1000 colors-7

色彩を重ねて

「透明水彩が好きだったの」
 クリアファイルから丁重に画用紙を取り出して、千羽ちゃんはそれを僕にさしだした。赤とオレンジの金魚が、金色の尾を引いて泳いでいる。本物の水のように水色が透けているのを問うと、千羽ちゃんはそう言った。
「透明水彩」
「うん。パレットじゃなくて、紙の上で色を作る絵の具」
「え、紙の上で混ぜるの」
「混ぜる、というか、重ねるの。例えば、まず赤を塗るでしょ。そして、青を塗る。何色だと思う?」
「……紫になるの?」
「そう。そんなふうに、紙の上でイメージする色を作る絵の具」
「この金魚は、上に水色塗って紫になってないけど。薄いから?」
「ううん、乾いたら混ざらないの。だから、ぜんぜん違う色をわざと重ねたりできる」
「むずかしそうだね」
「楽しかったよ。頭の中で、この色の、このくらいの濃さを、重ねたらいいのかなって考えて」
「何かすごい」
 僕は金魚の絵をめくって、二枚目を開いた。濃いほどの青空に、茂る葉の脈が透き通っている。「早くこうなってほしいね」と僕は小雨を見やり、「うん」と千羽ちゃんはウェーヴを揺らして微笑む。
 梅雨は続いている。でも今日の雨は細かく、静かで、頭もかきむしらない。誰もいないと物悲しくはあるけれど、ここは学校でざわめきが散らばっている。僕と千羽ちゃんがいるのは、校舎と体育館のあいだの雨宿りができるスペースだ。周りには、ほかにも雨宿りする人たちが溜まっている。近づく七月に、匂い立つ湿気はじっとりと蒸していた。
 今月の頭、美術の授業のあと初めて話をして、その次の週、美術の授業で僕は千羽ちゃんと再会した。並んで席に着いたから、例のくまのデッサンの出来栄えを見ることができたけど、やっぱりうまいと思った。僕のは──まあ、描けばまず合格にすると先生は言っていた。
 千羽ちゃんにどうしてそんなにデッサンに自信がないのか問うと、「アナログが久しぶりで」と千羽ちゃんは言った。サイトに公開している絵は、全部PCで描いたのだそうだ。手描きをスキャンしたとか思っていた僕は、思わず“千羽鶴”で絵の繊細さを確認してしまった。
 僕たちは、取っている科目がいくつか同じだった。そんな日は、登校を約束して一緒に授業を受けるようになった。そして、こういうスペースで話をした。「昔は手描きだったんだよね」と訊くと、千羽ちゃんはうなずいて、「見てみたい」と僕は言った。「下手だよ」と千羽ちゃんは咲ってはぐらかしていたけど、会話を重ねてすっかり打ち解けた梅雨の終わり頃、千羽ちゃんはこうして何枚か手描きの絵を持ってきてくれた。
 彩られた画用紙をめくって、「この絵は持ってくるか迷った」と苦笑する千羽ちゃんの顎の丸みとか、腕の細さとか、肩の薄さとか、そういうのを感じると、男らしくないと思ってきた自分の軆が、じゅうぶん男だということに気づいた。
 顔立ち自体は母親譲りでまだ中性的かもしれなくても、頬や肩のあどけなさは削れた。筋肉はそんなにあるほうではなくても、やっぱり腕は柔らかくない。華奢だった首もしっかりしてきて、それが全体的な線を男らしく整えていた。
 男か、とちょっとだけ胸の奥が黒く黴びた。あんなに嫌悪していた軆に、僕もなってしまっているのだ。それが何だか気持ち悪い。嫌だとか、子供のままがよかったとかではないけれど──自分が、あの辱めを行なう肉体となっていることに、吐き気を覚える。
 その日は、雨がなかなかやまなくて長く話してしまった。なのに、別れて電車に乗ったら、すぐケータイを確認してしまう。だいたいメールが来ている。千羽ちゃんが家に着くまで、僕たちは短文を交わして、それでも終わらないときは僕が帰宅して電話する。そんな毎日を送っていたら、すぐ七月になって、蝉の声が生まれる夏が始まった。
 すぐ試験期間に入った。レポートはすべて提出して、合格している。試験問題は、そのレポートのどこからか出る──言い換えれば、レポートからしか出さないとどの教科でも言われていた。だから、ひたすら隅すら隅までレポートを読みこんで頭に詰めていたら、ばたんっという音のすぐに「萌梨くーん」と悠紗の声とノックが重なった。
 僕は振り返り、椅子を降りてドアを開けた。悠紗は部屋に首を突っ込み、「無理!」と首を振った。伸びた長い黒髪が跳ねる。
「……どうしたの」
「暑くない?」
「暑い……けど」
「エアコンつけて」
「悠紗の部屋にもついてるでしょ」
「二台使ったら、とうさんが『電気代……』とかぼやくもん。俺、本読んでるだけだからさ。萌梨くんは勉強でつくえいるんだろ」
「ん、まあ」
「じゃ、俺の部屋じゃなくてここのエアコンつけよう」
「リビングでもいいけど」
「リビングより部屋にかけるのが涼しいの。よし、こないだ買った全巻セット持ってくる」
 いったん引っ込もうとした悠紗になびいた艶やかな髪に、僕は何となく声をかけた。
「悠紗」
「ん。……あ、邪魔かな」
「いや、そんなことないけど──その、髪切ったら」
「えっ、やだよっ」
「伸ばしてるのも暑いのかと」
「縛ればよし」
「縛ったら、見た目変わらないよ」
「えっ。そ、そんなことないよっ。かっこいいよ」
 悠紗がかっこいいとか気にするようになったことにしみじみしていると、悠紗は眉を寄せて部屋でなくバスルームに行った。ドアを閉めなかったので、ついていって覗くと、悠紗は右手で髪をひとつに束ねて洗面台の鏡を見ている。そして、突然僕を振り向いた。
「やばい、ちょっと伸ばしすぎかもしれない」
「……うん」
「もしかして、逆に女に見える?」
「まあ……悠紗、目が大きいから」
「どうしよう、春に会ったとき、要くんかっこよかったから平気と思ってたけど。しまった、俺、あんなふうじゃない」
「要さんは、ホストとかやるくらいだし」
「萌梨くん、髪切ってよ」
「えっ」
「萌梨くん、髪切るのうまいじゃん。とうさんのも切ってるし、伸ばす前は俺のも切ってたし。自分のすら切ってるし」
「いいけど。別に、うまいというか、美容院とかが苦手なだけで」
「よし、萌梨くんの部屋で散髪決まりっ。あ、違う、勉強のあとかな」
 そういう遠慮は変わらないところにくすりとしてしまったけれど、「大丈夫だよ」と悠紗にクーラーをつけて部屋で待っておくように言う。「やったっ」と悠紗はぱたぱたと僕の部屋に入っていき、僕は洗面台の下に仕舞っている散髪用のはさみやビニールシートを取り出した。ちょっと鏡を見て、僕も前髪切らなきゃ、とか思いつつ部屋に戻ると、悠紗がいきなりクーラーを全開にして、風音が唸っていた。
「さ、寒くない?」
「涼んだら抑える」
「じゃあ、風で切った髪が飛ぶから、抑えたあとに──」
 そのとき、ケータイが着信を鳴らした。僕は部屋をきょろきょろして、ベッドスタンドにケータイを見つけると開いた。千羽ちゃんだ。
『勉強疲れた~。
 試験怖い~。
 早くお絵描きしたい。』
 少し咲いながら返信する僕を、いつのまにか悠紗が上目遣いで眺めていた。気づいたときにはどきりとして、『今から弟の相手』とは書いたから、すぐ返信しなくても分かってくれるだろうと、僕はケータイを置く。
 悠紗はおもむろにリモコンを取り、ピッ、ピッ、と電子音を立ててエアコンの風圧を下げると、「こないださ」とおもしろくなさそうな口調で言った。
「とうさんが言ってたんだよね」
「え、聖樹さん」
「『今月、萌梨くんの通話料がいつもより高い』って」
 目を開き、とっさにどう言えばいいのか、ただ頬を染めた。何で頬が染まるのかも分からなかった。悠紗は僕の手を引っ張り、正面に座らせる。
「正直に答えてください」
「……はい」
「彼女できたでしょ?」
 ぽかんと悠紗を見た。悠紗は、じっと僕の瞳を睨んでいる。僕は口を開けかけ、ぱくぱくしそうだったのでこらえた。代わりに首を横に振り、アイスを一気に食べたような寒気もある部屋で、軆をかあっと熱くさせた。
「嘘。絶対、嘘だね」
「な、何で。そんな、僕は、そういうのは──」
「今の、明らかに彼女からのメール」
「と、友達だよっ」
「男なの?」
「……女の子だけど」
「萌梨くんに彼女っ」
「違うよっ。そんな、向こうが怒るよ。嫌がるよ」
「何で」
「だ、だって……僕、なんか」
 消え入ってうつむく僕に、悠紗はため息をついてあぐらをかいた。
「別に、揶揄いたいんじゃなくてね」
「……揶揄ってるよ」
「とうさんが、寂しそうだったんだよ」
「え」
「俺も口がすべったんだけどね。『たまに誰かと話してるね』って。とうさん、気づいてなかったみたいでさ。『萌梨くんも、悠も、変わっていくね』って」
「………、」
「俺は、まあ、確かに変わるよ。変わりたい。今はただヒッキー小学生でもさ、絶対XENONのサポーターになって全国まわって、いつか自分のバンドも持つ」
「……うん」
「でも、それは……昔言ったよね。萌梨くんが、とうさんのそばにいてくれるからだよ。萌梨くんがいなかったら、とうさんをひとりにはできない」
 悠紗の真剣な瞳を見つめた。涙が滲みそうに、痛い、刺さる瞳だった。聖樹さんをひとりにはできない。この子は、やはり今でもあの使命感を固く誓っているのだ。そして、その誓いを受け継げる家族として、僕を見染めてくれた。
「僕は、ちゃんと、聖樹さんのそばにいるよ」
 僕がやっとそう言うと、「うん」と悠紗は睫毛を伏せた。
「分かってる。ごめん、萌梨くんを縛るみたいな言い方で。そうじゃないんだよ、萌梨くんは彼女持っていいし、友達持っていい。ただ、そういうの、恥ずかしいかもしれなくても、とうさんにあんまり隠してほしくないんだ。せめて、隠すなら完璧に隠して。通話料抑えるとかさ」
「あ……、」
「親相手だもんね。分かるんだけどさ、何となく。でも、俺だったら友達できたらとうさんに教えるよ。彼女できても伝えるよ。絶対喜んでくれるしさ」
 千羽ちゃんと初めて話した日、聖樹さんに言おうとして言えなかったのが思い返った。僕は、聖樹さんが喜ばないと思ったのだろうか。たぶん、違う。そう、悠紗の言う通りだ。何となく、恥ずかしくて──
「………、彼女、ではない。ほんとに」
「そうなの」
「うん。でも、すごく仲良くしてくれてて……」
 悠紗は僕を見つめていて、その今でも聖樹さん譲りのおっとりした色合いの瞳を見守られながら、僕はゆっくりと悠紗に千羽ちゃんのことを話した。
 美術の授業のときのこと。次の週にちゃんと再会したこと。以来、同じ授業は一緒に受けていること。メールや電話をよく交わしていること。それが一ヶ月くらいの関係になること。それから、彼女は、絵がすごくうまいこと。
 悠紗はうなずく相槌は入れても、あまり言葉ははさまなかった。千羽ちゃんに関して話せることを話すと、僕は窺うように悠紗を見てしまった。考えていた悠紗は、僕の目に気づくとにっとして顔を覗きこんできた。
「俺は、沙霧くんにも言われてるんだ」
「沙霧……?」
「萌梨くんに悪い人がくっつかないようにって」
「……うちは、悠紗が一番の保護者だからね」
「うん! 千羽ちゃんかあ。ふーん。あー、とうさんがすごく喜びそうな話だなあ」
「よ、喜ぶ……かな」
「その子なら喜んでくれるよっ。つか、俺、会ってみたいもん」
 悠紗は音楽の話でもないのに目をきらきらさせていて、そうなのか、と僕は千羽ちゃんを想った。この一風変わった弟のことは、もちろん千羽ちゃんにも話している。悠紗の感覚に千羽ちゃんはくすくす咲って、話が終わっても「また聞かせて」とよく言ってくれる。
「その、千羽ちゃんの絵って、俺は見ちゃダメなのかな。日記は見ないからさ、俺も」
「どうなんだろ。ネットに上げてるから、いいんじゃないかな」
「じゃあ、見てみたいなー」
「URL送ろうか」
「うん」
 僕はケータイを取り、悠紗のケータイに“千羽鶴”のURLを送った。開いた悠紗は、「和風クール!」と喜び、僕が教えたイラスト置場で千羽ちゃんの絵をさかのぼりはじめた。観終わるまで手持ち無沙汰も何なので、僕は悠紗に断って、その艶々した黒髪を切りはじめた。
 切りはじめると、その髪質にもったいないかなと思っても、やっぱり夏はすっきりさせておいたほうがいいだろう。そしてぼんやり、試験終わったら夏休みで千羽ちゃんに会えないなあ、と考え、会えない、という言葉に胸が痛くなった。

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