1000 colors-5

雨の放課後

 そうしていると、カレンダーは六月に入って梅雨が始まった。十三日の金曜日がある月だったから、XENONが嵐のように帰ってきてEPILEPSYを行ない、またみんな旅立っていった。そのあと、雨がいよいよ毎日続くようになった。
 雨の匂いに土の匂いが混ざり、景色に銀色の筋が走る。夏の気配で蒸しているから着替えが増えるのに、洗濯物はよく乾かず溜まっていく。ざあざあという雨音は、記憶が壊れたときの雑音に似ていて気重になるから、雨の日はあんまり学校に行きたくない。それでも、その日は最低出席回数が多い美術の授業があったから、僕は水色の傘をさして登校した。
 美術の先生は、男だけど嫌いじゃない。年配の先生で、「まあゆっくりしなさい」が口癖だ。明かりが灯る教室を見まわすと、さすが通信制高校で、十代の生徒だけでなく、二十代くらいの人からおばあちゃんまでさまざまな人がいる。美術の授業は、あんまり騒がしい人がいないのもいい。騒ぐ人は、芸術科目でも、音楽や声楽を取るのかもしれない。
 今日の課題はデッサンだった。何でも好きなものを描いていいと言われて、こういうとき優柔不断は困る。ケータイにある画像描くかなあ、と思っても梨羽さんは本当に綺麗に撮るから何だかむずかしい。
 周りの人が描きはじめていく中で焦っていると、「綺麗に撮るなあ」と声がかかって顔を上げる。先生が僕の手の中の夜景の画像を覗きこんでいる。
「いや、インターネットで探したとかか」
「あ、友達が撮って送ってくれるんです。その、全国まわってる友達なんで」
「ほう、すごいな。いや、でも先生も若い頃にオートバイで日本縦断したぞ」
「え、すごい」
「はは。今は自慢話にしてるが、実は、ただ何もしたいことがなくてなあ」
 先生は遠い目になって、そのあと白い画用紙をしめした。
「こんな状態だったんだよ」
「真っ白?」
「そう。でも、ちゃんと描きたいものは見つかる。まあゆっくりしなさい。まだ見つからなかったら、適当に卒業生が置いていったそのへんの焼き物でも描けば、白紙よりは点数になるぞ」
 ちょっと咲ってしまって僕がうなずくと、先生も笑ってほかの生徒の指導に行った。そんなわけで、僕は誰かが作った湯呑みを借りて、それを描くことにした。
 僕は何でもまじめにやってしまう。適当に一時間で仕上げてしまう人もいる中、僕は凹凸の陰影に時間がかかってしまい、気づいたら二時間の授業が終わっていた。それでも終わっていなくて、キリもあんまりよくないのだけど。確か、美術は次の授業もデッサンだし、それでも終わらなければ宿題にすればいいだろう。
 そう思って片づけようとしたとき、のんびりと教卓の前に戻る先生が通る声で言った。
「次の授業がある人はちょっと急げー。ない人で続けたい人は、もうこの教室は空いてるから、自由に続けていいぞ」
 その言葉を聞いているのかどうか、まだ黙々と描いている人が何人かいる。
 僕は窓の向こうの雨を見て、夕方からいったん雨がやむという天気予報を思い出した。やまないまでも、小降りになって帰ったほうがいいかもしれない。余計な洗濯物で悠紗を困らせたくないし、と僕はもともと続けたかったデッサンを再開することにした。
 それから、どのぐらい経っただろう。納得してみんな帰っていき、準備室でお茶を飲んでいたらしい先生が、マグカップを手にするまま戻ってきて、「ふたりとも頑張るなあ」と大笑いした。
 え、と顔を上げたのと同時に、同じく顔を上げた生徒が後ろのほうの席にいた。
 女の子だった。僕と年齢は変わりそうになく、茶色のウェーヴのセミロングにちょっと垂れ目の女の子だ。肌が白いので、茶髪もそんなにけばけばしく見えない。
「今、ちょうど雨がやんでるけど、まだ頑張るか? さすがに十九時には締めなきゃならんのだけどな」
 時計を見ると十八時もまわっていた。夕飯、と僕は蒼ざめてケータイを取り出す。何も着信はないけど、聖樹さんに今日は遅くなるとメールしておかないと、買い物が入れ違いになってしまうかもしれない。
「あ、じゃあ、私は帰ります」
 女の子がしずしずとそう言って、「そうしないと、おかあさんも心配するな」と先生はうなずく。
「鈴城くんはどうする?」
「えっ、あ──ど、どうしましょう」
 意味不明に問い返す僕に先生が笑って、席を立っていた女の子もちょっと噴き出した。僕はつい頬を染めてしまう。
「そうだな、また降り出すかもしれないから、切り上げたほうがいいかもしれんぞ」
「そ、そうですね」
「もちろん、残っても構わないがな」
「あー……、でも、仕上がってないんです」
「次の授業は来れそうか? 確か次もデッサンで──えーと、次のこの科目はいつだったかな……」
「あ、次は来週の火曜日の三、四時間目です……けど」
 日程表が貼られた黒板に歩み寄ろうとした先生に、女の子がそろそろと言う。
「お、そうか。どうだ、何か用事でもあるか」
「ない、と思います。じゃあ、火曜日に来ますね」
「そうだな。無理なら無理でいいんだぞ。空いてる放課後に来て、まあゆっくりしなさい」
 うなずいて、教卓に描きかけのデッサンを預けようとした。そのときちょうど女の子も教卓に来て、何となく、「どうぞ」とか言ってしまう。女の子も女の子で、「どうも」と小さく言って、するりと画用紙を教卓に置いた。僕はそれに画用紙を重ねようとして──ちょっと手が止まった。
 くまのマスコットのデッサンだったのだけど、そのふかふかした手触りも感じられるほど、すごくうまかったのだ。女の子は席に戻り、荷物を片づけてはじめている。何かみんな取り柄があるんだなあ、と何もない自分を情けなく思っても、先生の真っ白い画用紙の話を思い出して気を取り直し、僕も荷物をまとめた。
「おかあさんは元気にしてるか」
「あ、はい。パートも再開しました」
「そうか。おかあさんも、ずいぶん君を心配してたからなあ──」
 何やら先生と女の子が話しこみはじめたので、僕は「失礼します」と先に頭を下げた。「ゆっくりなー」と言われて、ほんとに口癖だなあと笑いを噛みながら廊下に出る。
 五月はこの時間帯なら明るかったのに、雨雲で薄暗いせいか廊下も明かりがついている。むしむししているのに冷たい窓にもたれて、ひとまず聖樹さんにメールを打った。
 悠紗にももちろん伝えておく。まだあの町に越してきたばかりで、僕が道に迷って遅く帰宅したとき、「何でメールしないんだよ」と泣きそうな顔で怒られた。聖樹さんがたしなめようとしたけど、悠紗は僕の腕をつかんで揺すぶった。
「萌梨くんはもう何にもされちゃいけないんだよ。そのために俺たちといるのに、それでも萌梨くんは優しいから……つけこまれてたらって、何にも言われないと怖いんだよ!」
 特に学校という場を信じていない悠紗だから、下校が遅いとまた不安にさせてしまう。そういうとこは変わらないなあ、とメールを二通送信しおわったところで、がらっとドアをすべらせる音がした。
「……あ、」
 僕が声をもらすと、その子は伏せていた顔を上げて同じ声をもらした。薄い紫のカットソーに、デニムのロングスカートをはいた、さっきの女の子だ。一瞬とまどったけど、一応、頭を下げておく。するとその子も軽く頭を下げ、その拍子にかばんにつけていたマスコットが揺れて、僕はしばたく。
「それ──」
 それは茶色のくまのマスコットで、さっきのデッサンのモデルらしかった。女の子は首をかたむけ、僕の視線をたどってくまに触れる。その指の細さにちょっとびっくりした。
「このキャラ、知ってるんですか?」
「えっ、あ、いえ、その……」
 変にどもることしかできない。どうしよう。女の子としゃべるなんて、僕はろくにしたことがない。僕が困っているのを察したのか、女の子は申し訳なさそうに咲った。
「すみません、男の人が知ってるわけないですよね」
 男の人。何だか変な感じがした。僕はそう言われるほど大人でもないのだけど。
「描いて、ましたね」
「え」
「デッサンに。その、くま」
「えっ、な、何で」
「すみません、自分の提出するときに見えちゃって」
「あ……そっか。何か、すみません」
「え、何でですか」
「だって、あんまり上手じゃないし」
「すごく上手でしたよ。僕のほうが、何か、下手というか、変というか」
 女の子は睫毛をぱちぱちとさせて、その反応に、僕は相変わらずの自嘲癖に嫌になる。「すみません」とだけ言って、ちょっと沈黙が流れたあと、女の子は立ち去るのではなく、僕の隣に並んで窓にもたれた。
「ほんとに、あのデッサンはうまくいかなかったんです」
 言いながら、女の子はかばんからケータイを取り出す。
「私、ひとりじゃないとダメで」
「ひとり」
「周りに誰かいると、集中できなくて──あ、これ、同じ子」
 かちかちと操作したケータイを女の子はさしだす。
「このキャラです。このマスコットじゃなくて、部屋にあるぬいぐるみですけど」
 僕はちょっと躊躇ったものの、小さな画面を覗きこめるよう女の子に近づいた。優しい匂いがした。近くで見ると、黒い睫毛がすごく長くて、柔らかく化粧もしている。それにどぎまぎしながらも画面を見て、僕は目を開いた。
 さっきのくまより、さらにふんわりとした風合いの、色もついたくまのぬいぐるみがいた。かち、とボタンを押されると、次は麦わら帽子をかぶった幼い女の子の絵が現れた。その次は雪うさぎ、花びらが浮いた水面、盛られたクッキー──僕があんまり見入って、「すごい……」ばかりつぶやいていたせいか、女の子は照れてしまってケータイを引っこめた。
「全部、その、描いたんですか」
「はい。部屋でなら、落ち着いてネットでさらせるくらいのは描けるんですけど」
「え、あれ、写メじゃなくて──」
「ケータイサイトです。“千羽鶴”っていう。ぜんぜんアクセス少ない、弱小ですけど」
「千羽鶴」
「何か、私の絵で心が癒される人がいるといいなあ、っていうのと、その……ただの名前です」
「名前」
「私、千羽ちわって言うんです。千の羽って書いて」
 千の羽。……羽。僕の脳裏が記憶に痛み、梨羽さんの苦しげな歌声が聞こえた気がした。

  俺は羽を失くした
  みんな羽ばたいていくのに
  何度も堕ちてしまう
  飛べない俺は風に救われず
  このままひとり
  泥まみれで置き去りにされる──

「僕、は……一枚も、羽がない……」
「え?」
「あっ、何でもな──」
 そのとき、またドアの開く音がした。はっと僕たちはそちらを見た。もちろん犯人は教科書を抱えた先生で、でも、先生は僕たちを見ても何も突っ込まず、ただ「また降り出すぞー」と言って階段へと歩き出した。
 僕と彼女は顔を合わせ、「帰りましょうか」と彼女が言ったので僕はうなずいた。
「帰り、電車ですか」
「あ、私は今日は歩いて。天気がよかったら自転車で」
「近くなんですね」
「近く、はないけど、自転車でも来れます」
 のんびり歩く先生の後ろでそんな話をしながら、僕たちは並んで一階に降りた。「気をつけて帰るんだぞー」と言った先生と別れて、僕たちは校舎を出る。

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