青氷の祠-12

先生と僕

 垂れた精液の痕が残るモーテルの鏡の前で、僕は学ランすがただった。
 ごわごわしてなじまないそれの裾を引っ張り、鏡に向かって笑顔の練習をする。こうして頬をなめしておかないと、頬が引き攣りそうだった。
 石けんの匂いと、乾かした髪のシャンプーの匂いがする。香水はつけない。僕は今から、純情な男子中学生に化けるのだ。
 今日ふたりめの客は、初めて取る客だった。三十台前半、やや色白でも顔立ちは悪くない。買わなくてもいい男つかまえられそうなのに、と思っても、美形の客なんてうんと見てきた。たらしまくって素人には飽きたというのから、男とつきあって周囲にばれたら怖いというのまで、さまざまだ。今回の客は、自分を受け入れる相手を決めかねて、僕のところにやってきた。
 彼が教師なのは、その口調や言葉の選び方ですぐ分かった。これまで我慢していたが、耐えられなくなってここに来たのも視線のうろつきで分かった。何が耐えられなかったのかは、彼が妙に隠しがちに持っていたかばんについて問い、訊かれてほっとしたように中身を見せてもらったことで分かった。中身は学ランだった。それで、この客の外枠はつかめた。
 少年が好きで、男子生徒たちによからぬ欲望を抱く、ホモ教師。
 SMじみた介入は必要なく、ぎゅっと抱きしめてかわいがりたいのも分かった。快活な口に性器をさしこんでみたいのも、幼さの残る尻をつかんで熱で一体化したいのも分かった。中坊ならそのぐらいの子を買えばいいのに、と思ったものの、執着的なその瞳に、どうも特定の生徒を僕の容姿のどこかに見ているのも分かった。さりげなく彼を誘導して、その生徒の情報も聞き出すと、僕は浴室にこもってその生徒に化けた。
 無造作に彼の仕事について問うと、彼はひとりの生徒についてよく口にした。その生徒は優等生。暗くはなく、友人はある程度いる。教師には従順。おっとりした印象を羅列することで、彼がその生徒をみだらにさせたい気があると察せた。
 あっさり交われるホモっぽい雰囲気より、壁のあるヘテロっぽい雰囲気を演出しよう。都合がいいとその生徒をゲイに仕立てあげても、露骨な虚構は客の幻想を壊す。もちろん、さりげなく男同士を許し入れる隙も必須で、僕と生徒が交差するその具合が要だ。
 色っぽい頬の上気が落ち着くと、ポケットに所要のものを仕込んで、部屋に戻った。
 彼はベッドサイドでそわそわとしていた。この真夏に学ランを着て熱っぽかった肌が、クーラーにすうっと癒される。物音にぱっと振り返った彼は、僕のすがたに歓喜で目を開いた。
 僕は心のこもらない笑顔を向けた。生徒が教師にやりそうな、親しさ皆無の愛想咲いだ。彼の表情は、緩みながらも現実と幻想の倒錯に陶酔した。
 僕はベッドに歩み寄り、こう呼びかけるのはもう淫売でなくても分かる。
「先生」
 彼はうわずった笑みをもらし、隣に座るように言った。僕はわざと隙間を置いて座る。彼の瞳はそれに傷つき、けれど、同時に興奮気味の崇拝も浮かべる。
「あ、あのさ」
「はい」
「か、影山かげやまって呼んでいいかな」
「どうぞ」
「影、山──」
 その呼びかけに下心があるなんて思いもしない、何も知らない笑顔を作った。彼は腰をよじった。かすかに股間が盛り上がっているが、勃起とは言えない。
 影山くんと完全に思われていたら、彼は日頃やっている抑制に負けて、勃起できないだろう。これは劇で、勃起して構わないのはすりこまなくてはならない。
 彼はじりじりと隙間を埋めてきた。僕は気づかないふりをいくらか保ち、ふと気づいてとまどった笑みをこぼす。
「何ですか」
「ふ、ふたりきりだ」
「そうですね」
「今日は帰らなくていいんだろ」
「友達のところに泊まるって言ってあります」
「そっか」
「先生が課外授業してくれるんですよね」
「あ、ああ」
「しないんですか」
「………、お前には、課外授業なんていらない。分かってるだろ」
 彼は僕に近づき、変態電話のごとく息を荒げる。僕は困って首をかたむけ、彼の視界に白いうなじを映した。ヤクでも求めるように彼の鼻はひくつき、ついに隙間を埋めてぴったり身を寄せてきた。
「先生──」
「へ、変なことはしない」
「……はあ」
「ただ、その、一緒にいたいんだ。先生のそばにいてくれ。な」
「分かりました」
「……ちょ、ちょっと、触ってもいいか」
 流されて曖昧にうなずき、彼は口辺にわずかに笑みを垂らすと、僕の頬に触れた。汗ばんだ手のひらが、べったりと柔らかな頬を愛撫し、親指が性的な動きで頬のふくらみを揉む。「ずっと触ってみたかったんだ」と彼はつぶやき、僕はどうしたらいいのか分からないように微笑んでいる。
 彼は僕のひたいを撫で、もう一方の頬も愛撫した。顎から唇に触れ、そっと口の中に人差し指をさしこむ。ここで、影山くんとして抵抗すべきか計算が働いたが、ヘテロのまま進まないのも幻想を与えられない。僕はおとなしく、舐めてと言われた通り、彼の指をしゃぶった。いやらしく誘惑はすることなく、でも性器をしゃぶっているみたいに、舌を動かす。
 股間に目を盗ませると、彼ははっきり僕の舌遣いに昂ぶり、そこをふくらませていた。
「影山……」
 目を上げた。生徒の怪訝と男娼の挑発を、瞳に入り混ぜる。その交差は彼の衝動をはちきれさせ、急に彼は僕を荒々しく抱きしめてきた。
「影山」
「はい」
「呼んでくれ。先生って」
「先生」
「もっと」
「先生」
「強く」
「先生」
「何回も」
「先生。先生。先生、……あの、」
 彼は腕に力をこめ、「ずっとお前が好きだったんだっ」と耐えられないように僕を揺すぶった。
「俺に想われたって迷惑なのは分かってる。けど、どうしようもないんだ。初めて逢ったときから、ずっと愛してるんだ」
「先生……」
「今夜だけ、先生の頼みを聞いてほしい。今日聞いてくれたら、こんなのは最後だ」
 僕は彼を潤んだ瞳で見つめ、こくんとうなずく動作で、ストレートからゲイに入れ替わる。
 ゲイになれば、あとは通例の情交だった。ひと通りの奉仕に、積極性は抑え気味にしておく。むしゃぶりつくでなく、あくまで彼にかわいがられる。服を脱がされ、言われて竿をしゃぶり、四つんばいで背後を責められる。最後のほうで、ホモに染まってしまったような、こらえられない喘ぎ声も上げた。
 せっかくの美形を変態的興奮に不気味にしていた彼は、僕の中でたっぷり果てると、気絶してしまった。
 背中にのしかかった彼を逃れ、僕はシーツに身を起こして、汗に湿った頭をかく。こういう客は初めてではないが、いくら取っても慣れない。それぞれの特性が強く、参考がないせいだろうか。
 ベッドスタンドの時計によると、時刻は零時だった。僕がこの人に買われたのは二時間だ。落ちあったのは二十二時半で、少し余裕があるので、僕は彼の隣に横たわって腰を休める。
 白い天井を見つめ、揺すられた腰の重みが引いていくのを感じていた。彼が目覚めたのは不意で、一瞬ここがどこかとまどったように部屋を見まわし、僕に行き着いて状況を思い出す。陶酔が消えた気弱な笑みをもらした彼に、僕は今度は、何も加工しない男娼としての微笑を返した。
 彼はいくらかの質問と嘲笑を予期していたようだが、僕にその気がないのを悟ると、抱き寄せて髪を撫でてくれた。僕は彼の腕におさまり、さりげなく一緒にシャワーを浴びるのをうながす。そしてそのあと、代金とチップをもらった。
「また会えるかな」
 金をポケットにねじこむ僕をじっと見つめ、ベッドサイドに腰かける彼はそう問うてくる。僕は香水をなびかせて彼を振り向き、微笑んでうなずいた。
「また、あの彼に予約すればいいのか」
「うん」
 本当は、もし次に会う日を確定できるのなら、弓弦抜きで会っても構わない。これは店に縛られていない特権だ。というか、弓弦の傘下の特権だろうか。一般的に仲介者抜きの逢引は違反だが、弓弦はそのへんは取り締まっていない。彼の仕事は、売春の斡旋に限らない多岐の周旋なので、そのぐらい大目に見れるのだろう。
 ただし、当然、何かあった場合の保険はなくなるし、予約がかぶるのを防ぐために結局申請はしなくてはならない。そんなわけで僕は、自主予約の存在は、かなりなじんだ客にしか教えないことにしていた。
「君のことは、別のホテルで見かけて知ったんだ」
「あ、そうなの」
「ああ。……乗り換えたことになる。別の縄張りの子だ」
 少し咲い、「いいの?」と首をかたむけて濡れた髪をいじる。
「君のほうが理想に近い。何とか、ツテであの彼のケータイの番号を知れたんだ」
「そう。うん、あいつに予約すればまた絶対会えるよ」
「するよ。また来る」
「待ってる」
「君みたいな子を見つけられてよかった」
 彼は僕の手首を取って引きよせ、そっと唇に口づけた。深くはせず、僕はそのまま逆に彼の手を取って、ベッドを立たせる。零時半だった。僕と彼は部屋を出て、玄関でもう一度再会を約束すると、別れた。
 こういう約束が必ず守られるとは限らないが、彼は手懐けられた感じだ。精神の安定も引き換えにして、一流になろうとしていた頃に較べ、僕もいろいろと落ち着いた。焦らなくなったせいだろうな、と半眼にネオンをかすませていると、かばんを提げた彼は見えなくなる。
 次の約束の時刻が早くも迫っていて、改めて気持ちを引き締めると、僕はその足で次の逢引の場所へと向かった。

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