女の母親の前で「好き」とか、これも絶対、“変なこと”ではないか。
「まあまあ」と笑うおかあさんに、何だかふたりして頬をほてらせていると、笑い声がした。まさかおとうさんにまで聞かれた、と焦ったけれど、「ずいぶん笑ってるねえ」というおかあさんの様子からして、相手はテレビか何かのようだ。
「テレビ観てるなら、おとうさんはあとでもいい?」
千羽ちゃんが訊くと、「そうしたほうがいいかもね」とおかあさんはうなずいた。思わず内心ほっとしても、まあ、あとで会うことにはなるのか。それでも、ひとまず僕たちは二階の千羽ちゃんの部屋にあがった。
「そういえば、千羽ちゃんは兄弟って」
「いないよ。ひとりっこ」
千羽ちゃんは板張りのドアを開けた。その瞬間から、ふわっとあの優しい匂いがした。全体的に、暖色の部屋だった。ピンクのカーテン、黄色のベッド、木製の本棚、赤いノートPCがあるつくえ。「かわいい部屋だね」と素直に述べると、「部屋だけは乙女っぽくしたくて」と千羽ちゃんは照れ咲いした。
「萌梨くん何か飲む?」
「あ、別に気にしなくて──」
いいよ、と言おうとしたら、千羽ちゃんは床に膝をついて、つくえの下に頭を突っこんでいた。え、と覗きこみにいくと、そこには小さな冷蔵庫があった。「ミルクティーか烏龍茶が冷えてるよ」と言われ、若干臆面しつつも、烏龍茶の五百ミリリットルペットボトルをもらっておくことにする。千羽ちゃんはミルクティーを手にして、僕たちはベッドサイドに並んで座った。断ってペットボトルを開封し、ほてっていた軆に、烏龍茶の冷たく澄んだ苦味を染みこませる。
何となく、会話の糸口が見つからなくて、僕たちはただ飲み物を飲んでいた。居心地が悪いわけではなくても、女の子の部屋の匂いや柔らかさがくすぐったくて、僕はいつも以上に言葉がつかめない。
千羽ちゃんはたまに僕を見た。何度目かに視線を感じたとき、さすがに瞳は重ねた。すると、やっとお互い笑みがこぼれて、「緊張する」と僕がつぶやくと千羽ちゃんもうなずく。
「私も、何かすごいどきどきする」
「自分の部屋なのに」
「好きな人がいる部屋は違うよ。何か……昨日一生懸命掃除したのに。それでも、何か、まだ散らかってる気がする」
「え、すごく綺麗だけど」
「クローゼットの中はひどいから」
僕はまた笑って、烏龍茶を飲んだ。千羽ちゃんもミルクティーを飲み、手首を小さく動かしてふたを閉めた。
「萌梨くん」
「ん」
「萌梨くんは、私とふたりになりたかったんだよね」
「えっ」
「学校で、そう言ってなかった?」
僕はまじろぎ、そういえば、言ったような気もした。「あれは」と千羽ちゃんは手のひらにペッドボトルを包む。
「何か、意味があるの?」
「え、あ──」
「ゆっくりしたいってだけ?」
「……ん、まあ。たぶん」
「たぶん」
「ち……千羽ちゃんは、その、僕を連れてこなかったのって、僕が遠慮してるからじゃなかったんだ」
「それもあるけど。やっぱ、何か恥ずかしいでしょ、あの親」
「そんなことないよ。楽しそう」
「うん、まあ……楽天的ではあるけど。そのぶん、私がイジメに遭ったときとか、おろおろするばっかりだったなあ」
「………、あんまり、好きではない、とか」
「分からない。頼りにはしてないかな」
シビアな答えで、正直驚いてしまった。千羽ちゃんは、両親とはうまくいっていると思っていた。いや、うまくいっているのだろうけど。そのために、千羽ちゃんは若干仮面があるのか。
「萌梨くんと聖樹さん見てると、どんどん自分の家庭が恥ずかしくて。軽蔑されるかなって」
「おかあさん、千羽ちゃんを想ってるように感じたよ」
「うん。けど……それには、何というか、キャパがあるんだよね。キャパ越えると、パニックになる。あの日も、ひたすら萌梨くんに頭下げてたでしょ。堂々と守って、受け止めるくれるってことがないの」
烏龍茶をひと口飲むと、僕もふたを締めた。
「僕も、そうだよ」
「え」
「僕も、男としては欠けてるよ」
「……萌梨くんは、」
「ふたりきりになってね、……しなきゃって。そういうこと、してあげなきゃって。でも、怖くて。気持ち悪くて。千羽ちゃんがじゃない。あの行為が、すごく、気持ち悪い。だから、そういう面で千羽ちゃんを満たせない」
「萌梨くんにとって、それは重要なこと?」
「えっ」
「私は……それは、興味がないわけじゃないけど。そんなのより、萌梨くんが好きだから。同じだよ。それで好きになったんじゃない」
「千羽ちゃん──」
「そういうことをしたくて、萌梨くんとつきあってるんじゃない。そういうことしなきゃって萌梨くんの負担になるなら、」
千羽ちゃんは左薬指のダイヤモンドを引き抜こうとした。僕はとっさにその手に手を重ねて止めてしまう。今まで一番、顔と軆が近づく。
「……負担になるなら、別れようって言い出すくらい、萌梨くんが好き」
僕の瞳が弱く濡れてくる。どうして。どうして、この子は、そんなに不思議な魔法を使うのだろう。
「萌梨くんのそばにいられればいいんだよ」
「……うん」
「しなくていいんだよ」
「ん……」
「私は、そんな萌梨くんを好きになったんだから」
僕はペットボトルを取り落として、千羽ちゃんも取り落とした。ごとっと低い音を立ててペットボトルが床に転がる。僕は千羽ちゃんの肩を抱き寄せ、千羽ちゃんは僕の肩に顔を伏せた。ゆっくり、僕は千羽ちゃんを抱きしめる。ぎゅっと、大切に、壊さないように抱きしめる。
「……ありがとう」
「ん……でもね、思ってはいるの」
「ん?」
「きっと、萌梨くんの子供を持てたら、幸せ」
そう言った千羽ちゃんの首筋は、ほのかに色づく。それを見て、僕は噛みしめるように答える。
「……いつか、いつか僕は乗り越えるから」
「うん」
「あんなの越えてやりたいくらい、僕も、千羽ちゃんが好きだから」
千羽ちゃんも僕にしがみついた。そうだ。いつかは越える。越えてやる。今すぐには無理だけど。千羽ちゃんが好きだから、きっとその愛情が僕を癒して、傷を乗り越えさせてくれる。
千羽ちゃんは傷ごと僕を愛して、理解して、僕のそばにいてくれる子だ。そういう子だから、僕もこんなに好きになった。
「今は、これしかできないけど」
「うん」
「いつか……千羽ちゃんを、」
それ以上は恥ずかしかったから、小さな声で耳打ちした。千羽ちゃんも恥ずかしそうにうなずいた。僕は千羽ちゃんの柔らかな髪に頬を当てた。
「……もう、知ったね」
「え」
「“千羽鶴”の中に、白いつつじの絵があって」
「あ……、意味、分かったんだ」
「うん。すごく綺麗な画像持ってるんだ。あとで、あげるね」
千羽ちゃんがこくんとする。鼓動が重なって、ほっとするほど温かい。他人の体温は大嫌いだった。でも、僕の肌は、千羽ちゃんの温もりを心地よく受け入れている。
僕は羽をむしられた鳥のようだった。でも、今、腕の中に千の羽を持った女の子がいる。ひとりでも多い誰かのために千羽鶴を描く子がいる。
確信になっていく。僕は必ず立ち直れる。だって、そんな女の子と、僕は確かに愛し合っているのだから──。
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