花言葉
空では灰色の雲が動き、雨の匂いと湿気がまだ濃い。明かりのついている教室はあっても、今、階段や自販機の前やグラウンドに、見当たる生徒はいない。
僕は十九、彼女は十七だとか、当たり障りなく話す。校門まで、五十歩もない。
どうしよう。なぜそう思うのか分からなくても、どうしよう──そう、このまま別れて、そのまま終わって、もう話せないのは、……何となく、寂しい。もっと、話したかったのに──僕と彼女は、けっこう車が行き交う車道に面した校門で立ち止まって、挨拶の雰囲気になってしまう。
「電車なら、駅は向こうだから……あ、私は、逆ですね」
彼女はそう言って、僕が向かうべき歩道を見やる。僕はリュックの肩紐を握った。
「じゃあ──」
「あ、あの」
「はい?」
「さっきの、サイトなんですよね」
「あ、はい」
「ゆ、URLとか」
彼女は睫毛をぱたぱたとさせて、「あ」と急に狼狽えた表情を見せる。僕は慌てて継ぎ足した。
「嫌なら、ぜんぜんっ──」
「い、嫌というか。その……えっと、じゃあ、ひとつお願いが」
「え、はい」
「……に、日記は……見ないでください」
「日記」
「あとは、掲示板とかはないんで、構わないんですけど。日記は、その、愚痴みたいで恥ずかしいので」
本当に恥ずかしいのか、化粧しているのに分かるくらい頬を紅潮させる彼女に、「分かりました」と僕はちょっと咲った。
「絵だけ、そっと見ます」
「はい。じゃあ──メルアド交換とかいいですか。URL送るので」
もちろんうなずき、彼女とメルアドを交換した。メルアドが個人的に増えるのは、初めてかもしれない。彼女は“千羽鶴”のURLを送ってくれて、イラスト置き場を教えてくれた。その下の“日常”というリンクが日記かを確認しておくと、彼女はうなずき、何か言いたそうにしてもこらえる。もちろん、念を押したいのだろう。「見ないから」と約束すると、彼女はこくんとしてケータイを閉じた。
「来週の火曜日、美術出るんですか」
「あ、僕は出ないと。仕上がってないんで」
「そう、ですか。私も、まだ毛並みとか描いてないから。来るので」
彼女を見た。彼女はちょっとうつむいて、湿った風に髪が揺れて、優しい香りがただよった。僕は躊躇したものの、「じゃあ」と思い切って言ってみた。
「見かけたら、話しかけていいですか」
彼女はうつむくままこっくりとした。その途端、僕の中にじわりと安堵が広がった。
話せる。またこの子と話せる。
「あ」と彼女は急に僕を見上げた。
「名前、を」
「えっ」
「名前を、聞いていないので」
「あっ──その、鈴城、……萌梨、です」
「スズシロ……モエリ、くん」
「……変な名前だよね」
「ううん。じゃあ、その──萌梨くん?」
「僕は、千羽ちゃん……でいいのかな」
「うん」
僕たちはそっと瞳を絡めて、ちょっとだけ咲い合った。こんな薄暗い天気なのに、妙におもはゆかった。「じゃあ」と彼女──千羽ちゃんが身を返しても、もう寂しくなかった。
その背中を見送り、千羽ちゃんは、二回くらい振り返って手を振ってくれた。その背中が見えなくなると、僕もようやく帰途についた。
家に着いたのは十九時半くらいだった。すでに聖樹さんからも悠紗からも返信をもらっていた。聖樹さんは悠紗に夕食の買い出しを頼んだそうで、玄関のドアを開けると料理のいい匂いがして、僕は一気に空腹を覚えた。
「ただいまー」
そう声をかけると、悠紗が部屋からちょこっと顔を出して、聖樹さんも迎えてくれた。
「おかえり。雨、大丈夫だった?」
「うん。でも、もう降りそうだよ」
「とうさん、やっぱ乾燥機買おうよ」
「そうしたほうがいいのかなあ。さすがに梅雨は考えるね」
「あと、冬もね。萌梨くん、指真っ赤にしてるし」
「い、いいよ、あれくらい」
「……検討しとく」
「やったっ。あ、萌梨くん、明日学校休んでね」
「え、まあ、いいけど」
「わあい」と言ったきり悠紗は部屋は引っこんでしまったので、聖樹さんを見上げると、柔らかそうな前髪の奥で聖樹さんは苦笑する。
「こないだみんなが帰ってきたとき、例の新曲取得したから、さすがにスタジオ行きたいみたいでね。付き添ってやって」
「ああ──。悠紗、覚えるのがどんどん早くなっていくね」
「ほんと。いつあの四人にサポーターとして持っていかれるか」
「悠紗は行きたいんだよね」
「うん。だから、止めるつもりはないけど」
「少し、寂しいね」
そう言って、僕はふと千羽ちゃんのことを思い出した。寂しい。何でだろう。悠紗がいなくなることにそう感じるのは、自分でもよく分かる。けれど、どうして、あの子にも突然そんな感情が芽生えたのだろう。
僕はスニーカーを脱いで、聖樹さんを見上げる。
「聖樹さん」
「うん?」
聖樹さんの眼鏡のない瞳を見つめた。すごく、信頼している瞳だ。たぶん、今、この世で一番信じている瞳なのに──僕は、無意識に首を振っていた。
「何でもな──」
そこで、昼にお弁当を食べたきりの僕のお腹が鳴った。
「……というか、お腹空いた」
そう言って、顔を赤らめる僕に聖樹さんを噴き出し、「すぐ麻婆豆腐ができるよ」と僕を部屋にうながした。僕はこくんとして、先に廊下を歩き出した聖樹さんを追い、「あとでね」と部屋に入って荷物を下ろした。
明かりをつけて、ライムグリーンのベッドサイドに仰向けになり、何でだろう、と思った。何で、言えなかったのだろう。友達、とまで呼んでいいのかは分からなくても、話したい子ができたというのは事実だ。なのに、何で、聖樹さんに千羽ちゃんのことを、ひと言でも言えなかったのだろう。
僕はケータイを取り出して、電車でお気に入りに登録した“千羽鶴”を改めて覗いた。
僕はケータイサイトはあんまり見ない。XENONのサイトはあるのだけど、あの四人が真っ当に運営するはずがない。リンクすらなく、赤背景と黒文字で、トップページにひたすらライヴ情報だけを載せているだけだ。
“千羽鶴”は背景は白と赤の市松模様で、千代紙っぽい。そこに黒いラインを引いて、サイト名やリンクを見やすくしている。トップページにはこんな言葉があった。
私の描く色彩が
あなたの心を癒し
きっとまた
飛べるように祈って
千羽鶴だもんな、と思っても、どうしても僕に焼きつくあの言葉がよぎる。風切り羽。あのことで、僕が失くしたものだ。今、確かに僕には、聖樹さんも悠紗も、いろんな人がいる。けれど、それでも、僕のそれはしっかりとは癒えていない。
イラスト置き場を覗いていると、タイトルもきちんと上部についていることに気づいた。『ぼくが抱きしめる。』、『春に溶ける。』、『ママの手作り。』──かち、かち、とゆっくり絵をさかのぼっていて、ひとつの絵にはっとした。
『まだ、知らない。』
そんなタイトルがついた、本当に淡い水色で縁取られた白と、その陰と、緑の葉が鮮やかな──白いつつじの絵だった。
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