青氷の祠-11

愛されないように

 夏乃がいなくなり、僕の部屋には平穏が戻った。
 毬音は絵を描いている。ここのところ、茶色の髪を波打たせた人間ばかり血に染めている。左胸に黒い白鳥を持った奴も殺している。
 僕は何も言わずに毬音の排出を鑑賞し、「赤いクレヨン、今度買ってやらないとな」とつぶやく。毬音は僕を見上げてこくんとし、羽ばたく黒い白鳥を真っ赤に塗りつぶした。
 ──初会の客とひと仕事終え、次の二十三時の約束まで休んでいようと〈neve〉におもむくと、そこには光樹がいた。
 カウンターで頼さんと話していた彼は、入ってきたのが僕だと認めると笑顔になって手を振る。僕もつい笑みになり、「どうしたの」とテーブルを縫ってカウンターに駆け寄った。
「宣伝に来たの」
「宣伝」
「今週末、ライヴなんで」
 優美な手首に、手錠のような銀のブレスレットを光らせ、光樹はテーブルに置いていた紙を取る。
 渡されたそれはフライヤーで、言うまでもなくファントムリムが出演するライヴの告知だ。八月三十日の土曜日、十九時からスタート。
「来れそう?」
 光樹は首をかたむけ、くすんだ橙色の髪を揺らす。「もちろん」と光樹の隣のスツールに腰かけた。
「休みも入れてるし。行くよ」
「よかった。チケットも持ってきたんだ」
 光樹は足元に置いていたリュックを開き、僕は頼さんに紅茶とアイスクリームを注文した。
 売れ残りになるかは零時前後が境目で、二十二時現在、店内はまだ新鮮ににぎわっている。何人かの男娼もフライヤーを持っていた。
 財布を取り出した光樹は、「今日は石けんの匂いがするね」と僕に顔を上げる。
「あ、シャワー浴びて香水ふるの忘れてた。変かな」
「ううん。でも、気になるね。碧織といえば、あの匂いなんで」
「あとでトイレでつけてきます」
「ここじゃダメなの?」
「一応、飲食店だよ」
「はは。碧織の匂いって、いい匂いだよね。周りも納得する香水ってむずかしいよ。特に男はね。で、これ」
 光樹は財布から取り出したチケットをさしだし、僕はジーンズのポケットにあった金と引き換えにそれをもらった。
 以前は光樹は金を遠慮していたものの、「売り物なんでしょ」という僕の言葉に、現在は素直に代金を受け取るようになっている。今となっては、こうして確実にチケットをもらえるだけで、じゅうぶん優遇なのだろう。
 チケットを金とは違って大切にポケットにしまうと、改めてフライヤーを眺めた。三十日、というと五日後だ。光樹が相手をしてくれるのは嬉しくても、こんなところでくつろいでいていいのだろうか。そのへんを心配すると、「平気だよ」と光樹の豊かな色合いの瞳は咲った。
「いそがしいって、こういう宣伝にいそがしいんだし。みんなも彩雪うろうろしてる頃だよ」
「また来てないね」
「ね。こっちだとみんなビビって僕を離れないし、別行動取れなくて時間の無駄なんで、ひとりで来たんだ」
「ビビる」
「みんな、感覚は彩雪だしね。彩雪の人は、陽桜にコンプレックスある感じ」
「そうなの」
「そうなの。こっちの玄人の品に、気圧されるものがあるらしいです」
「こっちはこっちで、彩雪には茫然としてるよ」
 光樹は垢ぬけた声で笑い、「ほんとぜんぜん違うよね」とコーヒーを飲む。黒いシャツにブルージーンズの光樹は、銀のブレスレットにいつもの黒曜石のピアスのほか、針金がマリファナを描がいたペンダントもつけている。
「今日は派手だね」
「ん」
「ブレスレットとかペンダントとか」
「宣伝だし。こういうタイプなんですよー、と」
「手錠みたい」
「手錠だよ」
 光樹は右手首を揺らし、銀色に電燈をすべらせる。左手首には何もない。
「取り外しも手錠と一緒だし。鍵はいらないけど」
「どこでそんなん見つけるの」
「そのへんの店だよ。彩雪にはこういうアクセサリーの店もたくさんあるんだ。音楽ばっかじゃなくて、映画とか服とか、けっこうクリエイティヴなとこだよ。何でもありなんで、好き勝手やりたい人が集まるのかな」
 僕は彩雪の風潮はよく分からない。でも、そういう感覚は好きだと思う。
「そのペンダントは、葉っぱ」
「こないだ露店で見つけた」
「光樹ってドラッグしたっけ」
 光樹はあきれたように僕を見て、「これ燃やして、何か出ると思う?」とペンダントを指先にぶらさげる。
「いや、まあ、そういうグッズ」
「しません。僕はドラッグに助けを求めないように、歌って発散してんだよ」
「そっか。でも、薬でぼろぼろになったような歌なかった」
「比喩だよ。ていうか、そうなったほうがマシだって願望があったときの歌かな」
 音楽のことは分からなくても、光樹が音楽で心を吐き出しているのは分かる。うなずいていると、頼さんが紅茶とアイスクリームを持ってきた。
 バニラアイスにチョコアイスが乗っかり、スティッククッキーが二本刺さっている。「一個もらい」と光樹にならクッキーを一本奪われても、僕は文句を言わない。
「頼さんもヒマなら来てくださいね」と光樹は僕に見せていたフライヤーを取り、頼さんに渡した。
「ヒマだったらな。ほかには何が出るんだ」
「えーっと、知り合いは雷樹らいじゅたちと希雪きゆきたちです」
「というと」
「LUCID INTERVALとRAG BABYですね。あ、RAG BABYは来年のメジャー行くらしいですよ。天海あまがい智生ともきの映画の主題歌でデビューです」
「マジか。すごいな」
 僕はアイスクリームをすくった銀のスプーンをくわえる。そういう話題にはついていけない。売春の知識のみむさぼってきた僕は、文学や映画に不案内だ。
「光樹たちは、メジャーに行かないのか」
「そういうタイプではないですしね。やっぱバネが違いますよ。希雪たちは強いです」
「お前は弱いのか」
「弱いです。僕には音楽はセラピーなんで、プロになって金稼ぐ道具にはできないんです。吐き出しながら稼げるのが、才能なんでしょうね。僕にはそんな器用さはないですし、外にも出れないですし」
「そうだったな、光樹は。そのへんはお前らそっくりだな」
 頼さんは、僕と光樹を見て笑いを噛み、僕と光樹は顔を合わせる。そうなのだろうか。食わず嫌いの僕とアレルギーの光樹。僕たちは同等に外を嫌悪している。レジに客が来て、頼さんがそちらに行くと、「薬といえば」と光樹はコーヒーを置く。
「売春もけっこう隣合わせだよね。してないだろうね」
「あんまり」
「あんまり」
「いらついたとき、精神安定剤にすることはある。仕事のためにはしないよ。そんなんでぐにゃぐにゃになってたら、商売になんないし。客に勧められてもしない。何が混入されてるか分かんないし」
「ほんとは、いらついたときもダメなんだからね」
「はい」と僕はチョコレートアイスにスプーンをもぐらせる。
「でも、夏乃が帰ってくるとしたくなるなあ」
「最近帰ってきた?」
「うん。うるさくて部屋にいられなくて、モーテルに逃げこんでたら、毬音が空腹で死にかけてた」
「毬音ちゃんとはずいぶん会ってないな。生意気ですか」
「生意気です。がしがしお絵描きしてるよ」
「それ、どう聞いてもやばいと思うんだよね。どうかしてあげなよ」
「どうかって」
「夏乃さんときっぱり別れるとかさ」
「愛情そそげって言われるかと思った」
「碧織はぶっきらぼうでも愛情いくらかやってるよ。夏乃さんがね。聞く限りでは」
 スプーンを口に運びかけていた僕は、「僕があいつに愛情やってんの」と心外の言葉に目を開く。
「やってないの」
「やってないよ」
「じゃあ殺せば」
「……やってんのかなあ」
 笑った光樹に、冷たい甘さを舌に溶かす僕は、自分の行動を振り返るほどあの小娘に愛情はないと感じる。光樹は、僕が毬音を殴ることも知っている。「それでも愛情あると思うの」と僕のほうが尋ねてしまうと、「ほっとくよりマシじゃない?」と光樹はもう一本のクッキーも盗ってしまう。
「あいつは、ほっとかれたほうがマシだと思ってるよ」
「どうだろ。夏乃さんにはしょっちゅう放られてるわけでしょ」
「殴られるのにも放られるのにもうんざりしてんじゃないかな」
「放られるより殴られるほうがマシだよ。構われてるんだもん」
「……そうかなあ」
 紅茶をずるずるすすり、アイスクリームの甘味に渋みを絡める。
「僕はがんがん引っぱたかれながら、かあさんが僕を愛してるの分かってたよ」
「僕は母親嫌いだよ」
「僕は、暴力がかあさんなりの僕への構い方だって分かってた。精神が不安定なだけで、落ち着けば愛してくれるって。実際、今、そうだしね。いらいらしてて、あの頃かあさんは殴るほかに僕にどうしたらいいのか分からなかったんだ」
 僕は光樹の横顔を見つめる。重いけれど、確信が宿った顔だ。光樹はこちらを向くと、瞳を軽くさせて決まり悪く咲う。
「愛情のない暴力もあるよ。僕んちのは違った。あんなに殴られておいて、何でそれが分かったのか不思議だけど、分かったんだ。子供って何も知らないぶん、直感でいろいろ分かってる。毬音ちゃんもね。碧織みたいに嫌ってるのもあるかもしれない。でも、僕みたいに碧織に何か感じてるかもしれない」
 紅褐色の水面に、僕は自分の妖しい切れ長を見る。そうなのだろうか。毬音が僕に親愛があるとしたら、それは一大事だ。愛されなかった僕は、愛し方を知らないのだ。愛する義務を避けるため、僕は毬音に愛されないよう、つらく当たるのかもしれない。なのに、もし毬音が僕を頼りにしていたら──
 レジで立ち話をしていた頼さんが戻ってくると、僕たちはライヴのことを中心に取り留めのない話をした。
 二十二時半過ぎに、客との逢引がある僕はスツールを立ち上がる。すると光樹も立ち上がり、「ほかのとこにもフライヤーばらまかなきゃ」とリュックを肩にかけた。
 かくして、僕と光樹は連れ立って〈neve〉をあとにし、雑談混じりに人混みを縫って並行する。
「じゃ、五日後にね」
 光樹が立ち寄りたい店の前で、僕たちはそう言い交わして別れた。
 僕は脇の路地裏で香水をふきつけ、レモンタブレットを噛む。よし、とやわらげていた表情を男娼の顔に切り替えると、深まる夜に騒がしい通りを急ぎ足で抜けていった。

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