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竦む心

 廊下の向こうから近づいてくる数人の男子生徒が、こちらを見て笑顔になった。僕がびくっとするのと同時に、背後から女の子たちの甲高い笑い声が上がる。そして、「あんたたち来てたんだー」と言いながら、女の子たちは男子生徒に駆け寄って、彼らは僕のことなんか気にもせず談笑しはじめる。
 リュックの肩紐を握り、小さく息をつくと、視線を足元に押し殺してその集団とすれちがった。
 バカ、だ。本当に、こんなのバカみたいだ。ただの自意識過剰ではないか。情けなくて、恥ずかしくて、自分が嫌になる。
 でも、どうしても消えてくれない。近づく気配が怖い。無邪気な笑顔が気持ち悪い。だって、そういう人たちは、いつだって僕を精液で辱めた。
 男のすべてがあんな劣情でのしかかってくることがないのは、頭では理解したつもりだった。だから、僕は高校に通学することを始めたのに──結局、僕はびくびくと校舎に踏みこみ、そそくさと廊下を早足で抜け、教室の隅でノートを取り、とっとと帰宅して、友達のひとりも作れていない。
 女の子の友達なんて考えられない。だから、男友達をと思っても、どうしても男は避けてしまう。席に着いて始業を待っていて、隣や背後に男の生徒が来るとパニックで硬直してしまう。ありえないのに。肩に手をかけられるなんて。ありえないのに。耳元で「放課後残れよ」と言われるなんて。ありえないのに。服を脱がされ、あんなこと──
 ありえないのに。
 それでも、恐怖が生々しく神経を這って、僕をひとりぼっちにさせる。
 仲の良さそうなふたり組や、にぎやかなグループとすれちがうと、どうやって仲良くなるんだろう、といくら教科書をめくっても答えのない疑問が湧く。そういえば、僕は友達なんて持ったことがない。一応、沙霧やあの四人も友達なのだけど、みんなあいだに聖樹さんがいた。僕は自力で友達を持ったことがない。どうやってみんながつながりを持つのか、僕には分からなかった。
 いきなり話しかけるなんて無理すぎるし、とか思いながら電車を乗り継いで、いつもの街に帰ってくる。時刻は十七時をまわっていて、聖樹さんの帰宅と変わらないくらいだ。それでも、日は長くなってまだ少し空にはオレンジ色が残っている。電車の中で聖樹さんにメールで買い物はないかと訊いていて、ケータイを開くとその返事が来ていた。
『学校お疲れ様。頑張ってるね。
 今夜はロールキャベツだから、その材料をお願いします。』
 ぱたんとケータイを閉じると、商店街に寄り道してキャベツやミンチを買いこんだ。
 マンションへの途中でケータイが鳴ったので見てみると、梨羽さんが白いつつじの写メを、いつも通り件名も本文もなしに送ってきていた。そういえば、もうすっかり葉桜で、つつじの時期だ。白いつつじ。白いカーネーションの花言葉は知っているけど、と思って『花言葉は何ですか?』と返信を打っているとマンションに着いていた。
「ただいまー」
 昔はそう声をかけると、返事どころか悠紗は必ず駆けつけていたものだけど。ギターの音も聞こえるし、あの子も十歳だしなあ、といつまでも幼くはないのは分かっている。学校の荷物は部屋に置いて、僕がキッチンでごそごそしていて鉢合わせて初めて、「おかえりー」とやっと悠紗は声をかけてくれる。
「ん、ただいま」
「腹減った。何か食う」
「ごはん作るよ」
「今空いてんだもん。何か買ってこなかった?」
「すぐ作るから待っ──」
 そこでケータイが鳴って、僕はパーカーのポケットからケータイを取り出した。その隙に悠紗がふくろを漁り、「チョコチップクッキーゲット」とさっそく箱を開いてしまった。
 ほんとあのふたりに似たなあ、と思いつつ画面を見てどきりとする。まさにその葉月さんからだったからだ。
『例によって代理お返事。』
 梨羽さんはメールが嫌いらしいので、文章はいつも葉月さんか要さんに送ってもらう。
『白つつじの花言葉は「初恋」だってさ。
 いいねー、初恋。
 甘酸っぱいねと梨羽さんに言ったら、写メ削除してました。』
 初恋。自分で訊いておいて、頬が熱くなった。まさかそんな言葉だとは。友達すら作れない僕に、初恋なんてとうぶん訪れないのに。
 僕が画面を見つめるまま固まっていると、「何?」とチョコの甘い香りをかじる悠紗が首をかたむけ、長い髪を流す。
「えっ、あ──ううん。って、それは夜に聖樹さんと食べようと」
「とうさんも三十近いんだし、糖分ひかえたほうがいいんだよ。で、夕飯は何?」
「ロールキャベツ」
「中の肉にしか用がないなあ」
「ケチャップかければおいしいよ。ああ、クッキーのかけらこぼすなら、すぐ掃除できるようにリビングでテーブルに落として」
「萌梨くんって、とうさんに似てきた」
 言いながらも、リビングに行ってくれる素直さはまだある。僕は夕食の支度を始めて、そうこうしていると聖樹さんが帰宅し、応援に入ってくれる。
 悠紗は、何だかんだ言っても聖樹さんや僕の料理を旺盛に食べてくれる。そして、シャワーを浴びたりと用事を済ますと、眠くなるまでのゲームを始める。聖樹さんと僕は、それを眺めながらいつもお茶を飲む。
「ごめん、おやつ買ってきてって頼むの忘れたね」
 そう言いながら聖樹さんは香ばしい紅茶を座卓に置いて、僕は首を振る。
「クッキー買ってきてたんだけど、その──」
「……悠?」
「何でもまず俺のせいにしないでよ。あ、ミスった」
 格闘ゲームだからか、悠紗は乱暴なくらいにボタンを連打している。
「違うの?」
 眼鏡をかけていない聖樹さんは、僕に首をかしげて髪を揺らし、「悠紗だね」と僕は紅茶に口をつける。聖樹さんはため息をつき、腰をおろした。
「そういえば、萌梨くんは今日も学校だったんだっけ」
「うん。乗り継ぎ憶えてきた」
「そっか。順調ではあるんだ」
「どう、なのかな。勉強は嫌じゃない。ずっと、集中してできなかったことだから、やってて楽しいよ。ただ……」
 僕がうつむくと、聖樹さんは持ち上げかけたカップを座卓に置く。「別に」と僕は若干悠紗を気にしつつも、悠紗も承知している事情なので正直に話した。
「何も、ないんだけどね」
「……うん」
「何もないのに、ダメなんだ」
「『ダメ』」
「友達とかが、分からない。いらないわけじゃないし、えり好みしてるつもりもない。ただ、人と話す切っかけが分からない。みんな、どうやってあんなふうに仲良くなってるのかが分からない」
 聖樹さんは伏し目になり、紅茶をひと口すする。
「それに」
「うん」
「やっぱり、その、何で分からないのかって、あのことだと思うし。怖くて。特に、その、男が」
「……うん」
「すれちがうだけでも怖いのに。そんな人いないんだけど、仮に誰か話しかけてくれても、僕はきっと怖くて。びくびくして、その人に嫌な気持ちを味わわせるんだ。仕方ないのかな、と思っても、みんなが友達といるのを見ると、遠いなあ、違うんだなあって」
「疎外感?」
「うん。むずかしいね。人が怖いのに、友達は憧れる。聖樹さんと梨羽さんたちとか、うらやましいな」
 聖樹さんはちょっと咲って、音を抑えてカップを置く。悠紗は相変わらずボタンを連打している。
「僕はずいぶんラッキーだったんだよね。梨羽に拾ってもらえた」
「………、最近になっての友達っている?」
「いない、かなあ。飲みにも行けないし、無理に連れていかれても烏龍茶だし。ノリが悪いとは言われる」
「よく話す人もいないの」
「うーん、同じプロジェクトに入って、よく話すようになる人はいるけど。プロジェクトを達成すれば、特に接点もなくなるかな」
「そっか」
「でも、実際話すようになるんだから、切っかけは起きてるんだ。僕は生かしてないだけだよ」
「生かそうと思わないの」
「うん……もう、新しく人間関係築くのも億劫な歳になっちゃったしね。でも、萌梨くんは若いから」
「若いかな」
「若いよ。十九になったばっかりの人が」
「十代も最後だよ」
「最後だろうと十代でしょ。萌梨くんは若いの、だから……そうだね、切っかけがあればすぐだよ」
「切っかけ、って、たとえば?」
「なるべく行事とかには参加してみたら? 同じチームになったりしたら、話すようになるかもしれないよ」
「……行事」
 どんよりとつぶやくと、聖樹さんは含み咲う。
「まあ、団体行動は憂鬱かもしれないけど。その団体行動が切っかけになることもあるよ」
「そう、かなあ」
「あとは、部活に入ってみるとかじゃないかな」
「部活、も……貼り紙見たことはあるんだけど」
「興味湧かなかった?」
「……うん」
「そっか。まあ、どうしてもそういう──疎外感が重荷になってきたら、休んでもいいし。勉強にのめりこんできたら、気にならなくなるかもしれないよ。そういう、ひとりでやってる子だっているんじゃない?」
「ん、いる。すごいよね。ひとりでもあんなに毅然として」
「そういう子たちは、きっと自分のペースを分かってるんだと思うよ。萌梨くんも、自分の気分に合わせていいんだよ」
 僕はこくんとして、紅茶を飲んだ。澄んだ苦みの中に、いつもの量の甘みが溶けこんでいる。
「聖樹さん」
「ん」
「聖樹さんは、もう、恋愛とか、しないの」
「えっ」
 まばたいた聖樹さんに、僕は慌てて白いつつじと梨羽さんの話をした。唐突な質問に聖樹さんはそれで納得したようで、「初恋か」と聖樹さんは深くため息をつく。
「僕は、どうなんだろうね。友人関係以上に、面倒だなって思う」
「面倒」
「僕だって、初恋、まだかもしれないのにね」
 僕は聖樹さんの表情に映った愁いを見つめ、カップのそばの自分の手の甲に目を落とす。
「でも、恋愛は悪いことじゃないし。僕は萌梨くんにはきちんとしてほしいな、初恋」
「えっ、あ……無理、だよ」
「どうして?」
「……嫌だよ、僕みたいな弱い男。女の子から見たら、煮え切らないと思う」
「そうかな。いざってときには勇気あるよ、萌梨くん。だから、僕たちは、こうしてるんじゃないかな」
 聖樹さんは僕の頭をぽんぽんとして、僕はちょっと決まり悪く紅茶を飲む。
 それは、そうだけど。修学旅行の途中にホテルを脱走して、他人の家に雲隠れなんて、今思えばすごいことをやったけど。それは、それほど僕が追いつめられていたからで──追いつめられないと、何も始まらないなら、今の平和な生活のほうを大事にしたい。
 そのとき、悠紗が負けたらしく、コントローラーを投げて「くそっ」とかつぶやいた。せめて言葉遣いはと聖樹さんが注意を入れ、僕はくすくすと咲ってしまった。

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